二話
寝顔。
いつもだらけているくせに、寝ている時は少ししゃきっとしている顔。
まじまじと覗き込んで、それから頬を軽く叩いてみる。
ぺしっ、と気の抜けた音が鳴るも、それだけだった。
「秋穂、ねぇ、もうお昼になるんだけど? そろそろ起きようって、ほら、ねぇ!」
土曜日。
一週間の学校生活が終わった、休みの日。僕は秋穂の家に来ていた。秋穂の部屋に上がり込んで、夜寝たままずっと起きてこないという秋穂をぺしぺしと叩き起こしているのだ。
「んぅ」
僕がこうして部屋に上がり込むのは、何も今日に限ったことではない。ここ一ヶ月は毎週土日にインターホンを鳴らし、おばちゃん、……秋穂のお母さんに迎えてもらっている。
秋穂との付き合いが長いということはおばちゃんとの付き合いも長いわけで、僕は「まだ寝てるから起こしてやって」なんて言われて合法的に忍び込めるわけだ。
しかし、それも一ヶ月続くと飽きてくる。
秋穂の部屋はかなり整頓されていて、無駄なものはほとんどない。僅かにある不要なものだって、読み終えてしまった本だとか、何気なく買って組み立てた後のプラモデルだとか、無駄と言い捨てるには難儀するものたちだ。
もう小学校の頃から変わっていないように見える部屋を、僕は先週来た時と同じように見回す。
変わっていないように見えるだけで、実際のところ、ちょっとした変化はあるのだった。
例えば、本棚。
本棚は小学校から中学校に上がる時に買い替えたままだけど、中に仕舞われる本は日々変わっている。先週来た時は数冊の小難しい本が丁寧に並べられていた。
『へぇ、こんなの読んだんだ。ちょっと読んでみていい?』
『いいけど、頭痛くなるだけだぞ』
そんな会話をした記憶がある。
そして本当に頭が痛くなってしまったそれらの本は、もう置かれていなかった。どうやら読むのは諦めたらしい、と想像できる。またおばちゃんに小言を言われながら、おっちゃんの書斎に押し付けたのだろう。
空いたスペースに収められているのは、ボロボロの、やはり小難しいだった。気になって手に取ってみるも、どこの古本屋で買ってきたのか、状態は劣悪としか言えない。至るところに折り目があって、再び本棚に仕舞うのに苦労してしまう。
その他には、まぁ、目立った変化はないだろうか。
先週脱ぎ捨てられていた部屋着がないのは、当然のことだし。
横目でチラリと見やって、秋穂が変わらず熟睡していることを確認する。もう一度「んぅぅ」なんて寝返りを打つのを見守ってから、僕は秋穂に背を向けた。
ベッドから立ち上がって前方にあるのが、クローゼット。
平日なら、秋穂は寝ぼけ眼のまま、この中にある制服とワイシャツに着替える。中学の頃から変わらない癖は、二年目になる高校生活でも同じだろう。
まぁ今日は平日じゃないから、癖が変わっていないかは確かめられない。
僕はクローゼットを開けて、中を覗き込む。見覚えのある服ばかりが並んでいて、わざわざ開ける必要もなかった気がしてしまった。けれど、今日ばかりはじっくり、改めて見なければ――
「……澄実」
声。
秋穂の、声。
いつものだらけた声より数段も低い、重苦しささえ帯びた声。自分の肩がピクリと跳ねるのが分かった。
「……おい、何してんだ」
口を開くまでの数拍が、やけに長く感じられる。
「なにって」
振り返りながら、クローゼットの中身をしっかりと目に焼き付けた。
「服を見てたんだよ」
「……誰の?」
「秋穂のに決まってるじゃん。……ていうか、なに? この中には秋穂以外の誰かの服が入ってるわけ?」
愛耶のだったら流石に容赦しないけど、と心で炎を燃やすが、秋穂はきょとんとしてみせた。
「で、なんだよ」
自分の言葉が間抜けだったことに気付いたらしい。よかった。
まぁ、愛耶の服が入っていたら、おばちゃんが気付くに決まっているけれど。どうせ秋穂は自分じゃ洗濯なんてしないんだし。
「服、選んであげてたの」
「は……? なに言ってんだ?」
ようやく声が明るくなってくる。
寝起きの秋穂の声は、正直に言って、少し怖い。ヒューマンドラマ映画に出てくる酒乱の男、とでも言えるのだろうか。それじゃ印象が悪すぎるかもしれないけど、ともかく、どうにも正体が定まらないような声をしている。
……それもそのはずで、秋穂はかなり朝に弱い。ろくに頭なんて回っていない状態で、起きたばかりの口を動かす。まともに喋れるはずもない……なんて思ってしまうから、甘やかしすぎだと言われるのかもしれない。
「……分かった。分からんが、分かった」
秋穂は額に手を当てて、うんうんと何度か頷く。
「んでだ。なんで服を選んでる?」
いつもの。
そう、いつもの秋穂の視線。
だらけているのに心を射抜いてくる、不思議な視線に戻っていた。
「出掛けるよ」
一歩だけ、近付く。
小学校に上がる前から付き合っていた僕に。
男同士の幼馴染としての僕に許された最も近い距離にまで、踏み込んでいく。
「もうお昼だよ? どこかでご飯食べて、どこかで遊ぶとか、映画見るとか」
デート、なんて呼べるものではない。
秋穂を連れ出すことができたら、愛耶と合流する予定になっている。愛耶も愛耶で誰か連れてくるかもしれないし、ともあれ二人きりにはなれないのだ。
でも、それでいい。
「や、暇じゃないんだけど。俺」
「暇じゃない人が昼前まで寝こけるわけないじゃん」
「……いや、寝るの遅かったんだって。本読んでて」
「夜更かしして読書……? って、そういえば、あの本はなに!? どこの古本屋であんなボロい本買ってきたのっ!」
僕は、ただ……。
ただ、秋穂の一番近くにいられたことが、嬉しかった。
これから先、秋穂の隣で誰かが手を繋ぐことがあるかもしれない。僕には触れられない唇に触れる女性が、現れるかもしれない。
だから、それまでは――。
そして、それから先も、僕は一番近くの友人でいられる。そこに、疑いはなかった。
「……あれか。読んだのか?」
呆れたような声で、秋穂は言ってくる。
「読んでないよ。……ちょっと開いてはみたけど、流石に読む気にはならなかった」
悪いことをしたな、という自覚はある。お互い様ではあるけれど、付き合いが長いせいで遠慮を忘れてしまうことはよくあった。……今日だって、許しもなく秋穂の寝顔を見てしまっている。
「ま、別に読んだってどうにかなる本じゃねえけどさ」
秋穂は、まだ呆れた様子だった。
「あれ、新品で買ったんだよ」
今度は僕が呆れる番で、けれど、呆れるより先に違和感が襲ってきた。
あんなにボロボロになるまで本を読むようなことが、今まであっただろうか。気に入った漫画を三回、四回と読むことはあっても、あの本は漫画どころか小説の類いですらなかった。
それに、あの折り目の数。
「……それで、何か言うことは?」
僕の内心を知ってか知らでか、秋穂は困ったように笑いかけてきた。
「あ、ごめん。忘れてた」
僕は、それを口にする。
いつも家族の次に口にして、今日は家族よりも早く口にする言葉。
「おはよ。今日も良い天気だよ」
「アホ。勝手に部屋に侵入してきた挙句本棚とクローゼット漁った奴の言葉じゃねえだろ」
いつか、誰かが。
僕でもなく家族でもなく、……いや、家族になった人が、秋穂にそれを言う日が来るのだろう。
でも、それは今じゃない。
半日しか残っていない今日だけでも、僕が誰よりも先に口にしたのだ。
「ねぇ。どこか行きたいとことか、ある?」
閉めなかったクローゼットから、最後の数秒で選んでおいた服を掴み取る。秋穂の胸の前に当て、僕は、背丈のせいでそうなってしまう上目遣いを向けてみた。
「どこでもいい。どこでも」
秋穂は、笑ってくれた。
嫌な顔もせず、ただ呆れて諦めたような表情を作りながら、僕が選んだ服を受け取る。
「で、どこ行くんだ? あいつのことだから、どうせもう決めてんだろ」
「ご明察、……だといいんだけどね。これで秋穂が行きたいところ行っていいなんて言われたら困っちゃうよ」