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一話

 からりと澄み渡る夏の空。

 窓から吹き込む風は生温(なまぬる)く、額から頬へと伝う汗を忘れさせてはくれない。

 けれど、そんな暑さが僕は好きだった。

 ただ机に向かってペンを動かすだけでも汗をかく日々なのに、僕たちは外に出て運動するのだ。教室に戻れば、そこではせっせと後片付けが始まる。

 女子が戻ってくる前に汗を拭いて、教室の汗臭さも飛ばさなければいけない。それが男に生まれた者たちの宿命らしかった。……勿論、例外はあるにしても。

 まぁ、でも、僕も似たようなものかもしれない。

澄実(すみ)ぃ。なぁ澄実ぃ」

 だらけきった声。

 休日には日がな一日寝て過ごすことも多いくせに、体育では運動部と張り合うばか。今日は特に競り合ってしまったせいで疲れきったのだろう。椅子に座ったまま、僕の机に顎を落としている。

「ほら。さっさと汗拭く。今日はジャージも着替えるっ」

 言いながら、僕は彼の耳の横に置いてあった四角いそれを叩く。昨日買い直したばかりの汗拭きシート。五百円くらいする大きめのものだが、それでも一週間か二週間で底をつく。自分で持ってこないで人から貰おう、という発想の男子は少なくなかった。

 だから、僕は持ってくる。欠かさず持ってきて、足りなそうなら買い足しておく。

 そうすれば、彼は。

 僕にだらけきった顔を見せてくれている秋穂(あきほ)は、僕の前で汗を拭いてくれる。いつも制服の下にジャージを着てくるせいで、汗を拭く時だってわざわざ脱いだりはしない。

 でも、おへそくらいは見える。ジャージの下に手を入れて身体を拭こうとすれば、お腹とか腰とか、ちょっとくらいは見えるのだ。

「おー、澄実。俺にも一枚くんね?」

 ……他の男子が寄ってくるのは、仕方のないことである。秋穂にだけ渡していては変な目で見られかねない。汗拭きシートに釣られてきた男子にはさっさと一枚持っていかせ、僕も一枚だけ手に取る。

「自分で拭かないなら僕が拭いちゃうよ? 次、数学なんだけど。あんまり机汚してほしくないっていうか」

 普段は視線の高さにある首筋も、今だけは見下ろせる。手を伸ばせばすぐに届いてしまう距離。

 冗談で口にした言葉が誘惑してくる。

「え、拭いてくれんの? ほんとに?」

「いや、だから流石に――」

 言いかけて、視線が落ちる。

「――っ!?」

 秋穂が笑っていた。ラッキー、とか。俺は良い友人を持った、とか。そんなことを言う時の、いつもの悪戯な笑み。

「流石に?」

 一瞬でも自分の心の声だと勘違いした僕が馬鹿だった。

「流石に、冗談だって。ほら、その。汗くらい自分で拭きなよ。それとも、なに? 僕に拭いてほしいの?」

 顔が熱い。多分、赤くもなっている。夏の暑さのせいだと、勘違いしてほしい。

「拭いてほしいって言ったら、拭いてくれんの?」

 笑って、秋穂は僕の手から汗拭きシートを取っていった。首から喉元を拭いて、鎖骨や脇へと手が伸びていく。

 そんなことを椅子に座ったままやられたら、僕はどこを見たらいいのか分からない。目を逸らすべきなのか、気にせず会話でもすればいいのか。

 分からない。

 普通の男子は、どうするのだろう。

 同性を好きになったことのない、この教室の僕以外の男子は、どうしているのだろう。

「昔は……」

 普通だった頃の僕を、思い出せない。

 一緒に遊んで、二人でお風呂に入って、同じ布団でも寝た。あの頃は、まだ子供だったのだ。男同士どころか、男と女の恋愛すらも知らなかった。

 今は、違う。

「澄実は拭かねえの? なんなら拭いてやろうか?」

「もう拭いたよ、ばか」

 もう秋穂のそんな冗談にも戸惑わずに済む。今だって、秋穂の上目遣いの瞳を真正面から見据えられる、つもりだ。

 それでも、気付いた時には視線が泳いでいたりする。見据えられては逃げ、逸らされては追って……。

 いや、いけない。それじゃ、いけない。

 心の中の弱音を振り切るように首も振ると、ちょうど戸がガラリと開けられた。男子とは別授業だった女子が帰ってきたのだ。

 どれだけ窓を開け扇風機をつけても、朝よりは臭いのが体育後の教室だった。仲の良い男子に不満を言う女子がいれば、臭いなど気にせず雑談を続ける女子もいる。男子の中にも、女子に上半身をアピールしようとする馬鹿はいた。

 一層騒がしくなる教室を横切って、独り雑談もせず近付いてくる女子の姿が目に映る。彼女は僕と秋穂を真っ直ぐ見据えていた。

「また甘やかしてんの? 秋穂甘やかすの好きだよねぇ、澄実は」

 ほとんど汗もかいていない彼女は、けれど暑そうにジャージの胸元をぱたぱた扇ぐ。自覚しているのかいないのか、周囲の視線は少なからず集まっていた。

「仕方ないじゃん。甘やかさなくたって結局やらないことはやらないんだし」

 口を尖らせてから、僕は小さく笑っておく。

「そういう愛耶(あや)も秋穂には甘い」

「まぁ、そりゃ、やらなくちゃいけないことはやってるしね」

 互いに笑う僕と愛耶の間で、秋穂が苦い顔をみせていた。

「お前らん中で俺の評価どうなってんだよ……」

 こんなやり取りが、いつもの僕たちだった。

 無気力というか、基本だらけている秋穂。その秋穂となんだかんだ飽きずに付き合っている愛耶。そこに、秋穂と昔馴染みの僕。

「ていうか、そろそろ次の授業始まるよ? ほら、早く」

 まだまだだらけたがっている秋穂を急かす愛耶の顔は、どこか幸せそう。いつもの表情なのに、どこか特別に思えてしまう。

 愛耶は美人だった。背は平均と同じくらいなのに、胸は少し大きい。明るくて気安い性格が表れた顔は愛嬌があるし、誰が見ても美人だと認めるだろう。クラスの中だけでも、彼女のことを好きだという男子を数人知っている。

 その愛耶の恋愛事情をヒソヒソと話す時、まず最初に挙げられるのが秋穂だった。

 僕としては、秋穂のことをイケメンだとは思わない。整った顔立ちではあるけれど、雑誌やテレビで見かけたら脇役が良いところ。……それでも、整った顔立ちではあるのだ。悔しくて、嬉しいことに。

 女子にモテるという話は聞かない一方、男子からも女子からも嫌われてはいなかった。空気が薄いわけではないのに、決まった立ち位置がない。

 愛耶と秋穂。

 二人は不思議と似合っていて、恋仲にある、つまりは付き合っていると言われたとしても、違和感を抱けないのだ。愛耶を想う男子にしても、嫉妬することこそあれ、理不尽だと思うことはないだろう。

「ねぇ、秋穂」

 僕は、それで満足していた。

 愛耶以外の女子だったら、ここまで穏やかではなかったのかもしれない。愛耶のことは嫌いじゃないし、どちらかといえば、勿論好きだ。……友人として、だけど。

 そんな愛耶は秋穂のことをよく分かっている。付き合い方も心得ていて、秋穂に負担を押し付けるようなことはしない。

 だから、安心できる。

「帰り、またどこか寄るの?」

「あー、どうする? ま、暇は暇なんだがな。寄らなきゃいけないところもないわけで」

「それじゃ、私が寄りたいところ付き合ってよ。ジュースの一本くらいなら奢ってあげよう」

 今日もまた――。

 僕は、並んで歩く二人の後を追う。

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