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月と花  作者: 広海智
9/10

承平陰陽物語 第九

   賀茂保憲(かものやすのり)、ついに(はは)()いし(ものがたり)  第九


          一


 左右の衛門府は、それぞれ督一人、佐一人、権佐一人、大尉(たいじょう)二人、少尉(しょうじょう)二人、大志(だいさかん)二人、少志(しょうさかん)二人といった官位のある者達と、その下役である、東男(あづまおとこ)も多い舎人(とねり)達、即ち、府生(ふしょう)番長(ばんちょう)府掌(ふしょう)門部(かどべ)二百人、物部(もののべ)三十人、衛士は各六百人から成っている。その中で、左右の佐、権佐、大尉、少尉、大志、少志、府生は検非違使を兼ねており、また、衛門府の衛士から選抜されて任じられた看督長(かどのをさ)安主(あんじゅ)火長(かちょう)、或いは下部(しもべ)とも放免(ほうめん)とも呼ばれる、罪を許して配下とされた元罪人達が、検非違使として働いている。検非違使別当藤原恒佐に今回の指揮官を申し出た右衛門権佐小野好古が、彼ら検非違使達から追捕の人員を選抜し、準備を整えてすぐ、陰陽博士賀茂忠行は、検非違使庁の馬を自分と時人、名嗣用に三頭借り受けて、卯の二刻丁度に、大内裏を出発した。しかし、懸念材料は二つある。一つは、忠行始め、時人も名嗣も、検非違使達も休む必要があったので仕方ないのだが、あの雁という青年に時間を与えて、逃げられる範囲を広げてしまい、探索に時間がかかってしまうこと。そして、もう一つは。

「忠行様、鞍馬山の様子、どうも妙です……」

 検非違使達を先導する忠行の馬の横に轡を並べながら、時人は硬い声で告げる。

「辰の刻から、わたしの鵜と鷺、名嗣の虫達を遣って、鞍馬山中を捜索させていますが、気配を断つ激しい雨に邪魔されて、捜索が進みません……」

「たかおかみの神か」

 忠行は、昨夜から変わらない厳しい顔をしたまま、低い声で言った。

「わたしも、そう考えます……」

 貴布禰神社の祭神たかおかみの神は、水の神だ。貴布禰山の隣の鞍馬山に雨を降らすことくらい訳ないだろう。加えて、雨は鞍馬山にのみ、激しくずっと降り続けている。どう見ても異様なのだ。何モノかの思惑が働いていると考えるほうが自然なのである。

「しかし、われわれは、たかおかみの神を怒らすようなことは、何もしていませんよ」

 同じく轡を並べた名嗣が、不満そうに口を挟んできた。式神による捜索は、神仏の怒りを招かないよう、細心の注意を払ってしているのだ。

「神は、お怒りになったのではなく……」

 時人は、慎重に推測を口にする。

「誰かを、助けようとしているのかもしれません……」

「誰をだ」

 忠行は、鋭い眼差しを時人へ注いだ。

「あの、雁という、鬼使いの男を」

 或いは、その雁を助けようとしている者を、助けようとしている。

(きっと、保憲と小丸が動いている……)

 時人には、確信がある。神に愛でられる性の二人が、あの雁という青年を助けようとしているのだ。その証拠に、保憲は、今日のような重大な日に、物忌と言って休んでいる。何かあるとしか思えない。

(保憲は、ああいう訳ありの人を、放っておけないからな……)

 同輩の性格はよく分かっているつもりだ。

(だが、気をつけたほうがいい、保憲。この一件は、まだ根が深そうだよ……)

 恐らく、あの雁という青年の無茶苦茶な行動の裏には、彼以外の人間の思惑が働いている。雁の身柄が今後どうなるか、それは、彼一人の問題ではないだろう。容易に想像のつくことだが、雁は口封じに殺されそうになっているのかもしれない。保憲は、それを助けようとしているのかもしれない。だとすれば、保憲は苦労するだろう。

(あの男、助かろうなどという顔をしていなかった……)

 助かる気のない人間を助けるほど大変なことはない――。時人が馬上でそっと溜め息をついた時、名嗣がまた口を開いた。

「忠行様、あの鬼使いを捕らえたら、検非違使で放免を使うように、陰陽寮で働かせたらどうですか。あの力、用いないのは惜しいと思うんですが」

 相変わらず、名嗣は率直である。後ろを徒歩でついて来る、当の放免達の耳も気にならないらしい。が、忠行は時人も驚くほど、頑として言った。

「それはあり得ぬ。あ奴は、帝を蔑ろにしたのだ」

(忠行様……?)

 時人は、何かしらの不安を感じて、忠行の険しい横顔を見つめた。言葉にされたこと以上の感情が、忠行の声音に籠っている。けれど、その正体には見当が付かなかった。


            ◇


 馬を走らせに走らせて鞍馬山の麓に辿り着いた時人達は、降りしきる雨に圧倒されることになった。

 視界は遮断され、聴覚も嗅覚も使いものにならない。更には、まるで拒むような冷ややかな霊気が濃厚に漂っていて、気配を読むこともままならない。式神を通じて感じていた以上に、ひどい状態だった。それでも、行かなければならない。忠行を先頭に、時人達は馬を励まし励まし、山を登っていった。荒事に慣れた検非違使達も、さすがに顔をしかめてついて来る。

 暫くすると、捜索に出ていた翅鳥が、時人の傍らに現れて告げた。

「漸く、怪しい庵を一つ見つけましたわ。血の臭いに詳しい名嗣様の毒唾(どくつば)の親族達に拠れば、鬼使いの男の血の臭いがするとのこと。道案内致しますわね」

 「毒唾の親族」とは、蚊のことだ。先導する翅鳥について馬を駆けさせていくと、山の中腹を越えた辺りに、やや開けた場所があり、そこに古びた庵が立っていた。だが、それだけではない。時人と名嗣、忠行すら一瞬怯ませたのは、その場に転がる十を越える死体達だった。

「一体、何があったんだ……」

 うめいた名嗣と、黙した時人を置いて、忠行は馬を下りると、雨に打たれる死体の間を通って庵の戸口へ進んだ。

「忠行様」

 はっとして、時人も馬を下り、後に続く。忠行はある程度警戒しながらも、素早く庵の中へ入っていった。そこにも、暗がりの中、死体が折り重なるように転がっている。と、忠行が、死体を動かしながら、何か探し始めた。血の臭いが残っているという、あの鬼使いの青年を探しているのだとすぐに理解して、時人も袖で口を押さえながら、倒れている死体に水干姿のものはないか、あの美しい顔のものはないか、一つ一つ確認していく。結果、雁の死体は見つからなかった。

「ここから更に、どこかへ逃げたということか」

 検非違使達を率いる従五位上(じゅごいのじょう)右衛門権佐好古(よしふる)の馬上からの問いに、正七位下(しょうしちいのげ)陰陽博士忠行は厳しい面持ちで頷いた。

「すぐにまた探索致します」

「急がれよ。この雨では長くは粘れん」

「は」

 命令を受けた忠行の指示で、すぐにまた式神達を飛ばしながら、時人は馬上の右衛門権佐をじっと見つめた。この右衛門権佐は、既に五十歳。出世街道には乗り遅れているのだろうが、馬に跨った姿には風格があり、力強さと寛容さが感じられる。

(この人なら、安心して従える――)

 保憲や小丸がその辺りから飛び出してきたとしても、きちんと事情を聞いてくれるだろう。われながら妙な安心の仕方だと思いつつ、時人は式神達へ力を注いだ。


            ◇


 現れたのは、女の鬼ではなく、立派な鞍をつけた白い馬だった。木々の間、雨の向こうから現れた白い馬が、一瞬小丸達を見つめた後、まるで導くかのように首を振って駆け始めたのである。

「ついて行くぞ」

 保憲の迷いない言葉に、交替して鬼使いの青年を背負ったばかりの小丸は、とにかく従うしかなかった。

「何でついて行く?」

 走り下りながら問うた小丸に、保憲は、駆け下る勢いそのままに、叫ぶように答えた。

「この雨、神の霊気が漂ってる。隣の貴布禰山のたかおかみの神は、水の神。水の神と言えば、蛇や龍だが、神が白い獣に姿を変えて現れるというのは、よくあることだ!」

「何で、たかおかみの神が助けてくれると思う?」

「おまえが背負ってる男は天狗の知り合いで、その天狗は鑑禎で、鑑禎とたかおかみの神は互いに見知った仲のはずだからだ!」

 説明になっているような、なっていないような、信じていいのかよく分からない答えに、小丸は眉をひそめたが、やはり、現状、従うしかないと判断した。

 白馬は、小丸達が来た道からは少し外れたところを下っていき、回り道をするようにして麓へ下りると、再び小丸達を振り向いて一声嘶き、そして、ふっと木々の向こうへ姿を消した。足を止め、そちらへ深々と一礼した保憲は、同じく足を止めた小丸を振り向いて、にっと笑って言った。

「もう一つ言うなら、おれもおまえも、神に愛でられる性だからだ。知らなかったか?」

「何だ、それ……」

 葛城山の神に憑かれて死にかけた人間とも思えない発言だ。呆れた小丸を他所に、保憲はさっさと真面目な顔に戻って三十六禽を呼び出した。現れたのは、どれも大きな、(うま)鹿(しか)とくじか(、、、)である。既に午の時なのだ。やはり、山を下るのに、登りよりも相当遠回りをして、時を要したのだろう。

「おれはその人と一緒に馬に乗る。おまえはどっちに乗る?」

 言われて、鬼使いの青年を馬に押し上げた小丸は、くじかを避け、鹿のほうへ歩み寄った。くじかは、この日本にはいない、大陸に棲んでいる鹿で、角はなく、雄にのみ上顎に牙があるらしい。小丸は、時刻の魔物のくじかしか見たことがないが、少なくとも乗り心地は鹿のほうがましだと、経験で知っていた。

「行くぞ」

 保憲の一声で、魔物の馬と鹿は軽快に走り出す。くじかは既に姿を消していた。

(それにしても――)

 小丸は、鹿の背から、ふと、雨雲を被った鞍馬山を振り返る。

(たかおかみの神らしいあの白馬は、何のためにおれ達を先導したんだ?)

 保憲に尋ねようかとも思ったが、雁という青年を雨風から懸命に庇って乗馬している姿を見遣って、小丸は開けかけた口を閉ざした。まだ一刻を争う状況に、変わりはないのだ。

 麓で小降りになった雨は、鞍馬山を離れると、完全に止んだ。あの激しい雨は、やはり鞍馬山でのみ降っていたらしい。

(雁っていう奴は、助かりさえすれば、これで守れる。次は――)

 保憲が今朝言っていた話でいけば、この雁が何故、内裏へ迫ったのか、雁と繋がっている陰陽寮の者がいないかどうか、いた場合、誰なのか、明らかにしていくのだ。

(そう言えば、調べることがまた一つ増えたんだったな)

 この雁という青年は、二生の人、つまり、前生も今生も人として生まれた人だというのだ。そのことが、今回のことにどれだけ影響してくるのかは分からないが。

(まだまだ、終わらないな)

 小丸は、緩みかけた気を引き締めた。雁の状態は、気を許せるものではないし、保憲を守るためにも、ほっとする訳にはいかない――。

 二人と一人を乗せ、疾風(はやち)のように野を駆けた魔物の馬と鹿は、午の時が終わらない内に賀茂邸へ到着した。濡れた体に、魔物の背で受ける風は寒かったが、雁の手当ては一刻を争うのだから、仕方がない。

「白君、手当てと煎じ薬のための湯の用意を。姉上、蓬か地楡(ちゆ)、それと艾葉(がいよう)をお願いします!」

 空を飛んでついて来た式神に命じ、姉に頼み、魔物達には姿を消させ、泥にまみれた檜笠と脛巾と藁沓を庭先に脱ぎ捨てた保憲は、素早く雁の手当てにかかる。保憲の部屋の母屋に寝かせた青年を改めて見ると、全身に斬られた傷があり、水干もその下に着た衵も単衣も、最早襤褸切れでしかなかった。しかし、全ての傷に薬が塗られ、深い傷は丁寧に縫ってある。あの天狗の手当てだろう。保憲は、襤褸切れとなった衣を全て懐剣で切って取り除きながら、それらの傷を一つ一つ検める。そこへ、白君が下屋から湯を角盥に入れて持ってきたので、保憲は、青年の体の汚れているところを、その湯に浸した布で清めた上で、薬の足りない傷口には、止血と殺菌の効果がある蓬の生の葉を、ひぐらしから受け取っては揉んで貼りつけ、新しい布を巻いていった。

「蓬がたくさんある時でよかったわ。地楡も止血に使うけれど、あれは、傷が多い場合、効き過ぎて反って毒になるから」

 ひぐらしが、いきなり連れて来られた満身創痍の青年に顔を青褪めさせながらも、自室から持ってきた籠の中の蓬を次々保憲に手渡しつつ呟いた。地楡とは、古くは「(あやめ)()む」とも呼ばれた、われもこう(、、、、、)の根を日干しにしたもので、その煮出した汁を患部に塗って止血に用いるのだ。この邸では、食べ物に加えて、生薬の類を管理しているのも、ひぐらしであり、彼女の部屋の曹司には、籠や筥、甕に、さまざまな生薬が入れて置いてあるのである。

 手当てが終わる頃、白君が、今度は湯で煮出した艾葉の汁を半挿に入れて持ってきた。

 艾葉もまた蓬であるが、こちらは丸ごと日干しにしたものである。煎じて飲めば、こちらも、止血、呼吸促進、鎮痛などの効果がある。

 保憲は、白君から半挿を受け取ると、そのまま注ぎ口を雁の口へ挿し入れて飲ませた。

「おれができることはここまでだ。正直危なかったが、天狗様の薬は、かなり効いてるようだ。後は様子を見よう。白君、この人に、おれの単衣と衵を着せて寝かせておいてくれ」

 疲れた声で言って、保憲は几帳の裏へ行き、自らも着替え始めた。何しろ、雨の中走り回ったので、どろどろなのだ。小丸も同様である。白君が言われた通りに、雁に保憲の単衣と衵を着せ、長櫃から莚と衾を出して寝床を作り、寝かせる間、小丸も自分の曹司で手早く着替えた。

「姉上、手をお貸し頂き、ありがとうございました。この人の様子を見ながら、おれも暫く休みます。この人の目が覚めれば、素性や、陰陽寮、神祇官との関わりも聞き出せますし」

 新たな布衣を着て几帳の裏から出てきた保憲は、ひぐらしに告げると、雁が寝ている傍らに、そのまま横になって目を閉じてしまう。すかさず白君が、いつも保憲が使っている衾を取ってきて被せた。

(成るほど、手当てのためだけじゃなく、尋問もする気で邸へ連れてきた訳か)

 納得しつつ、小丸は母屋の隅に座る。

(おれも、眠くなってくるな……)

 疲れた体に、清潔な衣が心地いい。思わず欠伸をした小丸に、白君が無言で新たな衾を突き出した。


          二


 目の前を、川が流れている。辺りは、黄昏のように暗く、自分の周りしかよく見えない。と、背後から川原の石を踏む音が近づいてきて、雁は振り向いた。赤黒いような暗がりの中、狩衣を纏った男が一人歩み寄ってくる。

「何だ、まだこんなところにいやがったのか。まさか、おれ達を待ってた訳じゃねえだろうな?」

 苦笑いするように口元を歪めて言った男に、雁は目を瞬いた。

「長……」

「何驚いた顔してやがんだ」

 播磨長遠は、雁の顔を覗き込み、口元を歪めたまま面白がるように言う。

「おれ達を殺すよう、天狗に頼んだのはてめえだろうが」

「ええ……」

 雁は答え、正面から、長と呼んできた男を見つめる。

「ただ、何故、怒っていないのかと、不思議に思っただけです。掴みかかってこられるとばかり、思っていました」

「ふん」

 長遠は、憤慨したように鼻を鳴らすと、不意に両手を伸ばして、雁の水干の襟を掴んだ。

「なら、望み通りしてやろうじゃねえか。全く、どこまでいってもいけ好かねえ奴だ。てめえさえ仲間に戻りゃ、まだ続けられたのによ……。てめえがいねえと、何もかも終わりだった。もうおれ達に先はなかった。てめえも覚悟してたんだろうが、おれ達も覚悟してたんだぜ?」

「それは……おれも何となく感じていました」

「それで、わざわざ俺達に殺されたってのか。おれ達のことを、最初から全部、天狗に頼みゃあ、てめえがあそこで死ぬ必要はなかったろうが! おれ達を憐れんだのかよ? 本当にいけ好かねえ奴だよ、てめえは!」

 事実その通りだったので、返す言葉はない。遠からず命を奪う頭痛のことや、雁があそこで骸を晒していたほうが、蓑虫の将来のためにはいいということもあったが、長の言ったことは正鵠を得ている。むしろ、この播磨長遠という男が、ここまで察しがよかったということを知って、雁は驚いていた。相手に対しては、失礼な話だが。

「ふん」

 長遠はもう一度鼻を鳴らすと、雁の水干から両手を離して言った。

「それで、てめえは一体何だったんだ? おれ達に見えねえモノが見えて、鬼を使うってだけじゃねえ。誰にも教わらねえのに、刀も弓も使えて、馬にも乗れた。久永様に教えられただけじゃねえ才も持ってた。こんなところまで来たんだ。もう隠さねえでいいだろう?」

 長遠の言葉に、雁は笑みを漏らした。何だかんだ言いながら、結構、雁のことをよく見ていたのだ。

「そうですね。おれは、前生も人で、その時の記憶も持っています。前生での名は、小野良真(をののよしざね)といいました」

「小野良真……っていやあ、あの野宰相(やさいしょう)の子で……、あの小野小町(をののこまち)の――」

「ええ。小町(こまち)は、歳の離れた妹で、養子(やしないご)としていました」

「それで、その顔か。納得がいったぜ。野宰相の子なら、弓馬ができて当然だしな」

 満足したように言うと、長遠はふっと川のほうを見た。暗がりの中、川は蕩々と流れている。

「あいつらはもう先に渡った。おれも行かねえとな。てめえは行かねえのか?」

「先ほどから川を眺めているんですが……」

 足が進まないのだ。

「蓑虫辺りが、引き止めてやがんのかもしれねえな。まあ、早いか遅いかだ。じゃあな」

 あっさりと言って、長遠は、ばしゃりばしゃりと川へ入っていった。川はそれほど深くないらしい。膝の辺りまで水に浸かりながら渡っていく長遠の後ろ姿を見つめながら、雁の脳裏にまた、あの歌が蘇っていた。


  なく涙雨とふらなむわたり川水まさりなばかへりくるがに


 あれは、良真(よしざね)だった頃の自分が、同腹の妹、吉子(よしこ)を悼んだ歌だ。仁明天皇(にんみょうてんのう)更衣(こうい)として仕え、小野町(をののまち)と呼ばれた吉子。その吉子の許に、良真が養女として育てていた、才に恵まれた二人の歳の離れた異腹の妹を女童として仕えさせたところ、下の子のほうはすぐに有名になって、裳着を済ませて女房として侍るようになると、小野小町などと呼ばれるようになり、上の子のほうは、可哀想に、小町姉(こまちがあね)などという呼ばれ方をしていた。のちの清和天皇(せいわてんのう)の御世に、二人の養女は経験を生かして、後宮十二司の中の内侍司(ないしのつかさ)書司(ふみのつかさ)に出仕したが、その時にもまた、小野小町、小町姉という元の女房名で呼ばれていたらしい。二人とも吉子を心の底から敬愛していたから、吉子――小野町に縁のある女房名を、誇りを持って名乗っていたのだろう。吉子は、才色兼備の、もっと長生きしていれば、まだまだ才を発揮したに違いない妹だった。その妹と、再び兄妹として巡り会えたことが、今生の僥倖だったろうか。何度か生まれ変わりを繰り返したらしい妹は、何も覚えていないようだったが、それでも嬉しかった。

 あの歌を詠んだのは良真だったが、当時既に詩や歌の才を認められていた父、小野篁の歌として、都に広まった。鬼に慈しまれる性のため、あまり都には行かず、出羽国(いでわのくに)陸奥国(むつのくに)に引き籠っていた良真の歌とするよりも、耳目が集まってよかったのだろう。良真が詠んだ歌や詩で、同様にして、父の作となったものは他にもある……。

 目の前を流れる川は、三途の川。渡れば、あの世である。

(おれを引き止めているのは、誰だろう――)

 吉子の生まれ変わり――あくが、心配して神に祈ってくれているのだろうか。蓑虫は、まだ雁が死にかけていることを知らないはずだ。

(もしかしたら、鑑禎か……?)

 良真であった時、都に来る楽しみの一つは、あの天狗に会うことだった。鑑真大和上が生きていた頃の話や唐の話は、どれだけ聞いても飽きることがなかった。鑑禎にしても、鬼を従え、天狗を恐れない良真のことが、珍しくも愉快だったのだろう。会いに行けばいつも上機嫌だった。頼んだことは、かつての仲間達を一人残らず殺すことだけだったが、気まぐれに傷の手当てをしてくれたのかもしれない。

(だが、傷が治っても、おれは長くはない――)

 ここでは頭痛は感じないが、肉体の頭の中には、瘡が依然としてあるはずだ。それに、蓑虫もあくも自由にするために、自分は死んだのだ。

(おれは、もうここで――)

 雁は、一歩、川へと足を踏み出した――。


            ◇


「まずい……」

 保憲の緊迫した声で、小丸は目を覚ました。曇り空だが、まだ日は高いと分かる。寝入ってから、それほどの時は経っていないはずだ。

「どうしたんだ」

 一瞬で起き上がって目を遣ると、保憲は雁という青年に覆い被さるようにして、容態を診ており、傍らでひぐらしが心配そうに覗き込んでいる。

「危ないのか」

「体温が下がってる。このままじゃもたない」

 保憲は短く答えると、白君を呼んだ。

「焼石の用意だ」

「分かった」

 白い汗袗を翻して、白君は下屋へと飛んでいく。下人達もさぞや驚くだろう。夏に焼石を所望とは。

「小丸、おまえ一緒に寝て、この人を温めろ」

 命じられて、小丸は仕方なく青年の傍らへ潜り込んで、体を寄せた。確かに、生きている人間とは思えないほどに、青年の体は冷えている。青年の体の反対側には、同じように保憲が潜り込んで、同じように冷たさに顔をしかめると、決意した口調で言った。

「――一か八か、連れ戻しに行ってみる」

「連れ戻す?」

 眉をひそめた小丸に、青年の体の向こうで、保憲は頷いた。

「ああ。やったことはないから、うまくいくか分からないが、何もしないよりはましだろう」

「ちょっと待て。あの世へ行くのか!」

 驚いて起き上がった小丸に、保憲は真顔で説明した。

「あの世の手前、三途の川のこちら側までだ。この人もそこにいるはずだからね。力は使うが、神に憑かれるより危険は少ない」

「何で、こんな奴のために、そこまで――」

 言いかけた小丸を無視して、保憲は横になったまま目を閉じた。瞬間、保憲の気配が少し薄まった感じがした。

「気をつけて――」

 追いかけるように呟いたひぐらしが、小丸と目を合わせて、寂しく微笑む。

「本当に、いつもこの子は身勝手で困るわね。心配するほうの身にもなってくれたらいいのに……」

「全くだ」

 怒った声で答えて、小丸は再び青年へ体を寄せた。とにかくこの青年を温めないと、保憲の負担が大きくなる。

 青年の、血を大量に失って青褪めた端正な顔には、昨夜鬼火に照らされていた時のような凄みはない。ただ、安堵の色があるのが、小丸には無性に腹立たしかった。


            ◇


「おい、何してる!」

 背後から鋭く呼びかけられて、雁は、ゆっくりと振り向いた。長遠の次は、一体誰の登場だろう。

「こっちに戻れ!」

 細身の少年が一人、叫びながら走り寄ってくる。どこかで見たことがあるような少年だ。

「誰だ……?」

 ぼんやりと訊いた雁の襟にさっと左手を伸ばし、先ほどの長遠以上の勢いで引っ掴むと、少年は右手を振り上げた。

 ぱんっ。

 頬が派手に鳴り、遅れて痛みが襲ってきて、雁はまじまじと少年を見る。否、少年ではない。布衣を着て、垂らした髪を束ねてはいるが、目の前で冷ややかに怒った顔をしているのは――。

 目を開くと、急に頭痛が襲ってきて、雁は顔をしかめた。辺りが明るい。肉体の実感がある。体中の傷が痛む。この世に戻ってきたのだ。

「おまえは……?」

 掠れた声で、雁は、この世に戻っても依然目の前にいる、布衣を纏った少女(、、)に問うた。

「おれは、陰陽得業生の賀茂保憲だ。安心しろ。今、あなたに何かする気はない」

「……陰陽得業生……?」

 雁は眉をひそめた。この少女は、あの陰陽師の男の協力者なのか、否か。

(あの男の仲間なら、おれをわざわざ三途の川から引き戻したりはしないだろうが……)

 あの男は、昨夜、建礼門の前にいた。あの場にいたということは、間違いなく、陰陽寮の陰陽師ということだ。この少女が真実、陰陽得業生ならば、陰陽寮という狭い世界の中で、あの男と知り合いであることは確かである。蓑虫の安全のためにも、言動には気をつけなければならない――。

「とにかく、体を温めるためにも、何か食べろ。すぐに用意させる」

 賀茂保憲と名乗った少女はつっけんどんに言って、近寄ってきた式神らしい瓜二つの顔の少女から布の包を受け取ると、雁の体に押し当てた。熱い。包の中身は焼石らしい。

「湯漬を頼む」

 陰陽得業生の少女に命じられて、式神の少女はまたどこかへ飛んでいく。代わるように、二人の人間の顔が視界に入った。一人は、優しい笑みを浮かべた年嵩の少女。もう一人は、怒ったような拗ねたような顔をした少年。

(家族か……?)

 疑問に思いながら、雁は、すうっと意識が遠退くのを感じた。血が足りないのだ――。


            ◇


(兄さん……)

 簀子に腰掛けた蓑虫は、空に浮かんだ雲を見上げた。白い雲はふわふわとしていて、雨が降りそうな気配はない。

 兄と頼む雁と京の都に来たのは、一昨日の夜。そしてその夜の内に、この家へ預けられた。それから、蓑虫はずっと待っている。蓑虫をここへ連れてきた男は、時折来るが、厳しい顔に似合わない冗談ばかり言っているので、どう答えていいか分からず、近寄りがたい。この家にいる女は、いろいろと優しく蓑虫の面倒を見てくれる。先ほども、明るく声を掛けてきて、何を見ているの、ここにいるのが好きなの、などと訊いてきて、蓑虫が口を噤んでいると、菓子(かし)の入った餌袋(えぶくろ)を渡してくれた。それでも、ここにいたいとは思わない。雁は、今日の昼になっても、戻ってこない。

(早く帰ってきて……。どこに行ってるの……? 二、三日で、あいつら撒いてくるって言ったよね……? 待ってるから……)

 鬼も咒も使える雁は、かつての仲間達に捕まるようなことは絶対にない。けれど、二度と帰ってこないのではないかという不安が、心を過ぎる。最早朧にしか覚えていない両親も、そうだった。蓑虫を山の中に捨てて、どこかへ行ってしまったのだ。

(まさか……)

 雁に限って、それはない。それは――ない。不安に苛まれながら、それでも雁を信じて、蓑虫は簀子に居続けた。


            ◇


 目を開けると、やはり、布衣を纏った少女がすぐそこにいた。

(似ている……)

 凛とした面差しが、前生の記憶の中の少女と、同じだ。異なるところと言えば、髪や瞳の色などが少し薄いということぐらいか。面差しが同じだからこそ、布衣を着て髪を束ねた姿でも、すぐに少女だと分かった。

「目が覚めたか」

 少女は低い声で言うと、枕元に、ずいと、湯漬が入った土器と柳の箸の載った折敷を置いた。とにかく食べろということらしい。

「何故、おれを助ける?」

 雁は全身の痛みに耐えながら、上体を起こし、問うた。この陰陽得業生という少女が、どういうつもりなのか詳しく知らなければ、これから先の動きが取れない。少なくとも、あの陰陽師の男の協力者でないことだけは確かだが――。

「あなたはいろいろと知ってるはずだ。洗いざらい話して貰う。だが、まずは食べろ。すぐ気を失われては、まともに話もできない」

 とりあえず、食べることが必要だということは自分でも分かる。雁は折敷から土器と箸を取って、湯漬を食べ始めた。湯の一口一口、米の一粒一粒が咽を通り、胃の腑に落ちて、溜まっていく。力のない胃が苦しみながら米を潰していく。胃が悲鳴を上げて、吐き気がする。

「……おれが死ねば、市にでも晒せばいい。それで全て終わりだ」

 雁が半ば以上本気で呟くと、少女は冷ややかに答えた。

「それではおれが困る。口をこじ開けて薬を流し込んででも生かす」

 吐けば、それも無駄だろう、と思ったところへ、別の声がした。

「あなたは今疲れていて、考える力も弱っているわ。大丈夫、少しでも食べて休めば、元気になるから。湯漬がつらいなら、これはどうかしら?」

 ふわりと言いながら枕元へ来て、土器にたった一つ入れた楊梅(やまもも)の実を差し出したのは、気を失う前にも見た、優しい笑みを浮かべた年嵩の少女だ。暗い赤色の粒状突起に覆われた、掌に収まる丸い実を取り、雁は促されるままほんの少し歯を立てた。果汁の素直な甘酸っぱさが身に染みるようだ。

「――気が利いている」

 思わず笑みが漏れた。古事記(こじき)で語られるいざなきの(、、、、、)(みこと)は、黄泉の国から逃げてこの世へ戻る際、最後は追っ手に、黄泉比良坂(よもつひらさか)に生えていた「もも」の実を三つ投げつけて危機を脱したという。その際の「もも」は、大陸から持ち込まれた(もも)ではなく、古くからこの日本に生えている楊梅だ。三途の川を見てきた自分には、最も相応しい食べ物と言えるかもしれない。

「――おれのことは、どのくらい知っている?」

 雁は、楊梅を少しずつ齧りながら、問うた。これには、布衣の少女が答えた。

「名は雁。或いは『みちまろ』。鬼に慈しまれる性。神祇官の倭国巫の兄で、弟のような者がいる。そして、天狗の知り合いで、二生の人だ」

 雁は、楊梅を持つ手を下ろした。そう、この少女とは、前生でだけでなく、今生でも既に会っている。この陰陽得業生の少女、そして、この家にいる少年は、あの時、飛香舎にいた二人だ。

「おまえは、死んだと思っていた」

 雁が冷ややかに言うと、少女も冷ややかに返してきた。

「おまえが、陰陽道に詳しくないお陰で、助かった」

「成るほど、さすが陰陽得業生だ。なら、おまえがおれから聞きたいこととは何だ?」

 あくのために、もう一度、この少女を殺さなければいけないのか、考えながら雁は問うた。

「あなたが何故、内裏へ行ったのか、あなたと繋がってる陰陽寮の者はいるのか、いた場合、誰なのか」

 淀みなく答えた保憲に、雁は問いを重ねた。

「それを知って、おまえはどうする?」

「帝を守り、陰陽寮を守る。できれば、あなたも守りたい。あなたは、少なくとも悪人じゃない」

 雁は、髪を束ねた少女を、じっと見つめた。少女の真っ直ぐな眼差しは、懐かしい。まだ女童で、貴君(あてき)と呼ばれていた頃の彼女(、、)そのままだ。

「――先に、おまえと会っていればよかったな……」

 あの陰陽師の男より先に、この陰陽得業生の少女と会っていれば、今頃、蓑虫はここにいただろう。――今から、蓑虫をここへ連れてくるべきか否か。

(おれがこのまま死ねば、蓑虫は、あの男の許で、安全に、見鬼の力も生かしつつ暮らせる)

 そもそも、そういう計画だったのだ。都で、鬼を暴れさせて、陰陽寮の陰陽師を釣り、その野心をくすぐって、取り引きをして、蓑虫を預ける。陰陽寮に出仕する男が、強い見鬼の力を持つ蓑虫を手放すはずがない。雁が死んだことを知れば、尚更だろう。陰陽寮は、常に実力ある者を求めて、典薬寮の医道(いどう)咒禁道(じゅごんどう)を学ぶ者、大学寮の明経道(みょうぎょうどう)算道(さんどう)を学ぶ者、神道や仏道を学ぶ者まで、声を掛け、引き抜いて組織されてきた、実力主義の貪欲な寮なのだ。ゆえに、あの男のような野心家も育ち易い。

(野心があればこそ、己の勢力拡大のために、あの男は蓑虫を大切に育てるだろう。だが、ここに連れてきたほうが、蓑虫の幸せのためには、いいのかもしれない)

 無理をしてでも、よりよい未来を求めるべきか。

(おれの残りの体力で、どこまでできる……?)

 成功率を、正確に見極めながら、動かなければならない――。

 暫く考えた雁は、おもむろに口を開いた。

「名は知らない。ただ、昨夜、建礼門の前にいて咒を唱えていたから、陰陽寮の陰陽師であることは確かだ。歳は四十余りに見えた。子供の扱いに慣れている様子だったから、恐らく子供がいるだろう。それから、西の京に、通う女の家がある」

 蓑虫のために、慎重に構えて、女の家の場所だけは曖昧にして告げたところ、反応は、予想を超えるものだった。

「……陰陽寮の……歳は四十余り……子供の扱いに慣れて……西の京に、通う女……。まさか――」

 喘ぐように言って、保憲という少女は、急に床に手を着き、座っているのさえやっとという様子になった。大きく見開いた双眸で、床に着いた自分の手の辺りを見つめ、幾度も瞬きし、肩で息をするばかりだ。

「――知っている相手か」

 雁の問いかけにも、保憲は答えるどころか、聞こえてもいないようだ。代わりに応じたのは、楊梅をくれた少女だった。

「あなたが仰った特徴は、わたくしとこの子の父に、当てはまり過ぎていて、驚いたのですわ。けれど、わたくし達の父は、そのようなことをする方ではありません」

 静かな声音で、きっぱりと告げると、年嵩の少女は、後ろにいる少年を振り向いた。

「小丸、保憲をわたくしの部屋へ連れていって休ませて。この子には、少し、休息が必要だわ」

「――分かった」

 小丸と呼ばれた少年は、或いは、保憲という少女以上に動揺している様子だったが、年嵩の少女の言葉でわれに返ったらしく、すぐに動いた。保憲に歩み寄り、その左腕を取って肩を貸して立たせ歩かせて、中の戸を開けた向こうの隣室へ連れていく。中の戸が後ろ手に閉められるまで、その後ろ姿を見送ってから、雁は、部屋に残った年嵩の少女へ視線を戻した。少女は、微かにつらそうな笑みを浮かべ、雁の眼差しに答えて言った。

「あの子にとって、父親は、物事を判断する基準に似た存在ですから、その父親が、そういうことをしたかもしれないと聞くと、とても、平静ではいられないのです。けれど、先ほども申し上げた通り、わたくし達の父は、そのようなことをなさる方ではありません。もう少し詳しいことは、何か分かりませんか」

 闇夜でただ一度会っただけなので、詳細な外見については分からない。名も、聞いたとしても、偽られればそれまでなので、尋ねてもいない。――だが、蓑虫の許へは、すぐに案内できる。

(「父親は、物事を判断する基準に似た存在」か。いつかの誰かと似ているな……)

 思わず知らず、自嘲が口の端に上る。

(今は、おまえが、そういう生き方をしているのか、貴君)

 前生で自分が身近にいた頃、もう少し奔放なように見えた少女は、実のところ、生真面目で頑なで、こうと信じたものを生涯守り続けるような性格だったのかもしれない。

(おまえを――おまえの家族を、信じよう)

 雁は決断し、おもむろに告げた。

「式神が使えるなら、おれに憑けろ。おれは、極親しい者のところへ、生霊となって行くことができる。おれの弟が、その男が通う女の家にいる。そこへ案内しよう。そこへ行けば、その男が誰なのか、すぐ調べられるだろう」

 喜んで表情を崩すかと思いきや、雁の顔を見つめる少女は、真摯な顔のまま言った。

「そうして、その子を、安全に、ここへ連れてくればいいのですね?」

 頭のいい、そうして情に厚い少女だ。蓑虫が、人質という立場にあることを察したのだ。

「――頼む」

 雁は楊梅を食べ終え、種を土器に戻すと、再び横になった。そうと決まれば、最後の大仕事のために、体力を少しでも回復しなければならない――。

 少女は頷いて、慣れた手つきで雁に衾を掛けた。

「まずはゆっくり休んで下さい。式神を使う保憲も、暫く休まないといけませんから。……それから、わたくしのことは、ひぐらしと呼んで下さい」

 名乗られて、名乗らない訳にはいかない。

「おれのことは、雁と呼べばいい」

 仮にも通じる雁。前生での、童名。前生の記憶を思い出し、久永に拾われて盗人となってから、名乗り始めた名。

雁君(かりぎみ)――、美しい名ですね」

 少女――ひぐらしは、しみじみと言って微笑んだ。


            ◇


 ひぐらしの寝床へ寝かせた保憲は、暫く天井を見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。

「……おれは、父上を裏切った――」

 そんなことはない、と小丸が否定する前に、保憲は更に己を責める。

「父上が、内裏に鬼を差し向けるなど、なさるはずがないと、姉上のように言い切れればいいのに、おれは、父上を信じるべきか、迷ってしまってる――」

 小丸の脳裏に、今朝、鞍馬山へ向かう前の白君の言葉が蘇った。

――「迷っているあいつは、下手をするかもしれない」

――「今回は、保明親王や一言主と同じくらい、相手が悪い」

(つまりは、こういうことか)

 ただ一途に忠行のためという保憲の強さは、裏返せば、脆さでもあったのだ。

「しっかりしろ」

 小丸は、枕元から保憲の顔を覗き込んで懸命に言う。

「おまえの父親のことだろう。動揺してないで、信じたいなら、そう動けばいい」

 隣室からは、ひぐらしと雁という青年の話が聞こえていた。あの青年が、生霊となって、繋がりのある陰陽師が通う、女の家へ行くのだという。あの青年が何故内裏へ行ったのか、その陰陽師との繋がりが何なのかは、まだ分からないが、女の家へ行けば、そこから手掛かりを辿って、全て明らかとなっていくだろう。

「白君を生霊のあいつに憑けたら、すぐにいろいろと分かる」

 励ましたのに、何故か保憲は、青褪めた顔のまま、くすりと笑った。

「……まさか、おまえに慰められる日が来るなんてね……。かなりまずいかもしれないな……」

 保憲の呟きを裏づけるように、白君は姿を消したままだ。白君が式神としての姿を保てないほどに、保憲の動揺は深いのだ――。

「あいつにも、おまえにも、暫く休むことが必要なんだ」

(絶対、傍にいる)

 小丸は、眉間に皺を寄せ、決意を新たにした。


          三


 三月に、葛城山で、これからは父のためではなく、小丸のために生きると決意していなければ、精神的な衝撃は更に大きかっただろう。まさか、自分がここまで脆いとは思ってもみなかった。

「――信じたいなら、そう動かなきゃ、ね……」

 呟いて、保憲は莚から起き上がった。横になってから、かなり経った。影の長さ、日の傾きから見て、そろそろ申の時だろう。体も、少し楽になった。

 じっと枕元にいた小丸が、心配極まれりという顔で見つめてくる。保憲は、微笑んで言った。

「もう大丈夫だ」

 少し力を込めると、懐で天児に戻っていた白君も、ふっと式神としての姿を現した。

(大丈夫だ)

 保憲は自らにも言い聞かせながら立ち上がり、中の戸を開け、白君を伴って自室へ戻ると、横になっている雁と、その傍に座っている姉へ歩み寄って告げた。

「話は聞こえてました。充分に休んだので、いつでも行けます」

「焦り過ぎではない?」

 ひぐらしが不安げに保憲を見上げる。

「あなたも、雁君も、体調が万全ではないのに」

「いや、早いほうがいい」

 横たわったまま青年が言い、保憲を見上げる。

「用意しろ。行くぞ」

 告げて、目を閉じた青年の全身から、立ち昇るモノがある。直後、青年の気配が薄くなり、同時に、白君も姿を消した。白君が、離れた場所へ――右京のほうへ移動したことが、感覚として保憲に伝わってくる。

「では、おれも行きます」

 保憲が庭へ出ようとすると、ひぐらしが強い口調で言った。

「この人は、何故か、生きようとしていない。だから、お願い、保憲。無理矢理でも、この人の生霊を、連れ戻して」

 そっと青年の手を握り、眠っているかのような――それが本当の「みちまろ」なのだろうと思われる、まだ少年のような線の細さの残る――端正な顔を見下ろす姉に、保憲は、低い声で答えた。

「分かりました。おれも、この人を、死なせたくない気持ちが強いですから」

 一つ、気になっていることがある。保憲は、この青年についての夢を、恐らく二つ見た。一つ目は、陰陽寮の納殿で見た、庵で大勢に襲われる夢。鞍馬山のあの庵の惨状を見れば、既に現となったことが分かる。だが、二つ目――この自室で見た、空車に乗せられている体の夢は、まだだ。あれがそのまま現となれば、即ち、この青年の命が危うい。

(急がなければ)

 浅沓を履いて庭へ出ると、当然のように小丸がついて来た。

「おれも行く」

 ぶっきらぼうに言って、振り向いた保憲を睨むように見つめてくる。できれば、小丸は青年と姉の護衛に残して行きたかったが、昨夜、内裏で恐い思いをさせたばかりでは、保憲の傍を離れろと言っても聞き入れないだろう。

(今までが今までだから、仕方ないね……)

 少しばかり申し訳ないような思いに捕らわれながら、保憲は三十六禽を呼び出した。時刻はまだ未の四刻らしく、出てきた魔物は、大きな(ひつじ)(たか)(かり)。保憲は鷹に乗り、雁には小丸を乗せ、羊は護衛のため庭に残して、賀茂邸を飛び立った。白君の感覚がする申――西南西のほうへ、二体の魔物の嘴を向けて、羽ばたかせる。眼下を、紀貫之邸のある桜町(さくらまち)や、中御門大路、春日小路(かすがこうぢ)が過ぎていく――。


            ◇


 この家の女が渡してくれた餌袋の中には、松子(しょうし)柏子(はくし)干棗(ほしなつめ)などが入っていた。菓子とは木の実のことであり、近頃では草の実も含めてそう呼ぶことが多い。かつての仲間達も、こういうものを同じように餌袋に入れて、よく持ち歩いていた。蓑虫が物欲しげに見てしまうと、気紛れを起こした時以外は、いつも殴ってきたが――。

 ほんのり甘い菓子を口に含むと、不意に、鼻がつんとして、泣きそうになった。殴られたところを小川の水で濡らした布で冷やしてくれた雁。山の中を歩きながら、木の実、草の実を目敏く見つけては取り、蓑虫のための餌袋を作ってくれた雁。どんなつらい思い出も、全て雁の温かい思い出へと繋がっていく。

(――兄さん……)

 ぽろりと、頬を転がり落ちた涙を、透き通った指が拭おうとして、――すり抜けた。

「え……」

 懐かしい気配に驚いて顔を上げると、目の前に、雁がいた。けれど、その姿は、雲間からの日差しに儚く透けている。まだ盗人達の仲間であった頃、離れたところにいる雁が、たまにこうして会いに来ることがあったので、驚きは少ない。

「どうした? 泣いていたのか?」

 雁は、簀子に座った蓑虫に目の高さを合わせ、微笑む。しゃくりあげるのを我慢して、蓑虫が首を横に振ると、雁はどこか遠く響く声で言った。

「迎えに来た。もうすぐ、賀茂保憲という、おれより少し年下の陰陽得業生が来る。そいつが、おれのところまで、おまえを連れていく。もうここにはいなくていい」

「うん、分かった……!」

 嬉しさで、はちきれそうになりながら、蓑虫は頷いた。


            ◇


 四代前の天皇であり、御年六十三歳の長寿を誇る陽成(ようぜい)上皇の住まう二条院(にじょういん)の上空を斜めに横切り、大内裏の上は避けながら、二条大路沿いの木工寮(もくりょう)と木工町、神泉苑(しんせんえん)、大学寮、穀倉院(こくそういん)の上を順に飛んで過ぎた後、保憲は白君と繋げた感覚を頼りに、二条大路より少し北へ、大内裏の西南の角を掠めるように二体の魔物を飛ばし、冷泉小路と野寺小路が交わる辻の西北の、檜垣に囲まれた小さな家の南庭へと降り立たせた。

 狭い庭に面した簀子に、十に満たない歳に見える男童がちょこんと腰かけている。その前に雲間から射す日に透けている青年の生霊が立ち、同じく透けている白君は、軒の辺りに浮いている。

「この童か」

 魔物の鷹の背から保憲が問うと、青年の生霊は頷き、告げた。

「蓑虫という。見鬼の力を持っている。よろしく頼む」

「分かった。小丸、おまえと一緒に乗せてやれ」

 指示を出しながら、保憲は、こぢんまりとした家を観察する。一体、誰に(ゆかり)のある家なのか。ここに、もし母のあやめが住んでいれば、父への疑いが本当になってしまう。

 家は板屋で、檜垣に囲まれた庭には、われもこうが多く生えている。家の中に、人の気配はない。この童だけが置かれている訳ではないだろうから、市にでも行っているのだろう。

「白君、この家に誰が住んでるのか、手掛かりになるようなものを探して――」

 最後まで言えずに、保憲は鷹の背に蹲った。凄まじい衝撃が、心の臓の動きすら、不確かにする。繋いでいた感覚が、強烈に告げている。賀茂邸に残してきた魔物の羊が、一瞬にして消滅させられた。

「保憲?」

 驚いて魔物の雁の背から一足飛びに来る小丸に、保憲は、激しい動悸に阻まれながら、何とか言った。

「……すぐ、賀茂邸に、戻れ……。姉上が……、あいつも、危ない……!」

 父は鞍馬山に行っている。助けは望めない。――そう、賀茂邸が襲われるということは、父は、潔白なのだ――。

「先に戻る。蓑虫を頼む」

 冷静に言ったのは、小丸ではなく、生霊の青年だった。確かに、体に戻るだけなので、一瞬で済む。しかし、その戻る先の体は、一応危険な状態は脱したとはいえ、瀕死の重傷を負っているのだ。

「どうする――」

 つもりだ、と保憲が問う前に、生霊はその場から消えていた。白君も、同時に消えている。

「おまえは、少し休んでから、こいつと一緒に戻ってこい」

 小丸も言って、一足飛びに檜垣を跳び越え、大内裏のほうへ走り去った。きっと賀茂邸への最短の道筋を行くため、大内裏を西から東へ突っ切るのだろう。

(今は、仕方ない、か……)

 保憲は、鷹に背に座り込んだまま、のろのろと簀子へ顔を向けた。何度も「頼む」と言われた。自分に託された子だけは、確かに守らなければならない。

「おいで」

 声をかけると、簀子に座ったまま硬直していた童は、びくりとして両眼を瞬いた。

「おれは賀茂保憲。きみの兄さんに、きみのことを頼まれた者だ。今から、きみの兄さんのいるところに連れていくから、おいで」

 少年は、事態の深刻さを何となく分かっているのか、無言でこくりと頷き、ぴょんと簀子から飛び降りて、保憲のところへ走ってきた。

「なら、行くぞ」

 保憲は体力の温存のため、魔物の雁には姿を消させて、魔物の鷹の背へ、蓑虫を引き上げた。いざという時、鷹のほうが戦力になる。

(間に合え……!)

 念じながら、鷹を飛び立たせた。


            ◇


「楊梅は、やはり、三つなければ、逃げ切れはしないらしい」

 淡々と戯れ言のようなことを言って、立ち上がった青年を、ひぐらしは驚いて見上げた。まだ、立ち上がれるような状態ではないはずなのに、急に何があったというのか。

「あなたは隠れているほうがいい」

 少しふらつきながら言って、青年は庭のほうを見据える。上格子は上げ、下格子も取り払い、壁代も巻き上げているので、外との隔ては簾のみだが、その簾を透かして、先ほどまで見えていた魔物の羊がおらず、代わりに男が一人、いつの間にか佇んでいる。衣冠姿の、官人と思しき男。見覚えがある。

(あれは……!)

 男が何者か、思い出した瞬間、ひぐらしは事態を悟った。

(では、あの方が、百鬼夜行を内裏へ導くことに関わっていらした陰陽師……!)

 意外に思ったのは、ほんの一瞬で、その人となりの野心の部分を思うと、納得してしまう自分がいた。

(でも、あの方が相手では、勝ち目はない……!)

 慌てて、静止しようと袖を引いたひぐらしに、青年は、ひどく冷静な目を向けて、小さく首を横に振る。次いでひぐらしの額に、すっと手を伸ばし、何か文字を書きつけると、簾を押しやって外へ出ていった。

「ほう、自ら出てきたか」

 庭の陰陽師は、簀子に出ていった青年を見上げ、感心したように言う。

「あの童に式神が仕掛けてあって、そなたが何らかの形で接触した場合、そなたの許まで案内するようにしてあったことも、もしや気づいていたか」

「可能性は。ただ、半信半疑だった。ここまでするとはな」

 言葉を惜しむように短く、青年は答えた。やはり、相当状態が悪いのだ。

「ふむ。何とでも言え。それで、この状況、如何する?」

 陰陽師は、大して気分を害した様子もなく、問うた。

「あなたがおれを殺した時点で、おれの咒が発動して、あなたを殺す。それで終わりだ」

 青年は淡々と告げた。ひぐらしは小さく息を飲んだ。そんな咒のことは、初耳だ。

「そんな咒があるものか。つまり、無策ということだな」

 陰陽師が皮肉な笑みを浮かべる。

「小野良真、やはり、表に出てこられぬ、口先だけの男だったようだな」

「――よく調べたな……」

「小野好古とそなたが話していたのを盗み聞いただけのことだ。あの歌、小野篁が詠んだ元の歌と、四つだけ音が変えてある。その変えてある音だけ拾えば、よ、し、さ、ね、となる。小野氏の良真は生きているはずのない一人しか思いつかなかったが、あの好古の態度を見ると、成るほど、そういうこともあり得るかと思ったまでのことだ」

「さすが、怪異の類を受け入れるのに、躊躇がない――」

 呆れたように呟いてから、青年はさらりと言う。

「おれを口先だけと思うなら、さっさと殺せ」

「言われずとも」

 ずい、と陰陽師が歩を進め、無駄のない動きで片袖を打ち振り、何かを放った。

(式神……!)

 ひぐらしは改めて青年に駆け寄ろうとしたが、腰が抜けたのか、体が動かない。

 放たれたモノは、ひぐらしにははっきりと見えないが、太い蛇のように見えた。長い形をたわめて、ひゅっと宙を飛んだそれは、青年の体にずるりと巻きつき、ぎりぎりと締めていく。

(雁……!)

 叫ぼうとした声も、咽に引っかかったようにして出なかった。

(雁……!)

 為す術もなくひぐらしが見つめる先で、青年はゆっくりと膝をつき、簀子から庭へ崩れ落ちて――、彼女の視界から消えた。

「愚か」

 一言言い捨て、陰陽師は青年が落ちた辺りへ歩み寄り、見下ろす。

(お父様や保憲から聞いたことがある……。あの方は、己の体に様々なモノを寄り憑かせて、意のままに使うと――)

 寄り憑かせても、体を乗っ取られない力の持ち主なのだと。そして――。

「わしが、そう簡単に殺すと思うたか。そなたの力を侮ってはおらぬわ」

 呟く陰陽師の体から、更に無数の何かが浮き出すようにして離れ、青年が倒れているであろう、簀子の下へ降りた。暫くして、ゆらりと、簀子の下から、ぎこちなく青年が立ち上がった。しかし、その体には、大きな蛇のようなモノに加えて、靄のように、先ほど陰陽師から離れた無数のモノ達が纏いついている。

(やっぱり……、普段、己の体に寄り憑かせているモノを、他者に取り憑かせて操るという、あの話も、本当なのだわ……)

 確信しても、やはり、ひぐらしに為す術はない。彼女に、妹達や小丸のような力はないし、何故か、今は体まで動かない。彼女が何もできず、ただ必死に見つめる先で、操られた青年は、陰陽師に従って歩いていき、庭から――賀茂邸から姿を消した。


            ◇


 小丸は、賀茂邸の西の対に入る前に、険しく眉をひそめた。あの青年の気配も、ひぐらしの気配もない。

「くそっ」

 悪態をつきながら、何かしらの手掛かりを求めて保憲の部屋に上がった小丸は、そこにひぐらしの姿を認めて、安堵より先に不審を覚えた。眼前にいても、やはり気配がない。ひぐらしは、目を開いているのに、小丸が歩み寄っても、声を発することもしなければ、動きもしない。

(これか……)

 小丸は、ひぐらしの額を見て、原因を悟った。血で、[無]と書かれている。小丸は己の布衣の袖で、その血文字を拭い消した。途端に、ひぐらしが小丸に縋りついた。

「あの人が、連れ去られたの! 相手は、弓削義貞様よ!」

 ひぐらしには珍しく、語気の強い言葉に、小丸は表情を硬くした。弓削義貞が陰陽寮の陰陽師であり、保憲の同輩である陰陽得業生、弓削時人の父親であることくらいは、小丸も知っている。

「今から追う。保憲も、すぐ戻ってくる」

 告げて、小丸はひぐらしから離れると、庭に出て、西の対の板葺の屋根に跳び上がった。賀茂邸の周囲に視線を巡らすと、一両の空車が目に留まった。

(あれか)

 賀茂邸から遠ざかっていく、屋形のない粗末な牛車。牛の傍らを歩く牛飼童は、よく見れば、紙の式神である。剥き出しの荷台には、無数の蜘蛛の怨霊にたかられて、何かが――あの青年の体が乗せられている。荷台の端には、弓削義貞も座っているが、こちらは、大蛇の怨霊がとぐろを巻いた中にいて、見鬼の力を持たない者からは、その姿が見えないようにしている。行く先は、東。賀茂川のほうを目指している。恐らく、京の都から出ようとしている。

(あいつを連れてってどうするつもりだ)

 弓削義貞の思惑に首を傾げながらも、小丸は気づかれないよう気配を消して、粗末な牛車を追う。その額に、ぽつりと雨粒が当たった。続いて、頬に、手に、次々と雨が当たる。いつの間にか、北の鞍馬山の上にあった雲が流れてきたようだった。


          四


 この若人(わこうど)を生かしておくことはできない――。それが、弓削義貞の結論だった。

 内裏に鬼が向かうことを承知で黙っていたとなれば、それは、陰陽寮の陰陽師として、朝廷を裏切ることに他ならない。罷免されて然るべき所業である。その事実を知っているこの青年を、放っておく訳にはいかない。蓑虫というらしい、あの童を人質に取っておけば、大丈夫かとも思っていたが、その人質を取り返しに来たとなれば、義貞がすべきことは一つだった。隙を見せられる相手ではないのだ。

 この青年の前生、小野良真は、かの野宰相――参議小野篁の二男である。そして、かの小野小町――後宮で活躍し、晩年には書司の長官たる尚書(ふみのかみ)を務めた才女は、彼の歳の離れた異母妹であり、養女だ。あの小野好古の父、太宰大弐を務めた小野葛絃は、彼の二十歳余り年下の異母弟で、小野小町の同母弟でもある。しかし、良真自身は、出羽国の国府が置かれていた出羽郡(いでわのこおり)の郡司を務めていたぐらいで、決して、この都へ来て、朝廷へ出仕しようとはしなかった。そのことについて、祖父の弓削是雄が語っていたことがある。小野良真は、生まれつき鬼を従え、大陸から伝わってきた咒に精通し、生霊となってしばしば父たる篁の傍らに控え、その補佐をしていた、と。追従を嫌い、清貧を好み、常に自分が正しいと思ったことしか行なわなかった篁が、宮中でそれなりの地位を保ち、一度失脚するも復位を許されたのは、陰に良真の暗躍があったからだ、と。見鬼の力を持っていた祖父の言葉であるから、真であろう。

(こやつを殺せば発動する咒というのは、恐らく本当だ。だが、その咒は、書かれた文字。消せばよい)

 問題は、どこにその文字が書かれてあるかだが――。蠱毒で作った蜘蛛の怨霊達に青年の体をくまなく調べさせているが、今のところ、どこにもそれらしい文字は見つからないようだ。降り始めた雨に、墨や血が流れる様子もない。何か、細工があるのかもしれない。

(ならば、全て、水に流せばよい)

 義貞は、そのために賀茂川を目指しているのだった。


            ◇


(愚か、か……)

 雁は、遥か上空から自らの体を見下ろしていた。

 最早指一本動かせない体が、雨を防ぐ屋形のない、ただの空車に載せられ、運ばれていく。莚一つ被せられず、雨に叩かれる体が訴える。道々、群がった蜘蛛の怨霊達に引っ掻かれ、齧られ、弄られる体が訴える。体に残る魄を通じて、離れても、まだ僅かに繋がりを保っている魂へ、苦痛を、じりじりと訴えてくる――。

 大蛇の怨霊が体に入り込んできた時に、入れ替わるようにして、雁の魂は体を離れた。元々、体を離れかけていた魂なのだから、仕方がない。あの陰陽師は、雁の魂の状態を見誤ったのだ。そして、あの陰陽師にも、密かについて来た白君という式神にも、誰にも、雁の魂を見ることはできない。雁がそのように、咒を書いたからである。その場所も、その文字も、蜘蛛の怨霊達は発見できていない。恐らく、もう暫くの間は、見つからずに済むだろう。

(この状態は、生霊となって自ら体を離れるのとは違うが、体に戻れない、ということ以外は、生霊の時と、同じことができるはずだ――)

 それこそが、雁の狙いである。雁は、自らの体の訴えに耳を貸すことなく、大内裏へ飛んだ。

 小野良真と呼ばれていた前生、雁は幾度となく、坂東の更に奥から、生霊となって、京の都にいる父、小野篁の許へ飛んだものだ。生霊となれば、馬で幾月もかかる道程も一瞬だった。相手に対する思いの強さが、生霊の全てなのだ。(たま)であっても、(たま)であっても、それは変わらない。「たま」は、精神の――心の塊なのだから。

(あく、おれの言葉を……)

 妹のいる神祇官西院の中へ、雁の魂は降りていった。


            ◇


「姉上、御無事ですか!」

 上空から降ってきた声に、南廂の簀子に出ていたひぐらしが顔を上げるのと、保憲の操る魔物の鷹が庭に舞い降りるのとが同時だった。

「保憲、あの人が……」

 言いかけて、ひぐらしは保憲が鷹の背から連れて降りた童に気づいた。

「その子が……」

「蓑虫です」

 保憲が答えて、童をひぐらしのほうへ押し出す。

「小丸の気配が遠ざかってます。あの男も、そちらですね?」

「ええ」

 妹の察しのよさに感謝しながら、ひぐらしは告げた。

「あの人を連れていったのは、弓削義貞様です」

「……分かりました」

 安堵と覚悟という、複雑な表情を浮かべて、保憲は踵を返し、再び魔物の鷹に乗る。

「行って来ます」

 一言残して、人より大きな鷹を舞い上がらせた。その羽音に負けじと、ひぐらしは、妹へ向けて叫んだ。

「行っていらっしゃい!」

 これも咒だ。「行って来ます」も「行っていらっしゃい」も、つまりは、行っても戻ってくるという咒を唱えているのだ。

(あの人を連れて、小丸と一緒に、戻ってきて)

 祈りつつ、ひぐらしはしゃがんだ。目の前に、ぽつんと、少年が残されている。

「蓑虫というのね? わたくしは、ひぐらし。あなたをここへ連れてきた人は、わたくしの弟で、童名は夏虫といったの。虫同士、わたくし達、仲良くなれそうだと思わない?」

 にこりと笑いかけると、予想に反して、少年は硬い表情のまま言った。

「おれは、鬼の子だから、蓑虫だ。ただの虫じゃない」

「――そう……」

 ひぐらしは、どう言葉を継いでいいか分からず、黙った。蓑虫が鬼の子と言われるのは、小枝や葉の切れ端を纏っているせいである。鬼がよく着ている粗末な衣――蓑に似ているので、そう言われるのだ。そして、この少年は見鬼の力を持っているからこそ、蓑虫という童名を付けられたのだろう。けれど、それで、その童名のままに、人から離れて生きていくというのだろうか。

(それは、きっと、雁君が望んでいることとは違うはず。この子は、ただ、己が特別だということに、酔っている。ずっと雁君に守られてきたから、まだ、己しか見えていないのだわ――)

 ひぐらしは、強い思いのまま口を開いた。

「ならば、わたくしはひぐらし。朝に鳴き、夕に鳴き、日を暮らすとも、火が暗いとも読める、ひぐらしよ」

 怪訝そうな顔をしている少年に、凛として告げる。

「あなただけが、特別なのではないわ。人にはそれぞれに事情があり、それぞれに特別で、結局のところ、根っこの部分では、そう違わないのよ。それでも、違っていると思う人は、違っていると思っていたいからなの。あなたは、わたくし達と同じよ。大切な人を失いたくない、ただの人よ」

 途端に、少年の両眼に涙が溢れた。

「……兄さんに、会いたい」

 小さな涙声の訴えに、ひぐらしはそっと少年を抱き寄せ、柔らかな髪を首筋で束ねた頭を撫ぜて、己にも言い聞かせるように囁いた。

「ここで、待っていましょう」

 保憲と小丸は、必ず、あの青年を無事に連れて戻ってくるのだから――。


            ◇


「夏虫!」

 正面から呼びかけられて、鷹の背から下を見ていた保憲は、はっと顔を上げた。雁について行ったはずの白君が、真正面から飛んでくる。

「あいつは?」

 問いに、式神は珍しく、やや焦った口調で答えた。

「息をしていない。わたしにも何も見えなかった上、弓削義貞はまだ気づいてさえいないが、恐らく、魂が抜けている」

「――わざとか……」

「そうでなければ、見えなかった説明がつかない。何かの術で、魂を見えなくしているのだ」

「あいつには、己で咒を作るだけの才があるから、その辺りは思うがままだろう。問題は、魂の行き先だ」

 体が呼吸を止めているのなら、魂もそう長くはこの世に留まっていられない。その僅かの時に、あの青年は何かをするつもりなのだ。

「あいつは、生霊になるのが得意だ」

 白君が、多少落ち着きを取り戻したのか、いつものように気づいたことを指摘した。その気づきが、保憲の推測を加速させる。

「生霊は、強く思う相手の許へ飛ぶ――」

 呟いて、保憲は思いつくと同時に、鷹を反転させた。

「神祇官だ! あいつの妹がいる」

 あの青年が強く思う相手は、蓑虫と妹。今、蓑虫の許へ魂となって行ったところで、最期の別れくらいしかできないだろう。そんな無駄なことをする青年には見えない。ならば、神祇官にいる妹のところだ。そこなら、倭国巫の妹の力を借りて、何かができる。それは、蓑虫を守ることに繋がるのだろう。そして、自分の命のことは、顧みていない。あれは、そういう男だ。

(全く、世話の焼ける……!)

 保憲は疲れ切った体から力を搾り出して、大内裏の神祇官へ向け、鷹を全速力で飛ばせた。


            ◇


[不可視魂]

 それが、雁が自らの舌の裏に、針で引っ掻いて書きつけた咒だった。同じ「たま」でも、「霊」は、神や鬼のような、通常ない力を纏っていることを示し、普通の人には成り得ない生霊や、死後も尚この世に留まる亡霊、怨霊などを表す。だが、「魂」は、皆が持っているモノであり、誰でも死ぬ時は、同じように魂が体を離れるのだ。ただ、生霊となることに慣れていた雁は、同様にして、魂となっても、あの世への道すがら、ある程度は意のままに動くことができた。それだけのことだ。

「あく、あく」

 呼びかけると、妹は驚いた顔をして辺りを見回した。咒のために、普段は魂を見る妹も、眼前にいる雁の魂が見えないのだ。だが、声さえ――言葉さえ届けばそれでいい。

「あく、姿は見せられないが、おれはここにいる。よく聞いてくれ」

 残り僅かな時を無駄にしないため、雁は淡々と告げる。

「今からおれが言うことを、そのまま、帝にお伝えしてくれ。そうすれば、おまえも、おれがずっと面倒を見てきた蓑虫という童も助かる。頼む」

「兄様は……?」

「おれはもう助からない。だから、おまえに身勝手を言う。すまない」

「兄様は、いつも、そう。いつもいつもいつも、結局は己の意志を押し通して、わたし達の思いなど聞いては下さらない……」

 両眼に涙を滲ませつつ口の中で呟いた妹は、急にきりりと表情を引き締める。

「そのお言葉、兄様ご自身でお伝え下さい。体はお貸し致します」

 言うや否や、あくは両手を伸ばして雁の魂を包み込み、自らの中へ取り込んだ――。


          五


 緊急事態とは言え、正式の仕事以外で大内裏の上空に魔物を飛ばすのは、さすがに気が引けるらしい。主の夏虫は、大内裏上空に近づいた鷹の背から、白君を行かせた。

 細々と降る雨を素通りさせながら、すうっと降りて、神祇官西院の斎部殿に入り込んだ白君は、青年の魂を捜して、そっと動き回った。何しろ、ここは見鬼の力を持った少女達の住まいである。気づかれると面倒だ。

(或いは、単なる亡霊の振りでもするか……。いや、御巫には、それすらも見破られるか……。ならば、いっそ、天児の姿に戻って転がっていればいいか……)

 適当に対策を練りつつ、白君は、東西二間、南北一間の斎部殿内を、青年の魂の気配を探って進む。そして、愕然とした。少女の一人と青年の魂の気配が重なっている。

(どうなっている……?)

 まさか、魂を保つため、妹に取り憑いたというのだろうか。

(そんなことをするような奴には見えなかったが……)

 驚きながらも、白君は、相手が一人になるのを待って、すっと目の前に姿を現した。

「おまえか……」

 青年の魂が入った少女は大して驚くこともなく、白君を見つめる。

「丁度いい。すまないが、少し手伝ってくれ」

「何をする?」

「帝にお会いする。おれがそうしなければ、賀茂家の方々に迷惑をかけるだろう」

「わが主達と、そうして、あの男童のためか」

「そうだ」

「分かった。とりあえず、そこまで来ているわが主に、その旨伝えてくる」

 告げて、白君は屋根を通り抜け、大内裏上空のすぐ外で鷹を飛ばして待つ保憲の許へ戻った。

「あいつは?」

 主の短い問いに、白君は状況を説明した。

「そうか」

 保憲は、円を描いて滑空する鷹の背で、暫し考える顔をする。

「なら、あいつが言う通りにしてやれ。一つの体に二つの魂というのは、長くは持たない。急ぐ必要がある。幸い、おまえは今上と既に対面済みだ。少々のことは、今上もお許し下さるだろう。そして最後に――」

 密やかに伝えられた指示に、白君は黙って頷くと、ふわりと飛んで、再び神祇官西院の斎部殿へ入った。

「おまえが言う通りにしてやれ、と」

 白君の言葉に、青年は少女の顔で微笑み、斎部殿の廂から簀子を出て階を降りた。雨の中、裸足のまま、西の築垣に沿って八社並んだ八神殿の前を突っ切り、西院の正庁と外記舎の間を通り抜けて、北門を目指す。その後をふわふわと飛んでついて行く白君の目の端に、追いかけてくる男が見えた。御巫一人につき一人付けられている廬守だ。

「待て、あく! どこへ行く!」

 叫ぶ男に構わず、少女に入った青年は、神祇官西院の北門である八足門へと、ややぬかるんだ地面を走っていく。しかし門は閉まっている。幸い、見張りなどはいない。

「閂を」

 青年が足を止めずに短く指示したので、白君はふわりと先行して、閂を外し、門を開けた。

「門が勝手に……?」

 驚く廬守を尻目に、少女の細い足で青年は門を駆け抜け、左へ曲がって四辻へ出ると、今度は右へ曲がって、大炊寮(おおいりょう)宮内省(くないしょう)の間の路を北へ走った。白君はまたその後を飛んでついて行く。廬守も、御巫を放ってはおけないのだろう、追いかけ続けてくる。少女よりは、廬守の足のほうが速い。

「このままでは追いつかれるぞ」

 白君の忠告が聞こえているのかいないのか、青年は少女の全力で、次の四辻を真っ直ぐ走り抜け、右に大膳職、左に主水司(もいとりのつかさ)と醤院がある路を駆けていく。廬守はどんどんと迫り、辺りを行き来する官人や彼らに使われる人々が何事かと振り向く中、少女に手が届きそうになった。

「こかせ」

 またも短く青年が指示した。白君はふっと地面すれすれに降りて、冷たい手で廬守の足に触れた。

「ひっ」

 廬守は悲鳴を上げて、派手にこけた。それを振り向きもせず、少女に入った青年は走り続ける。次の広い四辻は左へ曲がり、西雅院(にしのがいん)を右に見ながら、醤院、西院(さいん)の北を駆け抜けて、ついに広い場へ出た。向こう側に、多くの衛士に守られた内裏が見える。

「ここからは、そう簡単に行かないぞ」

 白君は再度忠告したが、青年はやはり足を止めず、真っ直ぐ内裏を目指した。

 内裏の正面には、東から、春華門、建礼門、修明門がある。左右の春華門、修明門は、両扉の土門、中央の建礼門は両扉の部分だけで三間の幅がある檜皮葺の四足門で、どの門の前にも、それぞれ東西に檜皮葺の杖舎(じょうしゃ)がある。これらの門は宮垣に設けられた宮門なので、兵衛府の管轄であり、東の春華門は左兵衛府、西の修明門は右兵衛府、そして中央の建礼門は左右両方の兵衛府で守っている。各門の脇にも兵衛達が見えたが、計六つある杖舎の中にも、多くの兵衛達がいることだろう。また、それぞれの杖舎の前には炬屋(ひたきや)があり、衛士達が夜に向けて篝火を焚く用意をしているのも見えた。この守りを、青年は少女の体で、白君の助けだけを頼みに突っ切ろうとしているのだ。

(こいつにとっては二度目の突破だが、それにしても無茶だ)

 白君は思ったが、一つのことについて、忠告は一度すれば充分だ。後は言われたことをするしかない。

 既に、走る少女を不審に思った衛士や兵衛達が、こちらへ視線を向けている。ただ、こちらは御巫の装束を纏った女童一人なので、さほど警戒はされていないのが救いだ。

「おい、どうした」

 とうとう、衛士の一人に声をかけられた。

「わたくしは、倭国巫のあく。今すぐ帝にお会いしてお伝えしなければならないことがあるのです!」

 少女の声で鋭く告げて、青年は足を緩めず建礼門へ走る。何か拘りがあるのか、またも正門たる建礼門を破るつもりらしい。

「建礼門、承明門の開門を」

 指示されて、白君は再び先行し、建礼門、そしてその奥の閤門たる承明門を開けた。だが、それだけで通り抜けられるとは思えない。衛士も兵衛も近衛もいるのだ。門が勝手に開いたことに驚きながらも閉めようとする者、一直線に走ってくる御巫を止めようとする者、大勢がそれぞれに動く。その中を駆け抜けながら、少女の体に入った青年が、自ら噛んで傷つけた指で、その腕に血文字を書きつけるのを、白君は見た。

[不可触]

 血文字の効果は絶大だった。少女を捕まえようとしてその腕へ伸ばされた衛士や兵衛達の手が、ばちりばちりと弾かれる。

「こいつ、何者だ……!」

「倭国巫だと言っていたぞ……!」

「帝にお伝えすることがあるとか何とか――」

 混乱した衛士や兵衛達がお互いに叫び合う中、少女は白君が開けた建礼門、承明門を通り抜けた。だが、その先には、緊急事態を悟った近衛達が、大勢詰め掛けてきている。

「止まれ!」

「許可なくこの先へ入ること罷りならん!」

「話があるならそこでせよ!」

 隙間なく並んだ前列は弓に矢を番え、後列は野太刀(のだち)を構えている。

「式神、おれを抱えて、近衛達の上を飛び越せ」

 青年の言葉に、白君はその傍らへ寄りながら言った。

「飛び越すくらいはできるが、矢はそうそう避けられないぞ。その咒の効果、この女童の力では腕一本分だけで、体までは守れないだろう」

「分かっている。だが、予想外の動きをするものに矢を当てるのは至難の業だ。特に、人の大勢いるこんな場では、落ちる先のことも気にしなければならないからな」

 青年は、少女の白い手で白君に掴まりながら答えた。成るほど、この青年には弓の心得があるのだ。

 白君は少女の華奢な体を抱えて、ふわりと近衛達の頭上を飛び越えた。降り立った先は、紫宸殿の広々とした南庭の西寄り、右近(うこん)(ぢん)がある月華門(げっかもん)から少し離れた辺りだ。右近衛府(うこのえふ)に所属する近衛達が、そこにもまだばらばらといる。

「突っ切れ」

 青年は、白君に抱えられたまま命じると同時に、[不可触]と書いた少女の腕を近衛達に向けて突き出した。振り下ろされる野太刀ですら、その細腕に触れること叶わず、弾き飛ばされていく。矢は、やはり同士打ちを避けてか、飛んでこない。白君は月華門のすぐ前まで滑るように飛ぶと、少女を抱え直して、ふっとその上を飛び越え、校書殿の屋根に降りた。そのまま雨に濡れた檜皮葺の上を、身を低くして走り、校書殿の北に位置する清涼殿へ向かう。そこへ、風切り音を立てて、矢が何本も飛んできた。人込みから離れれば、矢に狙われるのは道理である。白君の姿は見鬼の力のない者達には見えていないが、腕に抱える御巫の少女の姿を隠すことはできない。

 白君は屋根の上を転がるようにして矢を避け、月華門とは反対側の地面へ、ばちゃりと降りた。清涼殿はすぐ目の前だ。けれど、そこにも無論、近衛達はいる。弓に矢を番えていた近衛達が、狙い澄まして射てくる。

「もう少しが遠い」

 愚痴を零しながら、白君は素早く少女を抱え込んで矢に背を向けた。直後、立て続けに衝撃があり、三本の矢が白君の背に突き立った。距離が近いので、胸のほうまで、体をほぼ貫通したものもある。近衛達の目には、さぞや奇妙に映ったことだろう。白君は、少女を抱えるために実体化はしていても、見鬼の力がある者以外には姿は見えないようにしている。三本の矢は、倭国巫の少女に当たる寸前で、空中で止まっているようにしか見えないはずだ。

 案の定、背後で近衛達が騒ぎ始めた。

「だ、だから御巫に矢を射るなんて嫌だったんだ……!」

「罰が当たったら、どうするんだ!」

「も、申し訳ありません、御巫様、ど、どうか、お許しを……!」

 混乱している近衛達が見ている前で、白君は背中に片手を回し、一本ずつ矢を抜いた。近衛達の目には、空中で止まっていた矢が、一本ずつ地面に落ちたように見えただろう。

「おまえが何故、[不可視]ではなく、[不可触]にしたのか、漸く合点がいった」

 少女に入った青年にしか聞こえない声で、白君は呟く。

「わたしの力も使いながら、こうしてわざわざ突っ切ることで、その女童の倭国巫としての価値を高めているのだな」

「ああ。そうして、帝に託宣を告げる」

 少女の声で答えて、青年は清涼殿へ向かって歩き始めた。まだ、矢を射てくる者があるかもしれない。白君は、周囲を警戒しながらついて行く。

「――託宣として、一体何を告げるおつもりなのか、興味が湧きますな」

 不意に、しわがれた声がして、怨霊の重々しい気配が近くに現れた。

「菅原道真――」

 白君は瞬間的に少女の体を背後に庇った。白君の主たる夏虫を、一度は殺しかけた怨霊だ。

「わしはただ、見届けたいだけだ。こちらの御仁が、何を為そうとしておるかをな」

 布袴姿の怨霊は、少女をひたと見据えて言うと、芴を胸元に持って、まるで先導するかのように、清涼殿へと先に進んでいった。

 実際に、それは怨霊の力を使った先導だったのかもしれない。弓や野太刀を手にした近衛達は、雨の中、金縛りに合ったかのように動かず、ただただ恐怖に引きつった顔をして、倭国巫の少女が通り過ぎるのを目だけで追っていた。彼らの視線を一身に浴びながら、少女は神仙門から清涼殿の小庭に入る。そこから右青環門を通って南廊に上がり、落板敷の鳴板を鳴らして、孫廂へ進んだ。

「申の一刻だが、まだこちらにおられる」

 怨霊が、母屋の簾の向こうを見ながら言った。母后とともに夜を過ごす飛香舎には、まだ赴いていないのだ。ここに帝がいるのに、女官の一人も飛び出してこないとは、やはり菅原道真が金縛りでもしているのだろう。

 青年は、少女の体で簾を潜って、清涼殿の東廂へ――昼御座へ入った。白君はその後に続いて、簾をすり抜け、中へ入る。

 まだ夕暮れには間があるが、雨のせいで辺りは薄暗く、室内は一層暗い。その暗がりの奥の帳台の内に息を潜めている気配がある。今上だ。

「失礼仕ります」

 少女の声で静かに告げて、青年は帳台へ摺り足で歩み寄る。

「直に奏したき儀あり、倭国巫の体を借りて、参上致しました」

 琴の音のように響く言葉に、帳台の中の気配が縮こまった。構わず、青年は少女が纏う浄衣の袖をふわりと広げて帳台の前に跪いて語る。

「わが名は、小野良真。かの小野篁を父に持つ者にして、既に人ならぬ身です。こたびの百鬼夜行は、全てわれに拠るもの。われが、御上の徳を測るため、引き起こしたことにございます」

「わたしの、徳を測る……?」

 意外にしっかりとした声が返ってきた。そう、この十一歳の少年は、天皇という、その役割を担う覚悟を持っているのだ。

「心配するな」

 白君は帳台の(とばり)をすり抜けて、今上――寛明の傍らへ姿を現した。

「そなたは、保憲の式神――」

「白君だ」

 再度名を告げて、白君は、この国の頂点に立つ少年の傍らへ座り、告げる。

「どうか、この者の話を聞いてやってほしい。国を統べる天皇として」

「分かった」

 寛明は小さく頷いて、帳の外の倭国巫を見据えた。浄衣を纏った少女は、厳かに語り始めた。

「この国は、今まさに、乱れんとしております。東と西、それぞれに火種があり、いつ煙を噴出すか分かりません。それらの火種の原因は、全て、この朝廷にあります。われが率いた鬼達も、それらの火種に縁のあるモノばかりです。それゆえ、昨夜申し上げました。『帝よ、あなたが帝だというのなら、今夜のことについて、恐れるだけでなく、考えなければならない』と」

「あれは、そなたか」

 寛明は、漸く納得が行ったように、倭国巫を見つめ直した。

「はい。異形のモノ達を用いて騒ぎを起こし、御上の徳を測らせて頂きました」

「それで、結果はどうだったのだ?」

 まだ幼い声に恐怖ではなく威厳を滲ませて、寛明は問うた。

「まだ足らぬ、ただ、期待はできる、と」

 少女の声で簡潔に答えて顔を上げ、青年は寛明を見つめ返す。

「だからこそ、今日、このようにして参った次第です」

「助言をしに、か」

「この世の者であれば、不敬でもありましょうが、この世を去った者の言葉ゆえ、どうぞお聞き届けを」

「述べよ」

「蔵人所陰陽師とでも言うべき官を作って、お傍にお置き下さい」

「蔵人所陰陽師……?」

 意外そうに寛明が呟く傍らで、白君も眉をひそめた。

(寛明の徳と、一体何の関係がある……?)

「順を追って説明しましょう」

 倭国巫の体を借りた青年は、柔らかな口調で語り始める。

「覚えておいて頂きたいことは、政も、人の心も、言葉一つで動くということです」

 かつて、小野篁が栄枯盛衰を味わったのも、言葉の力に拠るものだった。生霊となり、その傍らにあって、小野良真だった自分はつぶさに見ていた。詩の才に代表される篁の言葉の力が、如何に政治や人心に影響したか。窮地に陥った時、切り抜けるために良真が篁に伝えた読み解きの言葉が、如何に力を発揮したか。鬼に慈しまれる性などより余ほど、言葉の力が彼ら父子を助けたのだ。

「篁が隠岐島に配流された際、京に戻ってこられたのも、唐からの客人に宛てて篁が作った詩が、仁明天皇の心を動かしたからでした」

「それは、話に聞いたことがある」

「そうですか……。これから先も、そういった言葉に、御上が煩わされることもあれば、御上御自身のお言葉が、世を大きく動かすこともありましょう。その際、お傍近くに御相談なさり易い陰陽師がいれば、言葉に惑われることは少なくなり、御上御自身のお言葉も、世によりよい影響を与えましょう。何故ならば、今の世で最も言葉の力を知り、その力を操ることに長けている者達こそ、陰陽師だからでございます。どうか、御一考頂きますよう伏して願い奉ります」

「……それだけで、よいのか」

 拍子抜けしたような寛明に、倭国巫の体を借りた青年は、ふっと微笑んだ。

「われはかつて、父であった小野篁の傍に生霊として控え、手助けをしておりました。その経験からも、これは決して小さなことではないと申し上げておきましょう」

「小野良真か……。その名、覚えておこう」

「いえ、覚えておかれるような名ではございません。どうかお忘れ下さい。既に過ぎた世の亡霊でございますれば」

 そこまで言うと、急にがくりと俯いて、倭国巫は呟いた。

「わが二生の妹よ、ここまでだ。魂と魄の繋がりが切れる。もうおまえの力を以ってしても、この世に留まっていることはできない。これ以上無理をすれば、おれは亡霊か怨霊となってしまうだろう」

 倭国巫の伏せた両目から、涙が溢れた。それは、最早、青年のものではない涙だ。

 さらばだ、ありがとう。

 白君の耳には、妹へ囁く青年の声が聞こえた。直後、倭国巫は空を仰いだ。

「兄様……!」

 白君は、その瞬間、清涼殿の屋根を通り抜け、大内裏近くの空で、魔物の鷹を滑空させて待機している保憲の許へ飛んだ。

「雁の魂が妹から抜けた」

 白君の報告に、保憲は鷹の嘴を賀茂川へ向けた。

「小丸と合流する」


          六


 まんまとしてやられたのだ。

 降り頻る雨の中、賀茂川の川原に停めた空車の上、蜘蛛の怨霊達が漸く見つけた咒を読んで、弓削義貞は顔を歪めた。青年の口に手を突っ込み、僅かに引っ張り出せた舌の裏に書かれていた文字は[不可視魂]。

――「あなたがおれを殺した時点で、おれの咒が発動して、あなたを殺す。それで終わりだ」

 そう告げた青年の言葉は、はったりだった。青年が仕掛けていた咒は、義貞を殺すものではなく、見鬼の力を持つ者であっても青年の魂を見えなくさせるものだったのだ。義貞の用心深さまで、青年は見抜いていたのである。

(見えなくした魂を飛ばして、どこぞへ赴き、わしが気づかん内に何かしたという訳か……!)

 そう考えると、腸が煮え繰り返るような思いがする。義貞は、青年の舌を離し、己の懐に手を入れた。

(よいわ、とにかく、そなたはここで終わりよ!)

 取り出した小刀を鞘から抜き、青年の首へ突き立てる――直前、義貞は激しく突き飛ばされて、空車から落ちた。

「何奴」

 身軽に起き上がり、小刀を構えた義貞の目に映ったのは、空車の上に立つ、布衣を纏い、腰刀を佩き、髪を後ろで一つに束ねた少年だった。

「おまえは――」

 見覚えがある。賀茂保憲にいつもくっ付いて回っている、賀茂家の家人とかいう男童だ。

「何の真似だ」

 少年がどこまで知っているのか探るため、義貞は険しい声音で問うた。

「こいつは殺させない」

 雨音と川の水音の中、短く、素っ気無く、少年は答えた。

「保憲から何を言われた?」

 義貞が問いを重ねると、少年は眉間に皺を寄せ、眼差しを鋭くして言った。

「おれは保憲のために力を使う。今はこいつを助けることが保憲の望みだ」

「そうか」

 話し合いに応じる性格ではないようだ。義貞は間髪入れず両袖を振った。右袖からは大蛇の怨霊、左袖からは大百足の怨霊が現れる。同時に襲いかかる二体の怨霊を異常な跳躍力で跳び越え、少年は賀茂川へさぶんと飛び込んで、腰の辺りまで浸かった。

(愚か)

 義貞は賀茂家の家人のあまりの手応えのなさに、顔をしかめる。少年は退路を過った。水の中へ入れば、己の動きが鈍くなるだけで、怨霊達には何の影響もない。後は、怨霊達が少年にとり憑き、取り殺して終わりだ。

 すぐに二体の怨霊が少年を追って背後から襲いかかる。その二体の頭が、すぱっと一度に飛んだ。

 驚愕に見開いた義貞の両眼に映ったのは、水を散らして振るわれた腰刀。

「賀茂川の水か……!」

 すぐに察して、義貞は苦虫を噛み潰した顔になった。清めに使う賀茂川の水を滴らせた刀ならば、普通の刀であっても、怨霊が斬れるのだ。

「おのれ……! だが、終わりではないぞ」

 蠱毒で作った怨霊は、怨念の塊だ。そう易々と消えたり散ったりしない。瞬く間に頭を再生させ、大蛇と大百足の怨霊は、少年へと向かう。その二体の長い体を、少年は素早い身のこなしで、何度も輪切りにした。けれど、怨霊達は再生を繰り返す。

「どこまで粘れるか、見ものよな」

 義貞は、片頬に笑みを浮かべると、空車の上の青年に視線を転じた。既に虫の息だ。放っておいてもいいかもしれないが、万が一があっては困る。不可視となった青年の魂が何をしたかは分からないが、陰陽師の自分なら、取り繕えるようなことだろう。それよりも、このまま日没を迎えて、この青年が再び鬼達を従える可能性のほうが厄介だ。

「そなたは、人質を取り戻しに来るべきではなかった。内裏で、われらに破れ、屍を晒せばよかったのだ。そうすれば、童の記憶などどうとでもなるゆえ、あの蓑虫という童、わしが育ててやらんこともなかったというに」

 蓑虫の見鬼の力は惜しい。だが、だからこそ、賀茂家のものとなるのは阻止しなければならない。神祇官よりも陰陽寮が優ることを知らしめ、そして、賀茂家よりも弓削家が勝ることを見せつけていかなければ、朝廷では生き残れないのだ。

「そなたの屍は、賀茂邸に戻してやろう。そなたは、賀茂忠行の命で内裏を襲い、用済みとなって殺されたのだ。全ては賀茂忠行が己の名声を上げるため、自作自演したことだった。わしがそのように、きちんと御上に奏し奉ろう」

 青年へ囁いて、再び小刀を構えた義貞の耳に、不意に、その場の誰のものでもない、しわがれた声が聞こえた。

「――世に、罪は、ある」

 直後、川だというのに、雨を靡かせて生温かい風が吹いた。

「何――」

 義貞は、驚愕して目を上げ、空車の向こう、川岸に立つその姿を見た。雨に透ける布袴姿の、重々しい存在感の怨霊。義貞の官位では、内裏に入れることも希なので、内裏で時折見られるという、その姿を、こうもはっきりと目にするのは初めてだった。

「あなた様は……」

 同じ怪異であっても、出羽郡の郡司に過ぎなかった小野良真と、従二位の右大臣であった菅原道真では、擁く敬意が違う。跪きそうになって義貞は堪え、問うた。

「何ゆえ、このようなところまで……?」

「自らが這い登り、のし上がり、より高みを目指すことと、卑怯な手段によって他を陥れ、引き摺り下ろし、蹴落として自らの保身を図ることとは、全く別のこと。後者は、罪。罪を犯すならば、たちどころに、雷がその身を滅ぼすであろう」

 義貞は、返す言葉もなく、身じろぎもできずに、歩み寄ってくる布袴姿の怨霊を凝視した。義貞と向かい合うように、空車の傍らまで来た怨霊は、横たわる青年を見下ろすと、手にした芴で、つとその額に触れた。

「いとおしい者達を遺して急ぎ逝かれることもありますまい。もう少し、足掻きなされ。あなた様の頭痛は、瘡なぞではありませぬよ」

 語りかけて、菅原道真は二体の蠱毒の怨霊と戦う少年へ視線を転じる。

「そなた、『天地を結ぶ宇宙軸』なのであろう。そのような下等なモノども相手に、何をしておるか」

 身軽に大蛇と大百足の牙を避け続け、斬りつけ続ける少年は、目だけで道真のほうを見た。道真は、言葉を続ける。

「保憲からは、何と言われておる」

 まるで、先ほどの義貞の問いを繰り返したかのような問いだったが、少年にとっては、全く別の問いだったらしい。はっと気づいた顔をした少年は、急に腰刀を構え直して、二体の怨霊の攻撃を避けながら唱え始めた。

「仰いで以って天文を観、俯して以って地理を察す、このゆえに幽明の故を知る。始めを原ね終わりに反る、ゆえに死生の説を知る。精気は物を為し、遊魂は変を為す、このゆえに鬼神の情状を知る――」

 上を仰いでは天文を観察し、下を俯いては地理を観察するがゆえに、幽遠な道理も著明な現象も合わせて知り得る。事物の本源を(たず)ね極め、終極にまで立ち(かえ)って死する所以を知るがゆえに、生死の問題についての説明を知り得る。陰陽の精気は結合して事物を形成し、その精気が分散して生ずる遊魂は種々(くさぐさ)の変化となる。ゆえに、陰陽の理を窮めれば、鬼神の情状をも知り得る――。

 義貞もよく知る、周易の中の、繋辞上伝という篇の一節の一部だ。

「天地と相似たり、ゆえに違わず。知万物に周くして道天下を済う、ゆえに過たず。旁く行きて流れず、天を楽しみ命を知る、ゆえに憂えず。土に安んじ仁に敦し、ゆえに能く愛す――」

 天地の道と相似するがゆえに、これと(たが)うことがない。その知力が万物に(あまね)く行き渡りその道が天下を(すく)うに足るがゆえに、過ちを犯すことはなく、広く自由に行動するが放恣(ほうし)に流れず、天道を楽しみ天命を知るがゆえに、心に憂いを擁くこともなく、その居処に安んじ仁徳に厚いがゆえに、よく人を愛することができる――。

 易を拠りどころとする聖人について語られているくだりだが、幼少の頃から親しみ、よく知っているだけに、義貞には耳の痛い内容だった。少年は、唱えながら、ただ、二体の蠱毒の怨霊から逃げ続けるだけだが、何故か、見る見る内に大蛇も大百足も小さく弱々しくなっていく。

「……そうか――」

 義貞は悟った。蠱毒で作り上げた怨霊といえど、義貞が使っているモノ達だ。義貞の心が怯めば、式神として使われているモノ達も弱くなるのである。少年は、頃合いを見逃さなかった。

「われはこれ天地を結ぶ宇宙軸なり、執り持つところの刀剣は、不祥を滅せしむ、この刀はわれ観想し集約せし小宇宙なり、この刀一たび下さば、何の鬼か走らざらん、何の病か癒えざらん、千の殃万の邪、皆隠れ滅び消ゆ、われ今刀下す、急ぎ急ぎ律令の如くせよ!」

 一際高らかに唱えると、腰刀を一閃させて二体の怨霊を斬り、消滅させて反転、一跳びで義貞から一歩のところへ来た。腰刀は今にも振り抜かれようと脇に低く構えられている。

(ここまでか)

 観念した義貞の心に浮かんだのは、息子の時人だった。現実に向き合わず、碁に逃げる不出来な息子と呼び、散々に罵ってきた。だがそれも、その見鬼の力に、期待すればこそだった。古い碁盤に宿っていた魍魎を虜にし、式神として使いこなす、木石や物具に慕われる性。研ぎ澄まされた観察眼と判断力。もう少し欲を持てば、陰陽師という枠を越えて大成するだろうと、歯痒くて仕方なかった性格。けれど、だからこそ、時人は、このようなことにはならず、陰陽師として堅実に身を立てていくだろう――。

「小丸、そこまでだ!」

 上空から鋭い声が降ってきて、義貞の胴を斬ろうとした少年の動きが止まった。続いて、上空を低く飛んだ魔物の鷹の背から、声の主――保憲が飛び降りてきた。魔物の鷹に姿を消させ、家人の少年のすぐ隣に降り立った保憲は、義貞と菅原道真の怨霊へも目を遣って、告げた。

「百鬼夜行を内裏に誘った罪で、そちらの若人を捕縛します。宜しいですね?」

(この若人の口を封じねば、わが罪が露見する)

 義貞は、一瞬抵抗しそうになったが、小丸というらしい少年と目が合い、思い留まった。少年は動きを止めただけで、まだ腰刀を脇に構えたままだ。

「では――」

 すいと動いた保憲は、道真が青年の額に押し付けたままの芴に右手で触れた。

「芴のそもそもの音は『こつ』。『こつ』は骨に通じる。ゆえに、留まり易かったのですね。更には、他者の魂をこの世に留め、亡霊にさせてしまうあなたのお力もあった。感謝致します」

 保憲は道真に向かって述べると、左手を家人の少年へ差し出した。

「小丸、おまえの数珠を貸してくれ」

「あ、ああ」

 少年は隙なく右手で腰刀を構えたまま、左手を左袖の中に引っ込め、器用に少し探ってから、すっと差し出した。その手に光っているのは、水晶の数珠だ。

 受け取った保憲は、雨に濡れる水晶の数珠を青年の傷ついた左手に巻きつけると、言った。

「時がないからこの場でする。小丸、おれの体を頼んだ」

「おいっ」

 驚く少年の目の前で、保憲は右手を道真の芴に触れさせたまま跪き、水晶の数珠を巻いた青年の左手に額を押し当てた。そして――保憲の気配が、薄くなった。同時に力を失ったかに見える保憲の体を、家人の少年は腰刀を右手に握ったまま慌てて支える。その様子を眺めて、菅原道真が笑った。

「やはり、そなたの眼中にはその陰陽得業生しかおらぬか。しかし、以前は半ば獣のようであったが、相当、人心の機微が分かるようになったではないか」

「全部、保憲のお陰だ」

 ぶっきらぼうに言うと、少年は義貞への警戒は怠らないまま、道真へ問うた。

「おれにはよく分からなかったが、あんたが、この雁とかいう奴の魂を助けたのか?」

「もう暫くは、この世に留まり願いたい方ゆえな。これも、妄執というものかもしれぬが。わしも、妄執ゆえ異形となり果て、生きておるものを喰らう鬼にはならぬよう、気を付けねばな」

「そうなれば、今度こそあの世へ送る」

「それは、まだまだ先のことになりそうだ」

 軽口を交えて会話する怨霊と少年を、義貞は驚愕を持って見つめた。

(何なのだ、この家人は)

 全く、訳が分からない。

(賀茂家に喧嘩を売るのは、もう少し調べてからにすべきだったな……)

 自然と、自嘲の笑みが漏れる。

(時人には誄が及ばぬよう、それだけは、何とかせねば……)

 義貞は、どさりと、その場に座り込んだ。


            ◇


  あはれてふことこそうたて世の中を思ひはなれぬほだしなりけれ

  〔しみじみと心が動かされることこそ、困ったことに、世の中に見切りをつける思いになれない束縛――絆なのですね〕


 聞き覚えのある声で歌われた聞き覚えのある歌に、三途の川の前で佇んでいた雁は振り向いた。

「おまえは――」

 賀茂保憲とは、そこだけ明らかに異なる艶やかな黒髪をさらりと揺らし、衵姿の少女は、整った顔に勝気な笑みを浮かべる。

「お父様、このようなところにいらしては、目が覚めなくなってしまいます。昔のように、一発、引っ叩いて差し上げましょうか?」

「そうだな」

 雁も釣られて笑う。

「おまえに連れ戻されるのは、悪くない」

 この異母妹に、義父として接し始めた頃は、いろいろと失敗をして、小さな手でよく引っ叩かれたものだ。くっきりとした両眼に大粒の涙を溜めた幼い妹の主張は、いつも根っこの部分で正しかった。

「ただ、目覚める前に一つ訊きたい。貴君、いや、小町(こまち)、おまえ、思い出したのか?」

「いいえ」

 少女は首を横に振って少し寂しげな顔になる。

「思い出したのは、ここだけの偶然です。多分、このわたしのほうが、お父様を連れ戻し易いと、無意識に感じたのでしょう、今のわたしが。目覚めれば、また元通りです」

「そうか」

 頷いて、雁は――良真は、少し屈んで少女と目の高さを合わせ、形のいいその頭を前生と同じようにそっと撫ぜた。

「それでも、おまえとまた会えて、嬉しい」

「わたしもです、良真お父様」

 少女はくすぐったそうに笑うと、右手を横に構え、左手を伸ばして良真の左手を掴んだ。瞬間、冷たい感触があり、じゃらりと音が聞こえて、良真が左手を見下ろすと、きらきらと光る水晶の数珠が、二人の左手を繋ぐように掛かっていた。

「わたしも、きちんと戻らなければなりませんから」

 澄まして言う少女の言葉に重なり、急に、ごぼごぼという川の水音が大きく聞こえ始める。その水音は傍らを流れる三途の川の音なのか、それとも――。

「では、また今生で」

 きりりとした笑顔で告げ、愛らしい少女は容赦なく右手を振り抜いた。


          七


 内裏の財宝目当てに百鬼夜行を率いた男は、陰陽寮の陰陽師達の守りを掻い潜って飛香舎近くまで入り込んだが、追いついた陰陽得業生に阻まれて逃げ、鞍馬山の山中で、群盗に襲われて深手を負い、京の都近くまで逃げ戻ってきたが、賀茂川で力尽きていたのを、弓削義貞の式神によって発見された。男の傷は深く、取り調べの途中に死んでしまったが、飛香舎で実際に男と戦った陰陽得業生や、鞍馬山まで男を追捕した小野好古達の証言で、間違いないということになった。事件から二日経った五月九日の朝、陰陽寮の面々にも、陰陽頭葛木宗公からそのように話があった。どこの省、寮、府、(つかさ)(ところ)にも、同じように話があっただろう。

 集められて話を聞いた陰陽寮の南舎から、いつも写本をしている西北舎に戻るとすぐ、名嗣が口を開いた。

「財宝目当てに、百鬼夜行を率いて真正面から大内裏に入るか、普通?」

 陰陽生と陰陽得業生だけになると、彼は、相変わらず思ったままを口にする。

「鬼に慈しまれる性なら、他に何とでもやりようがあるし、他に何でもできることがあるだろ? 何かこう、円く収まり過ぎてる気もするし、すっきりしないぜ」

 全く、その通りだ。写本をするため、硯を用意し、水を注しながら、保憲は心の中で頷いた。名嗣は正しい。だが、真相に辿り着かれる訳にはいかない。保憲は墨を磨りながら、口を挟んだ。

「もしかしたら、人でありながら、半ば以上、鬼と化していたのかもしれないですね。既に、正気でなかったのかもしれません」

「いや」

 すぐに名嗣は反論してくる。

「少なくとも、おれと時人が最初に迎え撃った時には、正気にしか見えなかったぜ? なあ、時人」

 同意を求められて、黙々と墨を磨っていた時人は、こちらも相変わらずゆっくり答えた。

「確かに、正気には見えた……。だが、したことは、正気の沙汰ではないよ……」

 物憂げに伏せ気味の眼差しは、硯の上に落とされているが、頭の中ではいろいろと考えているように見えた。

「まあなあ……」

 名嗣は、時人の意見に、顎に手を当てて考え込む。今日は、完全に写本作りが疎かになっている。そうこうしている内に、墨がある程度磨れたので、保憲は写本をする巻を取りに、納殿へ向かった。続きは周易の「未済(びせい)」からだ。

(そう言えば、事件の前にここで見た夢が、現になったんだったな)

 納殿の妻戸を開け、中に入ると、心地良い暗がりが広がっている。妻戸を閉め、保憲は「未済」が載った巻を手にしたまま、書棚の間に腰を下ろした。あの日もそうだったが、ここのところ、ずっと眠くてだるい。いつも仕事で疲れてはいるが、最近はいつも以上に眠いのだ。

(五月で、蒸し暑いせいかもしれないが……)

 目を閉じるだけで、すうっと眠りに落ちそうになる。

(このままじゃ、写本作りでも失敗しそうだ)

 よい紙は貴重品である。紙を削るなどして、多少は直せるとはいえ、そうそう書き間違ったり汚い字を書いたりする訳にはいかない。

(やはり、ここで少し仮眠していこう……)

 木の床に横になり、保憲は目を閉じた。

 どのくらい経ったのか、妻戸が開く音で、保憲ははっと目を開けた。

「大丈夫か……?」

 声がして、入り口を見ると、いつかと同じように時人が立っていた。

「すみません、また、うたた寝してしまって……」

 起き上がった保憲は、違和感を覚えた。下袴や指貫が濡れている。蒸し暑いところで寝たせいで、汗を掻き過ぎたのだろうか。

「保憲、すぐ賀茂邸へ帰れ。後はわたしが身代わりになる」

 急に白君が実体化して小声で言った。その声が緊迫している。何か起こったのか――。

「おれが手を貸す。後始末は任せろ……」

 不意に、時人が言った。

「一体、何のことです?」

 立ち上がり、問うた保憲に、時人もまた、形のいい眉の辺りに緊張を滲ませて答えた。

「おれはおまえに借りができた。心配無用だ。他言は絶対にしないよ……」

 保憲も眉をひそめた。本当に、一体、何だというのだ。

「翅鳥、誰にも見られないように、保憲を賀茂邸まで連れて行ってくれ」

 命じられて、時人の袍の袖の辺りから、鵜と鷺の袿を纏った式神が現れた。美しい女の姿をした式神は、紅を引いた口に笑みを浮かべ、すっと近寄ってくると、細腕で軽々と、保憲を抱え上げた。保憲は慌てて時人を見た。

「時人殿?」

「とにかく帰れ……」

 いつになく厳しい口調の時人の横をすり抜け、翅鳥は有無を言わさない勢いで、さっさと納殿を出ると、真っ直ぐ空へ舞い上がってしまった。

(あるじ)の気持ちもお察し下さい」

 言いつけ通り、誰にも見られないよう、高く高く舞い上がってから賀茂邸へ飛び始めた翅鳥は、薄雲を突き抜けながら保憲に微笑みかけた。

「主は、全て御存知なのですわ」

 「全て御存知」とは聞き捨てならない。

「何をだ……?」

 警戒しながら尋ねた保憲に、翅鳥は柔らかな声で語った。

「わたくしの眷族――鵜が、あの夜、百鬼夜行の到来を報せに建礼門前に詰めていらした陰陽師様方の許へ行きましたが、役目を終えた後は、黒の碁石に戻り、主の父君、義貞様の袖の中にしまわれていたのですわ。けれど、その姿でも、わたくしの眷族はちゃんと見聞きできますの。それで、義貞様の行ないの一部始終を、袖を透かして見、聞いてしまったのですわ。わたくしは主に隠し事はしませんから、そのまま全てお伝えしました。ですから、主はあのように言ったのですわ」

「全て知った上で、他言はしない、と……?」

「ええ。あなた様に父君を助けて頂いたのですから、あなた様が、女子ということも含めて」

 今度こそ、保憲は絶句した。翅鳥は楽しげに言葉を続ける。

「そのことについては、主は、以前から薄々感づいていたのですわ。でもずっと黙っていました。今日のことがなければ、これから先もあなた様に告げずにいたでしょう」

「――今日のこと……?」

 掠れた声で保憲は確かめた。それだけが、まだ分からない。

「あら、やはりまだお気づきではいらっしゃらなかったのですね」

 妙に明るく翅鳥は言い、保憲の耳に赤い唇を寄せて囁いた。

「月のものですわ。大丈夫です、主が巧くするでしょう。どうぞ、御信用下さいな」


            ◇


 細く日が差し込む床に残った、こすれた血痕は、まるで、保憲の苦悩そのもののように見えた。身代わりの白君は、すっかり保憲と同じ姿になって納殿の暗がりに佇み、じっと時人を見詰めている。

「いつも大して助けてやれなくて、すまない……」

 詫びると、時人は、懐から小刀を出し、口を引き結んで、左の二の腕に浅く突き刺した。見る見る鮮血が皮膚の上に溢れ、床へ滴る。その赤い雫を、床に残った血痕の上へ注意深く落としながら、時人は小声で白君に説明した。

「納殿に入り込んでいた蛇に噛まれたから、毒蛇かどうかは分からないが、念のため毒抜きをしたということにしておく」

「血で血を洗う、か。何故、そこまでする」

 白君は、保憲と同じ声で、しかし保憲とは比べものにならない率直さで、呟くように疑問を口にした。

「さっきも言った通り、父上を助けて貰ったからだよ……」

 時人は保憲の血痕を全て覆うように己の血を垂らしながら、話す。

「保憲があの家人を止めてくれなければ、父上は殺されていただろうし、その後も、父上がしたこと、しようとしたことが露見すれば、おれにも誄が及ぶことはほぼ確実だった。それを、全て、なかったことにしてくれた。感謝して当然だろう……?」

「だが、こちらにも、鬼に慈しまれる性の男と、その連れの童を助けたいという思惑があったからしたことだ。そのことも、おまえは知っているはずだ」

「だから、ここまでして、おれが保憲を助けるのはおかしいと、そう言いたいのか……?」

「そうだ」

 生真面目な白君の言葉に、時人は苦笑した。

「保憲が女ということを、おれが知っていて黙っている。このことは、周囲にばれない限り、有利な取り引き材料――おれの強味となり続ける。そうも考えられるだろう……? だが」

 己の血で保憲の血痕を覆い尽くした時人は、床に座り、小刀を脇に置いて、傷口を強く手で圧迫して止血しながら、白君を見上げる。

「おれは、そんな損得勘定だけで動きたくない……。保憲は同輩だから、いい奴だから、助ける。それでは、駄目か……?」

 白君は少し両眼を見開いてから、溜め息をつくと、時人の傍らに跪いた。

「腕をこちらに」

 低い声で言った白君の手には、いつの間にか一片の白い練り絹がある。今度は時人が驚く番だった。

「それは、おまえの――」

「気にするな。また繕って貰えば済むことだ」

 白君はさらりと答えて、白い練り絹で時人の傷口を丁寧に縛った。

「――後は、この床を清めて終わりだな」

 時人が言った時、ふわりと、納殿の入り口に翅鳥が現れた。

「あら、妬ける光景ですわね」

 戻ってきた式神は、時人の左腕に巻かれた練り絹を見つけて悪戯っぽく笑うと、報告した。

「保憲様はきちんと送り届けて来ましたわ。それから、陰陽寮の方々相手に身代わりもきついでしょうから、賀茂邸から迎えを寄越して頂くよう、お願いもしましたわ。お姉様が倒れられたという文が届くはずです」

「何から何まで、ありがとうございます」

 礼を述べた白君に、翅鳥はすっと近寄って囁いた。

「わが主は、木石や物具に慕われる性。あなたも物具ですから、心奪われるのは仕方ないかもしれませんが、ほどほどにして下さいませね」

「わたしは夏虫――保憲の式神だ。そのような心配は必要ない」

 冷ややかに答えた白君に続き、時人も言った。

「下らないことを言っていないで、手伝ってくれ。この床を清める」

「分かりましたわ」

 艶然と頷くと、翅鳥は袿の鷺を一羽放ち、次いで自らも姿を消した。間もなくして、鷺は(ははき)を咥えて戻り、翅鳥は両手に細かい砂を盛って帰ってきた。翅鳥は鷺を袿に戻すと、その砂を血で汚れた床の上に撒き、血を吸った砂を、今度は箒で妻戸から外へ綺麗に掃き出した。

「暫くは足の裏にざらつきが残るでしょうけれど、仕方ありませんわね」

 翅鳥の言葉で、その場の作業は終わりとなった。

 そこへ、名嗣の声が聞こえた。

「おーい、保憲、邸から文が来たぞ! 何でも、この蒸し暑さでおまえの姉上が倒れたって、文遣いがそのまま待賢門で待ってるらしい」

「分かりました。では、すみませんが、すぐに帰ります」

 簀子へ出て、そこまで来ていた名嗣から、さっと文を受け取った白君は、そのまま陰陽寮の庭を突っ切り、南の寮門から出て、姿を消した。

「あれ……、もしかして、今の――」

 名嗣が、通り過ぎた保憲の正体に気づきかけて、戸惑ったように時人を見た。

「気にするな……」

 さらりと時人は答えて、翅鳥にも姿を消させると、小刀をそっと懐に戻し、納殿から外へ出た。暗がりに慣れていた目に、五月晴れの明るい空の青が染みる――。


            ◇


 白君が保憲の姿を装ったまま待賢門を出ると、小丸が待っていた。

「おまえは、夏虫に付いているものと思っていたが」

 意外な思いそのままに白君が言うと、少年は眉間に皺を寄せて答えた。

「おれが付いてても何もできない」

「成るほど」

 確かに、ひぐらしがいれば、事足りるだろう。何より、男童の小丸はその場に居づらかったのかもしれない。

「なら、わたしのことを頼む」

 人目に付かない築地の陰まで行くと、白君は天児に戻って小丸の手の中に納まった。天児の体の表面を覆う練り絹の大半を失った状態では、式神としての姿を、長くは保てないのだ――。


          八


 姉の指示に従って、汚れ物を脱ぎ、角盥に入れた水に浸した手巾(たなごい)で体を拭いて、新しい単衣に着替えると、人心地がついた。

「わたくしが普段しているのと同じで、暫くは物忌よ。ちゃんと大人しくしていなさいね」

 ひぐらしは、白君がいない分もてきぱきと動いて、西の対のあちこちに物忌の紙を貼って回り、汚れ物も保憲から取り上げて下屋へ持っていってしまった。賀茂邸の下人達も、保憲が女とは知らないので、その辺りで気軽に洗うこともできない事情を、考慮してくれたのだろう。

「すみません、姉上。釣殿のお方のせいで、ただでさえ忙しい思いをさせてる時に……」

 保憲が謝ると、下屋から戻ってきたひぐらしは、簾の向こうの南廂を歩きながら、微笑んで言った。

「気にしないで。必要とされるのは嬉しいことよ」

 そうして、自室に入ったひぐらしは、中の戸の向こうで、何やらまた作業を始めている。とりあえず莚を敷き、枕を置き、単衣姿のまま、衾を被って寝る態勢を整えた保憲は、暫くしてから問うた。

「……姉上、中の戸を少し開けておいても構いませんか」

「ええ、構わないけれど、どうしたの?」

「いえ……」

 言葉を濁しながら、保憲は寝転んだまま手を伸ばして、中の戸を少し開けた。そもそも莚を、いつもより中の戸の近くに敷いたのだ。姉は、糸のついた針を持ったまま、少し驚いた顔をして、こちらを見ていた。その膝の上には、見覚えのある衣がある。あの青年が着ていた水干だ。

「――釣殿のお方は、大丈夫そうですか」

 尋ねると、姉はふわりと笑った。

「ええ。傷はまだ塞がり切っていないけれど、容態は安定しているわ。何より、あのお方御自身が、生きようとし始めているもの、もう大丈夫よ」

「そうですか……」

 雁と名乗った青年は、生きている。ただ、陰陽寮へも、その上の中務省へも、死んだものとして報告したので、公にはされていない。賀茂家で、別人として住まわせて匿い、今は西の対の釣殿に寝かせている。

「蓑虫も、やっと安心したみたいで、今日の朝食から、きちんと食べるようになったわ」

 針を動かして、ぼろぼろになった水干を繕いながら、優しく話す姉を見ていると、それだけで保憲は落ち着いた。そんな保憲の状態を見て取ったのか、今度はひぐらしから、抑えた声で問うてきた。

「――月――は、――初めて――だったのよね……?」

 保憲は黙って頷いた。一言主が七年前に言い放った言葉の力が、そんなことにも影響していたのかもしれない。十七歳の今日まで、月のものはなく、それでいいと思っていたのだ。

「正直、困りました」

 本音を打ち明けると、ひぐらしは針を使う手を止めて、水干ごと脇へ置き、ずいっと中の戸ぎりぎりまで近寄ってきた。

「そんなことを言うものではないわ、と言いたいところだけれど」

 整った形の眉を寄せて、少し怒った顔をして見せてから、ひぐらしは手を伸ばして、そっと保憲の頭を撫ぜた。

(何年振りかな……)

 保憲は少し目を閉じて、冠も烏帽子も被っていない頭をさわさわと撫ぜる姉の柔らかな手を感じた。少なくとも、男子として生き始めてからは、姉がこんなふうに保憲の頭を撫ぜたことはなかった。

「あなたが困る気持ちもよく分かる」

 姉は、静かに話す。

「確かに、女子ということは、更に隠しにくくなるでしょうから。でも」

 姉は、泣きそうな顔で、保憲の目を覗き込む。

「お願いだから、あなたの体のことを厭わしく思わないで。これは、あなたの体が健やかという証でもあるのだから」

「――そうですね。分かりました」

 保憲は素直に答えた。姉の涙には勝てない。母の代わりを務めようと、いつも気負って保憲を見守ってきてくれた姉だ――。

「保憲、ひぐらし、いいか?」

 南廂から、簾越しに小丸が声をかけてきた。大内裏から戻ってきたのだ。

「大丈夫よ」

 ひぐらしの声に応じて、小丸が簾を潜って母屋に入ってきた。その手には、天児がある。しかも、練り絹を半分以上失って綿が飛び出し、形を成していない。

「何かあったのか?」

 保憲が衾を肩まで引き上げ、身を起こして問うと、小丸は近寄ってきて天児を手渡し、言った。

「特に何も言ってなかったし、何かあったような様子でもなかった。大内裏からは、おまえの姿になって、普通に出てきたしな」

 確かに、練り絹は失われていても、引き裂かれたような感じではない――。

 心配するな。時人に渡しただけだ。

 不意に手の中の天児から言葉が伝わってきて、保憲は驚くと同時に笑ってしまった。平静を装った白君の声音に、恥ずかしさが混じっている。いつも保憲一筋の白君が、恐らく助けてくれた礼とはいえ、珍しく他人のために自分の身を削ったのだ。時人はさすが、木石や物具に慕われる性、ということだろう。

(時人殿には、おれが女だと、とっくに知られてた訳か)

 知った上で黙っていて、気遣って、そして助けてくれるのは、如何にも時人らしい。

(どこかで、礼を言わないとな……)

 溜め息を漏らし、保憲は小丸を見上げた。

「どうやら、大丈夫らしい。後で繕うよ。どうせ、暫く物忌だしね。小丸、ありがとう」

 保憲の言葉に、小丸は小さく頷き、南東の妻戸からぎこちなく出ていった。今回の事態で保憲も困惑したが、小丸も同じくらい困惑しているらしい。それが分かって、妙におかしかった。


            ◇


 ずきり、ずきり、頭全体に響くように頭痛がする。せっかく助かった命なので、できれば長らえたいが、頭の中にできた瘡はどうにもできない。傍にいる蓑虫に心配をかけまいと、痛みに顔をしかめることさえ我慢する雁はふと、菅原道真の言葉を思い出した。

(そういえば……、彼が、妙なことを言っていたな……)

――「あなた様の頭痛は、瘡なぞではありませぬよ」

 確かに、そう、道真は告げた。瘡でないのなら、一体何だというのだろう。単なる頭痛でないことは、少しも治らないばかりか、ひどくなる一方なので、確かだ。

(ただの気休めを言うような人ではないと思うが……)

 ずきり、ずきり、更に響く頭痛に、危うく眉をひそめそうになって、雁は寝返りに見せかけ、蓑虫から顔を背けた。何事もなさそうに堪えるのも、そろそろ限界かもしれない――。


            ◇


「小丸、頼みがある」

 保憲が切り出したのは、夕食の時だった。ひぐらしが下人達に用意させた薯蕷粥を食べながらである。物忌中なので、精進物を食べなければならず、体も弱っているので、五臓を補うと言われる薯蕷粥は打ってつけなのだろう。

「おれがもう少し動けるようになったら、出羽国まで、同行してくれ」

出羽(いでわ)?」

 急に飛び出た遠い国の名に、差し向かいで食べていた小丸は目を見開いて、薯蕷粥を口に運ぶ(かい)を止めた。

「ああ」

 保憲は、何でもないことのように頷き、匙で掬った薯蕷粥を口に入れて飲み込んでから、話を続ける。

「雁の前生の小野良真の骸を探したい。おまえは、気配に敏いから、あいつと同じ気配を探して、骸を見つけてほしいんだ」

「骸を探して、どうするんだ」

「恐らく、その頭蓋骨に、何かが起きてる。あいつの頭痛は、そのせいだ。病という気配じゃないからね。あいつは陰陽道に詳しくないせいで、その辺りの感じが分からないようだけれど。とにかく、前生の頭蓋骨から痛みの元を取り去って、あいつに生きる気力を完全に戻させたい」

「何で、おまえがそこまでしてやる必要がある?」

 少しばかり眉をひそめて、小丸は問うた。保憲の、かの青年への執着は、ただの同情を超えているように思えた。

「何故……か」

 保憲も手を止めて、ふと考える顔をする。今まで、そのことについて、深く考えたことがなかったらしい。

「そうだな。多分、寛朝殿と同じ理由だ」

「寛朝?」

 あの気ままな少年僧と、何の関係があるのだろう。更に眉をひそめた小丸に、保憲はふわりと笑んで答えた。

「あいつは、この先きっと、おまえの助けになってくれる。力ある者として、どういう形にしろ、おまえが生きていく助けになってくれる、そんな気がするからだよ」

(おれは、別に助けなんかいらない)

 心に浮かんだ思いを、小丸は口には出さなかった。保憲は、頑固なのだ。一度決めてしまったことは、変えない――。


            ◇


 翌日の昼前、辰の時に、保憲は小丸を連れて庭へ出た。布衣を纏って烏帽子を被り、ひぐらしが用意した包を持って、仕度は完璧だ。

「行きは龍、帰りは雁。空の旅で往復するつもりだ。出羽国での滞在時間は二時(ふたとき)。その間に、雁の前生の骸を探してくれ」

「分かった」

 小丸は頷いて、保憲の後に続き、現れた魔物の龍の背へ上がった。

 曇り空へと、龍は一気に登り、厚く低い雲のすぐ下まで舞い上がった。

「いつもつき合わせて悪いな」

 前に座った保憲が、肩越しにぽつりと詫びた。保憲の体調を心配しながらも、二人旅に胸躍らせていた小丸は、しどろもどろに告げた。

「そんなこと、ない。おれは、おまえを守るために、いるんだ」

「……ありがとう」

 保憲は笑って、龍の頭を東北へ向け、飛翔させ始めた。

 国の境など小丸には分からないので、大きな大きな湖を飛び越えて、これが近江国(おうみのくに)かと思った以外は、ただ、山野が眼下を過ぎ行くのを眺めるだけだった。たまに雲間から、陽光が太い柱のように地上に降り注いでいるのが、ひどく神々しく見えた。雨が降っている場所もあったが、そういったところでは、保憲は厚い雲の上へ龍を舞い上がらせて凌いだ。雲海の上は、下界より肌寒かったが、雨がなく、陽光に満ちていた。

「――易は天地と準う。ゆえに能く天地の道を弥綸す……」

 何となく呟いた小丸を、保憲が微笑んで振り返った。

「おまえは、凄いよ」

 慈愛に満ちた双眸が、小丸を見つめる。

「もう完全に、その言葉を、自分のものにしてる」

「……おまえのお陰だ」

 答えた小丸に、保憲は笑みを深くすると、前を向き、風に向かって唱えた。

「一陰一陽これを道と()う。これを継ぐものは善なり。これを成すものは性なり。仁者はこれを見てこれを仁と謂い、知者はこれを見てこれを知と謂い、百姓は日に用いて知らず」

 或いは陰となり或いは陽となって無窮の変化を繰り返す働き、これが道と呼ばれる。その道の働きを受け継ぐ人間的努力が善であり、その善が人間において完成され成就されるものが性である。しかし道の働きは広大無限なるがゆえに人は容易にその全体を察知することができず、仁者はこれを見て仁と呼び、知者はこれを見て知と呼び、一般の人々は日々にその道を用いながらもそれと知らずにいる。

 「易は天地と準う」のくだりと同じ、周易の繋辞上伝という篇の一節の一部だ。

「おまえは、おれが教えたものを、きちんと知ることができる。それは、おまえの努力の(たまもの)だよ」

 付け加えられた保憲の言葉に、小丸は俯いた。頬や耳が火照る。保憲から誉められたことが、心に温かく、どうしようもなく、嬉しかった。

 やがて日がかなり高く昇った頃、保憲が言った。

「出羽国の出羽郡は、この辺りのはずだ。小丸、あいつと同じ気配を探してくれ」

「分かった」

 小丸は頷いて、眼下の大地を見つめ、神経を研ぎ澄ませた。

 左手の彼方には淡く海が見える。右手の深い山々から幾筋もの川が伸びて野を蛇行し、その海へと至っている。野には幾つかの集落が見え、中には、館と言える大きな建物もある。

「小野良真殿の墓所がどこかは、分からない。恐らくは風葬だから、本人も知らないだろう。だが、風葬だからこそ、生前住んでいたところから、そう遠くないところに骸があるはずだ」

 保憲が同じように眼下を見つめながら推測を述べた。

(風葬なら、川原か山か)

 都の風習と同じように考えた小丸は、幾筋も流れる川や、その源の山へ目を向ける。

(あいつと、同じ気配――)

 探る内、ふと、とある山中から、探す気配を微かに感じた。

「あっちだ」

 小丸が指差したほうへ、保憲が龍を向かわせる。山裾の深い森の中から、静かな気配は小丸を呼んでいた。

「風葬じゃ、なかったみたいだな……」

 苔生した大きな石を見て、龍から降りた保憲が呟いた。日の光も禄に射さない木々の根元で、半ば土と落ち葉に埋もれている、幾つかの巨石を組み合わせて造られたそれは、石室だった。

「注連縄がある」

 腐った縄のなれの果てを小丸が示すと、保憲は微苦笑した。

「成るほど、鬼に慈しまれる性が、恐れられた訳か。祟ったり迷ったりするような人じゃないのにね」

 妙に分かったふうに言いながら、保憲は石室の周りを回る。中へ入るための隙間を探しているのだ。すぐに小丸も保憲に倣って隙間を探した。だが、そうそう大きな隙間は開いていない。

「石を動かさなきゃ駄目か」

 保憲が溜め息をついた。

「そうだな」

 小丸は最も小さく見える石に両手をかけた。半ば土と落ち葉に埋もれている巨石を、隣の巨石から離すように、力一杯押す。が、思った通り、そう簡単には動かない。

「そろそろ巳の時だ。魔物の百足か蛇でも出すか?」

 保憲に問われて、小丸は首を横に振った。

「力の入れ方を少し工夫してみる」

 できる気がするのだ。高く跳躍する時と同じように、体の力の入れ方――息の吐き方吸い方――体の中と外を巡る気の操り方を、感覚を研ぎ澄まして工夫する。

「やっ」

 気合いとともに、巨石は動き、黒々とした穴が口を開けた。

「さすがだな」

 呟いて、保憲が持っていた包から火打石を取り出し、同じく取り出した乾いた苔に火を点けた。そこから枯れ葉、小枝と、順に包から取り出したものに火を移して大きくした保憲は、最後に小さな松明(まつ)を包から取り出して火を移した。

「さて、入るか」

 先に立って穴に入ろうとする保憲に、慌てて先んじて小丸は中へ入る。暗がりでも見える小丸の目は、すぐに石室の天井から垂れ下がる細い木の根を認めた。石室を覆う土に幼木が根を張っているのだ。そして、幾らも歩かない内に、目の前に石棺が現れた。急に入ってきた松明の灯りに驚いたように、小さな虫達があちこち這い回る湿った空間で、小丸と保憲は石棺を見下ろした。石棺の蓋には皹が入り、天井から伸びてきた根が、そこから中へ入り込んでいる。

「これだな」

 保憲が確信を持って言い、小丸は重い石の蓋に手をかけて、先ほどと同じ要領で動かし、横へずらした。できた隙間へ、保憲が松明を近づける。中を覗き込んだ小丸は、すぐ下に、雁と同じ気配を強く発するものを見た。確かに、木の根はそこまで伸びている。

「そっと抜けるか? それとも、おれがしたほうがいいか?」

 保憲が小丸の横顔を窺う。

「巧くしないと、あいつに激痛を味わわせることになる」

「大丈夫だ」

(痛いのくらい、我慢しろ)

 口と心で答えて、小丸は形のいい頭蓋骨に入り込んだ木の根を、ずずっと引きずり出した。


          九


 瞼の裏がちかちかするような急な激痛に、雁は体を強張らせ、そしてゆっくりと息を吐いた。激痛は一呼吸で過ぎ去り、後には痛みの残滓すらない。すっきりと、頭痛が治ってしまった。

「兄さん? どうかした?」

 心配そうに、蓑虫がこちらを見た。

「大丈夫だ」

 久し振りに、素直な笑みを浮かべて、雁は蓑虫を見返した。きっと保憲と小丸が何かしたのだろう。二人が昼前に魔物の龍で飛び立ったことは、雁も簾越しに見て知っていた。

「もう大丈夫だ、蓑虫」

 久し振りに、風を心地良いと感じ、日の光を明るいと感じ、物を食べたいと感じることができる。

(おれはまだ、生きられるということか)

 雁は、急に明るく見え始めた世界を感じながら、深く息を吸い込んだ。


            ◇


「寄り道してもいいか?」

 大きな百足から馬へと変わった魔物に跨った保憲は、小丸が後ろに跨るのを待って言った。

「どこへ行くんだ?」

「少し、東国というところを見ておきたい。予定より早く終わったから、時間的余裕はある」

 帰りは未の時で雁の魔物のはずが、たった今、午の時になったばかり。確かに余裕はあるのだろう。

「おれは別に構わないが、おまえ、体は大丈夫か?」

「このくらいは、心配ない」

 保憲はさらりと答えて、魔物の馬を走らせ始めた。

 通常よりも大きな魔物の馬の鬣が、山々から吹き降ろしてくる風になびく。乾いた風だ。

「龍で飛んでくる時に見たが、この山脈を越えないと、東国へは行けない。未の時になるまでは、結構な山越えになる。わがままに突き合わせて悪いな」

 前に広がる景色を眺めながら、改めて詫びる保憲に、小丸は小さく溜め息をついて答えた。

「おれは構わないと言ったはずだ。おれは……望んでおまえについて来たんだからな」

「――そうだったな」

 ちらとだけ振り返って、保憲は微笑んだ。

 出羽国と陸奥国を隔てる山々に分け入り、時折、見慣れない鹿のような獣も見ながら、魔物の馬を進めていく内、やがて未の時に至り、二人は魔物の雁に乗り換えた。翼を広げた大きな雁は、二人を乗せて、悠々と峰々を越えていく。

「やっぱり、奥羽の空は寒いな」

 首を竦めて、保憲が呟いた。

 山脈を越えてしまい、暫く南へ飛び続けると、眼下に広大な平野が現れた。

「東国だ」

 保憲が鋭い眼差しで、どこまでも続く平野を見下ろして言った。彼方が霞んでいて見えないほどの広さだ。近江国の湖にも遜色ない大きさの湖と大小の湖沼が見え、それらに繋がる多くの川が走っている。

「あれが、恐らく香澄浦(かすみのうら)と呼ばれる内海だ。常陸国は、この辺りだな」

 説明した保憲の傍らに、ふわりと、急に白君が現れた。今朝、出立前に保憲が繕っていたので、もう大丈夫なのだろう。

 纏った白い汗袗を風に揺らす式神は、硬質な声音で一首、歌を歌った。


  こひしくはたづねても問へ常陸(ひたち)なる信太(しだ)(こほり)のうらみくずのは

  〔恋しく思った捜してでも訪ねてきなさい、常陸国にある信太郡の裏見の――心残りの葛の葉です〕


「何だ、それは」

 小丸は、思わず鋭い声を発した。その歌はあまりにも、小丸が母の葛葉から残された歌と似ていた。

「こちらが、本物だ」

 短く、白君は答えた。静かな墨色の眼差しに、嘘はない。そもそも、式神は、嘘など吐かない。

「やはり、そういうことか」

 保憲が急に、溜め息交じりに言った。

「どういうことだ?」

 小丸は、今度は保憲に問うた。保憲は、微かに険しい顔で東国の大地を見下ろしながら告げた。

「今朝、白君を繕おうとして、綿の中に歌の書かれた紙縒(こよ)りが入ってることに気づいた。書かれてた歌は三首。一首は、今、白君が歌った歌。後の二首は」

 一呼吸だけ置いて、保憲は、抑揚をつけず、歌をただ諳んじた。


  (ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかえりみすれば月かたぶきぬ

  夏虫の身をいたづらになすこともひとつおもひによりてなりけり


 そうして、保憲は言葉を続ける。

「それで、何となく、この東国――常陸国に白君を連れてくれば、何かあるんじゃないかと思った。白君は、母上が作った天児だからな。歌は、母上が意図的に忍ばせたものだ。恐らく、おれ達に何かを伝えるために」

「その通りだ」

 白君が頷いて、語る。

「あやめは、葛葉が小丸へ残した歌を直に、彼女から聞いていた。そして、世間に広まった歌を聞いて、安倍益材が、歌を変えて小丸へ伝えたことを知った。だから、夏虫に夏虫と名づけた所以の歌と、おまえ達の先を表す歌とともに、元の葛葉の歌を書いて、わたしの中に納めた。しかるべき時に、おまえ達に伝えられるように」

「――わたしが飛び込むべき火は、この地に立つ、ということか」

 納得したような保憲の独り言に、小丸はまだ思考が追いつかない。どうしても尖る声で、重ねて請うた。

「頼む。おれにも分かるように言ってくれ」

 保憲は、白君の話を完全に理解できたらしく、淡々と答えた。

「つまり、安倍益材様は、常陸を和泉に、信太の郡を信太の森に変えて、おまえに伝えたということだ。そうすることによって、おまえが、葛葉様に会えなくなるように」

「何でだ……!」

 思わず声に怒気が宿るのを、小丸は自覚した。歌を信じ、母に会いに行って会えなかった、その悲しみは、自分の中で癒えてはいなかったのだ。

「常陸は、火が立つこと。和泉は、水が出ること」

 保憲は、体を捻り、静かな眼差しを小丸へ向ける。

「詳しいことは分からないが、おまえのお父上は、きっと、火立ちから、出づ水へ、おまえの定めを変えようとしたんだ。訪れる先も常陸国の信太の郡から和泉国の信太の森へと変えて、おまえがお母上に会えずに、都に残る定めとなるように。益材様は、おまえに平穏な日々を送ってほしいと望んでおられた――、いや、今でも、そう望んでおられるんだと思う。力を持て余すおまえを、賀茂邸に預けたのも、都でまともに暮らさせるためだからね」

 確かに、と感じる反面、どうしても納得がいかない。父は、明らかに小丸を恐れていた。それで、捨てたのだ。「白狐」との間に設けてしまった子を――。

「捨てたんじゃない」

 保憲は、小丸の思いを破るように、強い口調で言う。

「おまえを守ろうとなさったんだ。――今のおれには分かる」

 十二歳だった当時には分からなかったが、今なら益材の思いが分かると、そう保憲は断言している。小丸は俯いた。

「――おれは、今、十三だ」

 当時の保憲――夏虫より、一つだけ歳を取った。他家へ子を預ける親の気持ちを、分かることができるだろうか。腹立たしく切なく惨めな、八歳当時の自分の気持ちを、今もまざまざと思い出すことができるというのに。

 急に、保憲が物も言わず、手を伸ばしてきた。驚いて瞬いた目の前に、保憲の真剣な顔がある。優しい腕が小丸の肩に回っていた。保憲の袖に包まれて、小丸は物が言えなくなった。心が震える。まだまだ弱い心だ。

「いいんだ、小丸。まだ分からなくていい。悪いのは、おれだから」

 保憲が、低い声で囁く。

「幼かったおれが、おまえにおれ自身の気持ちを重ねて、余計なことを言った。悪いのは、――わたしなんだ」

 悔恨が凝縮したような最後の言葉に、小丸は、はっきりと答えた。

「違う。おまえはおれを救った。それが、揺るぎない事実だ。おれのほうこそ、すまない。いつも、おまえに感情をぶつけてしまう。いつまでも弱くて、すまない」

「急がなくていいさ」

 保憲の声に、微笑みが混じる。

「あまり早く独り立ちされると、おれが寂しい」

 本気なのか冗談なのか分からないと思いながらも、小丸は頬が僅かに火照るのを感じ、顔をしかめた。小丸を戸惑わせて愉しんでいるように見える保憲は、笑顔で腕を解くと、前を向く。

「さあ、帰るか」

 明るい声に、小丸はこくんと頷いた。視界の隅に浮かぶ白君が、呆れたような眼差しでこちらを見ている気がした。


            ◇


 湯浴みをし、出羽国の土埃を洗い流した小丸は、さっぱりとした気持ちで、西の対に戻った。しかし、そこで小丸が目にしたのは、不安げな面持ちで立ち尽くした、ひぐらしだった。

「小丸、保憲がどこに行ったか、知らないかしら?」

 口調だけは努めて穏やかに問われて、小丸は眉をひそめた。まだ明るい夕日が差し込む室内に、保憲の姿がない。

「知らない。また、何も言わずにどこかに行ったのか」

「ごめんなさい。あなたが湯浴みしている間くらい、わたくしが目を離さずにいればよかったのだけれど。もう、今日は行くべきところに行った後だと思ったから……」

 目を伏せたひぐらしに、小丸は軽く溜め息をついて言った。

「あいつから四六時中目を離さずにいるなんてこと、無理だろう。確かに、近頃のあいつは、少し無茶が過ぎてるが、もともとは慎重な奴だ。そう心配することもないだろう。とりあえず、おれが捜してみる」

「ごめんなさい、いつも頼ってしまって。ありがとう」

「謝る必要はない。あいつを捜すのは……、おれがそうしたいからするんだ」

 ぶっきらぼうに告げて、小丸は、手にしていた布衣をその場に置き、衵に袴を穿いただけの姿で、庭に下りた。尻切を突っかけ、上へ跳躍する。賀茂邸の板葺屋根の上に立ち、辺りを見渡しながら保憲の気配を探った。

 小倉山(をぐらやま)などの山並みの向こうにまさに沈もうとする夕日に照らされた京の都は、怪しく美しい。その夕日が差してくる方角より少し南側に、保憲の気配がある。

「また、夕暮れ時に、あの辺りか」

 険しく目を細めた小丸は、独りごちると、板葺の屋根を蹴った。布衣も着ていない格好で路を行くのは多少憚られる。築地塀や建物の屋根伝いに、そちらへ向かった。


            ◇


「あなたのほうから来るなんて、あまり思っていなかったわ」

 板屋の中の暗がりで顔を上げた女は、驚いた様子もなく、そう言った。

「お忙しい父上にお訊きするよりは、あなたに訊いたほうがいいと思ったので、――母上」

 保憲は、ずっと昔から用意してきた言葉を、乾いた口内に貼りつきそうになる舌で、何とか紡いだ。

「――そう」

 女――あやめは僅かに頷くと、板間に正座したまま、体を保憲のほうへ向けた。

「どうぞ、入って」

 招かれて入った板屋の中は、さまざまな草木の匂いがした。姉が生薬を仕舞っている曹司と同じ匂いだ。

「生薬を扱っているのですか」

 保憲が、土間に立ったまま問うと、あやめは頬を緩めた。保憲の肩越しに差し込む夕日が、その顔を照らし出す。

「ええ。結構いい値で売れるのよ。都人は、自分で薬を作らない人が多いから」

 生薬が入っているのだろう、土間に並べられた甕や壺、籠や桶をちらと振り向いた横顔が、姉のひぐらしに似ている。高くもなく低くもない澄んだ声は、白君の声そのものだ。

「けれど、いつぞやは、小丸に、夕占を告げたそうですね」

「あの辻の道祖神(さえのかみ)から、大切なお告げがあったから、伝えたまでよ」

「その折、小丸から幣として受け取った布衣の片袖は、どうしたのですか」

「勿論、道祖神に捧げたわ」

 母の頑なな返答に、保憲は溜め息をついた。

「小丸が、その布衣の片袖を、葛城山で見たと言っていました。白君に拠れば、寛朝様が持ってこられたとか。父上も、葛城山の一件にあなたが関わったことを認めておられました。姉上の夢枕にも、しばしば立たれるそうですね。――陰ながら、いつも、わたし達を見守っていて、何かあれば手を貸していた。そういうことですか」

 既に、ほぼ確信していることだ。それは、ただの確認だった。

「――そうね」

 答えたあやめの声は、少し湿っている。

「でも、全て、わたしの身勝手でしていることよ。わたしの身勝手で、あなたを、ひぐらしを、あなたのお父様を、小丸君(こまろぎみ)を、寛朝様を、真木様を、すがる(ぎみ)を、螢君(ほたるぎみ)を、その他、大勢の人達を、振り回しているのよ」

 悔恨の詰まった言葉は、同時に、少しも揺るがない信念に裏打ちされた響きをしていた。自分と似ている。唐突にそう感じて、保憲は微苦笑した。だが、まだ問うべきことは残っている。保憲は、淡々と問いを重ねた。

「それで、今回の――百鬼夜行が内裏にまで押し寄せた件にも、あなたは関係しているのですか」

「――夢を見たのよ」

 あやめは、真っ直ぐに保憲を見返す。

「時の権力者を呪詛した老法師が、京から去っていく夢。見送ったのは、壮年に達した小丸だったわ」

「それは、どういう……」

「その夢を見たすぐ後、この三軒隣の空き家に転がり込んでいる若者に出会った。鬼に心配されている、美しい若者だった。その若者が、内裏へ、百鬼夜行を導いたのね?」

「そうです」

「その若者と別れてから夢解をしたら、二つのことが分かったわ。わたしの夢に出てきた老法師が、その若者の将来の姿だということと、近い内に内裏へ百鬼夜行を導こうとしていること。だから、急いで小鬼を走らせて、あなたのお父様に全て伝えたの」

「小鬼……?」

 怪訝に思った保憲に、あやめはさらりと答えた。

「わたしも、鬼に慈しまれる性だから」

「成るほど……」

 保憲は深く納得がいった。要するに、今回の忠行の占いの正体は、あやめからの報せだったという訳だ。そして、恐らくは、今まで、何度も同じようなことがあったはずだ。

(わが母上は、桂女の出で、薬売りで、夢解ができて、鬼に慈しまれる性で、しかも当代一の陰陽師へ異変を報せる者か)

 さすが、自分と姉の産みの母であり、父の忠行が惚れ込んだ女だ。思わず笑ってしまいそうになる顔を引き締めて、保憲は次の問いを口にした。この母に問いたいことは山ほど溜まっているのだ。

「今日、白君の中から、歌の書かれた紙縒りを三つ見つけました。それで、少し東国へ行ってきました。その後、あなたのところへ案内しろと言うと、白君はわたしを、すぐにここへ連れてきました。あなたが白君を通じて、三つの歌でわたしに伝えようとしたことは、何ですか」

「もう、殆ど分かっているのでしょう? 恐らく、わたしが分かっていることは、あなたが既に分かっていることくらいよ」

 あやめの返しに、保憲は眼差しを鋭くして言った。

「小丸のお母上――葛葉殿が残した歌が、元から変えて伝えられていたのは、何故ですか」

「それは、小丸君を葛葉に会わせないようにと、安倍益材様が、変えたから。でも、どう変えるべきか、教えたのはわたし。火立ちを出づ水へ変えることで、小丸君の定めを、火から水へ変えられるから、と」

「小丸の定めを、火から水へ変えようとなさったのですか」

「いいえ」

 あやめは、首を横に振った。益材はそのつもりだったろうが、教えた張本人たる自分は違う。

「あれは、益材様にもっともらしく説明するためにしただけ。わたしは、小丸君の定めを変えるつもりはなかった。だから、葛葉の元の歌を白君の中に忍ばせて、あなたの許に残した。小丸君とあなたの定めが確かに交わってから、元の歌が伝わるように、と。あなたも小丸君も、修行もしていない内から、普通の人には見えないモノ達が見えてしまった。確実に生き延びるためには、自ら進んで、立ち向かわなければならない。小丸君は向かい火。己を見失えば、燃えてくる火と一つになって辺りを焼き尽くすけれど、己を保てば、燃えてくる火の勢いを弱め、自らのことも、あなたをも、守ることができる。そしてあなたは、自ら火に飛び込むことで、漸く運命を切り拓いていける。そういう定めの子だから、夏虫と名づけたの」

 保憲は目を瞬いた。どこかで聞いたような言葉だった。そう、確か、螢が、珍しく出仕前の保憲のところへ来て、そのようなことを言ったのだ。夢を見たから、と――。

「もしかして、夢で、螢に会われましたか」

 保憲の幾つめかの問いに、あやめは微笑んだ。

「あの子のほうから夢を渡ってわたしに会いに来たのよ。『兄上の母上だから』ずっと会いたかったと言って。末恐ろしい子ね」

「そうでしたか」

 螢の才能はやはり凄い――。

「おれは、螢が元服を迎えるまでの繋ぎとして、父上を支えられたらと思います」

 口を衝いて出た言葉は、恐らく心の深いところでずっと考えてきた、けれど、はっきりと認識したのは初めての決意だった。

「では、その後はどうするの?」

 あやめは、気遣う顔で問うてきた。保憲は、逡巡してから、告げた。

「分かりません。けれど、きっと、小丸の傍にいるでしょう。おれは、あいつにいろいろと返さなければならないから」

「そう」

 あやめは穏やかに頷くと、柔らかな動きで板間に両手を着いた。

「ありがとう、夏虫。ここに来てくれて。小丸を気遣ってくれて。今まで無事に、大きくなってくれて。ありがとう……」

 夏虫、と名を呼ばれて、礼を述べられて、保憲は、居た堪れなくなった。母もまた、つらかったのだ。ぎこちなく動いて、保憲は、母のほうへ、板間の縁まで歩み寄り、頭を下げた。

「こちらこそ、知らないところで、たくさん助けられてきました。ありがとうございます。できれば、できるだけ、また、お会いしに来たいと思います」

「――待っています」

 母の返答を受けて、保憲は頭を上げた。笑顔の母と、目が合う。思わず、目が潤む。保憲は、もう一度頭を下げてから、踵を返した。

 板屋の外では、小丸が待っていた。気配で気づいていたので驚きはないが、気恥ずかしい。

「用は済んだ。帰る」

 潤んだ目を見られないよう、顔を背けながら言い、保憲は先に立って歩いた。小丸は、後から無言でついて来る。その気配が、気遣いが、嬉しい。

(おれが、おまえから貰ったもの、少しずつ、返していくから)

 胸中で、そっと保憲は誓った。


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