表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月と花  作者: 広海智
8/10

承平陰陽物語 第八

   播磨国(はりまのくに)二生(にしょう)(ひと)前生(ぜんしょう)()かせし(ものがたり)  第八


          一


 ――狭く暗い(いお)の中、自分は抜き身の打刀(うちがたな)を下げ、壁を背にして立っている。敵は四方八方から向かってくる。前から襲いかかってきた相手の太刀(たち)を打刀で受け止め、振り払い、突いた瞬間、右側の死角から現れた敵の腰刀に、右肘の辺りを斬られた。熱い痛みが走る。顔をしかめつつ、壁を背にしたまま左へ動いて次の斬撃を避け、痛む右腕を動かし、その相手の顎の辺りへ打刀を振るう。切っ先が相手の咽元を掠めただけでよしとし、左や前から来る敵へと、返す刀で斬りつける。どっ、と左肩に衝撃が走った。長刀(ながかたな)だ。体の動きが止められたと思う間もなく、また右の死角から、右の上腕を斬りつけられた。まだ刀は落とさない。が、最早振るえない。かっと睨み据えた前で、外から差し込む鈍い日差しを背景に、群れた人影が動き、幾つもの刃が閃き、突き出され、左腹、右腿、左手――。感覚が飽和状態になる。もう致命傷だ。このまま自分は死ぬだろう。だが、これでいい。弟とも思う、あの少年を自由にできたのだから。自分は、そもそも、あの少年の傍にいるべきではなかったのだから。激痛の中、安らかな満足感を覚えつつ、その場に崩れ落ちて、自分は目を閉じた。

 はっとして、暗がりの中、目を開けても、暫くの間、自分がどこにいるのか、今がいつなのかが、思い出せなかった。

(ここは……)

 荒い息を吐きながら、保憲は、辺りを見回した。自分は、暗がりの中、書物の置かれた棚に凭れて、床に座り込んでいる。そう、ここは陰陽寮の納殿(をさめどの)の中だ。校書殿(きょうしょでん)の納殿に倣って納殿と呼び習わしているこの室には、陰陽道に必要な数々の書物が保管されている。自分は仕事中で、その書物を取りに行くと言って、半ば以上は休みに来たのだった。今日は、朝から異様にだるく、眠い――。

 外の簀子を歩く足音がして、妻戸が開いた。床に投げ出した足の上に、すっと一条の茜色の光が差す。

「大丈夫か……?」

 外の夕日を背に、ぼそりと声をかけてきたのは、時人である。

「なかなか戻ってこないから、心配したよ……」

「すみません、ちょっと、うたた寝してしまったようで……」

 答えて、保憲は立ち上がった。まだ、体がだるい。朝からのだるさに加えて、先ほどの夢で傷つけられた数多の激痛が、残っているかのようだ。

(一体、何の夢だったんだ……?)

 夢は、現と無関係ではない。

(昔のことか、今のことか、これから先のことか……)

 何にせよ、悪夢の類だ。しかし自分には、はっきりと夢を判じる力も経験もない。微かに眉をひそめながら、保憲は取りに来た書物を持って、納殿を出ると、時人とともに陰陽生達や名嗣のいる室へ戻った。


            ◇


 夜空は厚い雲に覆われ、温かい湿気を含んだ空気は重い。その闇の中、生温い風が吹き渡り、二階建てで七間ある門の、連子窓(れんじまど)の格子の間を吹き抜けて轟と鳴る。被った檜笠(ひがさ)の陰から、黒々と聳える羅城門を見上げると、脳裏に、懐かしい詩が蘇った。


  万里(ばんり)(ひむがし)(きた)たらむことは(いづ)れの再日(さいじつ)

  一生(いっしゃう)西(にし)(のぞ)まむことはこれ(なが)(ものおも)ひなり

  〔万里の旅路を越えて、あなたはこの東方へ来てくれました。あなたが再び来るのはいつの日になるのでしょうか。

   あなたと別れた後、私は一生西方を眺めるでしょう。それは長い私の憂いなのです〕


 ()が、遠く京の都を離れていた時に作った詩。あの時は、この詩がきっかけで、()は京へ呼び戻されたのだった。当時は、まだ立派だったこの羅城門も、今は荒れ果てて見る影もない。自分もまた、当時とは別の、(かり)という名を持ってここにいる。あの頃とは、別の世なのだ。そして自分は、既にここからも去ろうとしている――。

「……兄さん、着いたの……?」

 不意に、背に負ぶった幼い少年が、身じろぎして訊いてきた。ずっと歩いてきた足を止めたので、目が覚めてしまったらしい。

「ああ。今から、住まわせてくれる家を探す。明日の朝までには見つかるだろう。もう大丈夫だ」

 九条大路の辺りは、羅城門と同じく荒れ果てた感じがある。だが、だからこそ、()()()()()

「とうとう、都に住むんだね……!」

 嬉しげに言うと、まだ九歳の少年は、安心し切った様子で再び眠りにつく。今生(こんじょう)の十九年間で得た中で、最後に手許に残った宝。この少年――蓑虫(みのむし)を守りきり、もう一人の宝も救いたいと願って、自分はここまで来たのだ。

「おい、衣と食い物、置いていけ」

 羅城門の陰の中からかけられた声と、複数の足音に、思わず苦い笑みが浮かぶ。引剥(ひきはぎ)だ。やはり、どこにでも盗人(ぬすびと)の類はいるものだ。それも、性質の悪い、群れた強盗(ごうどう)――群盗の類が。そして、自分は、これをこそ期待していたのだ。この騒ぎで、望む相手を釣ることができるはず――。

「雁、ドウスル?」

 傍らに姿を現した、庶民の衣直垂(ひたたれ)を纏った大柄な鬼――大牙丸(おおきまろ)が、燈した青白い鬼火に照らされて、牙を剥いて笑った。ともに姿を現した他の鬼達も、楽しげな様子である。そんな鬼達を見て、雁は逆に笑みを消し、冷ややかに命じた。

「思い切り、脅かしてやれ――」

 群盗は鬼達にあっさりと蹴散らされ、恐怖を顔に張りつかせて、闇の中へ遁走していった。いつものことだ。しかし、その闇の中から、新たに現れたモノがあった。前方、朱雀大路の真ん中に、人影が佇んでいる。が、人ではない。雁と蓑虫の周りにいるのと同じ、鬼だ。

「ソナタ、何者ジャ。人デアリナガラ、鬼ヲ(イザナ)ウトハ――。何ノツモリデ、気ノ流レヲ乱シ、再ビ穢レヲ京ニ入レル?」

 問われて、察しが付いた。都を思うあまり、鬼となった人。鬼達の間では、密かに有名だ。

「秦河勝様、面識はないですが、おれの名くらい聞いているはずです。咒を用いることなく鬼を従える、この力とともに」

「確カニ、咒モ用イズ、鬼ヲ従エル力ノ持チ主ノコトハ知ッテオル。ジャガ、ソノ者ハ、既ニ死ンダハズ――」

「ええ。ですから、今は、十九です」

 真顔で告げると、古の朝服を着た鬼は、見た目にも狼狽して、後退る。そう、それ以上近づけば、かつて秦河勝であった古参の鬼であろうと、雁の力の餌食となる。

「マサカ、ソナタ、ニ(にしょう)ノ者――。再ビ人トシテ生マレタト――? ソウジャ、カノ者ハ、若キ時、ソノ(ムスメ)サナガラニ麗シキ容貌デアッタト聞ク。姿モ力モソノママニ、再ビ人トシテ生マレタトイウノカ。ナレド、何ユエ、今、コノ都ヘ鬼ヲ誘ウ? 答エニナッテオラヌゾ」

「内裏に、少々用があるのです」

「内裏ニ、鬼ヲ誘ウトイウノカ」

 雁は答えず、ただ一歩、歩を前へ進めた。それだけで、鬼たる相手には充分に脅威になる。

「人ニアラザル人ヨ、ソナタヲ止メル術ヲ持タヌトハ、鬼タルコノ身ガ口惜シイ……」

 うめくように言い残して、秦河勝であった鬼は、姿を消した。

(けれど、本当に恐ろしいのは、鬼などより、権力に取りつかれた人のほう。人にあらざる人とは、むしろ、そういう者のことでしょう)

 去った鬼へと胸中で呟いて、雁は、朱雀大路沿いの、崩れかけた築地の陰にある気配へと視線を転じた。気配は薄い。身を潜め、気配も消しているつもりなのだろう。だが、雁は気配に敏い。

「鬼を従える力と言えど、力は、ただ力。どう使うかは、使う者次第。あなたは、そう思いませんか」

 語りかけると、相手は観念したように、築地の崩れから出てきた。

 浮遊する鬼火に照らし出された姿は、質素な狩衣を纏って、烏帽子を被った男。貴族の末端に連なる者だ。そして、鬼を恐れていない。

(釣れたな)

 冷ややかに目を細め、雁は言葉を重ねた。

「取り引きをしませんか、陰陽師殿」

「取り引き、だと?」

 否定せず、問い返してきた男に、雁は淡々と言った。

「ええ。聞いての通り、おれは少々用があるので、鬼を連れて内裏へ行くのですが、その間、弟を預かってくれるところを探しています。もし、あなたが弟を預かってくれるなら、おれは明日の夜、子の時に内裏へ行き、そして、あなたに退散させられましょう。如何ですか」

「わしに、周りを(たばか)れと申すか」

「あなたが何もせずとも、おれは用があるので、明日の夜、子の時に内裏へ行きます。ただ、あなたが弟の面倒を見てくれるなら、その折、少しばかりあなたに有利なように動くということです。気に入らないなら、おれの内裏襲撃については、そのまま陰陽寮へ伝えて貰って構いません。あなたが弟を無事に預かり、匿ってくれるなら、内裏の被害は少なくて済むという話です。弟のことは、おれに対する人質とでも考えて貰えばいい」

「陰陽寮が全力で襲撃に備えたなら、容易には入れぬぞ」

「陰陽寮も、()()()も、おれを――鬼達を容易には止められない。そんなことは、あなたがよく御存知なのではないですか」

 雁は、さらりと言って、男の迷いに止めを刺した。

 黙った男を視界の隅に置きながら、雁は背中の少年を揺する。

「……兄さん?」

 目覚めた少年に、雁は低い声で告げた。

「蓑虫、住むところが決まった」

「本当?」

「ああ。陰陽寮の陰陽師をしているあの方のところで、暫く厄介になる」

 言いながら、雁は蓑虫を背から下ろす。

「おまえは、先に行っていろ。おれは、あいつら(、、、、)を撒いたら行く。二、三日かかるだろうが、心配するな」

「――分かった。兄さん一人のほうが、戦い易いもんね。おれ、待ってるから」

 不安を無理に押し隠して、きりりと表情を引き締めた少年の頭を、雁はしゃがみ込んで撫ぜた。冷えた色をした鬼火が、二人の周囲を、ふわふわと巡る。

「あの方の言うことをよく聞いて、いい子にしていろ」

 優しく言って立ち上がると、雁は蓑虫の背を、そっと陰陽師の男のほうへ押した。少年は、振り返り振り返り、男のところへ行く。

「その童を、くれぐれも大事にして下さい」

 最後に一言つけ加えた雁に、陰陽師の男は、蓑虫と手を繋ぎながら返した。

「そなたも、くれぐれも、言葉を違えるな」

「ええ」

 雁は頷き、闇に包まれた朱雀大路を北へと去って行く男と蓑虫を見送る。心細げな蓑虫の手を引く男の後ろ姿は、妙に父親臭い。

(実際、子を持つ親かもしれないな……)

 少しばかり安心しながら、雁は二人の気配がかなり遠ざかるまで、その場に立っていた。

「……イイノカ?」

 大牙丸が心配そうに聞いてきたのに対し、別の鬼、(かわづ)が答えた。

「仕方ナイッテコト、アンタモ分カッテルデショ? 蓑虫ハ足手纏イニナル。アイツラガ昼ニ来タ時、アタシラハ守レナインダシ」

 蛙は、長い黒髪を掻き揚げ、流し目で雁のほうを見る。生前は遊女であったという蛙は、白襲の袿と(くれない)色の打袴(うちばかま)を着ている。小さな牙と角さえ隠していれば、鬼となった今も変わらず美しい。

「ソノ肝心ノアイツラハ、今ドコニイル?」

 大牙丸の問いに、今度は赤丸(あかまろ)という、小柄な赤毛の鬼が答えた。

「少ナクトモ、都ニハ入ッテネエナ」

 赤丸は、いつも雁に追従している鬼達の中では一番気配に敏いのだ。

「夜は、おまえ達がいるから警戒しているんだろう。あいつらは、おれの力について、よく知っている」

 雁は抑揚に乏しい声で言うと、赤丸を振り向いた。

「そろそろ、いいだろう。あの陰陽師の跡をつけて、どこへ蓑虫を連れていくか、確認してくれ。気配を消す必要はない」

「分カッタ。任セトケ」

 赤丸はにやりと牙を剥いて笑うと、裾が短く袖のない帷子(かたびら)を着ただけの小柄な体を、ひょこひょこと揺らして、暗闇に溶けるように、二人の気配を追っていった。

「ホラ、雁ハチャント考エテルノサ。赤丸ガツイテ行クコトデ、オマエハ見張ラレテルンダッテ、アノ陰陽師ニ知ラセテ、蓑虫ヲ粗末ニハ扱エナイヨウニサセルンダ」

 蛙が、得意げに大牙丸に言った。

 雁は、赤丸の姿を見送ると、歩みを再開した。荒れ果てている右京のほうへ向かう。夜露を凌ぐ荒れ屋くらいあるはずだ。進む自分の後に、異形の鬼達が、嬉々としてついて来る。この世やあの世の鬼を無条件に従わせる力。鬼達は、雁に従うのがただ嬉しいのである。恍惚とした顔で雁のところへ集まり、命じられるままに動く。そうして、雁を人から離していく。――けれど、蓑虫は、離れていかなかった。

(だが、蓑虫まで、人から離す訳にはいかない。それに、あく(、、)のことを放っておく訳にもいかない)

 ずきり、と鋭い痛みが頭の内奥に響き、雁は顔をしかめた。

「雁?」

 いつも近くにいる大牙丸が、心配そうに顔を覗き込んでくる。雁は、間近に浮かんだ鬼火から、しかめた顔を背けた。この頭痛と、あいつら(、、、、)――かつての仲間達との不幸な再会がなければ、自分はまだ決断していなかっただろう。

「雨ダネ」

 蛙が夜空の厚く垂れ込めた雲を見上げて言った。

(――久永(ひさなが)が生きていた頃はよかった……)

 ぽつぽつと大粒の雨が降り始めた中、脳裏に、かつての仲間達との、苦い情景が蘇る。



  酒をたうべて たべ()うて たふとこりぞ 参出来(まうでく)

  よろぼひぞ 参出来(まうでく)る 参出来る 参出来る

  〔お酒を頂き 頂き酔うて 尊大無礼も何のその いざ参上

   千鳥足だぞ 参上 参上 参上〕


 闇夜を照らし、焚き火の炎が揺らめいている。その周りで、男達が、酔って騒いで歌っている。歌っているのは催馬楽の酒飲(さけをたうべ)だ。中には、踊っている者もいる。稼ぎが多かったので、皆、浮かれているのだ。

 ずしり、と、右肩に重みがかかり、雁は振り向いた。隣に座っていた蓑虫が、自分の肩に凭れている。疲れて、眠ってしまったのだ。最近は、早く元服がしたい、一人前と認められたいと、偉そうなことも口にしているというのに。

(まだまだ幼いな)

 くすりと微笑んだ雁の腕を、踊っていた一人がぐいと引いた。

「おい、おまえも飲め。今回の稼ぎの一番の功労者はおまえだろう!」

「いや、おれはいい」

 雁は肩に凭れている蓑虫を気にして、首を横に振った。腕を引っ張った相手は、興醒めした顔になる。

「つくづく、変わった奴だな、おまえ」

「ほっとけ、ほっとけ! 物怪憑きは好きにさせとくに限る!」

 他の男が叫ぶと、更に別の男が応じた。

「だが、その物怪憑きのお陰で、今回の稼ぎだぜ?」

「だから、好きにさせとけばいいんだよ!」

「蓑虫のことが気になってんだろう? いつものことだ」

 次々に口を開き、勝手に言い合いを始める男達の向こうから、あまり聞きたくなかった声が響いた。

「おい、雁、酒の一杯や二杯付き合え。それが礼儀ってもんだ。楽しい宴に水を差すんじゃねえよ」

(宴?)

 雁は蓑虫をそっと脇に寝かせて立ち上がりつつ、自分達の(をさ)の言いようを苦々しく思った。前の長――播磨久永(はりまのひさなが)なら、こんな宴などそもそも開かなかった。自分達の稼ぎは盗みだ。稼ぎが多いことを喜びはしても、久永は慎みを知っていた。稼ぎを大切に使うことを知っていた。雁は瓶子(へいじ)を取り、杯を取って、酒を注ぎ注がれつつ、胸中でぽつりと思う。

 久永が生きていた頃はよかった。

 十二歳の頃までは、代々赤穂郡(あこうのこおり)大領(たいりょう)の下で働く家の子として育った。父と母がいて、妹がいる、幸せな生活だった。雁には、前生(ぜんしょう)からの鬼を従える力が備わっていたし、妹にも、生まれつき、見鬼の力があった。やがて、妹が、その力のため、京の都へ巫として連れて行かれ、それから間もなくして、疱瘡が流行った。雁は看病に明け暮れたが、気が付けば、天涯孤独の身の上になっていた。その雁を拾ってくれたのが、盗人の大将軍として播磨国(はりまのくに)で広く知られた前の長の久永だった。大きな邸だけを狙い、一つところでは決して続けて盗まない。しかも、できる限り邸の者を殺さない。刀を使う腕だけでなく、詩や歌などを詠む(ざえ)まで持っていて、雁とも話が合った。

 久永が生きていた頃はよかった。しかし、久永が盗みの最中に負った刀傷が元で亡くなってから、自分達の生活は一変した。

 新しく長となった男は、大した計画も立てずに盗みに入り、多くを殺し、時には上手く盗めないことさえあった。上手く盗めなかった時には、近いところで連続して盗んだりもした。見かねて雁は、盗みを助けるため、持って生まれた鬼を従える力を使い始めた。久永には禁じられていたことだったが、無闇に人が殺し殺されるのを、黙って見ている訳にはいかなかった。

 雁は鬼を使い、邸の人間達を予め追い払い、盗みを助けた。そして、状況は悪化した。盗みは成功し続け、気の大きくなった仲間達は、雁を利用して、必要以上に盗み始めたのだ。

(おれは、もうここにはいないほうがいい)

 心残りは蓑虫だった。雁と同じように久永に拾われた蓑虫は、久永には可愛がられていたが、今の長には、足手纏いとして嫌われている。保護者を買って出ている雁がいなくなれば、どこかへ売られてしまうかもしれない。

 あの宴の夜から、雁は本気で、蓑虫を連れて、盗人仲間を抜けることを考え始めた。

「おれは、盗んで暮らすのにはもう飽いた。だから、近い内、仲間を抜けようと思う。だが、皆も長も、おれが抜けるのを許さないだろう。密かに抜けることになる。ついて来るか?」

 そっと問うと、蓑虫は即座に真剣な顔で頷いた。雁は、決意した。

 次の朔の夜、雁は焚き火の番を買って出た。やがて皆が寝静まると、寝た振りをしていた蓑虫とともに静かにその場を離れ、山道を夜通し歩いて、仲間達と別れたのである。

 それからの日々は幸せだった。二人で諸国を巡り、雁の力で人々に仇為す鬼を鎮め、報酬を得て暮らした。しかも、雁が気づいていた通り、蓑虫もまた、見鬼の力を持っていた。

「ちょっと前までは、誰でも皆、見ようと思えば、おれや兄さんみたいに、そこら辺りに漂ってるモノが見えるし、そいつらとしゃべれるんだと思ってた」

 苦笑いして言った幼い少年の頭を撫ぜて、雁は、自分の知っていることを全て、蓑虫に教えるようになった。また、蓑虫とともに、力を伸ばすため、各地で修行を積んだ。いつか、もっと人の役に立ちたいと願ってのことだった。だが、二人が盗人仲間を抜けて一年も経たない内に、不運な再会が待っていた。摂津国(せっつのくに)で、播磨国から流れてきていた元仲間達と、ばったり出くわしてしまったのである。

 盗人の長と仲間達は、二人を、特に雁を、深く恨んでいた。二人が姿を消してから、雁の力を頼れなくなった彼らの盗みは、やはり上手くいかないようになり、盗みの最中に怪我を負ったり殺されたりする者も続出するようになったという話だった。彼らはまず、二人をもう一度仲間に引き入れようとしたが、雁が断ると、二人を殺そうと画策し始めた――。



 全ては、自分の業だ。

(あいつらは、必ず、鬼のいない昼間を狙ってくる)

 夜になって現れる鬼達は、明け方、雄鶏が鳴くと、消えてしまう。かつての仲間達は、そのこともよく知っている。だからこそ、自分はこの地へ戻ってきた。

 雁の力を知るかつての仲間達にも、盲点はある。それは、雁が、蓑虫と離れるはずがないと思っていること。そして、二生(にしょう)の者である雁が、この地に持っている縁のこと――。

 一時激しく降った雨は、雁が歩きながら物思いをしている間に小降りとなっている。雲が薄くなり、風も涼しさを増した闇の中、西の市に近い、荒れ屋が幾つか軒を連ねた辺りにまで来た雁は、一軒の苫屋(とまや)を見つけ、人の気配がないことを確かめて、中へ入った。(すげ)()を粗く編んだもの――(とま)で屋根を葺いた家は、粗末な家屋の代名詞ともなっているが、それでも、土間に多少の水溜りができているだけで、板間の床は殆ど濡れていない。

「今夜はここで休む。いつも通り、見張りを頼む」

 鬼達に告げると、雁は檜笠を脱いで垂髪を絞り、脛を覆った脛巾(はばき)を外し、藁沓(わろうづ)を脱ぎ、腰に帯びた打刀も外して傍らに置き、ごろりと板間に横になった。苫を叩くささやかな雨音を聞きながら、目を閉じる。ずきり、と、また頭の内奥が痛み、雁は目を閉じたまま顔をしかめた。痛みの間隔は少しずつ短くなり、痛みの程度は日毎に増している。意識を闇に沈めると、より鮮明に感じられる。鋭く響く痛みは、前生の自分を殺したものが発する痛みと、全く同じだ。

(おれは、生まれ変わってなどいないのかもしれない……)

 今まで、幾度となく感じてきたこと。今ある生は、今生というものではなく、前生の続きのようなものなのかもしれない。

(けりを、つけなければ……)

 雨に濡れた水干(すいかん)を脱ぐこともせず、雁はそのまま眠りについた。


          二


 蒸し暑さがほんの少し和らいだ明け方、あやめはまた、不思議な夢を見た。

 時の権力者を呪詛した老法師が、京から去っていく夢だった。見送ったのは、壮年に達した小丸だ。あやめは身を起こしつつ眉間を押さえた。

(これは、夢解をしなければならないわね……)

 意味深長な夢だった。老法師が、小丸に言い残した言葉が気にかかる。吉夢ならばいいが、悪夢ならば夢違をしなければならない。

(「陰陽師がそれなりの地位を保つには……」ね……)

 菅原道真の存在すら、喜ばしいということなのかもしれない。

(世の中は、本当に複雑ね、夏虫)

 夢解の女としても知られるあやめは、板屋の隙間から差し込む薄青い仄かな光に目を細めた。どうやら、今朝は五月晴れのようだ。

 と、急に戸口を叩く音がした。こんな荒ら屋の、女の一人住まいに、明け方から何の用だろう。もし危害を加えてくるような輩であれば、嫌な予感がするはずだが、それはない。手早く衣を整えて、あやめは戸口を開けた。

 白々と夜が明け始めたばかりの、まだ薄明の中、影薄く戸口に立っていたのは、女の鬼だった。気配からまず鬼と察したが、小さな角は長い黒髪から先が覗いているだけ。牙は開けた口から少し覗くだけである。女の鬼は、黄色く濁った双眸に必死な色を湛えて言った。

「三軒隣ノ空キ家、男ガ熱ヲ出シテル。頼ムヨ、見テヤッテオクレ――」

 何度目かの鶏鳴が遠く曙の空に響く。女の鬼は、頼むよ、ともう一度口を動かして、早朝の大気に溶けるように消えた。

「……鬼らしくない鬼ね」

 いきなりのことに気を呑まれつつも、口の中で呟いて、あやめは戸口を出た。僅かな悪意もなく、人を心配して人を頼る鬼など、鬼ではない。だから、姿を見るまで気配を感じることもできなかったのだ。

(とにかく、様子だけでも見ないとね)

 あやめは朝靄の中、空き家ばかりが並ぶ荒れ屋の前を通って、三軒隣の、空き家になっている苫屋へ行った。

 苫屋の戸口は壊れていて、戸も何もない。暗がりへ踏み込むと、ぱちゃりと尻切を履いた足に水が触り、土間に小さな水溜りのあることが分かった。

「誰かいるの?」

 声をかけながら入ると、板間になった奥に気配が感じられた。ゆっくりと起き上がり、こちらを窺っている。あやめは土間に立ったまま問うた。

「あなたが熱を出していると聞いて来たのだけれど……?」

「――余計なことを……」

 小さく呟いた声は、若い男のものだ。女の鬼が言っていたことは本当らしい。嫌な感じもしない。あやめは土間を進んで板間に近づいた。

「わたしは東の市で薬売りをしている市女(いちめ)で、あやめというの。少し見せてみなさい」

 入り口から差し込む淡い光を頼りに、手を差し出したあやめに対し、上体を起こした若い男は、やや掠れた声で言った。

「あなたにおれのことを告げたのは、鬼だったはず。それで何故、恐れず、疑いもせず、ここへ来たのですか」

「ああいうモノには慣れているし、人と違って、あまり嘘をつかないことも知っているの。それに、実際来てみたら、あなたがいたのだから、それでいいのではなくて?」

 あやめが明るく答えると、若い男は多少面食らったようだったが、ふっと、それまで漂わせていた警戒の雰囲気を解いて説明した。

「雨に濡れたまま寝たというだけで、大したことはないのです。熱も今夜には下がるでしょう」

「若いからって、過信はしないの。それに、あなたのような、人ならぬモノに好かれる性の人には、親近感を覚えるのよ。お節介を焼かせて貰うわ」

 宣言したあやめは、増してきた朝日が仄かに届く中、二十歳前後と見て取れた相手の額にそっと手を当て、確実に熱があることを確認すると、すぐに自宅へ取って返し、土間の隅に置いた(かめ)から、干乾びた梅の実を一つ取り出して土器に入れ、苫屋へ戻った。狭い板屋に所狭しと置いている生薬(きぐすり)の一つだ。

「これは梅の実を塩漬けにしてから干した白梅(はくばい)というもので、熱冷ましにもなるし、毒消しにもなるの。梅の実を燻して作る烏梅(うばい)よりよく効くのよ。とても酸っぱいから、まずはほんの少し、欠片を口に含んでいなさい。その間に、湯を沸かしてくるわ」

 青年が素直に白梅を齧って、まだ薄暗い板間で酸っぱい顔になったのを見届けると、あやめはまた急いで自宅へ戻り、火打石(ひうちいし)で土間の隅に火を熾した。三本の足がある足鼎(あしがなえ)に水を満たして、熾した火の上に置く。更に小枝をくべて火を大きくした。足鼎の中で、ぐつぐつと湯が沸くと、椀に掬い、あやめは青年がいる苫屋へ戻った。

 白梅が入った土器に(まり)から湯を注ぐと、酸っぱい匂いが漂う。

「これを少しずつ飲んで、寝ていなさい」

 笑顔で告げたあやめに、苦笑しつつ頷いた青年は、すぐ真顔になって言った。

「ありがとうございます。けれど、これ以上、おれには関わらないで下さい。御存知の通り、おれは鬼を使う者です。あなたに迷惑をかけたくありません」

「分かったわ」

 あっさりと答えて、あやめは苫屋を出た。

 ひどく美しい顔立ちの青年だった。既に元服を終えていてもおかしくない年頃に見えたが、髪は後ろで無造作に束ねて背に垂らし、汚れた水干を纏っていた。傍には泥の付いた脛巾と無骨な打刀が置かれ、土間には擦り切れかけた藁沓があった。足も汚れ、如何にも旅をしていて、そのまま転がり込んだという風情だった。

(あの若者も、この世やあの世の鬼に慈しまれる性ね。何故わざわざ都に来たのか詮索したいところだけれど、下手に探ろうとすれば、ただでは置かないという風情だったわね……)

 だからこそ、あっさり引き下がってきたのだ。

(さて、どうしようかしら……?)

 悩みつつ、あやめは自宅へと戻る。様子を見るしかないが、あの青年が本気で鬼達を使って事を為そうとした時、あやめでは対応できないかもしれない。

(寝起きに見た夢との関連も気になるのよね……)

 夢に出てきた老法師と、あの青年の気配が、似ている気がするのだ。何より、あやめが見る夢の中で、妙に現実的な雰囲気を持つものは、将来、現となることが多い。

(まずは夢解をして、何か分かっても分からなくても、あの人に知らせておこうかしら……)

 ちらと、賀茂邸がある東北のほうを見遣ると、折しも、朱色を帯びた曙光――陽炎(かぎろい)がそちらの空を染めたところだった。あやめは僅かに顔をしかめ、自宅の板屋へ入った。


            ◇


(察しのいい人だ)

 雁は、ちびりちびりと、土器から白梅を浸した湯を飲みつつ、思う。お節介ではあったが、雁の力量も、覚悟も察した上での、鮮やかな引き際だった。因みに、白梅については、雁も前生からの知識で知っている。烏梅は、燻して黒いため、そう呼ばれるのだが、対して白いので、白梅と呼ぶのだ。それだけに、あの人が、お節介なだけでなく、生薬について相当深く知っていたと分かる。

(親切、と、素直に受け取れたらよかったのだが)

 苦笑して、土器を置き、雁は再び寝転ぶ。

 雄鶏が鳴く前に雁の許へ戻ってきた赤丸は、あの陰陽師の男が、蓑虫を、冷泉小路(れいぜいこうぢ)と野寺小路が交わる辻の西北の、檜垣(ひがき)に囲まれた小さな家へ連れていって、そこで泊まったと報告した。

――「女ガ出迎エテタカラ、アノ陰陽師ノ自宅カ、デナキャ、通ッテル女ノ家ダロウナ」

 通い婚が普通なので、男が夜、女の家へ行くことは当たり前のことである。

(とりあえず、蓑虫の安全は確保されたと考えていいだろう)

 陰陽寮の陰陽師なら、自宅であれ女の家であれ、群盗などから守る備えもしているはずだ。

(後は、おれが、あの男の指示も実行してやりながら、全てにけりをつけるだけだ――)

 また、頭痛が響く。頭蓋骨が割れるような痛みだ。雁は顔をしかめたまま目を閉じ、再びに眠りに落ちた。かつての仲間達は、夜の間はとうとう都には入らなかったようだ。赤丸を始め、どの鬼もそう言っていた。ならば、これから都に入って雁達を探索したとしても、すぐにはここを見つけられないだろう。都に人は多過ぎて、反って見つかりにくい。それに、見つかったとしても、殺気ですぐにそれと気づける。蓑虫がいなければ、逃げるのは容易いのだ。


          三


 最早指一本動かせない体が、雨を防ぐ屋形(やかた)のない、ただの空車(むなぐるま)に載せられ、運ばれていく。莚一つ被せられず、雨に叩かれる体が訴える。道々、引っ掻かれ、齧られ、弄られる体が訴える。体に残る(はく)を通じて、離れても、まだ僅かに繋がりを保っている(こん)へ、苦痛を、じりじりと訴えてくる――。

 荒い息を吐き、保憲は目を開けた。見慣れた部屋の中で、自分は莚の上で衾を被って寝ている。格子と簾と几帳越しに届く薄青い静かな明るさと、目覚めたばかりの鳥の囀りが、早朝を告げている。

(夢か……)

 自らが骸となりかけたかのように、体が重い。人間の死後、体を動かしていた魂魄は分離して、魂はあの世へ行くが、魄は体に留まる。しかし、何故そんな夢を見たのかは、皆目見当が付かない。奇妙な現実感は、昨日の夕方見た夢の感覚と似ていた。

(今日は物忌(ものいみ)にしようか。夢見が悪かったという正統な理由が付けられる――)

 天一神や太白神の遊行する方角を避けるためや、暦に記された凶日に当たったり、夢見が悪かったり、穢れに触れたりした時、それらによって起こる禍を避けるため、身を清めて家に籠る物忌。しかし、出仕を休むための、表向きの理由にもよく使う。天井を眺めつつ、保憲が思案していると、その視界を遮るように、仄暗い空中にふわりと白君が現れた。式神の白君は、保憲と鏡のように同じ顔で見下ろしてきて、抑揚に乏しい声で告げた。

「たった今、忠行の式占で、よくない結果が出た。今夜、内裏に百鬼夜行が生じるらしい」

「この間、秦河勝様が集めて下さった鬼を、八の力で祓ったばかりだぞ……?」

 眉をひそめて、保憲は上体を起こした。この短期間に、それほど多くの鬼が自然発生するとは思えない。何かが起きるか、或いは既に起きたかだ。陰陽寮も、原因究明と対策に躍起になるだろう。

(気分で物忌にしてる場合じゃないか……)

「それで、父上は……?」

「大急ぎで出仕の仕度をしている。陰陽頭達のところへは、既に式神で知らせを出したようだ。おまえはいつも通り、夜が明けてからの出仕でいいが、いろいろと仕事が生じるだろうから、心積もりをしておけ、とのことだ」

「分かった……」

 保憲は重い体を腕で支え、莚を押しやるようにして立ち上がり、出仕の身支度を始めた。

 式盤を仕舞っている厨子の隣に置いた二階厨子(にかいづし)には、泔坏(ゆするつき)櫛笥(くしげ)が乗せてある。そこへ寄って髪を結い直す保憲の傍へ、口や手をすすぐための水を汲んだ角盥(つのだらい)を置くと、白君は下屋のほうへ行った。保憲の朝食(あさけ)を取りに行ったのだろう。考えて動ける式神は、時にお節介なこともするが、一々命じなくてもいいので、助かる。保憲の日常にとって、最早なくてはならない存在だ。

(それに、これから先、きっとおれの身代わりとしての役割が、まだまだある……)

 黙して考えつつ洗面を済ませ、袴を穿いて袍を纏い、冠を被った保憲は、白君が持ってきた足付の折敷の前に座った。今日の朝食は、いつも通りの、笥に盛られた固粥と金椀に注がれた精進物の水葱の汁物及び、合わせとして、盤には未醤のかかった(ひる)が乗っていた。蒜は薬としても用いる、精のつく()だ。この邸の食べ物に関することを仕切っている姉のひぐらしが、保憲の疲れを気遣って用意してくれたのかもしれない。この家の厨の下人が、蒜に醤酢(ひしおす)ではなく、未醤をかけるのは、父の忠行が好むからだ。それらを柳の箸で口へ運び始めた保憲の視界の隅で、小丸の曹司の遣戸が開いた。家人の少年は、暗い表情で室内に入ってくると、隅にぽつりと座って問うてきた。

「……ついて行ったら駄目か?」

 搾り出されたような言葉に、保憲はつい噴き出しそうになって、口を押さえた。大内裏へついて来ることについて、そろそろ何か言ってくるだろうとは思っていたし、白君の報告を盗み聞いて、心配してくれているのは分かるが、表現の仕方が不器用過ぎて笑ってしまう。恐らく、保憲が起きてから身支度を整えるまでは、遠慮して曹司に籠っていたのだろう。こうして食事を始めたので、出てきたのだ。

「駄目だ」

 内心とは裏腹な、冷たい声を出して、保憲は答えた。小丸には、そもそも大内裏に来ることを禁じている。まだまだ考えなしなところのある小丸が、他の陰陽師や官人達と協力しなければいけない大内裏で、面倒を起こしてはまずいし、小丸の時間をそんなことで浪費させたくないとも思う。

「この前の百鬼夜行の時とは違う。大内裏には、力ある人が大勢いるから、おまえの出番はない。おまえの力が必要な時には、おれのほうから言う。今日のところは、修行に専念しろ。せめて、おれに勝てる程度には、碁の腕を上げろ」

 葛城山から帰ってきて以降始めた碁の対局では、全て保憲が勝っている。けれど、保憲は決して碁が強い訳ではない。修行として行なっている以上、小丸には、もっと相手の心を読めるようになって、強くなって貰わなければならない。

「そうしたら、次の修行に入れる」

「次?」

 眉を寄せた小丸に、保憲はずっと考えてきたことを初めて伝えた。

「言葉を理解し、先人の知恵に学び、宇宙の理を感じて、己や他の力を、最大限引き出して使う修行だ。おまえは、咒はかなり覚えてるが、まだ、その意味や内容について、深くは分かってないところがあるからな。例えば」

 一度言葉を切って息を吸い込み、保憲は厳かに唱えた。

(えき)は天地と(なぞら)う。ゆえに()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いで以って天文を()()して以って地理を察す、このゆえに幽明の(こと)を知る。始めを(たず)ね終わりに(かえ)る、ゆえに死生の説を知る。精気は物を為し、遊魂は変を為す、このゆえに鬼神の情状を知る。天地と相似たり、ゆえに(たが)わず。知万物に(あまね)くして道天下を(すく)う、ゆえに(あやま)たず。(あまね)く行きて流れず、天を楽しみ(めい)を知る、ゆえに憂えず。土に安んじ仁に(あつ)し、ゆえに能く愛す。天地の化を範囲して過ぎしめず、万物を曲成して遺さず、昼夜の道を通じて知る。ゆえに神は方なくして易は体なし」

 陰陽寮で陰陽生が必ず習う周易の中の、繋辞(けいじ)上伝という(へん)の一節。周易は、易経(えききょう)とも呼ばれ、四書五経(ししょごきょう)の一つに数えられる書である。こうした言葉を、字面だけ覚えるのではなく、心で感じ、力の使い方へ繋げることこそが肝要なのだ。

「こういった言葉を、本当の意味で己のものとすることが、修行の最終目的だ。まあ今は、碁の腕を上げることだけ考えろ」

 小丸はやや不服そうな顔をしたが、何も言わず立ち上がって、己の曹司へ戻り、後ろ手に遣戸を閉めた。狭い曹司の中で、己の感情と折り合いをつけながら、保憲の言葉を反芻して理解してくれるだろう。

(もう少し、和やかなやり取りもしたいが、今はおれに余裕がないな……)

 最後の蒜を口に入れながら、保憲は胸中で溜め息をついた。


            ◇


 保憲の言うことは分かる。今の自分では、大して役に立てない。この前の百鬼夜行の時とて、結局、解決したのは保憲で、自分は大して役に立てなかったのだ。自分には、まだまだ修行が必要だ。けれど、今日、今すぐ、保憲の役に立ちたいという思いは、一体どうすればいいのだろう。

(くそ……)

 己の曹司に立ち尽くした小丸は、戸一枚隔てただけの向こうに気取られないよう気配を消して、ただ、両の拳を強く強く握り込んだ。そうして、湧き上がってくる強い感情をやり過ごし、できる限り心を落ち着けて、座る。修行のため、今は小丸の曹司に置いてある碁盤に向かい、見つめると、宇宙という言葉が、心の中に立ち昇ってきた。

――「碁もまた、六壬式盤と同じく、宇宙に通じるものだ。十九路かける十九路の三百六十一目は、一年という時間を表し、四角い碁盤は地、丸い碁石は天で、空間を表す。時空とは即ち宇宙。また、黒と白という碁石の色は、陰陽を表す。六壬式盤を使う時同様、宇宙を俯瞰するつもりで、碁を打つといい」

 保憲が、小丸に碁の修行を始めさせる際に言った言葉が思い出される。

(そう言えば、さっき保憲が言ってた次の修行の内容は、道真が言ってたことと、似てるな……)

 今年の二月、小丸が再びこの賀茂邸に帰ってくる切っ掛けとなった怨霊事件で、相対した菅原道真の霊は、既成の刀禁咒を唱えた小丸に対し、嘲笑って言った。

――「どうせ咒を唱えるならば、あちこちから引いてきた詞をそのまま唱えるのではなく、もう少し己で考えた咒を唱えよ。はったりであるならば、相手に通じ易い言葉で唱えねば意味がなく、また、己がある程度信じておる事柄でなければ、幾ら唱えようと真に力ある咒になぞならぬ」

 それで、小丸は刀禁咒を自己流に変えて唱えたのだ。

――「われはこれ天地を結ぶ宇宙軸なり、執り持つところの刀剣は、不祥を滅せしむ、この刀はわれ観想し集約せし小宇宙なり、この刀一たび下さば、何の鬼か走らざらん、何の病か癒えざらん、千の殃万の邪、皆隠れ滅び消ゆ、われ今刀下す、急ぎ急ぎ律令の如くせよ!」

 あの時は無我夢中だったが、今思い返してみると、あれが、言葉を理解し、先人の知恵に学び、宇宙の理を感じて、己や他の力を、最大限引き出して使うということ、言葉を己のものとするということだったのだ。

(あれが、いつでもできるようにならないといけないのか……)

 難しい。が、何故か、あの時の感覚を思い出すと、身の内に力が漲る気がする。意識的にできるようになりたいと思う。保憲を助けるためだけでなく、己の力をうまく使う喜びのようなものを、小丸はふと感じた。


            ◇


 雨音の向こうで、郭公(ほととぎす)が鳴いている。南廂に座ったひぐらしは、保憲の浄衣を繕う手を止め、簾と格子越しに、昼だというのに薄暗い外を見た。五月に入って六日目の今日は、朝は爽やかな五月晴れで始まったのだが、巳の時からまた五月雨(さみだれ)が降り始め、じめじめとして、温い空気が流れている。物思いには打ってつけの空模様だ。


  五月雨(さみだれ)物思(ものおも)ふわれに郭公(ほととぎす)(こころ)しあらば(こえ)なきかせそ

  〔郭公の声は憂鬱な物思いを誘うから、五月雨に物思いをするわたくしに、郭公よ、心があるならどうか声を聞かせないで〕


 多くの先達と同様の心を歌って、ひぐらしは溜め息をついた。妹の保憲は、陰陽得業生としての生活を続け、時には、今日のように、体調の悪さを隠し、無理をして出仕する。そんな保憲を、小丸も、式神の白君も、気遣い、或いは心配している。ひぐらし自身も、男として、陰陽師として生きる妹が、心配だ。その内、過労で体を壊したり、鬼神の類に取り返しのつかない傷を負わされたりするのではないかと、気が気でない。けれども、これが、保憲の選んだ道なのだ。

(お母様――、あの子のこと、ずっと守って下さいね)

 ひぐらしが四歳の時、何も告げずこの邸を出ていった母。桂女だった母。その母が、近頃、妙な動きをしている。

 今までも、時折、母がひぐらしの夢枕に立つことはあった。しかし、小丸の前に姿を現して、仁和寺の寛朝と出会うよう仕向けるなど、今までにないことをし始めている。そして、一言主の祟りの時も、秦河勝が百鬼夜行を誘った時も、その寛朝が関わり、保憲、小丸の助けとなってくれた。また、保憲、小丸は、寛朝がこっそり里帰りするのを手伝ってもいる。

(お母様は、寛朝様のお力を知っていらして、わたくし達を助けて下さる方と見込まれたということよね……?)

 それとも、母には、もっと具体的に、これから起こることが分かっているのだろうか。

(もし、巫としてのお力で、先のことを知る術をお持ちなのだとしたら)

 一言主の祟りや百鬼夜行より困難なことが、保憲や小丸を待ち受けているのだろうか。

(わたくしにも、もっと何か、あの子達のためにできることはないのか、お教え下さい……)

 しとしとと雨が降り続く中、物思いは暗澹たる方向へと流れていく。ひぐらしは、軒に並べて下げた薬玉(くすだま)を見上げた。不浄を祓い、邪気を避ける効果のある薬玉。自ら、五色の糸で菖蒲と(よもぎ)を縫い綴って作ったものだ。五月五日の昨日、慣習に則って、去年作った古いものと新しいものとを取り替えたのだが、今年は作り過ぎ、例年になく多く下げている。しかし、風に揺れるそれらは、彼女が擁く恐れの前にはあまりにもささやかで、不安だけが募るのだった。


          四


 陰陽頭と陰陽助、陰陽権助は、陰陽博士と天文博士も交えて、今回の百鬼夜行への陰陽寮としての対応策を決める話し合いを続けている。その傍らで、保憲達陰陽寮の他の面々は、寮に待機してできる仕事をしていた。対応策が決まらない限りは動きようもないのが、官人というものである。とりあえず、今夜は陰陽頭から陰陽生、天文生までが寮に詰めて宿直するという方針だけは打ち出されているが、それ以上のことはこれからの話次第だ。必然、文机を並べて周易を写す陰陽得業生三名と陰陽生十名の話題も、それに関することに終始した。

「とにかく、絶対、普通の百鬼夜行じゃない」

 名嗣が、筆を動かしながら口も動かす。

「京の鬼どもは、古株で、自分の居場所から絶対動かないって奴以外、ほぼ全てがこの前消えたはずだ。それから生まれた鬼もいるだろが、百鬼夜行なんて数になる訳がない。鬼どもは、京の外から入ってくる、それも、意図的に連れ込まれるって考えるべきだ」

 確かに、と保憲も黙して思う。

 鬼となった秦河勝が、そこら中の鬼を誘って作った百鬼夜行を、龍の八を呼んで消し去ったことで、京に溜まっていた穢れは祓われ、京の鬼達の殆どは消えたはずなのだ。それから何日も経っていないというのに、百鬼夜行が現れ、あろうことか内裏に押し寄せるという。

「しっかし、何で内裏に来るのか――内裏を狙うのかが、謎だな……」

 ほぼ一人で話しながら、名嗣は首を捻る。それは、この場にいる誰もに共通した思いだろう。

「……やはり、どなたかが、帝を呪詛し奉っているのでしょうか?」

 十五歳の陰陽生、布留満樹(ふるのみつき)が、我慢しきれないといった様子で、口を開いた。十人いる陰陽生の中で、一番でしゃばりな性格をしている少年だ。

「こら、満樹(みつき)!」

 同じ十五歳の陰陽生、中原善益(なかはらのよします)が驚いて注意したが、満樹のほうは、単なる陰陽生の身で陰陽得業生の話に口を挟んだ上、最も畏れ多いことを口にしたことを、後悔はしていないようだ。

「滅多なことを口にするな!」

 名嗣がきつい口調で窘めたが、そこで時人が、まるで満樹を庇うかのように呟いた。

「……畏れ多いことだが……、そう考えるのが筋だ……」

 保憲も最近気づいたのだが、時人は、誰に対しても優しい。どちらかと言えば寡黙で、あまり笑ったりもせず、茫洋とした話し方をするので、人嫌いのように見えるのだが、同じ得業生(とくごうしょう)として近しく付き合ってみると、素っ気無さそうな態度の中に、優しさがあるのだ。おまけに純情と来れば、宮中の女官達に人気があるのも頷けるというものだ。

「或いは……」

 寡黙な時人が、珍しく長く言葉を続ける。

「そう見せかけて、誰かを陥れる罠かもしれない……」

 しん、と場が静まり返った。

「――内裏に百鬼夜行なんかが入って、得をするのは誰かって話だな」

 再び口火を切ったのは、やはり頭が働くと同時に口に出る名嗣である。

「内裏に百鬼夜行が入った場合、恐らく、言われることは二つ。今上の徳に問題がある。内裏の守りに問題がある。この二つだ。今上の徳に問題があるって言って得をするのは、皇位継承権のある皇族とその外戚だろが、今の御世じゃ、考えにくいな」

 東宮は、今上の同母弟の成明親王なのだ。その次の東宮と言っても、今の皇太后穏子と、その後見たる藤原忠平を凌げる勢力はいない。

「ってなりゃ、内裏の守りに問題があるって言って、得する奴は誰か、だな」

 百鬼夜行などの怪異から内裏を守る任を負っているのは、彼ら陰陽寮と、神祇官である。

 神祇官は、天神地祇(てんじんちぎ)の祭を司り、全国の祝部(はふりべ)を支配する官だ。神の国であるこの国で最も重んじるべき官として諸官の上に置かれている。太政官(だいじょうかん)と並ぶ朝廷の最高機関だ。太政官中務省の陰陽寮に属する保憲達とは、全く所属の異なる者達なのである。そして、神祇官と陰陽寮とは、仲が悪い。どちらも、祭や(うら)を行ない、職掌が重なるからだ。当然、重んじられるのは、神祇官のほうだが、最近では陰陽寮も随分重んじられるようになってきたため、神祇官のほうが形骸化しかねないと、伝統的に神祇官に出仕してきた、中臣(なかとみ)氏やその主流の大中臣(おおなかとみ)氏、斎部(いんべ)氏、卜部(うらべ)氏の者達は、危機感を持っているとも聞く――。

「神祇官の奴らが、陰陽寮は当てにならないって言って、何かやらかしてるのか……? けど、百鬼夜行が内裏に入っちまったら、真っ先に責を問われるのは、あいつらだしな……」

 名嗣が保憲と同じ結論をぼやくように言った。これも最近気づいたことだが、名嗣の推察する時の思考回路は、保憲と似ている。声に出して自分の考えをまとめる癖のある名嗣の言葉を聞いていると、大抵、保憲の思考と重なっているのだ。性格は、全く違うのだが――。

(となれば、疑わしいのは、陰陽寮の誰かなのか……?)

 あまり考えたくはないことだ。だが、これで百鬼夜行が現れ、それを退ければ、陰陽寮の評価は一気に上がる。そして、その場合、百鬼夜行を故意に導いた者として最も疑わしいのは、式占で百鬼夜行の発生を予告した、父の忠行だ。確かに、父には、それが可能だろう。けれど。

(あの父上に限って、それはない……)

 官僚として、それなりの打算はしても、生来潔癖で良心の塊のような父だ。一線を越えることは絶対にしない。

 保憲は、沈黙を守ったまま、さらさらと筆を走らせ続けた。


            ◇


 午の時に止んだ雨は、未の時になって、また細々と降り始めた。

 午前中、時人と名嗣、陰陽生らとともに写本に専念した保憲は、その雨の中、忠行とともに内裏へ――清涼殿へ呼び出された。天皇御所たる清涼殿へ行くのは、今年二月の、菅原朝臣も関わった、かの天皇不予の折以来である。

「陰陽頭様は、このお召しを御存知なのでしょうか?」

 内裏への道すがら、低い声で問うた保憲に、前を歩く父、忠行は、苦い声音で答えた。

「御存知ではいらっしゃる。此度のことも、蔵人頭様から陰陽頭様に御下命のあったことだからな。ただ、最初からわしとおまえを名指しであったというから、御不快ではいらっしゃろうな」

「そうですか……」

 予想通りだ。蔵人頭は、天皇の側近であり、その意を受けて動く。前回は忠行を名指しだった。今回は、前回のこともあって、忠行に加えて保憲も名指ししたのだろう。今上というよりは、その母后の穏子の意向だろうが、陰陽寮を仕切る陰陽頭の面子を考えていない。天皇の要請に応じて、誰を赴かせるか決めるのは、陰陽頭の職分だ。天皇や皇后といえど、それを侵すべきではない。蔵人頭はその辺りを分かっているのだろう、直接忠行には命じず、陰陽頭を経由することで、ぎりぎり筋を通す形は保っている。だが、陰陽頭葛木宗公の不快感は拭えないだろう。

(また、真木様と顔を合わせにくくなるな……)

 義母の真木は宗公の娘。なかなか、穏やかな関係とはなれそうもない――。

「ここからは、わたしが案内致します」

 修明門(しゅめいもん)を入ったところで、声をかけてきた雑色の少年に、保憲は目を瞠った。藤原重輔である。が、重輔は、忠行の手前もあってか、仕事中だからか、余計な口は一切利かず、澄ました顔で二人を先導し始めた。保憲もまた、素知らぬ顔で、忠行とともにその後について、武徳門(ぶとくもん)へ回って内裏の中へ足を踏み入れる。

 五月節会から一夜明けたばかりなので、内裏に入った途端、どこからともなく菖蒲や蓬の香が風に乗ってきて鼻先を掠めた。例年通り、五月に入って、六衛府即ち、左右の近衛府、兵衛府、衛門府から薬玉の料として献じられ、紫宸殿の南階(みなみきざはし)の東西に輿に盛って立てられた菖蒲と蓬は、四日には清涼殿の朝餉間(あさがれいのま)の前の庭に移され、その夜には、諸殿舎の屋根に葺かれたり、薬玉となったりして、今や内裏の至るところに香っている。そして昨日、五日の五月節会では、今上が武徳殿(ぶとくでん)に臨御なされて、宮内省(くないしょう)典薬寮(てんやくりょう)から菖蒲が献上された。群臣は菖蒲鬘(あやめのかづら)を着けて参列し、女蔵人(にょくろうど)から薬玉を賜った。内裏に溢れた菖蒲と蓬の香は、邪気の入り込む隙など少しもないと思われるほどだ。

 重輔の案内に従い、蔵人所町屋(くろうどところまちや)に沿って歩いていくと、校書殿(きょうしょでん)が右に見えた時、蔵人所(くろうどどころ)たるその西廂(にしびさし)から、またも見知った人物が歩み寄ってきた。保憲をはっきりと認めて、にこりと微笑んだのは、重輔の兄、藤原元輔(ふぢわらのもとすけ)である。凛々しい顔立ちの重輔より、やや柔和な顔立ちの元輔は、穏やかに告げた。

「ここからは、非蔵人のわたしが案内致します」

 そういうことか、と保憲は理解した。雑色と非蔵人は、ともにいずれ六位蔵人になれる身分だが、雑色は昇殿を許されず、非蔵人は蔵人同様に昇殿が許されているのだ。

「これは、元輔殿、御苦労様です」

 無位の非蔵人に対するというよりは、藤原氏の御曹司に対する忠行の言葉に頷き、元輔は雑色の弟に目配せして、保憲達の先に立ち、歩き始めた。ここまで保憲達を案内してきた重輔は、型通りに一礼して初めて、保憲に親しみの籠った目を向けると、名残惜しげに校書殿へと去っていく。成るほど、蔵人所というところは多忙だが、兄弟ならば、阿吽の呼吸で連携できるのだろう。

 元輔に導かれるまま、保憲達は、神仙門(しんせんもん)から清涼殿の小庭(こにわ)に入り、無名門(むめいもん)から祟仁門(すじんもん)を経て、南廊の向こうの、土間になっている馬繋廊に上がった。行く手を横断する板敷きの長橋(ながはし)には、色鮮やかな女房装束を纏った一人の女官が控えている。掌侍(ないしのじょう)の第一﨟で、奏請、伝宣を司る勾当内侍(こうとうのないし)だろう。よく長橋に控えているので、長橋局(ながはしのつぼね)などとも呼ばれている重要な官だ。

「頭の中将様、既にお待ちでございます」

 告げられた言葉に、元輔が頷き、長橋に設けられた切馬道(きりめどう)を通って、清涼殿の東庭へと、忠行と保憲を導いた。保憲がちらと見た清涼殿の孫廂には、優雅に胡座を掻き、顔に檜扇を翳した、衣冠姿の歳若い男がいる。袍の色は五位を示す浅緋(うすきあけ)色。

(頭の中将)

 蔵人頭兼右近衛権中将藤原師輔。彼が任じられている近衛中将という官は従四位下(じゅしいのげ)相当なのだが、彼自身は現在正五位下(しょうごいのげ)。官に位が追いついていないのである。それだけ、実務能力があるということか。蔵人所の長官たる蔵人頭も兼任し、元輔や重輔の叔父であり上司である存在。三月の曲水の宴で話す機会のあった藤原忠平の次男にして、見鬼の力も持つという血筋。

(正面切って会うのは初めてだな)

 庭の中ほどへ進んだ忠行と保憲は、清涼殿へ向き直り、ぬかるんだ地面の上に控えて頭を垂れ、言葉がかけられるのを待った。元輔は、東庭の西南の隅近くに植えられた河竹(かわたけ)の脇で控えている。未の時であり、寒くはないが、ささやかに降る小雨が袍をしっとりと濡らしていく。ここには、有名な呉竹(くれたけ)、河竹の他に、梅、柳、蓮、桜、萩、橘、撫子(なでしこ)、薄、松、棕櫚(しゅろ)、菊などが植えてあるが、辺りは、ひっそりとしていて、それらの葉に雨粒の当たる様々な音が響いていた。

「さて、来て貰ったのは、他でもない」

 やや勿体をつけて、師輔(もろすけ)が口を開く。

「忠行、そなたが占った百鬼夜行について、直接聞きたい。無論、陰陽寮からも、兵衛府からも衛門府からも意見は上がっているが、書面では、今一つ伝わらんことも多いからな」

「分かりました」

 忠行は頷くと、難しい顔をして語った。

「今夜百鬼夜行が生じるとすれば、それは自然発生的なものではございませぬ。このところ、京中の鬼は、減っておりました。ところが今朝方の占いでは、急に百鬼夜行が生じ、鬼どもは、南から真っ直ぐ内裏へ至ると出ました。恐らく、左右衛門府の守りを破って朱雀門から入り、左右兵衛府の守りも破って宮門の正門たる建礼門(けんれいもん)を入り、閤門の正門たる承明門(しょうめいもん)の守りも破るということでございます。大内裏に入り、更には内裏目指して真っ直ぐに正門ばかりを通って侵入するなど、自然発生的な百鬼夜行にはあり得ぬことでございます。何者かが、意図的に鬼を導くか、或いは、鬼どもに何か明確な理由があると考えるしかありませぬ。以上のことから、現在、われら陰陽寮が総力を挙げて調べていることは二つ。一つは、鬼を導く者がいるなら、それは何者か。もう一つは、鬼どもに何か理由があるならば、それは何か。或いは、この二つの答えは、重なるものであるかもしれませぬ」

「成るほどな」

 短く、溜め息のように相槌を打ち、師輔は、保憲へと視線を転じる。

「保憲とやら、そなたも、同じ意見か」

「は――」

 保憲は一瞬だけ顔を上げて、深々と頭を下げた。別の意見などあろうはずもない。あったとしても、口にするはずがない。父であり上司である忠行と異なる見解を述べるなど、する訳がない。或いは、そこのところを探られたのだろうか。

「そうか」

 軽く頷いて、師輔は、忠行に視線を戻す。

「では、その二つのこと、早急に調べよ。内裏に百鬼夜行が入るなど、あってはならんことだ。陰陽寮の威信に賭けて、必ず防げ」

「分かっております」

 忠行は陰陽博士としての意地を滲ませて答えた。

「――頭の中将、もうそのくらいでよいか」

 不意に、幼い声が響いた。

「御上より、お言葉を賜ります。謹んで聞くように」

 長橋から落板敷、鳴板(なるいた)を踏んで、孫廂に移動した勾当内侍が、慌てたように言い、忠行と保憲は、それまで以上に身を低くした。

「久しいな、忠行、保憲」

 声の主は、孫廂の奥、簾に隠された東廂にある平敷御座(ひらしきのおまし)にいらっしゃる。恐らく先ほどまで、その奥の母屋にある獅子と狛犬に守られた帳台の中にいらしたのだろう。その辺りは、昼御座(ひのおまし)と呼ばれる、天皇の昼間の居場所なのだ。二月のあの折以来、この清涼殿にはお住まいにならず、母后のおられる飛香舎で寝起きをされているらしいが、政務の時などは、ここへお出ましになるのである。

「そなたらがこの隣の二間におった数日が懐かしい。また会いたいと思うておったのだが、いろいろとあって、時が経ってしまった」

 その(いみな)は寛明。御年十一歳の、未だ元服もしていない今上。先帝の第十一皇子にして、皇太后穏子の第三子。つまりは、かの保明親王と、御年十五歳の康子内親王の弟であり、御年八歳の東宮成明親王の兄でもある。

「二人とも、健やかであったか?」

「――はい。畏れ多いことにございます」

 忠行が顔を伏せたまま答えるのに合わせて、保憲も顔を伏せたまま、額が地面に着くほどに頭を下げた。

「そうか、それはよかった。わたしも健やかだと言いたいところだが、少々(わらわやみ)を患っている。その上、大内裏に百鬼夜行が現れるという。わたしの徳に、何か問題があるのかと、気が滅入ってしまう」

「そのようなことはございません」

 すかさず師輔が、傍らから幼い今上を慰める。

「御上は、素晴らしい徳をお持ちでいらっしゃいます。瘧は、お疲れが溜まっていらっしゃるせい。百鬼夜行が現れるとしても、何かよからぬモノがこの京に入り込んだせいでございましょう。それもすぐ、この者達が原因を突き止め、解決致しますゆえ、どうか、御心配なさいませぬよう」

「そうだな。この者達は優秀だ。中務卿(なかつかさきょう)の宮の御指導がよいのだろう」

 今上は、異母兄の中務卿代明親王(よしあきらしんのう)を持ち上げておいて、ふと悪戯っぽい口調になる。

「では、保憲、此度の百鬼夜行も解決して、暇のできた折は、こっそりと遊びに参れ。二間でなくともよいぞ。藤壺上御局(ふぢつぼのうえのみつぼね)弘徽殿上御局(こきでんのうえのみつぼね)は、五月(さつき)精進(そうじ)の間だろうとなかろうと、空いておるしな」

 童らしいのか、らしくないのか分からない言葉を残して、今上の気配は、奥へと去っていった。二間は仏間で、夜居の護持僧が伺候するところだが、藤壺上御局と弘徽殿上御局は、后妃の伺候するところで、清涼殿に住んでもおらず、元服もまだの今上には必要のない部屋なのだ。

「お言葉はここまでです」

 勾当内侍の言葉を受け、忠行と保憲は、孫廂に座ったままの師輔の様子を窺う。師輔は暫く無言で扇を開いたり閉じたりしていたが、やがて河竹の傍に控えた元輔に向けて言った。

「元輔、後は頼んだ」

「はい」

 元輔は頭を下げると、忠行、保憲に向かって言った。

「お二人とも、これにて退出です」

 再び二人を先導し来た道を戻った元輔は、校書殿のところで足を止め、振り向くと、声を潜めて言った。

「御上は、戯れ言のように仰せられましたが、われら蔵人所の者と同じように、傍近くお仕えする陰陽師をお求めです。官として新たに置くには、時もかかり、中務卿の宮様や陰陽頭も快くは思われないことでしょうから、直接的には仰せられませんが、どうか、お言葉を汲んで、保憲殿には、内々に……、お願いしたいのです」

 保憲は予想外のことに内心動揺しつつ、判断を請うて忠行を見た。自分はあくまで陰陽寮の所属であり、天皇といえど、私的に使うことはできない身分である。天皇個人の身の回りのことをするため設けられた、令外官(りょうげのかん)の蔵人とは根本的に違うのだ。ところが忠行は、首を横には振らず、低い声で言った。

「あくまで内々ということなら……、御上のお健やかなることは、世の安寧に繋がりますからな。いいな、保憲」

「――はい」

 そういう考え方もあるのだろう。保憲は、葛藤を飲み込んで、頷いた。

「では、宜しくお願いします」

 やや気遣う表情を見せつつ、元輔は会釈をすると、蔵人所へ戻っていった。

 陰陽寮へ帰る道すがら、小雨の向こうに父の背中を見て歩きつつ、保憲は口の中で呟いた。

「御上が、お心弱くなられることについては、あなた様の責任もありましょう。あなた様は、あの幼いお方を苦しめ続けて、お心が痛まぬのですか」

 すぐ傍に近づいた重々しい気配――怨霊は、突き放す口調で言った。

「わしは、無念の内に死んだ。心なぞ、痛まぬわ。それに、あのお方は、感じ易過ぎ、弱過ぎる。わしがここに留まるだけで、体に不調を来たすなぞ、神と等しく在り、この朝廷を束ねる御位には相応しくないお方よ」

「随分な仰りようですね」

「今上では、北家藤原氏の専横を抑えられぬ。氏の長者の忠平には、確かに政を担う力があるが、その子孫にまで、余計な権力を与えてしもうておる。それどころか、あの弱さでは、百鬼夜行を越える災厄を呼ぶやもしれぬ」

「何か、お心当たりでもありますか」

「太秦の辺りも何か言ってきたのであろう? 今上を守りたくば、東国の動きに気をつけることだ。それに西国にも気を配っておくがよいぞ」

 太秦とは、かの秦河勝のことだろう。

――「人ノ思イガ積モリ過ギタ。積モリ積モッテ、澱ヲ生ンダ。――平ラゲ、マサニ帝タラントスル者。――東国。既ニ、コノ地ヘモ暫ク来テイタコトガアル。――コノ地ハ守ラレネバナラヌ。澱ヲ遠ザケネバナラヌ。流レノ乱レヲ正シ、穢レヲ清メネバナラヌ。ユエニ、乱レヲマトメ、穢レヲ集メ、百鬼夜行トシテ(イザナ)イ、ソナタラヲ待ッタ。――流レノ乱レヲ正シ、穢レヲ祓エ。ソナタハソノ法ヲ承知シテオル。ソレニヨリ、コノ百鬼夜行ハ収マリ、コノ地カラ暫ク澱ハ遠ザカル。ジャガ、一度現レシ澱ハ消エヌ。――耳ヲ澄マシ、力アル者ヲ集メ、時ヲ待テ。澱ヲ消シ去ルニハ、ソナタラノ力ガ要ル」

(やはり、あれは、そういうことか)

 確信しつつ、保憲は問いを重ねた。

「東国や西国のことなど、陰陽得業生に過ぎぬわたしに、何ができると仰るのですか?」

「ならば、そなたにもでき得ることを一つ教えてやろう。式占に出た百鬼夜行に関わることよ。神祇官の御巫(みかむなぎ)の中に、相応しくない女童が一人混じっておる。天皇(すめらみこと)の健康と鎮魂(たましづめ)を司る八座の神に仕える巫ゆえ、今上の守護の要の一つよ。これを見つけて、何とかしてやるがよい」

 言うだけ言って、気配は離れた。

 神祇官は、宮城門の一つ、郁芳門(いくほうもん)を入ってすぐ左、即ち大内裏の中では東南に位置する辺りに、東院(ひがしのいん)西院(にしのいん)とを有している。西院は斎院(さいいん)とも呼ばれており、その正庁の九間の内、三間は神殿として造られ、それぞれ神棚を設けて、二十三座の神々が(まつ)られている。御巫とは、それらの神々に奉仕する童女五人を言う。この内二人は、倭国巫と呼ばれ、天皇の健康と鎮魂を司る八座の神、即ち、神産日神(かみむすびのかみ)高御産日神(たかみむすびのかみ)玉積日神(たまつめむすびのかみ)生産日神(いくむすびのかみ)足産日神(たるむすびのかみ)大宮賣神(おおみやめのかみ)御食津神(みけつかみ)事代主神(ことしろぬしのかみ)に仕える。一人は、座摩巫と呼ばれ、大内裏の土地神である五座の神、即ち、生井神、福井神、綱長井神、波比祇神、阿須波神に仕える。一人は、御門巫と呼ばれ、大内裏の四方の門を守る八座の神、即ち、四面の門にそれぞれ一座ずつ坐す櫛石窓神と豊石窓神に仕える。残る一人は、生嶋巫と呼ばれ、大八洲(おおやしま)御霊(みたま)である二座の神、即ち、生嶋神と足嶋神に仕えるのである。

(つまり、相応しくない巫というのは、倭国巫のどちらか一人ということか。全く、どうせ教えて下さるんなら、もっと細かいことまで、包み隠さず教えて下さればいいものを。まあ、怨霊のあの方にそこまで求めるべきじゃないんだろうけれど)

「――菅原朝臣か」

 忠行が、振り向きもせず問うてきた。

「はい」

 保憲は硬い声で答える。

「今上はお弱過ぎる、北家藤原氏の専横や東国西国の動きに気をつけろ、と。そしてもう一つ、父上が占われた今夜の百鬼夜行に関わることとして、神祇官の御巫の中に、相応しくない者がいる。天皇の健康と鎮魂を司る八座の神に仕える巫なので、何とかしろ、と」

「倭国巫に問題があるということか。成るほど、今上の守りが弱くなっているのも、それで頷ける。菅原朝臣御自身も、それゆえ、お好きに動けるという訳か」

 忠行は、皮肉も交えつつ、考え深げに呟く。

「やはり、厄介なことになりそうだな。神祇官に、迂闊な手出しはできんが、放ってもおけん。おまえが調べよ。陰陽頭様には、わしから言っておく」

 父の言葉に、濡れそぼって尚、厳しさを漂わせる背中に、保憲は唇を引き結んだ。神祇官と陰陽寮、やはりこの二つの機関の確執が、今回のことの背景にあるのかもしれないと思われた。


          五


「今夜は、保憲は来ないのか?」

 傍らを歩く名嗣からの問いに、時人は軽く頭を横に振った。

「詳しいことは知らないけれど、別の仕事があると言っていた……。今日、帝に召されたことと関係があるかもしれないな……」

「無理しなきゃいいがな。しっかし、早くもお気に入りだな。出世間違いなし、か」

 松明を掲げた名嗣は、さほど嫌味でもない口調で言う。律令制度の下、官僚社会に生きる者にとって、出世とは、望んでしかるべきことだ。権力闘争や競争に疲れれば、出家なり隠遁なりすればいい。それまでは、ただ、上を目指して邁進するのみだ。

「んじゃ、おれも、出世の糸口を掴むため、今夜も鬼退治に精を出すとするか」

 独り言めいた言い方で締め括った名嗣に、特に言葉は返さず、時人は懐に忍ばせた白黒一個ずつの碁石を媒介として、式神を呼び出した。

「翅鳥、鵜と鷺を使って、この辺りに鬼が出ていないか調べてくれ」

「分かりましたわ」

 優雅に答えて、美しい女の姿をした碁盤の化身の式神は、纏った袿の袖を振る。すると、袿に描かれたたくさんの鵜と鷺が次々に飛び出し、厚く垂れ込めた雲が上弦の月を覆い隠した闇夜の中、羽音を立てて、方々へ飛んでいった。

「今夜出ると思うか」

 名嗣が、真面目な口調に戻って聞いてきた。

「ああ」

 時人は確信を持って答える。

「こういうことについての忠行様の式占は、あまり外れないからね……」

「成るほどな……。また百鬼夜行のお相手か……」

 名嗣の相槌が、やや苦味を帯びた。その苦さは、時人にも分かる。鬼はつらい存在だ。それぞれ、何かしら、訴えたいことがある。けれど、感情移入はしていられない。同情は禁物だ。背負い切れないばかりか、命取りになる。

 暫く黙々と歩いてから、時人はふと思いついて口を開いた。

「鬼と言えば――、東洞院(ひがしのとういん)鬼殿(おにどの)にも、新しい鬼について御存知ないか、伺ってみるか……」

 三条大路(さんじょうおおち)の北、東洞院大路(ひがしのとういんおおち)の東の角には、古い霊がいる。まだ、奈良に都が置かれていて、この辺りがただの村落だった頃、そこには大きな松の木があった。ある日、やなぐい(、、、、)を背負って馬に乗った男が、その松の木の横を通り過ぎようとしたところ、俄かに雷が鳴り響き、雨が激しく降ってきた。男は、馬から降りて、松の木の下で雨宿りを始めたが、そこへ、雷が落ちたのである。松の木諸とも、男も馬も引き裂かれ、死んだ。そして男は霊となり、都が移ってきて人家ができた後も、その場に居続けていて、たびたびよくないことを引き起こしているのである。ただ、話ができないほどの悪霊ではないので、陰陽寮は、こういう時の情報源の一つとして、ある程度のことには目を瞑って、放置しているのだ。

「今夜は機嫌がいいといいけどな」

 名嗣の返事に、時人は告げた。

「以前、長年の無聊をお慰めするために、碁のお相手をしてから、気に入って貰っている……。多分、大丈夫だよ」

「さすが、平素からの準備に抜かりがないな」

 名嗣は、呆れたような口調で言った。

 三条東洞院に着くと、「鬼殿」と通称される男の霊は、すぐに姿を現した。手入れのされていない、木の生い茂った暗闇に、ぼうっと粗末な衣と袴を着た姿が浮かび上がり、口を開く。

「ヨオ、時人。今夜モ仕事カ」

「はい。それで、少しお伺いしたいことがありまして……。今夜、また百鬼夜行が生じるという式占が出たのですが、何か、御存知ないでしょうか」

 時人が丁寧な口調で問うと、霊は、つまらなそうに答えた。

「アア、ソリャ、奴ノコトダロウ。鬼ニ慈シマレル性ノ奴ガ都ニ来テルッテ、昨日カラ、鳥ヤ獣、木霊(コタマ)ノ間ジャ専ラノ噂ダ。マダ都ニイルハズダゼ? アノ性ノ奴ニ会ウト鬼ハ無条件ニ従ッチマウ。右京ノホウニイルラシイガ、コッチノホウニ来ラレテタラ、オレモ、危ナカッタゼ」

「その、鬼に慈しまれる性の奴というのは、人ですか……?」

「アア、人ダ。タダ、人並ミニハ生キラレネエ性ダガナ」

「分かりました。貴重な情報をありがとうございます」

 時人が会釈したところへ、式神の鵜が一羽舞い戻ってきた。鵜は、少し離れて控えていた翅鳥の手に留まり、一声二声鳴いてから、するりと袿の紋様に戻った。

「見つけましたわ。朱雀大路を大内裏へと進んでいます。こちらもこのまま朱雀大路へ出れば、出会えますわ」

 翅鳥は嫣然と微笑むと、時人達の先に立って、三条大路を西へと進んだ。

 烏丸小路(からすまろこうぢ)室町小路(むろまちこうぢ)町尻小路(まちじりこうぢ)西洞院大路(にしのとういんおおち)油小路(あぶらのこうぢ)堀川大路(ほりかわおおち)猪熊小路(いのくまこうぢ)、大宮大路、櫛笥小路(くしげこうぢ)壬生大路(みぶおおち)、坊城小路と過ぎ、朱雀大路に出たところで、翅鳥が足を止め、いつもは顔を隠している衵扇で、大内裏とは反対の南を指し示した。

「あちらに」

 朱雀大路の幅は二十八丈。この闇夜では、向こう側も見えない。その広大な大路が彼方の羅城門へと真っ直ぐ続いていく深い闇の先に、成るほど、漂う鬼火が幾つも見える。肝の冷えるような、しかも雑然とした気配がする。それらが、段々と、近づいてくる。

「本当に、あれを、生身の人が率いてやがるのか?」

 松明の灯りの中、名嗣が顔を引きつらせながら、小声で言った。

「鬼殿は、嘘は言わないよ……」

 素っ気無く答え、時人は鬼火の漂う辺りへ目を凝らした。――いる。鬼達の中に紛れることなく、鬼火にふわふわと照らされて先頭を歩いてくる、細身の人影。

「間違いなく、あの者の周りに、鬼が群れていますわ」

 翅鳥が請け負った。

 時人はすぐに人影の観想を始めた。まだ遠く、しかも鬼火の光だけが頼りなので、顔は分からないが、水干を纏った背格好からして、自分達より僅かに年上の青年に見える。髪を後ろで束ねた童姿で、腰には、無骨な打刀を帯びている。

(確かに、鬼でも霊でも狐でもない。人……)

 気配は、鬼殿の話の通りだ。

「松明消して、隠れたほうがいいか?」

 名嗣の問いに、時人は首を横に振った。

「いや、どうせ気づかれる。それに、おれ達の仕事は、あいつらを止めることだ……」

「そうだな」

 名嗣は開き直ったように溜め息をついた。

 やがて声が聞こえる距離まで近づいてきた青年に、時人は、おもむろに問うた。

「この鬼達を率いているのは、おまえだな……?」

 ゆっくりとこちらを見た青年の、漂う鬼火と名嗣の松明の灯りに浮かび上がった顔は、女かと見紛うほど、整っていて美しかった。

「なら、どうする……?」

 青年は、真っ直ぐに時人達を見つめて問い返してきた。あまりにあっさりした答えに、鼻白みつつ、今度は名嗣が言った。

「おれ達は陰陽寮の陰陽得業生だ。どんな術を使ってるのか知らないが、鬼を集めたら駄目だろ。何が目的だ」

「内裏へ行く。妨げるなら、何者であれ、容赦はしない」

 青年は、特段の敵意もなく、淡々と告げ、足を止めることなく、時人達の目の前を通り過ぎていく。鬼達も、ざわざわとついて行く。

「内裏へ行って、何をするつもりだ……?」

 時人が重ねた問いに、青年はちらと目線だけくれて答えた。

「大事な用がある。おまえ達に言うつもりはない」

 取りつく島もない。

「本気で内裏へ行くつもりらしいぜ。実力行使で止めるか?」

 名嗣の問いに、時人は鬼達を見つめて考えた。余ほど周到な準備をしてこない限り、自分達二人では、これだけの数の鬼を相手にはできない。しかし、このまま行かせる訳にもいかない。

「仕方ないね……。内裏へ行くまでに、少しでも力を殺ぐ」

 その間に探れることもあるはずだ。時人の判断に、名嗣も難しい顔で頷くと、高らかに呼んだ。

「来たれ、毒粉の親族、毒牙(どくきば)の親族!」

 すぐに虚空や地面から、無数の蛾と蛇の霊が、ぱたぱた、しゅうしゅう、と現れる。毒牙の親族とは、蛇のことなのだ。続いて時人も、懐に忍ばせた黒と白の碁石に触れ、唱えた。

「十九路十九路の祭。桂馬(けいま)の陣……!」

 桂馬とは、碁で、自分の石から二つ前方の、左右どちらかに打つことである。

「お呼びか」

 低い声とともに現れたのは、翅鳥とお揃いの鵜と鷺の紋様の狩衣を纏った男の姿の式神である。

桂馬(けいま)、狙うのは、鬼を率いるあの男だ」

「承った」

 答えると、桂馬は、朱雀大路の真ん中を進んでいく鬼達へ向かって駆けた。察した鬼達がすぐにこちらを向いて、自分達を率いる青年を守るように、桂馬へと立ち向かう。が、桂馬の姿がふっと鬼達の眼前から消えた。直後に桂馬が現れたのは、まさに、鬼を率いる青年のすぐ背後である。桂馬は、翅鳥とは異なり、眼前の相手をかわすのだ。

「雁!」

 鬼の一人が叫び、桂馬と青年との間に飛び込もうとしたが、間に合わない。桂馬がすっと伸ばした手が、振り向いた青年の首を正面から掴んだ。直後、その桂馬の腕が、肘の辺りですっぱりと断ち切られる。振り向きざまに打刀を抜き放っていた青年が、最小限の踏み込みと腰の捻り、手首の返しで斬ったのだ。

「見事」

 右腕の半ばから先を失った桂馬は、一言言って跳び退り、時人の傍らへ戻ってきた。

「あの子、強いですわね」

 ずっと時人の背後に控えていた翅鳥が、舌なめずりしそうな顔で呟いて前へ出る。その時には、鬼の全てへ、名嗣の蛾と蛇とが襲いかかっていた。

 飛び回る蛾の霊達の羽の毒鱗粉が、鬼達の目と鼻と口を襲い、地を素早く這い回る蛇の霊達の毒牙が、鬼達の足や手に食らいつく。霊と鬼ならば、いい勝負なのだろう。鬼達は、或いは目を覆い、或いは咽を押さえ、或いは膝をついて、虫達から更なる攻撃を受けている。

(さすがだな……)

 時人は、同輩の力に、胸中で称賛を贈った。名嗣の力には、からくりがあるのだ。相手の青年もそれに気づいたらしい。

「成るほど」

 不意に声に出して言う。

「鬼達とて元は人。毒など効くはずもないが、生きていた頃の記憶で惑わしているのか」

「見破るのが早いな」

 名嗣はにやりと笑う。

「まあ、おれができるのは、これだけじゃないんだが、多勢の鬼を相手にするには、これが一番手っ取り早いからな」

 ほんの浅く観想した相手の精神に入り込み、虫に対する恐怖という原始的な部分を、虫達の実際の姿と霊の力を用いて刺激するのだ。過日、百鬼夜行の調査に出た時にも、名嗣が用いた術である。

「ならば、これではどうだ」

 青年は、素早い刀捌きで、辺りの蛾と蛇と次々と斬り捨てていく。同時に。

「鬼に虫の毒など効かない」

 厳然とした事実を言って、鬼達を落ち着かせ、名嗣の力から解放していく。

「面倒だな」

 名嗣は呟いて、次の手に出た。即ち、鬼達にではなく、虫達の霊に力を注ぎ始めたのである。

「んじゃ、これならどうだ?」

 途端、蛇達は長大になって鬼達に巻きつき締め上げ、蛾達も巨大化して自ら鬼達の顔に張りつき始めた。名嗣の力で魔物と化したのだ。

「確かに毒は効かないかもしれないが、力技なら、充分通用するだろ?」

「さすが陰陽寮、と言うべきか」

 素直に実力を認めつつ、青年は更に打刀を振るい、魔物化した虫達を斬り伏せていく。

(鬼達より、やはりあの人のほうが厄介だな……)

 時人は前に立つ翅鳥へと力を注いだ。

「翅鳥の陣……!」

 即座に、翅鳥は袿をはためかせ、青年へと迫った。気づいた青年が振るう打刀を掻い潜って、翅鳥の袿から飛び出した鵜と鷺が襲いかかる。間断ない嘴と爪の攻撃に、青年の皮膚のあちこちから、血が滲み出した。

「コノ鳥ドモ!」

 鬼の何匹かが、青年を庇って鵜と鷺を手で打ち落としにかかるが、追いつかない。

(いけるか……?)

 時人が望みを擁き始めた瞬間、青年が無言で力を解き放った。今までただ鬼達に取り巻かれていただけであったのを、鬼達へ力を注ぎ始めたのだ。轟、と辺りを圧するような気配が満ち、俄然鬼達の勢いが増して、戦いの様相は一変した。

(これが、この人の本気か。やはり、おれ達二人だけでは無理だな)

 時人は、すぐに翅鳥と桂馬を引かせた。遅れず、名嗣も虫達を引かせた。これ以上は、時人、名嗣の力で守れなくなる。

「――それが、おまえ達の弱味か」

 冷ややかに青年が言って、打刀を腰の鞘へ納めた。

(そう)

 時人に返す言葉はない。名嗣も同様だろう。時人の式神たる翅鳥と桂馬も、名嗣の虫の霊達も、一定以上に傷つけば消えてしまうのだ。時人は力を注いで翅鳥と桂馬の傷を癒すし、名嗣は力を注いで虫の霊達ができるだけ傷つかないよう庇うが、力が及ばなくなれば、そこまでだ。そして、時人も名嗣も、己の使うモノ達が消えることをよしとしない。それを弱味と言われれば、そうなのだろう。

「甘いことだ」

 斬り捨てるように言って、力をも納め、青年は、再び大内裏へと歩き始めた。その後ろへ、ぞろぞろと鬼達がついて行く。幸い、鬼達は青年に従順に従うばかりで、戦った時人達にも敵意は持たなかったようだ。

「――暫くは、動けないぜ」

 ぽつりと言って、名嗣がその場にどさりと座り込んだ。時人を青年に集中させるため、鬼達全てを相手にして、かなり力を消耗したのだろう。

「おれもだ……」

 時人も同じように腰を下ろした。攻撃にそれほど力を使った訳ではないが、桂馬の斬り落とされた右腕を再生させるのに、力を消耗してしまった。

「で、あいつは一体何なんだ?」

 名嗣の問いに、時人は、晧々とした月明かりの下、立ち去る鬼の群を見遣りながら答えた。

「雁、と呼ばれていたな……」

「ああ。童名だろうな」

「人であることは確かだ」

「だが、あの力。まともじゃないぜ」

「あの力は、おれ達の力に似ている。多分、鬼に慈しまれる性……。おれは、木石や物具に慕われる性、おまえは、虫や獣に恋われる性。それと同じことだろうな……」

「そんな性が、実際にあるなんてな……。しっかし、何の力も使ってないってのに、不思議だな……」

 名嗣はしみじみと呟く。

「いや、むしろ、何の力も使ってないからこそ、鬼達は、あいつの傍にいるだけで、幸せなのか……。おれ、あんなに幸せそうな鬼達見たの、初めてだぜ」

 時人も同感だった。鬼といえば、つらい存在というのが、彼ら陰陽師の常識なのに、雁の周りにいる鬼達は、違うのだ。雁の傍にいて、言葉を交わし、気遣い、守ることに、喜びを感じているようにしか見えなかった。

(あれが、鬼に慈しまれる性か……)

 だが、感心ばかりもしていられない。見つめた先で、青年に率いられた百鬼夜行は、確実に朱雀大路を北へ、朱雀門へと進んでいく。やはり、大内裏を――内裏を目指しているのだ。

「あの人が何故内裏を目指すのかが分かれば、まだ対応策を考えられるんだがな……」

 愚痴を零した時人に、名嗣は溜め息をついて言った。

「教える気は、さらっさらなさそうだったな。けど、陰陽寮って名乗っても、敵意も向けてこなかったし、恨みとかじゃないって感じを受けたな、おれは」

「ああ……」

 それも同感だ。ならば、一体何だというのだろう。そこで、ふと、閃いたことがある。

「もしかしたら――、誰かに会いにいくのか」

「――誰にだ?」

 名嗣にすぐ問われて、時人は首を捻った。他の可能性として、思いつきで口にしたことだ。

「……それは、おれにも分からないが……」

 言いながら時人は翅鳥を差し招く。

「鵜を一羽飛ばして、陰陽博士の忠行様に今おれ達がまとめたことを伝えてくれ。あの人が内裏に着くより早くだ」

「分かりましたわ」

 優雅な物腰で、翅鳥は纏った袿から一羽の鵜を飛び立たせた。

 今夜は、内裏の閤垣の周りで、陰陽寮の面々が待ち伏せをしている。時人の父、弓削義貞(ゆげのよしさだ)を含む、陰陽寮に六人いる官僚の陰陽師や、保憲の父の陰陽博士賀茂忠行など、できる限りの人数で大内裏に詰めているはずだ。普段とは、守りの厚さが違うのだが、それでもあの青年相手ではと不安になる。

「……とにかく、体が動くようになったら、内裏へ向かわないとな……」

「ああ」

 名嗣は覚悟した様子で頷いた。


          六


 閤垣の正門たる承明門は檜皮葺、五間の幅の門で、扉部分の幅は三間あり、内には二段、外には三段の石階がある。その内は近衛府、外は兵衛府の管轄だ。篝火に浮かび上がる人々を一瞬で見渡せば、門を外から固める兵衛大尉(ひょうえのたいじょう)兵衛少尉(ひょうえのしょうじょう)以下、府生、番長、案主(あんじゅ)、府掌、兵衛(ひょうえ)らに混じって、陰陽寮の人々がいる。

「父上、こちらの準備は整いました」

 保憲が駆け寄って、小声で簡潔に報告すると、陰陽博士たる父は、厳しい面持ちで言った。

「分かった。とにかく、おまえはそちらに専念しておれ。ここにおる必要はない」

「白君を置いていますから、万が一があっても大丈夫です。まずは、こちらで、多少なりとも見極めたいのです。こちらだけで退けられることも、充分あり得ることですし」

「だが、あちらの守りはおまえのみ。くれぐれも怠るな」

「はい」

 頭を下げて、保憲は父から離れた。

 今日の午後、怨霊として大内裏を跋扈する菅原道真から、倭国巫に相応しくない女童がいると告げられてから、いろいろと考えたが、何より、百鬼夜行が内裏に来るとされる今夜まで、時間がなさ過ぎた。神祇官を密かに調べたりしている猶予はない。それで、保憲は今日のところは守りに徹することにした。今上が清涼殿にいらした、つい先ほどまでは、清涼殿の二間にいて守り、今上が飛香舎に移ってからは、白君をつけたのだ。待ち受けていれば、必ず向こうから手掛かりを示してくる。陰陽師には、そういう戦い方もある。

(しかし、「相応しくない」という言い方は、気になる――)

 道真は、今上のことも「御位に相応しくない」と言っていた。それは、単に能力が不足している、器ではないという意味だった。

(もし、倭国巫の女童についても、同じ意味で「相応しくない」と言ったんだとしたら)

 その女童に、悪意はない。つまりは、別の何者かが、今回の不自然な百鬼夜行を導くということになる。

(神祇官の他の誰かか……、或いは、やはり、陰陽寮の誰かなのか……)

 その疑いが胸の内から消えないから、自分はここへ来てしまったのだ。

 保憲は集まった陰陽師達を見遣った。昼間の推測の続きだ。もし、陰陽寮の誰かが百鬼夜行を導いたとしたら、一体誰なのか。

(百鬼夜行を導くほどの力ある人は、限られてる――)

 それこそ、陰陽博士たる父の忠行か、定員六人の陰陽師達しか思い浮かばない。更に位階が上の陰陽頭、陰陽助、陰陽権助は、技官ではないので、それほどの見鬼の力は望めないのだ。

 陰陽寮に六人いる官僚の陰陽師は全員この場に来ている。賀茂氏の傍流である賀茂正遠(かものまさとお)。時人の父である弓削義貞。神祇官に多くの親族が出仕している大中臣周基(おおなかとみのちかもと)。布留満樹の父、布留経世(ふるのつねよ)。中原善益の父、中原列道(なかはらのつらみち)。陰陽権助出雲惟香の弟、出雲惟高(いづものこれたか)

正遠(まさとお)様は、父上とも仲がいいし、策を巡らすような方じゃない。だが、それを言うなら、義貞様も、列道(つらみち)様も、惟高(これたか)様も、生粋の陰陽師。大内裏や内裏を守る結界を担う神祇官と繋がりの深い、周基(ちかもと)様や経世(つねよ)様とも考えにくいけれど……)

 こちらの動揺を誘い、仲間割れをさせるための、神祇官の罠とも考えられる。それならば、周基や経世の関与も疑われる。

(陰陽師を仲間割れさせて、その隙に、何か、神祇官の株を上げるようなことをしようとでもいうのか)

 生半可なことでは、数々の守りを施された天皇に対しては、怯えさせることぐらいしかできない。それに、例え怯えさせるだけにしても、感づいてさえいれば、陰陽寮の者が簡単に阻んでしまう。そうした陰陽寮の動きを、疑心暗鬼によって封じようとでもいうのだろうか。

(相手が誰なのか、狙いが何なのか分からないことには、こちらも行動しにくい……。とにかくも、不穏な動きをする方がいないか、見張り続けるしかないか……)

 保憲は険しい顔で、六人の陰陽師全てが視界に入る位置へ陣取った。ふと、小丸のいないことが心細く思われたが、父の許可もなく呼ぶ訳にはいかないと、小さく溜め息をついて諦めた。と、そこへ、鳥の羽音が響いた。

 見上げれば、闇夜に溶ける色の式神が舞い降りてくる。時人の鵜だ。

 同じように気づいた父の忠行が腕を差し出すと、鵜は迷わずそこへ降りて留まり、奇妙に甲高い声で告げた。

「時人、名嗣、百鬼夜行足止メニ失敗。百鬼夜行、内裏ニ来ル。百鬼夜行率イル人、鬼ニ慈シマレル性。年ノ頃二十歳。姿童ニシテ、名ハ雁」

 辺りの人々が一様にざわめく中、鵜は黒い碁石へと戻って地に落ちた。その碁石を、忠行がおもむろに拾う。

「足止めは叶わなくとも、先触れとしては、充分ですな」

 しげしげと黒石を眺めながら言うと、忠行はそれを弓削義貞に差し出した。

「愚息がお役に立てて何より」

 義貞は頬を弛めもせず、黒石を受け取り、袖へ入れた。


            ◇


「雁……」

 いつもと打って変わって張りのない声に、雁は傍らの鬼へ目を向けた。直垂を纏った大柄の鬼は、険しい面持ちをしている。言いたいことは分かっているつもりだが、敢えて突き放すように言った。

「どうした?」

「コノ気配……、陰陽寮ノ奴ラガ、大勢待チ伏セテイヤガル。ソレデモ、行クノカ……?」

「――嫌なら、おまえは行かなくていい」

「ソンナコトヲ言ッテイルンジャナイ。オマエガ危ナイト言ッテイルンダ! アノ陰陽師ノ男、取リ引キノ口封ジニ、オマエヲ殺シニ来ルカモシレナイゾ……!」

「分かっている。だが、これが最善の策だ」

「ソレハ、蓑虫ノタメダロウ! オマエハ、オマエ自身ヲ大切ニシナイ。ダカラ心配ナンダ」

「大牙丸、蓑虫を守ることが、おれの望みだ」

 きっぱりと告げて、雁は、足を止めることなく朱雀大路を進む。鬼達にとって、自分という存在は、唯一絶対だ。

(だが、おれは――)

 蓑虫と、そしてもう一人のためにだけ、動いている。その思いに呼応するように、ずきり、ずきりと、頭の内奥が鋭く痛む。

 青白い鬼火だけが辺りを照らす中、朱雀門が、眼前に迫ってきた。今生では、初めて目にするにも関わらず、懐かしい。けれどここに、自分の知っている、かつての官人達は、誰もいない。

 篝火の明かりの中で、左右衛門府の衛士達が、行く手を阻もうと向かってくる。雁が腰の打刀に手をかけ、鬼達が応戦しようとした時、不意に、漂うようにして、白い浄衣姿の少女が、両者の間に現れた。

 雁は鋭く眉をひそめた。彼女がここにいることは分かっていた。だからこそ、自分はここへ来たのだ。だが、ここで生霊として出てくるとは思っていなかった。そう、目の前に現れたのは、大内裏の中、神祇官にいるはずの少女の生霊だ。

(己の意志で生霊となれるか。力をつけたな――)

 胸中の思いとは裏腹に、雁は低く言った。

「どけ」

兄様(あにさま)……」

 少女は――七年前に生き別れた妹のあく(、、)は、涙に濡れた双眸で雁を見つめ、尼削(あまそぎ)にした髪を揺らして首を左右に振る。

「ここより先は、大内裏です。何ゆえ、大内裏へ、鬼を連れて入ろうとするのですか……?」

「あく、おれは、内裏へ行く。おまえの家族は、疫病に殺されて、もう誰一人残ってはいない。帝に、守る価値などないよ」

 雁は、優しく告げ、妹の横を通り過ぎた。

 衛士達には、生霊の妹の姿は朧に見えていても、言葉までは、聞こえていない。だから、自分と彼女の関係が他に知れることはない。

 言葉もなく、涙を散らして振り向いたあくを最早一顧だにせず、雁は打刀を抜き放って、朱雀門を守る衛士達へ向かった。

「イイノカ……?」

 大牙丸が、耳元で気遣わしげに聞いてくる。昔からずっと雁の傍にいるこの鬼は、あくのことも覚えているのだ。

「ああ」

 雁は短く答えて、射かけられた矢を打刀で叩き落し、衛士達との間合いを素早く詰める。大牙丸を始めとした鬼達も、射かけられる矢を物ともせず、それぞれ嬉々として衛士達に襲いかかっていった。

 鬼は素早さも力強さも衛士達を上回る。誰一人殺させはしなかったが、背後から矢を射かけられないよう、衛士全員を昏倒させるのに、大して時間はかからなかった。しかし、事はすんなりとは運ばなかった。

「触レネエ。ヤッパ、カナリノ守リダ」

 閉ざされた朱雀門の門扉を開けようとした赤丸が、雁達を振り返って肩を竦めた。門扉に触れようとするだけで、その手が、ばちりと弾かれているのが、雁にも見て取れた。

「強引にいくしかないな……」

 人間である雁が触れると、弾かれることはなかったが、内側から閂がされているので、開かない。鬼でなければ、強引に開けることはできないだろう。それに、鬼達を内裏まで連れて行かなければ意味がない。

 雁は自分の右の親指を噛んだ。血の出る親指を門扉へ押しつけ、直接、[此]、[門]、[大]、[招]、[百]、[鬼]と右から左へ書きつける。[此門大招百鬼(このもんおおいにひゃっきをまねく)]という咒である。効果覿面だった。唐突に、門扉にそれまであった圧力の消えたことが感じられた。

「凄エナ……」

 赤丸が、それでもまだ、弾かれることを恐れる動きで、そっと門扉に手を触れたが、何も起こらない。

「ヨシ、行クゾ」

 大牙丸が音頭を取り、鬼達が一斉に門扉に体当たりをすると、向こう側で、ばきりと派手な音が響いて、巨大な両扉がゆっくりと開いた。

 開いた朱雀門の向こうでは、詰めていた衛士達が、恐怖に顔を引きつらせながらも、果敢に立ち向かってきたが、所詮、雁と鬼達の敵ではなかった。門の外にいた衛士達同様、彼らを昏倒させて、雁は朱雀門を通り抜け、大内裏の奥へ進んだ。唐風の官舎が多く並ぶ大内裏の、要所要所に焚かれた篝火は、雁に従って鬼達が進むごとに、鬼の陰気に当てられて消えていき、代わりに、青白い鬼火がぽつぽつと燈っていく。

 鬼火に足元を照らされつつ、雁は鬼達を率い、栖鳳楼(せいほうろう)翔鸞楼(しょうらんろう)を東西に備えた応天門(おうてんもん)を正門とする八省院(はっしょういん)の東側を通って、主税寮(ちからりょう)民部省(みんぶしょう)文殿(ふどの)、太政官、勘解由使局(かげゆしのつぼね)、中務省、侍従局(じじゅうのつぼね)などを右側に見ながら通り過ぎた。唐風の建物の中に、時折、和風の建物も混じっている。記憶の中にあるのと同じ建物群。そして――、右斜め前に、内裏が見えた。

 修明門、建礼門、春華門、明々とした幾つもの篝火に照らされた、三つ並んだ宮門の内、真ん中の建礼門を目指す。宮門の外は、少し広い場になっていて、衛門府の衛士などが待ち構えている。その集団の中に、鬼達をはっきりと見ている者達がいた。力ある者達。陰陽寮の陰陽師達だ。

(終わりの始まりだ――)

 雁は、納めていた打刀を再び抜いて、鬼達とともに、真っ直ぐ建礼門へ向かった。


          七


 このところ、妙に心細い。何かしら不安で、仕方がない。今夜、百鬼夜行が内裏に来るという奏上も、やはりという気がした。だからこそ、蔵人頭の藤原師輔に命じて、賀茂忠行と保憲を召すよう手配させ、回りくどく、あのようなことも言ったのだ。けれど、公に勅命を出したりして、大事にはできない。あまり頻繁に天皇(てんのう)不予だと知られてもいけない。どちらにせよ、世が乱れてしまう。

(少し、心弱くなっているだけだ)

 天皇が真っ先に動揺してはいけない、平気だと思おうとしても、夜尚生温かい空気の中に、時折、何かを感じてしまう。暗がりの中、人ならざるモノがいるような気がしてしまう。耳を澄ませば、遠く微かに、争う音が聞こえる気がする。百鬼夜行は、もう来たのだろうか。

 寛明は、清涼殿の夜御殿から飛香舎に移してある帳台の中で、息を潜めて辺りの気配を窺った。微かに流れる夜気に、菖蒲や蓬の香が匂う。

(大丈夫。今は、五月の節会の直後で、菖蒲や蓬が邪気を祓っているはず。忌まわしいモノは、訪れない。それに、保憲も守ってくれている……)

 賀茂保憲は、寛明の求めに応じて、清涼殿の二間に宿直し、この飛香舎にも目に見えない式神を寄越すと言ってくれた。

(大丈夫だ……)

 自らに言い聞かせながらも、恐る恐る帳の外を透かして見た寛明は、はっとして息を詰めた。母屋の隅に、人影がある。白襲の汗袗を着て、濃色の長袴を穿いた、透き通るように白い肌の少女。向こうも寛明の視線に気づいたようで、こちらをじっと見つめてくる。

「は……」

 寛明は、帳台の外に更に几帳を隔てにして寝ている母后を呼ぼうとしたが、声が出ない。体も強張って動かない。

(母上……!)

 怯える寛明の頭に、直接、少女の声が響いた。

 わたしの姿が見えるなら、名乗ろう。わたしは保憲の式神、白君。あなたを守るために来た。

 成るほど、長い黒髪に縁取られた少女の顔は、よく見れば保憲そっくりだ。安堵すると、途端に声が出た。

「保憲の式神……?」

 そうだ。御母后の宮や女官達に、わたしの姿は見えず、声も聞こえない――。

 音のない声で告げて、少女の式神は静かにこちらを見たまま座っている。寛明は帳台から少し身を乗り出して、気になっていることを小声で問うた。

「百鬼夜行は、もう来たの……?」

 来た。だが、皆が防ぐ。あなたに手出しはさせない。

 きっぱりとした答えが返ってきて、寛明は妙に嬉しくなった。

「ねえ、もう少し、こちらに来られない?」

 あなたが、許すのなら。

「許す。来て」

 寛明が差し招くと、ふわりと汗袗を揺らして、式神の少女は帳台のすぐ傍に来た。近くで見ると、その顔立ちがとても美しいことが分かる。

「中に入って」

 寛明は、もう少し幼い頃、姉宮(あねみや)の康子と一緒に帳台の中で昼寝していたことを思い出し、懐かしいような気持ちになって、美しい式神の袖を引っ張った。

 帳台の中にすうっと入ってきた式神は、ひやりと冷たい手で、寝転んだ寛明の額を触る。その手が、とても優しく気持ちがいい。そうして、寛明の頭をそっと撫ぜつつ、主と同じ顔をした式神は、透明な響きの声で歌い始めた。

皇御孫(すめみま)(みこと)朝廷(みかど)を始めて、天下(あめのした)四方国(よものくに)には、罪と云う罪は在らじと、科戸(しなと)の風の(あめ)八重雲(やえぐも)を吹き放つことの如く、(あした)御霧(みきり)(ゆうべ)の御霧を朝風、夕風の吹き(はら)うことの如く、大津辺(おおつべ)()大船(おおぶね)を、()解き放ち、(とも)解き放ち、大海原(おおうなばら)に押し放つことの如く、彼方の繁木(しげき)(もと)を、焼鎌(やきがま)敏鎌(とがま)(もち)て、打掃(うちはら)うことの如く、(のこ)る罪は在らじと、祓え給い清め給うことを、高山(たかやま)(すえ)短山(ひきやま)の末より、佐久那太理(さくなだり)に落ちたぎつ速川(はやかわ)の瀬に坐す瀬織津比売(せおりつひめ)と云う神、大海原に持ち出でなむ。かく持ち出で()なば、荒塩(あらしお)の塩の八百道(やおぢ)八塩道(やしおぢ)の塩の八百会(やおあい)に坐す速開都比売(はやあきつひめ)と云う神、持ち可々(かか)呑みてむ。かく可々呑みてば、気吹戸(いぶきど)に坐す気吹戸主(いぶきどぬし)と云う神、根国底之国(ねのくにそこのくに)気吹(いぶ)き放ちてむ。かく気吹き放ちてば、根国底之国に坐す……」

 どこかで聴いたことのある歌だ。確か何かの祝詞の一部である。歌の続きも覚えている。様々な神々の働きによって、罪という罪は消えてなくなるのだ。寛明は、不思議な安らぎに包まれて、目を閉じた。そう、世の中に、この日本に、罪という罪はない……。


            ◇


「……祓え(たま)い清め給うことを諸々(もろもろ)聞こし召せと()る」

 白い衣の式神は、祝詞を最後まで唱え終わると、寛明を撫ぜる手を止めた。十一歳にしても、やや幼い天皇の寝顔は、安堵に満ちている。

「よい夢を」

 呟き、式神は帳台から出た。音もなく移動して、元いた母屋の隅に戻る。その姿を見下ろしながら、夜気の中を漂う怨霊は、夜空に昇った。雨は降っていないが、相変わらず、厚く垂れ込めた雲が、あるはずの上弦の月も星々も覆い隠している。

 ――「やすのり」という名は、懐かしい。

 賀茂忠行の子、保憲。(のり)(やす)んず。法を守る、という名。

 自分の偉大な先達であり、唯一、師と仰ぐ人の名は、保則(やすのり)だった。(のり)を保んず。宇多朝において、律令体制の維持に力を尽くし、その名の通りの生き方をした人だった。

 賀茂氏のあの者もまた、そういう生き方をするのだろうか。急ぎ急ぎ律令の如くせよ、という咒を唱えるのに、あの者ほど相応しい名を持つ者も他にない。

 「やすのり」の名を持つ限りは、つらい生き方をせねばなるまい。或いは、自分の偉大な先達と同じように、坂東(ばんどう)に関わる運命にあるのかもしれない……。

 視界の隅で、ざわざわと、建礼門前に集まった陰陽師や衛士達が、篝火に照らされながら蠢いている。更に視線を転じれば、そこへ向かって、路の篝火を消しながら進んでくる、鬼火を漂わせた一団が見えた。その先頭を歩いているのは、昨夜、この京の都へ入ってきた青年だ。自分にとって、この青年が纏う雰囲気もまた、懐かしい。

「世に、罪は、ある」

 道真は、暗く囁いた。


            ◇


(来た。あれが――)

 保憲は、六人の陰陽師を視界に入れたまま、百鬼夜行へ――その先頭にいる水干姿の青年へ、目を凝らした。鬼火に照らされた顔は、ぞっとするほど美しい。けれど、時人の式神が報告した通り、確かに人だ。

(鬼に慈しまれる性、か……)

 と、そこへ、不意に夜空から鵜鷺と羽虫達の大群が飛んできて、鬼達に襲いかかった。時人と名嗣の式神達だ。まずは式神達だけ、追いつかせて来たのだろう。それが、言わば開戦の合図だった。

「「「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」」」

 弓削義貞と出雲惟高と中原列道が、揃って真っ先に唱える。不動明王の真言、一字咒(いちじじゅ)だ。遍き諸々の金剛尊に帰依し奉るハーム、という意味で、あらゆる邪悪や迷いを降伏して、悟りの真実の知恵を守る力があるとされる天竺の言葉である。凄まじいほどの力が籠っているので、効果も著しい。鬼達が、悲鳴を上げてたじろぎ、或いは自ら消えていく。

「ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをたはくめかうおゑにさりへてのますあせえほれけ」

 次に響いた声は、大中臣周基。さすが大中臣氏らしく、この倭国の言葉、ひふみ(はらへ)(ことば)だ。三番目には、陰陽博士たる父の忠行が動いた。纏った浄衣の袖から、(しゃく)を取り出し、厳かに空を拝む。

「平安京大内裏建礼門にて、玉女に申す。この地を穢すモノあらば、これを遍く反閇(へんばい)せしめよ。この地を穢すモノあらば、これを遍く反閇せしめよ。この地を穢すモノあらば、これを遍く反閇せしめよ」

 出向きの理由を三度繰り返して玉女に告げ、観想する様子を見せた忠行は、三度鳴天鼓をすると、勧請咒を唱え始めた。

「南無陰陽本師、龍樹菩薩、提婆菩薩、馬鳴菩薩、伏儀、神農、黄帝、玄女、玉女、……」

 勧請咒の次には天門咒、続けて地戸咒、玉女咒と、忠行は唱え続ける。二月に、保憲が清涼殿の二間で寝かされていた間にも幾度となく唱えていた、一連の咒だ。ありとあらゆるモノを祓って、自分達を守る咒ばかりが連ねてある。玉女咒を終えた後、芴を袖に仕舞って、代わりに懐から懐剣(かいけん)を取り出し、刀禁咒を唱えた忠行は、次いで、虚空に、縦に四度、横に五度、符印を切りながら唱えた。

「朱雀、玄武、白虎、勾陳、帝久(ていきゅう)文王(ぶんのう)、三台、玉女、青龍」

 そして、四縦五横咒。

「四縦五横、禹は道を除き、蚩尤は兵を避く、われをして遍く天下を周し、故郷へ帰還せしめよ、われに向かうは死し、われを留むるは亡す。急ぎ急ぐこと律令の如くせよ!」

 更に、独特な足捌きにより吉を呼び込む兎歩と、兎歩立留咒。

「謹請、天蓬、天内、天衝、天輔、天禽、天心、天柱、天任、天英。南斗、北斗、三台、玉女、左の青龍は万兵を避け、右の白虎は不祥を避け、前の朱雀は口舌を避け、後の玄武は万鬼を避く。急ぎ急ぎ律令の如くせよ!」

 一連の咒は、最後に、乾坤元亨利貞、という六歩を踏むことによって締め括られた。乾坤とは、周易に記された()(けん)(こん)であり、天と地を表す。元亨利貞(げんこうりてい)とは、その乾の卦辞(かじ)で、(おお)いに(とお)って(ただし)きに(よろ)し、と読み下す。(げん)は善の長、(こう)は嘉の会、()は義の和、(てい)は事の幹という四徳として、君子の四徳にも当てはめて説かれている。これも、邪悪を退かせる力があるのだ。

 時を同じくして、賀茂正遠は仏頂尊勝陀羅尼経を唱え、布留経世はひふみの祓を唱えている。さすがにこれだけの陰陽師が一斉に咒を唱えていると圧巻だ。

(おれもここにいる以上、それなりのことはしておかないとな)

 保憲は、いつもの如く、三十六禽を呼び出した。今は子の時。現れたのは、鸞と鼠と蝙蝠だ。その三体ともを、鬼達へ襲いかからせた。しかし、自分自身は動かずに、六人の陰陽師の観察を続ける。

(陰陽師が鬼を祓うのは当たり前。この百鬼夜行を仕掛けた人がいるなら、その当たり前の中に、仕掛けた人だけが見せる不自然さが、出てくるはず)

 まだ、不審な動きはない。だが、必ず、何らかの合図か、目配せか、互いに真剣に攻撃しないなどの心の動きが、鬼を使う青年との間に交わされるはずだ。何しろ、陰陽師が功績を上げるためには、ここで、百鬼夜行を退かせなければならないのだから。

(一体、誰だ……? それとも、神祇官の罠と考えたほうが、やはり正しいのか……?)

 六人の陰陽師と、鬼を使う水干姿の青年とを視野に入れ続ける内、ふと気づいたことがあった。

(あの打刀、どこかで見た覚えがある……?)

 水干姿の青年が振るう打刀に見覚えがあると確かに感じるのだが、どこで見たかが思い出せない。飾りのない、無骨な刀。手馴れたふうにそれを扱う青年。鵜鷺や羽虫達は斬り祓われ、腕に覚えがあるはずの衛士達も、容易には倒せず、幾らか切り結んでは、距離を置いたり、鬼に邪魔されたりしている。

「あの水干の男を狙え!」

 不意に、忠行の声が辺りに響いた。そう、鬼など相手にせず、あの青年さえ討てばいいのだ。父の指示は正しい。けれど、そう思った直後に、保憲は別の可能性に思い至って、思わず父の厳しい横顔を凝視した。

(まさか――)

 ここで、あの青年を殺し、その口を封じて得をするのは、誰だろう。百鬼夜行を率いた首謀者の口を封じ、その意図を何とでもでっち上げられるようにして、得をするのは、誰だろう。

(得をするのは、百鬼夜行をここへ来させたかった者……)

 青年の口を封じてしまえば、共謀の事実を消してしまえる。父こそが、今回の首謀者と考えることもできてしまう――。脳裏に、昼間の父の姿が浮かぶ。蔵人所の者と同じように、天皇の傍近く仕える陰陽師を、それを保憲が担うことを、肯定した父。それは、手段を選ばず、権力を求める姿とも見えてしまう――。

 動揺が、保憲に隙を生んだ。

「保憲、後ろだ!」

 唐突な名嗣の声に、はっと振り向いた時には、間近に迫った鬼が剣を振り下ろすところだった。三体の魔物を呼び戻す間もない。

(やられる!)

 覚悟した保憲の視界に、横から飛び込んできた影がある。鬼の剣を蹴り飛ばし、身軽く着地した、その小柄な背中は――。

「小丸……」

「今は怒るなよ」

 背中を見せたまま、珍しく強気に、それこそ怒っているような口調で言って、小丸は高く跳躍し、素手で向かってきた先ほどの鬼の顎を蹴り飛ばす。そこへ、たった今大内裏へ戻ってきたのだろう、名嗣と時人も駆け寄ってきて、保憲を守るように鬼達に相対した。

「大丈夫か?」

 名嗣に肩越しに問われて、保憲は頷いた。

「大丈夫です。すみません」

「こんなことで謝るなって!」

 名嗣は怒鳴りつつ、羽虫達に力を注ぐ。時人も保憲のほうを気にしつつ、翅鳥に鵜と鷺を操らせている。そんな彼らから、保憲は小丸の袖を引いて、すっと離れた。次いで三体の魔物の内、鸞だけを呼び、怪訝な顔をする小丸ともども、その背に飛び乗った。だから、「すみません」なのだ。

(全体的に鬼達に押されてる)

 万が一に備えて、自分は内裏に――今上の傍にいなければならない。保憲は、鼠と蝙蝠をその場に残したまま、鸞を飛び立たせて、魔物を見ることのできない衛士達、兵衛達の頭上を越え、建物全体は五間で門扉部分は三間ある建礼門、次いで同じ規模の承明門の上を通過し、内裏に入った。

「帝のところへ行くのか?」

 すぐ後ろから問うてきた小丸に、逆に保憲は問い返した。

「何故、来たんだ」

「――六壬神課で、おまえを占った」

 小丸は、先ほどの強気よりは幾分弱まった、けれど頑なさは保った口調で答える。

「課式を担った月将達は全員、言い方は違ったが、おまえが危うい、すぐに傍に行けと言った。特に、今月の月将の、小吉が、おれ達にとって初めての、政に関する争いだって言うから、今までとは、また違うと思って、来たんだ」

「……なら、おれの傍を離れるなよ」

 保憲は、ただそれだけを言った。父への疑いと、それを否定する気持ちが、頭にも胸中にも渦巻いて息苦しかったが、それを小丸に告げても仕方ないと思われた。

 鸞は数度の羽ばたきで、一気に、目指す飛香舎の庭へと舞い降りた。篝火を炊いて警戒する近衛達に、魔物たる鸞の姿は見えていない。その鸞の後ろを通って、誰にも気づかれず、小丸とともに飛香舎の階を上った保憲は、そっと鸞に姿を消させた。


            ◇


 雁は、打刀を振るいながら、辺りを見回した。鬼達は、よく戦っている。これほど多くの相手と戦うのは初めてかもしれないが、全力を出せるのが嬉しいらしい。まずいと思えば、自ら消えて、場所を変えて現れている。なかなかのものだ。陰陽寮に属する力ある者は少なく、衛士達は基本的に鬼を恐れているのも、鬼達の善戦に影響しているだろう。内裏までは後少し、建礼門の前で、うまく乱戦状態に持ち込めている。

「大牙丸」

 雁は、戦いながらでも傍を離れない大柄な鬼に呼びかけ、問うた。

「おれは猿丸(さるまろ)と赤丸を連れて先に内裏へ行く。後から、残りをまとめてついて来られるか?」

「心配スルナ。オマエヲ守ル手間ガ省ケル分、楽ナクライダ」

 大部分の鬼達は、集中的に攻撃を受けている雁を庇って戦っている。嫌味でなく、そう告げられて雁は笑うと、猿丸という名の鬼を呼んだ。

「猿丸、この門と、その奥の門の閂を頼む」

「任セトケ」

 身軽さゆえ、その名を持つ猿丸は、近くの衛士の肩に飛び乗ると、そこから跳躍して、宮垣の上に乗り、すっと向こう側へ姿を消した。ほどなくして、建礼門の門扉が内側から開かれる。

「赤丸、来い!」

 もう一人の鬼を呼び、僅かに開いたその隙間へ、雁は鬼と人の足元を縫うように身を低くして走り込んだ。赤丸も離れずついて来る。

 建礼門のある宮垣と次の承明門のある閤垣との間は、兵衛府の管轄だが、篝火の中、兵衛達は大混乱に陥っていた。

「早く、建礼門を閉じろ!」

「鬼が閤垣の中へ入ったぞ! 承明門を開けろ! 追うんだ!」

「いや、鬼は承明門を開ける気だ!」

「また入ってきたぞ!」

 怒号が飛び交う中、雁と赤丸に気づいたのはその場にいる兵衛の半分ほどだ。残りは、閤垣を越えたであろう猿丸のほうへ気を取られている。通り抜けた門扉と赤丸を背に、油断なく打刀を構えた雁の眼前で、承明門が、先ほどの建礼門と同じように内側から開かれた。その向こうで、猿丸が、内裏を守る近衛達を翻弄しながら、ひょいひょいと逃げ回っているのが見える。兵衛達の注意がそちらに向き、雁と赤丸への攻撃が鈍る。否、それ以上に、彼らは絶望しかけているのだ。人相手ならまだしも、鬼相手では守り切れない、と――。雁はその隙に乗じ、赤丸を伴って兵衛達の間を走り抜け、承明門を通り抜けて、内裏に入った。

 その場の殆どの近衛達の注意は、猿丸が引きつけてくれている。新たに承明門を入った雁と赤丸に気づいたのは、門を閉じようとしていた数人だけだった。向かってきた彼らの手や足を斬りつけて全員行動不能にし、雁は篝火も燈籠の灯りも届かない闇へ溶け込んだ。ついて来た赤丸も、気を利かせて鬼火は点していない。ここから先は、飛香舎へ向かうだけである。

 今日の暁に、赤丸が陰陽師の男の追跡から戻って報告したことは、もう一つあった。

――「ソレカラ伝言ダ。ワザワザ伝エロト、向コウカラ声ヲカケテキタ。退散サセラレル必要ハナイ。ドンナ障害ガアロウト、内裏マデ必ズ行キ、飛香舎ニオラレル帝ヲ怯エサセテホシイ、但シ害ハ為スナ、トサ。ソノホウガ都合ガイイ、ト」

 飛香舎、或いは藤壺(ふぢつぼ)とも呼ばれる建物は、後宮の殿舎の一つで、清涼殿と隣り合う後涼殿(こうりょうでん)の向こうにある。

(昔は仁寿殿が常に天皇御所だったものだが、世も変わったな……)

 それだけではない。今上は御年十一歳と聞く。政を担うには、幼過ぎるだろう。

(おれの前生ではなかったことだが、それも時の流れか……)

 陰陽寮の陰陽師が、帝を怯えさせろと言うのも、昔ならば、あり得ないことだ。けれど、詮索する気はない。自分はただ、蓑虫の安全のために、あの男の指示を実行してやるだけだ――。

 気配に敏い赤丸に衛士達の動向を探らせながら、雁は紫宸殿の南庭の、右近の橘の西を校書殿に沿って走り抜け、清涼殿の南を通り、後涼殿の西を回り、御溝水を跳び越え、飛香舎を囲む塀のところまで行った。藤の絡みついた塀には、幾つか戸口がある。一番近い、南塀の西の戸口の外には、近衛が二人立っている。闇の中に潜んだ雁は、傍らの赤丸に目配せした。一つ頷いた赤丸は、そっと雁から離れると、わざと鬼火を点して歩き始めた。

「出た!」

「鬼だ!」

 すぐに近衛達は赤丸に気づいた。一人は手にした弓を構えて赤丸に矢を放ったが、手が震えていたため、掠りもしない。その挙動からは、鬼を恐れていることが、充分に見て取れた。もう一人も、懸命に邪気祓いの弦打をしている。二人の意識が完全に赤丸に向いている間に、そっと近寄った雁は、打刀を二閃させて弓を二つとも真っ二つにし、大して頑丈でもない木戸を蹴破った。

「オイオイ派手ダナ。オレガ来ルマデ待ッテリャイイノニヨウ」

 追いついてきた猿丸が、塀の上から零したが、雁は意に介さない。

「ここからは、派手でいい」

 淡々と言って、走ってきた赤丸とともに戸口を入る。飛香舎の庭にいた近衛達が、一斉に向かってきたが、篝火と燈籠が全て消えて鬼火に取って代わられた中、大多数は腰が引けている。飛香舎にいた近衛を全て昏倒させるのに、大して時はかからなかった。塀の外から新手が来ることもない。まだ紫宸殿や清涼殿の辺りを捜しているのだろう。或いは、そろそろ大牙丸達、残してきた鬼達が承明門を入ろうとしていて、そちらに人数を割いているのかもしれない。

「鬼火を一つ貸してくれ」

 雁が赤丸に言って、庭から階へ藁沓のまま上がろうとした時、か細い声がした。

「兄様、お止め下さい……!」

 次いで、再び、少女の生霊が姿を現す。

「これ以上は、なりません……!」

 尼削の少女の生霊は、両手を広げて階の上に立ち、雁の行く手を阻む。二人が兄妹であることを知る赤丸と猿丸は、困った顔をして黙っている。少女の生霊がはらはらと流す涙へ、雁はそっと手を伸ばし、軽く白い頬に触れながら拭うと、抑揚のない声で告げた。

蜜丸(みちまろ)は死んだ。おまえを縛るものは、もう何もない」

「でも、兄様はここに……!」

「おれは、既に鬼だ」

 雁は短く言い、実体のない少女を突っ切って、階を上がる。少女の生霊は、雁が通り過ぎた直後、顔を両手で覆いながら、消えた。そこへ、ふっと新たな気配が立ち昇る。大きな鳥――鸞と、大きな鼠と、大きな蝙蝠が、簀子に現れた。三体の魔物。

(まだ、陰陽師がいたか)

 見事に気配を消してしまえるだけの、力の持ち主らしい。

(もしかしたら、今のあくとの会話、聞かれたかもしれない)

「赤丸、猿丸」

 雁は鬼達を呼んだ。いつもいつも鬼達には殺生を禁じてきた。脅してもいい、気を失わせてもいい、ただ、殺すな、と。それは、雁が人から離れてしまわないための、最後の一線だった。だが、不安要素を残しておく訳にはいかない。

「ここにいる陰陽師は、殺す」

 冷ややかに告げた瞬間、二匹の鬼は、雁の力を受けて、二周りほども巨大化し、牙を剥き出し、両眼をぎらぎらと光らせて、三体の魔物に襲いかかった。迎え撃つ魔物達を、大きな爪と牙と怪力で、一気にばらばらに引き裂いてしまう。その間に、雁は足元の簀子に倒れていた近衛の一人から奪った弓に、落ちていた矢を番える。蝙蝠が羽を引き裂かれ、鼠が全身から血を流し、鸞が羽毛を舞い散らして消えた瞬間、微かにうめき声が聞こえた。雁はそちらに視線を走らせ、簀子の東南の角に小柄な二つの人影を捉えた。鬼火に照らされて、一人が一人を背に庇っている。うめき声を上げた、つまり魔物を操っていた陰陽師は、後ろの庇われているほうだろう。すぐに、赤丸と猿丸が、二人に襲いかかり、前に立っているほうが、人間離れした動きで、それを防ぐ。その戦い方からすると、こちらは陰陽師ではないようだが、大きな鬼達の爪を蹴り飛ばし、牙を殴り飛ばし、毛むくじゃらの足を腰刀で斬りつけるその奮戦振りは、凄まじい。

(成るほど、あれなら、陰陽師でなくとも、戦力になる)

 感心しながらも、雁は冷徹に弓を引き絞った。二匹の鬼の、嬉々とした容赦ない攻撃を防ぐだけで、庇っているほうは手一杯だ。放った矢は、狙った通りの軌道で、鬼達の背後から、庇っているほうの死角を突き、後ろにいるほうの首へ、吸い込まれるように刺さった。その衝撃で、刹那、人影がぶれたような感じがあったが、そのまま後ろへ倒れ、ぴくりとも動かなくなる。

「保憲!」

 庇っているほうが悲鳴じみた声を上げたが、鬼達は引かない。完全に弄りにかかっている。横目にそれを見ながら、雁は格子と、それを覆う蔀を蹴り飛ばし、簾も壁代も打刀で断ち切って、南廂へ入った。その南廂で宿直していた女官達が、声にならない悲鳴を上げ、身を竦ませている。妙なところで、盗人をしていた頃の経験が役立つものだ。先ほどからの争いの音に加えて、これだけの狼藉をすれば、母屋の中の更に帳台の中にいる帝も、充分怯えさせただろう。母屋と南廂とを隔てる簾と壁代の向こうからは、恐れ慄く気配が幾つも感じ取れる。

「帝よ、あなたが帝だというのなら、今夜のことについて、恐れるだけでなく、考えなければならない」

 一言言い残して、雁は踵を返し、外へ出た。

「赤丸、猿丸、もういい」

 声をかけて庭へ下りる。いつもの体の大きさに戻りながら、こちらへ寄ってきた二匹の鬼の向こうでは、簀子の上で、人影が、もう一人の人影を抱いて蹲っている。その背が傷だらけだ。少し顔をしかめて、雁は飛香舎の塀の外へ出ると、丁度追ってきた大牙丸達と合流し、悠々と、内裏を突っ切って、北の閤門たる玄輝門(げんきもん)、北の宮門たる朔平門(さくへいもん)を通過し、大内裏も突っ切って、朱雀門と正反対の位置にある北の宮城門の偉鑒門(いかんもん)から、一条大路(いちじょうおおち)へ出た。最早抵抗らしい抵抗はなく、近衛も、兵衛も、衛士も、呆然と見送るばかりである。

「早ク出テイッテクレッテ感ジダネ」

 蛙が笑ったところへ、不意に馬蹄の音が近づいてきた。

「骨ノアル奴ガイルヨウダゾ」

 大牙丸が言い、皆が振り向くと、今通ってきた偉鑒門から、ただ一騎出てくるところだった。

「待たれい!」

 馬上の壮年の男が、大音声を響かせる。

「わたしは、太宰大弐(だざいのだいに)を務めた小野葛絃(をののくずを)の子、右衛門権佐(うえもんのごんのすけ)小野好古(をののよしふる)。鬼を率いる方よ、あなたの名は、何という?」

 雁は、少し離れたところに馬を止めて、その背から見下ろしてくる、武官姿の男を見つめた。それからふと微笑み、一首、歌を口ずさんだ。


  わたの原よそしまかけてこぎ()でじと里にはつげねあまのつり(ぶね)

  〔広々とした海原に、四十の島を目指して漕ぎ出しなどすまいと、実家に伝えてしまえ、漁師の釣り舟よ〕


 周りの鬼達は怪訝な顔をしたが、小野好古と名乗った男だけは、大きく口を開け、驚いた顔をしながらも、何度も頷いて言った。

「やはり、やはり、そうでありましたか! その力を目の当たりにして、もしやと思っておったが、やはり、そうでしたか……!」

 やがて男は表情を改めて馬から下り、雁へ向かって深々と頭を下げた。

「ならば、わたしがあなたを捕縛することはできません。どうか、このまま、お行き下され」

「迷惑をかけた。すまない」

 短い詫びに万感を込めて、雁は踵を返し、鬼達とともに、闇の中へと姿を消した。


            ◇


「小丸、小丸、もう大丈夫だ……」

 体の下に抱き竦めた保憲から小声で言われて、小丸は恐る恐る体を起こした。鬼など恐れない。恐れるのはただ一つ、目の前の保憲を失うこと。

「大丈夫、矢は、白君が身代わりに受けてくれたから……」

 保憲は弱々しく微笑み、傍らの、まだ矢が首に刺さったままの天児を見遣った。矢が刺さる刹那、母屋の中にいた白君が、保憲の姿となってその場に現れ、背後に保憲を庇って倒れたのだ。倒れた時には、白君は天児に戻り、倒れた保憲の首の横に落ちていたが、あの青年からは、遠目の闇夜で分からなかったらしい。小丸は、それを見て取って、目の悪い鬼達にも気づかれないよう、懸命に戦い、最後には保憲と天児を体の下に抱え込んで、見えないようにしていたのだ。鬼達は、小丸を殺す気はなかったようで、背中を見せても、引っ掻き傷を負う程度で済んだのである。

「けど、おまえ、呼吸が浅い」

 灯りがないので、殆ど見えないのだが、感じることはできる。保憲は、ひどく弱っている。三十六禽の三体をやられ、更には白君までやられたので、かなりの力を削り取られたのだろう。

「とりあえず、忠行に言って、賀茂邸に連れて帰るから、寝てろ」

 強い口調で告げて、小丸は矢を抜いた天児を懐にしまい、保憲を両腕に抱えて立ち上がると、まだ篝火の復活しない内裏を通り抜け、忠行を探して建礼門へと戻っていった。


          八


 検非違使を兼ねる左右衛門府の者達が、態勢を立て直し、百鬼夜行の追捕に当たったが、偉鑒門から出ていった鬼達と水干姿の青年は、平安京を出て、道を行かず、賀茂川沿いに鞍馬山のほうへ、野を歩いていったという。それ以上の追跡は諦めて、衛門府の者達は戻ってきた。

 すぐに、今後の対応を巡って、神祇官の長官たる神祇伯(じんぎはく)、中務省の長官たる中務卿と配下の陰陽頭、左右近衛大将(このえのたいしょう)左右兵衛督(ひょうえのかみ)左右衛門督(えもんのかみ)とで、話し合いが持たれた。左衛門督(さえもんのかみ)を務める藤原恒佐(ふぢわらのつねすけ)は、大納言(だいなごん)でもあり、検非違使庁(けびいしちょう)の長官たる検非違使別当(けびいしべっとう)でもある。結果、広い範囲を探索でき、鬼を察知できる陰陽寮の者が案内役となって、検非違使を導き、百鬼夜行を誘った水干姿の青年を捕縛すべしという結論が出され、左右大臣と今上の認可を得た。

 陰陽寮から出す案内役として任命されたのは、広範囲の探索を得意とする、弓削時人と笠名嗣、今回のことを占った賀茂忠行の三人だった。ただ、三人とも疲労している上、検非違使の準備もあるので、追捕は卯の二刻から始めると決定され、待機していた陰陽寮の人々も、宿直の者だけを残して、解散となった。

「わしは明日の準備もあるゆえ、宿直を兼ねて残るが、おまえ達は一度帰って休め」

 陰陽寮に戻った忠行は、そこで寝て待っていた保憲と小丸に言い、少し寝て歩けるようになった保憲は、小丸に肩を借りて大内裏を出た。

「父上、おまえを叱ることを、完全に忘れてたな……」

 ゆっくりと歩きながら、疲れた声で保憲が言うと、小丸は顔をしかめて答えた。

「おれは、何度叱られようと、今回みたいな時は内裏に来るぞ」

「ああ。お陰で、助かった……」

 保憲は微笑む。自分の上に覆い被さっていた小丸の、恐怖に震える鼓動は、暫く忘れることができないだろう。一瞬、小丸は保憲が死んだと思ったのだ。すぐにそうではないと見て取ってくれたものの、恐怖が、なかなか去らなかったのだ。

(下手したら、飛香舎くらい、倒壊させてたかもしれない)

 三月には、力を暴走させて、葛城山の谷を一つ潰しかけた小丸である。保憲の無事に早く気づいてくれたのは幸いだった。そして、後二つ、幸いだったことがある。

(闇夜で、鬼火以外の灯りがなかったことと、相手が陰陽道に詳しくなかったことが幸いした。そうじゃなきゃ、白君の身代わりが、見破られてた)

 鬼を率いる相手が、陰陽師でないということは、収穫である。

(それに、あいつ、恐らく本当の名は、「みちまろ」で、生霊で現れたあの女童の、兄だ……)

 当然、少女の生霊の声は、保憲にも小丸にも聞こえていた。少女は、その装束からして、菅原道真が言っていた、相応しくない倭国巫だろう。今まで見聞きしてきたことも含め、いろいろと頭の中で整理しなければならない。

(父上に対して、はっきりした理由もなく疑心暗鬼になってても仕方ないし、それに、白君を早く直してやらないと……)

 懐に入れた天児を、衣の上からそっと押さえ、白み始めた空の下、保憲は小丸に支えられながら重たい足を動かす。早朝の空気が、疲労困憊した体に心地いい。と、不意に、頭の中で繋がったものがあった。

「そうか……!」

 思わず声に出たので、肩を借りている小丸が怪訝そうな目を向けてくる。それに構わず、保憲は頭の中で何度も思い返して確認した。鬼使いの青年の打刀と、一昨日の夕方、夢で見た何者かの打刀。同じである。見た覚えがあったのは、夢の中でだ。

(ということは……、あの雁という男、このまま放っておけば、大勢に襲われて殺されるということか……?)

 夢で感じた切ないような気持ちが胸中に蘇る。

(死なせる訳にはいかない。せめて、全てが明らかになるまでは)

 とにかく白君を直して、その間にすべきことを考えなければならない。保憲は懸命に足を速め、小丸に気遣われながら、賀茂邸へ帰った。


            ◇


 鞍馬山への道すがら、雄鶏が遠くの空で何度も鳴き、日が昇ると、鬼達は、次々に、心配そうな眼差しを雁に注ぎながら消えていった。昼は陽気が強く、大抵の鬼は姿を保てないのだ。そうして鬼達の気配が消えた後に、新たな気配を感じて、雁は溜め息をついた。

「嘆息とは、御挨拶ですな」

 大内裏からついて来た怨霊は、苦笑するように言うと、ふと口調を改めて詩を朗詠した。


  渡口(とこう)郵船(ゆうせん)(かぜ)(しづ)まって()

  波頭(はとう)謫処(たくしょ)()()れて()

  〔渡し場のこの埠頭から郵便船は嵐の静まるのを待って出航します。

   海の彼方には配流先の島が日の晴れるにつれて見えてきました〕


「彼(、)の、謫行吟(たっこうぎん)の一節か」

 遣唐大使の藤原常嗣(ふぢわらのつねつぐ)との確執もあり、もともと遣唐使制度自体に疑問を持っていた彼(、)――小野篁(をののたかむら)は、遣唐副使の任を、病を理由に拒絶し、頑として出発しなかったため、隠岐島(おきのしま)へ流罪となった。謫処とは配流先のことであり、謫行吟とは、そこへ行く間に作った詩だ。そんな小野篁に、この怨霊は、己を重ねてでもいるのだろうか。

「あの方の詩は、どれも素晴らしい。かの白楽天(はくらくてん)――白居易(はくきょい)が、訪唐を心待ちにしたという逸話も、頷けますな」

「昔話がしたいなら、他を当たれ」

「そう仰いますな。あなたのような、前生も今生も人として生まれた二生の人で、しかも、前生の記憶を保つという人は珍しい。余ほど、功徳を積んでおられたのでしょうな」

「こんなものは、鬼と化すのと変わらない」

「何ゆえ、そうも頑なでいらっしゃるのか。かつてのあなたは、あの方とよく似た、豪放磊落な人となりであったと、葛絃(くずを)殿から聞いておりますぞ。あの方が冥府の官であったという話も、生霊として常にあの方を助けておられた、あなたの力ゆえ生まれたと。[子子子子子子子子子子子子子子子子(ねこのこのこねこししのこのこじし)]も、いつも、あの方に生霊となって憑いておられた、あなたが読み解いたのだとか。先ほど、好古殿の問いに答えなさった歌も、例に聞かぬ見事な技法を用いたものでしたな。あの歌のお陰で、わしもあなたがそうなのだと、確信を持てたのですが」

 饒舌な怨霊だ。そしてそれ以上に、癇に障る。葛絃は、この男が太宰府に流された時、いたく同情したのだろう。生来優しく、情に脆いところのある弟だった。一族の秘密とされていたことまで、無聊の慰めにと話してしまったらしい。しかし、一体、雁のどこを見て、豪放磊落だなどと語ったのだろう。近しいと思っていた弟であっても、やはり歳が離れ過ぎていて、生まれながらに鬼を使う兄の内面までは、見えなかったか。

「――おまえが、一体、おれの何を知っている……?」

 雁は、木々の間を縫って斜面を登る歩みを止めずに、低い声で言う。

「人の心の奥底など、誰にも測れはしない。かつてのおれが豪放磊落に見えたとしても、それはただ、そう見えた、或いは、そう見たがった者がいたというだけの話だ」

「……成るほど。分かり申した。ならば、何ゆえ、命を捨てるような真似をなさるか、お教え願いたい」

 煩わしい怨霊だ。何故、赤の他人のことなどに興味を持つのだろう。雁は顔をしかめた。連日の雨でぬかるんだ山肌を一足一足登るたび、ずきりずきりと頭が痛む。

「さっきも言っただろう。こんなものは、鬼と化すのと変わらない、と。おれは鬼だ。生きてなどいない――」

 そう、これは、前生の続きのような生であって、転生したというようなものではないのだ――。


            ◇


 朝の光の中、疲れた体を引きずるように帰った時人は、家の門を入るなり、白黒の物体に跳びかかられて、危うく後ろ向けに倒れそうになった。

「全く……」

 たたらを踏んだ時人は、足元に着地して嬉しげに尾を振っている犬の頭を、やや乱暴に撫ぜる。

斑女(まだらめ)(しま)(ほし)(ともえ)を放っておいていいのか? おまえは、母親になった自覚が薄いのではないか……?」

「一晩帰ってこなかった主を大歓迎しているのに、随分と冷たい仰りようですのね」

 呼びもしないのに出てきた式神の翅鳥がなじった。

 斑女は弓削家の飼い犬であり、家族の中では、時人に一番懐いている。先日、三匹の子犬を産み、弓削家の全員を、お産による物忌にした張本犬(、)だ。産後の肥立ちはすこぶるよく、元気一杯で、ともすれば、生まれたばかりの子犬の傍を離れてしまう。

「とりあえず、水漬(みづづけ)を……」

 翅鳥に言って、時人は斑女に纏わりつかれながら、沓を脱いで部屋に上がった。簀子から廂へ行き、寝転がって息をつく。斑女はわきまえていて、部屋にまで上がってきたりはしない。簀子の前で一頻り尾を振った後、床下の、子犬がいるところへ戻っていった。

「少しは休めそうですの?」

 素早く水漬を用意してきた翅鳥が、箸を置いた椀を時人の傍らに置きながら問うてきた。翅鳥なりに、時人の体調を心配してくれているらしい。

「卯の二刻に追捕開始だから、今、寅の二刻ぐらいだろう、少しは休める。父上は、帰れるとしても、われもこう(、、、、、)様のところで、こちらには戻られないそうだよ」

 時人の父、弓削義貞は、陰陽寮に六人いる陰陽師の一人であり、多忙を極める。昨夜は、建礼門前にずっと詰めていたし、今は、気になることがあるからと、陰陽寮に留まっている。われもこうというのは、芹と呼ばれていた時人の母が父に愛想を尽かして実家に帰ってから、父が通い始めた人の呼び名だ。家の庭に、われもこうがたくさん生えるらしい。その家はこの家より大内裏に近いので、短時間しか帰れない時に、父がよく利用するのだ。

「父子揃って、仕事の虫ですわね」

「それは違う……。おれは単に、与えられた仕事をこなしているだけだよ。だが父上には、高みを目指そうという、野心がおありになる」

 父はいつも眉間に皺を寄せ、厳しい顔をしている。その眉間の皺が消えたところを、時人は殆ど見たことがない。

「……おれは、父上のようにはなれない……」

 独り言のように呟いて起き上がり、水漬を口に掻きこむと、時人は母屋に入って、莚の上に寝転んだ。冠を無造作に外し、目を閉じる。翅鳥が気を利かせて、衾をふわりとかけてくれた。

 ほっと一息つくと、瞼の裏に、同輩の顔が浮かんだ。

(保憲、大丈夫か……)

 昨夜の賀茂保憲は様子がおかしかった。お互い陰陽生の頃から、ずっと身近に接してきた同輩の、あんなにも隙だらけな姿は、初めて見た。小丸というあの家人の少年が、助けに入っていなければ、危なかっただろう。その後も、内裏のほうで、いろいろあったようで、小丸に陰陽寮まで運ばれて仮眠していた保憲の顔色は、ひどく青褪めていた。

(……女子だというのに……)

 前々から、ずっと女ではないかと思ってきたが、確信が持てたのは、極最近だ。懸命に隠しているらしいので、まだ、誰にも告げてはいないが。

(いろいろ無茶をするからな……)

 胸中で呟いて、時人は寝返りを打ち、本格的に眠りに落ちた。


            ◇


 日も昇った寅の三刻。

「あく、あく」

 呼ばれて、倭国巫のあくは、座したまま伏せていた目を上げ、隣に座っている少女を見た。もう一人の倭国巫、ゆら(、、)だ。

「大丈夫? さっきからずっとお箸が止まってるわ。やっぱり、具合、悪い?」

 顔を覗き込んでくるゆらに、あくは小さく首を横に振って見せた。

「ううん、大丈夫。それより、わたしに親しく話しかけないほうがいいわ。廬守(ろしゅ)達が上にどんな報告をするか分からない」

 廬守は、彼女達一人一人に支給された付き人であり、見張りのような者である。兄の気配がこの京の都に現れて、あろうことか百鬼夜行を率いて、大内裏に来たため、あくが生霊となって、二度、この神祇官西院の斎部殿(いんべでん)を抜け出したことは、衛士や近衛の目撃者によって、既にばれている。幸い、生霊の声を聞ける力を持つ者まではいなかったので、彼女が鬼使いの男の妹とまではばれていないが、廬守の監視が厳しくなっているのだ。しかし、ゆらは、まだ剃っていない眉根を寄せて言った。

「そんなこと気にしないの。昨夜、百鬼夜行を防げなかったのは、わたし達も同じなんだし。それに、わたし達、本当の姉妹のようなものなんだから」

 同じように並んで一緒に朝食を食べている他の三人の御巫、御門巫のまゆ(、、)、座摩巫のとよ(、、)、生嶋巫のやわ(、、)も頷いた。神祇官に属する者達の一部は、大内裏のすぐ外、郁芳門を出た北にある神祇町に住んでおり、毎日通ってくるが、御巫達は、この東西二間、南北一間の斎部殿にともに住んでいる。幼い頃から一緒に育ってきた絆は強い。けれど、そんな彼女達にも、あくは、兄のことを話すことはできなかった。巻き込む訳にはいかないのだ。そのため、彼女達は、あくが生霊となって二度も出ていったことを、ただ単純に鬼達を止めるためだったと、良心的に解釈してくれている。生霊となって行くには、そこに、強く思う相手がいないといけないということを知らないのだ。

「ありがとう。本当に、わたしは大丈夫だから。それより、もう正庁の神殿に参る時刻よ。皆、先に行ってて。わたしもすぐに行くから」

 あくは微笑んで答え、再び箸を動かし始めた。しかし、体は、朝食の僅かの固粥(かたかゆ)や汁物でさえ、すんなりとは受け付けない。もともと、あまり体を動かさない暮らしをしてきたため少食なのだが、昨夜のことが、衝撃的過ぎて、更に食べる力が失せてしまったのだ。

 四人の少女達は、心配そうに暫くこちらを見ていたが、皆、疾うに食べ終えていたので、一人二人と自分の台盤(だいばん)を持って立ち上がった。下人達が下げ易いよう、台盤を簀子に出しておくのである。彼女達が住むこの西院の斎部殿から、東院にある大炊殿(おおいどの)まで台盤を下げるのは下人達の役目である。神祇官の東西の院の間は築地によって隔てられており、その真ん中に設けられた、四足門の中門ただ一つだけで行き来できるようになっているが、彼女達は、普段、この西院から出ることを禁じられているのだ。

 神祇官の神祇とは天神(、)地祇(、)のこと。即ち、神祇官とは、この日本国の天つ神、国つ神のことを統括担当する官である。そこに属する五人の御巫には、鬼神の道を知る、見鬼の力のある少女達が選ばれる。六、七歳から十数歳までの未婚の彼女達には、一人ずつ廬守が支給される他に、家族にかかる調(ちょう)(えだち)が免除されている。調は絹、綿などの布を納める税の一種、役は公用の労役だ。少女達は、家族のために頑張っている。あくも、ここに連れてこられてから七年間ずっと、家族のために頑張ってきた。それなのに、昨夜、兄は朱雀門の前で告げたのだ。おまえの家族は、疫病に殺されて、もう誰一人残ってはいない、と。そして、飛香舎の階で、あくの生霊を通り抜けながら、過去の情景をあくに見せた。五年前に疱瘡が流行り、看病に明け暮れた兄が、気づけば天涯孤独の身の上になっていて、盗人の大将軍に拾われた経緯を、まざまざとあくに見せつけたのだ。

(だったら、わたしのこの五年間はどうなるの……? 父様(ととさま)母様(かかさま)……!)

 考えれば考えるほど、涙がぽろぽろと零れてくる。

(でもまだ、兄様がいる。相変わらず、鬼に守られてらした……。どうか、どうか無事でいて……)

 一心に祈ると、あくは固粥の最後の塊を箸で摘んで口に含み、飲み下した。

 西院の正庁の中の神殿では、あくが来るのを待って、御巫達の仕事が始まった。

「祓え給え、清め給え、(さきわ)え給え。祓え給え、清め給え、幸え給え。祓え給え、清め給え、幸え給え」

 声を揃えて唱えつつ、辺りを清めていく。二十三座の神々を祀る神棚の設けられた、この三間の神殿が、彼女達の主な仕事場だ。御巫としての任を解かれるまで、彼女達はここで二十三座の神々を祀り、仕える。この国を、この大内裏を、帝を、守るために――。

――「帝に、守る価値などないよ」

 兄の言葉が、冷ややかに、心に蘇る。

(昨夜、生霊としてここを出たことや、鬼使いの妹ということで、ここを追放されたら、兄様を捜して、一緒に暮らそう)

 ともに育った御巫達と別れるのは寂しいが、全て覚悟の上でしたことだった。


            ◇


 天児の裂け目を、保憲が白糸で一心に縫い合わせている。保憲が、白君の修理を姉のひぐらしに任せず、自分でしているのを見るのは、小丸にとって初めてのことだった。

 空に雲は多いが、未だ雨が降るという気配はなく、日が高くなるにつれて蒸し暑さが増していく。そんな中、賀茂邸に帰っても少し休んだだけの保憲は、ちくちくと、最大限細かく丁寧に、天児に戻った白君の傷を縫い合わせている。自分の部屋の南廂近くに座った保憲を、その集中を乱さないよう、小丸は息を詰めて南廂の東の隅から眺めていた。

 縫われている天児の、墨で描かれた素朴な顔は、誇らしさに満ちているように見える。天児らしく、保憲の身代わりとなれたことを、喜んでいるのだろう。その気持ちは、痛いほど分かる。

(よかったな、白君)

 密やかに欠伸をして、小丸は音を立てず、その場に横になった。卯の二刻からの追捕に、保憲も、きっと何らかの形で関わるだろう。その時に、寝不足の保憲を、自分がしっかりと守りたい。小丸はそっと目を閉じて、浅い眠りに就いた。


          九


 雁が前生を思い出したのは、疱瘡によって、自分も死にかけた時だった。家に一人きりとなり、看病疲れもあったところへ、疱瘡の症状が出た時、感じたのは、諦めと、天蓋孤独となる妹への申し訳なさだった。食べ物を用意する力もなく、水だけを飲んで過ごし、やがて意識が薄れて、暗く深い水を感じた時、不意に、情景が浮かんできたのだ。

 美しい女が、目を閉じて目の前に横たわっている。眠っているように見えるが、その女が既に黄泉路へ旅立ったことを、自分は知っている。その女は、ともに育った妹だ。


  なく涙雨とふらなむわたり川水まさりなばかへりくるがに

  〔自分が泣いて流した涙が、冥途で雨のように降ってほしい、三途の川の水が増えて、亡くした人が帰ってくることができるように〕


 哀しく詠んだ歌が、脳裏に蘇った。そこから先は、前生の記憶を思い出すというよりも、今生の記憶のほうが遠ざかるという感じだった。前生の、圧倒的に濃く長い生の記憶のほうが、今生のそれを上回ってしまったのだ。そして、唐突に悟った。京の都へ連れていかれた今生の妹が、前生で若くして亡くした妹と、同じ魂の人だということを。

(おれは、いつも、おまえにとって、あまりいい兄ではいられないな……。今生でも、おれは、おまえのためには、これ以上、何もしてやれない……)

 今生で出会った、蓑虫を守るために、ここから先の自分は動いていく。

(おれなど忘れて、おまえは、おまえの生を生きてくれ……)

 山を登る一歩ごとに、頭の芯が痛む。湿気が増し、空に暗い色の雲が垂れ込めてきている。間もなく、土砂降りとなるだろう。

 行く手の木々の向こうに、古びた庵が見えてきた。昨夜、大内裏を出た後、猿丸を先行させて、まだここにあることを確認させておいた庵。戸が外れ、板葺の屋根には大穴が開いて所々草が生えているが、気配の残り香はある。ここにいれば、すぐに会いに来るだろう――。

「陰陽寮の者ども、それに検非違使が来ますぞ。それを待つおつもりか」

 また、怨霊の気配が近づいてきて言った。よくよくお節介で暇な怨霊だ。

「――それより早く、来る者達がいるだろう。おれが待つのは、そっちだ」

「やはり、死ぬおつもりですかな」

 この怨霊は、どこまで、こちらの事情を知っているのだろう。

「そうだ、と言えば、満足か?」

 素っ気なく答えて、雁は庵の中へ入った。怨霊もまた、暗い庵の中へと、ついて入って来る。

「合点が行きませぬな。何ゆえ、再び人としての生を受けながら、そうも死に急がれるのか」

 問われて、柱を背に床に座り込んだ雁は眉をひそめた。合点が行かないのは、こちらのほうだ。何故、こうまで自分に執着するのだろう。だが、この執着の強さこそが、怨霊の所以なのかもしれない。

(葛絃も、この男の世話を焼くのは大変だっただろう……)

 それこそ、この男の気を紛らわせるために、一族の秘密まで話してしまうほどに。弟の葛絃の子だと名乗った、昨夜の右衛門権佐の姿が思い出された。優しげだった葛絃より、豪胆そうに見えた甥。

(この怨霊を少しでも鎮められれば、あいつのためになるだろうか)

 ふと、そんな考えが脳裏を過ぎって、雁は、目の前に立つ怨霊を見上げた。かつての仲間達が、鬼を率いた青年の派手な噂を耳にして、足跡を辿り、ここへ来るまでの間、少しばかり語るのもいいかもしれない。

「おれの今生は、もうそれほど長くないだろう。頭の中に、恐らく(はれもの)ができている」

「――治る、とは、治そうとは、思われませぬのか」

「無理だな。この痛み方、前生で死んだ時と同じだ」

「それでも、人は、足掻くものですぞ」

「足掻けば足掻くほどに、つらい。そうではないか? ゆえに、仏の教えなどでは、潔く諦めよ、時には自ら投げ出せ、執着するな、と説いているのだろう?」

「僧達が怒りそうな解釈ですな。なれど、足掻かなければ、それは、生きているとは言えぬのではありませぬか」

「足掻き過ぎると、他を食い潰す。それは、時平の例で、おまえもよく分かっているだろう?」

「――そうですな。ですが、あれは明らかに、時平に非のあること。正しいことを言う者を、己の都合で陥れ、黙らせる。それは、罪であり、足掻くという一途さを、越えた行為です」

「物は言いようだな」

「いいえ、これだけは言わせて頂く。自らが這い登り、のし上がり、より高みを目指すことと、卑怯な手段によって他を陥れ、引き摺り下ろし、蹴落として自らの保身を図ることとは、全く別のことなのです。後者は、罪です。足掻く過程で、必然として、勝者、敗者に分かれるかもしれませぬが、それは、正々堂々とした勝負の末のことであるべきです」

「成るほどな」

「世に、今だ罪はある。あなたは、それが許せぬゆえ、それを(ただ)すため、記憶を保ったまま、人として転生なされたのではありませぬのか?」

「――同じような境遇を味わったからといって、同じ思いを擁くとは限らない。人は、一人一人異なるものだ。同じ思いだと期待して裏切られれば、虚しくなり、恨みがましくなるだけだ」

「それも、前生で得た教訓ですかな」

「そうだな。その程度には、賢くなりたいものだ」

「では、あなたが前生で学び、今生で活かすべきことは、ただ、潔く諦めることだとでも?」

「いや――」

 雁は、微笑んで顔を上げ、初めて真っ直ぐに菅原道真の顔を見つめる。

「他を慈しみ、いとおしむことこそ、生きている意味だと、素直に思うようになった。おまえも、本当のところは、何より、慈しみ、いとおしんだ者達のためにこそ、そうした姿でいるはずだ」

 官位を剥奪され、離散させられた菅原氏の者達が、復位し、都に戻ってこられたのは、この怨霊が猛威を振るったからこそだ。

「――否定は、致しませぬ……。が、それだけではないと、申し上げておきましょう――」

 怨霊は、重々しく、苦い物言いをして、姿も気配も消した。

「そうだな。それだけなら、そもそも、怨霊ではないだろう――」

 独り呟いて、雁は、目を閉じた。背を柱に凭せかけ、頭の痛みを何とかやり過ごす。

 どれほどの時が経っただろう。やがて、雷鳴が聞こえ、ざあっと激しい雨が降り始めて、板葺の屋根の大穴から、容赦なく庵の中へも叩きつけ始めた。全てを圧するその雨音の中、互いに怒鳴り合い、土を踏み荒らして近づいてくる男達の気配が遠く微かに伝わってくる。雨で雁の足跡が消える前に追いついてくれてよかった。雁の力をよく知っているかつての仲間達は、鬼の出ない真っ昼間ということで、やはり強気になり、待ち伏せなど警戒せずに来たのだろう。

(それで、正解だ)

 守るためなら、自分は、鬼となり切る覚悟を決めた。あくを守るため、あの陰陽師も殺してしまった。蓑虫を守るため、自分は、過去の知り合いを頼り、かつての仲間達を皆殺しにする――。

(だから、蓑虫、あく、おまえ達は、もうおれから、自由になれ……)

 蓑虫の髪の柔らかさを、あくの泣き顔を思い出しながら、雁はゆっくりと立ち上がる。同時に、雨の向こうから、戸口を塞ぐように、人影が現れた。


            ◇


 得た情報を整理し、考えていくと、すべきことはたくさんあった。けれど、何よりもまず、白君の回復を優先した。手が多く要るというのもある。だが、自分を庇った白君を自分の手で元通りにしなければ、心が次へ動かなかったのだ。

「大丈夫か?」

 問いに、白い式神ははっきりと頷いた。

「ああ、大丈夫だ。おまえが直したのだろう? 自信を持て」

 いつもとは違って、姉に任せず、保憲自身が直したからこそ、不安があったのだが、杞憂だったようだ。

「それだけの口が利ければ大丈夫だな」

 寝不足の体の重さを感じつつ、保憲は立ち上がる。

「したいことが多くある。早速、動いて貰うぞ」

「任せろ」

 白い汗袗を揺らして向き直った式神の隣に、無言で小丸が並ぶ。保憲は、白君を繕いながら頭の中で整理したことを語った。

「まずは、鬼に慈しまれる性の、あの雁という男を追って、死なせないよう守ること。これは、時人と名嗣と父上が追捕の任に当たってるから、それとは別行動で行なう。次に、その雁が何故、内裏へ行ったのか、雁と繋がってる陰陽寮の者がいないかどうか、いた場合、誰なのか、明らかにする。雁が内裏へ行った理由の一つは、倭国巫の妹に、最早家族がいないから縛られることはないと告げるためだと思うが、それなら、あそこまで派手にする必要はないからな。これだけのことを、できるだけ素早く行ないたい」

「なら、おれが、あの鬼使いを追う。忠行と、時人、名嗣に見つからないよう行けばいいんだろう?」

 小丸の申し出に、保憲は頷いた。

「ああ、頼む。倭国巫については、白君、おまえが調べろ。おれは、雁と繋がってる陰陽寮の者について調べる。それから――、小丸、何かあれば、この前教えた紙の式神で、こまめに連絡を寄越せ。嫌な予感がする。雁を絶対に死なせないよう、気をつけてくれ」

 嫌な予感とは言ったが、夢見だ。もし、あの夢が現となるなら、雁は決して悪人ではなく、しかも、命の危険が迫っているということになる。

(どのくらい先のことなのかははっきりしないが……、恐らく、今日明日くらいの、近い内だ)

 あの夢で伝わってきた感情が、繰り返し、強く訴えかけてくる。あの夢のままに、死なせていい青年ではない。

「――優先事項は一つなのだろう?」

 不意に、白君が、立ちはだかるようにして言う。

「何はともあれ、第一に雁という男を殺させたくないのなら、まずは雁の許へ、全員で行くべきだ。他のことは、後からでもできる」

 白君が、求めもしていないのに意見してくるのは、初めてだ。保憲は、怪訝な思いに駆られながら、反論した。

「雁の行動の理由や、陰陽寮との繋がりが分からなければ、奴の許へ行っても、何一つ解決しない」

 しかし、白君は引き下がらなかった。

「会って本人から直接聞けばいい。生きてさえいれば、そこから次へ進める。死なれては、元も子もないだろう」

 確かに、と納得させられて、釈然としない思いを抱えながらも、保憲は答えた。

「分かった。まずは三(、)人(、)で、雁の許へ行き、奴を守る。他のことは、それからにする」


            ◇


鑑禎(がんてい)、久し振りだな」

 雨の雫を垂らしながら戸口から入ってきたモノに、雁は微笑みかけた。

「本当ニ久し振リダ。オマエガ死ンデ以来ダナ、小野(ショウヤ)

 相手は答えて、背の翼(、)を震わせ、雫を落とす。

「マサカ、オマエガ、二生ノ人トナルトハ、思イモシナカッタゾ」

「おれ自身も、思わなかったことだ。だが、これも何かの縁。おまえの力が、必要だ」

 雁は、人の寿命を遥かに越えて在り続ける知己を、真っ直ぐに見上げた。

 昼間に鬼は出ない。ゆえに、かつての仲間達は、昼間の自分を無力だと考えているだろう。それこそが、かつての仲間相手に仕掛けた罠だ。鬼は出ないが、自分には別に、力を貸してくれる存在がある。前生からの古い知己。この鞍馬山に住み、この世に留まり続けて、第二の祖国としたこの日本を眺め続けるモノ。世の人からは、天狗と呼ばれるモノと化した僧。彼の存在こそ、自分がこの鞍馬山へ登った理由――。


            ◇


「よかったな。あいつ、おまえを一人と数えたぞ?」

 辰の時である。時人、名嗣、忠行の先回りをして、鞍馬山を目指す道すがら、魔物の(りゅう)の背の中ほどに跨った小丸は、傍らを飛ぶ白君にそっと囁いた。

 龍の首の辺りに跨った保憲は髪をいつものように髻にはせず垂らして束ね、小丸と同じように檜笠を被り、脛巾を着け、藁沓を履いている。空高く、雲の上を飛ぶ龍は、賀茂川を下に見ながら、卯の二刻に大内裏を出発した追捕の一行を、賀茂神社の下の社の上空で密やかに追い越して、鞍馬山へと向かっている。空はどんよりと曇り、鞍馬山には深く雲がかかって、雨が降っているようだ。

「けど、何故、一緒に行こうなんて言い出したんだ? 保憲が置かれてる状況は、そんなに危険なのか?」

 小丸は白君に問うた。脳裏には、昨夜の月将達の言葉が蘇っていた。

 昨日、夜になって、じりじりと待っていることに耐えられなくなり、六壬式盤を取り出して、六壬神課で保憲のことを占った。すると、課式を担った月将達はそれぞれ独特の言い方で保憲が危ういこと、すぐに傍へ行くことを勧めたのだ。特に、今月の月将たる十二月将の五、風神の小吉は、小さな目鼻立ちの平凡な顔に、深刻な表情を浮かべて言った。

――「きみが行かないと、保憲の身も心も危ない。きみから見て、凄く危険なことがある訳じゃないし、普段の保憲なら充分対応できることだろうけど、今回のことの背景は、きみ達にとって初めての、身近な政争――権力争いなんだ」

 それで、小丸は保憲の言いつけを破って大内裏まで行ったのである。

 主と同じ顔をした式神は、抑揚のない声で答えた。

「ああ。これまでになく、油断のならない敵だ。絶対に、保憲の傍を離れるな。迷っているあいつは、下手をするかもしれない」

「あいつが、迷ってる?」

 いつも忠行のためと、ひたむきに生きている保憲が迷うなど、小丸には想像もつかない。

「今回は、保明親王や一言主と同じくらい、相手が悪い」

 ぽつりと告げると、白君は保憲の斜め後ろにぴたりと追随する。小丸も龍の背を伝って、保憲との距離を縮めると、最前から気になっていたことを問うた。

「陰陽寮へは、今日は何て言ってあるんだ?」

 魔物を急がせる保憲は、前を向いたまま答えた。

「夢見が悪かったので物忌すると伝えて下さるよう、紙の式神で父上に頼んでおいた」

 紙の式神とは、小丸も最近、碁の傍ら保憲から教えられたもので、伝えたいことを書いた紙に力を注いで、そのまま相手の許へ飛ばすというものだ。それを伝えられた忠行は、陰陽寮に宿直して、賀茂邸には戻らないまま、空から見下ろした追捕の一行の先頭付近で、馬に跨っていた。

 物忌という理由は、何か別のことをするための建前に過ぎないと、陰陽寮の誰もが分かっているだろうが、表立って任じられていないことをするためには、仕方ないと黙認して貰えるのだろう。


          十


 紫野や賀茂神社の上の社も見下ろしながら、魔物の龍を飛ばせ続けた保憲は、鞍馬山の麓辺り、賀茂川に流れ込む小川沿いで、魔物に姿を消させた。雲が厚く、鞍馬山に近づくにつれて、ぽつぽつと雨が降ってきたので、日輪は見えない。日の高さは分からないが、賀茂邸を出発してから、まだそれほど時が経った感じもなく、魔物の龍もずっと出ていたのだから、まだ辰の時だろう。

「何故、三十六禽を消した?」

 小丸の問に、保憲はちらとも振り返らず、風に乗せて答えた。

「神や仏の機嫌を損ねたくない」

 鞍馬山には鞍馬寺があり、そこから貴布禰川(きぶねがわ)を挟んですぐ隣は貴布禰山、たかおかみの(、、、、、、)神が祀られた貴布禰神社がある。時刻の魔物たる三十六禽に乗っていったのでは、失礼に当たるということなのだろう。

「先を急ぐ。早いが、歩きながら昼養(はんさぎ)にしよう」

 保憲の言葉に従い、小丸は、笹の葉に包んだ屯食(どんじき)を懐から取り出した。(もちよね)を蒸した強飯(こわいい)を握ったもので、味も腹持ちもよく、昼養には持ってこいのものである。保憲も自分の分の屯食を懐から出して歩きながら、食べ始めた。普段、食事は、朝と夕にするのみで、昼にしたりはしないが、行事やこうした遠出の際には、昼養といって、昼にも食事をするのだ。

 檜笠に当たる雨音を聞きつつ、黙々と食べながら歩き、ついでにその辺りに生えていた覆盆子(いちご)の実も食べ、小川に下りて水を飲んだところで、保憲が口を開いた。

「おまえは、鞍馬山のことを、どのくらい知ってる?」

南家(なんけ)藤原氏の伊勢人(いせひと)って奴が、氏寺を建てたいって思ってた時に、夢で貴布禰神社の神のお告げがあって、霊験あらたかな山があるって教えられたんだろう? それで、鞍を乗せた白い馬を放って、後をつけて、夢で見た山を見つけた。そこには萱葺(かやぶき)の小堂の中に毘沙門天の像もあって、それで、伊勢人はそこに寺を建てた。それが鞍馬寺で、その山も鞍馬山と呼ばれるようになったってくらいだ」

 小丸が答えると、保憲は小川を離れて再び歩き出しながら、淡々と語った。

「その毘沙門天は、白檀(びゃくだん)造りで、この日本の造り方で造られたものではなかったという話だ。――天平勝宝(てんぴょうしょうほう)六年に唐から来た高僧、かの鑑真(がんじん)大和上(だいわじょう)は知ってるな? その鑑真がこの日本に伴ってきた八人の高弟の中の最年少、鑑禎が、宝亀(ほうき)元年に、夢でこの山が大変な霊山であることを知り、訪れた。その夜、この山の中で、鑑禎は、女の姿をした鬼に襲われたが、毘沙門天の加護により、朽木が倒れて、その鬼を潰した。それで、のちに、鑑禎はその場所に庵を結んで、毘沙門天を祀ったんだそうだ。それに、鑑禎は、この山で、宝の鞍を乗せた白い馬を見たという話だ」

「なら、伊勢人が見た毘沙門天の像は、その鑑禎が祀ってたやつか」

 小丸は保憲の後について歩きながら言った。鑑禎の話の頃から伊勢人の話の頃まで、二十年ほど下るから、そう考えるのが自然だ。

「恐らくな」

 保憲は頷いた。つまり、最初に鞍馬山に毘沙門天を祀ったのは、その鑑禎で、伊勢人は、新しく寺を建立して、その毘沙門天を祀り直したという訳だ。

「ってことは、鞍馬の名の本当の由来は、鑑禎が見た白い馬のほうなのか?」

 小丸の問いに、保憲は首を傾げて見せる。

「さあな。白い馬というのは、昔、天竺から唐へ仏法を伝えた際に、白い馬に経典を載せて運んだという故事があるから、こういう伝説には、よく引っ張り出されるんだろうしな。とにかく、あの男が、何故逃げる先としてこの山を選んだか、考えながら追う必要がある」

 鑑禎が白い馬を見たという話を本気にしていない口振りで言い、保憲は足を速めて走り出した。

「さて、ここからは山登りだ。雨もひどくなってきたし、女の鬼が出ないとも限らない。急ぐぞ」

(出たとしても、おれがすぐに倒す)

 胸中で呟いて、小丸は、全速力で走り始めた保憲の後に、跳ねるように続いた。


            ◇


――「イイダロウ」

 古い知己は、雁の頼みをあっさりと引き受けた。面白がっているふうもある。「小野」がいない間、退屈していたのかもしれない。

(これでいい――)

 狭く暗い庵の中、雁は腰の鞘から打刀を抜いて、壁を背に、ゆっくりと立ち上がった。大勢の足音が聞こえてきた。彼らが来たのだ。

「おい、ここにいることは分かってんだ、雁!」

 戸口に、人影が詰めかけるように現れ、覚えのある声が響いた。いつも長の周りにいて、大きな声で長の指示を伝えていた男だ。

「お久し振りです……」

 ひどい頭痛に耐えて、雁は言葉を返した。これから、彼らの身に起こることを思えば、憎しみも何もない。奇妙な懐かしさすら感じた。雨の暗さとひどい頭痛で霞んだ視界に、他の男達の後ろから、長身の男が現れた。長だ。

「雁、これで最後だ。仲間に戻れ」

「断ります」

 短く、雁は誘いを撥ねつけた。

「なら、死ね」

 長は、雁を見据えたまま、背後にいる男達に手を振って合図した。

 かつての仲間達は四方八方から向かってくる。前から襲いかかってきた相手の太刀を打刀で受け止め、振り払い、突いた瞬間、右側の死角から現れた敵の腰刀に、右肘の辺りを斬られた。熱い痛みが走る。顔をしかめつつ、壁を背にしたまま左へ動いて次の斬撃を避け、痛む右腕を動かし、その相手の顎の辺りへ打刀を振るう。切っ先が相手の咽元を掠めただけでよしとし、左や前から来る敵へと、返す刀で斬りつける。どっ、と左肩に衝撃が走った。長刀だ。体の動きが止められたと思う間もなく、また右の死角から、右の上腕を斬りつけられた。まだ刀は落とさない。が、最早振るえない。かっと睨み据えた前で、外から差し込む鈍い日差しを背景に、群れた人影が動き、幾つもの刃が閃き、突き出され、左腹、右腿、左手――。感覚が飽和状態になる。もう致命傷だ。このまま自分は死ぬだろう。だが、これでいい。弟とも思う、あの少年を自由にできたのだから。自分は、そもそも、あの少年の傍にいるべきではなかったのだから。激痛の中、安らかな満足感を覚えつつ、その場に崩れ落ちて、雁は目を閉じた。


            ◇


「鬼がいなけりゃ、呆気ないもんですねえ、長」

 崩れ落ちた青年の肩を蹴りつけて、横倒しにした配下の男の言葉に、播磨長遠(はりまのながとお)は眉間に刻んだ皺を深くした。呆気なさ過ぎる、と感じたのだ。言葉を発しない長の代わりに、別の配下が言った。

「けど、こんだけを相手に、打刀一振りでよく戦ったじゃねえか。鬼を使うだけじゃなく、腕も立つ奴だとは思ってたけどよ」

「そうだな」

 更に他の男達が会話に加わる。

「刀も使えりゃ、弓も上手い奴だった。勿体ねえよな。仲間に戻るとさえ言やあ、よかったのによ。強情張りやがって」

「ふん、久々に見りゃあ、やっぱり綺麗な顔してやがる。鬼さえいなけりゃ、もっと可愛がってやったのによ」

「その鬼を一番恐がってたのはおまえだろうが」

 口々に言いながら、最早動かない雁の体を小突いたり蹴ったりしている配下達を眺めて、長遠は最前からの違和感が強くなるのを感じた。

(鬼を使う力も、刀や弓を使う力も、こいつの本当の恐さじゃねえ)

 雁という青年から常々感じていた、本当の恐さ。いけ好かないと周りが距離を取っていた、本当の恐ろしさ。それは、隙のなさと知識の豊富さ。何より恐ろしいのは、雁の頭のよさだったはずだ。

(こいつは、こんな簡単に、あっさりとやられるような奴じゃねえはずだ。だからこそ――)

 こちらもかなり本気で来たのだ。鬼がいないとしても、決して油断せず、人数も刀剣も充分に揃えて、罠も警戒しながら追って来たのだ。

「で、あのちっこい餓鬼――蓑虫のほうは、どこ行ったんでしょうねえ?」

 問われて、長遠ははっとした。そう、雁の最大の目的は、蓑虫を守ることだったはずだ。その蓑虫の姿は、ここには影も形もない。足跡がないのは、背に負ぶっているせいかもしれないと思っていたが、蓑虫をどこか安全なところへ預けた上で、雁は長遠達を呼び出したのだ。一人で決着をつけるために。

(つまり、最大の目的が果たせたから、これでいいって訳か……)

 漸く安堵しかけた長遠の耳に、また配下の男達の勝手な会話が飛び込んできた。

「こいつがどっかに隠したんだろう。甘い奴だ。おれ達が見逃すかってんだ」

「どうせ都のどっかだろう? 見つけ出して、こいつの死体と対面させてやろうぜ?」

 そう、雁はよく知っている。かつての仲間達が――長遠達がどう行動するか、熟知しているはずだ。ならば、この状況で――、蓑虫を守れない、この状況を作っておいて――。

「おれ達を生かしておくはずがねえ……!」

 沈黙を破って急に大きな声を出した長遠を、配下の男達が驚いて見る。誰もが黙った中、雨音が激しさを増し、そしてその雨音の向こうに、長遠は、不吉な羽音を聞いた――。

 雁は、泥と血糊で汚れた顔に、仄かに安堵の表情を浮かべて倒れている。そう、雁は自らを囮としたのだ。彼らかつての仲間達を、一網打尽にするために。

「だからこそ、てめえは恐ろしいんだ……!」

 長遠は叫んで腰の長刀を抜き放ち、仲間を掻き分けて庵の外へ飛び出ると、雨の降り続く空を睨みつけた。


            ◇


 雨は山を登るにつれどんどんと激しさを増し、ついにはすぐ前を走る保憲の背中すら見えづらくなるほどになった。それでも、保憲は足を緩めない。白君が、その保憲を庇うように、気配を濃くして雨を受けながら、上を飛んでいる。

 と、唐突に保憲がちらと振り向いて、何事かを言った。しかし、雨音が大き過ぎて全く聞き取れない。

「何だ?」

 叫んだ小丸の声も届かないのか、保憲は更に足を速める。その肩越しに、雨の帳の向こうから現れる黒々とした庵と、そして、その周りに倒れた男達の姿が、小丸の目に飛び込んできたのだった。

 木々に囲まれた、少しばかり開けた場所に立つ庵の周りには、襤褸切れのようになった男達が、十人以上転がっていた。生きている者はいないと、一目で分かる惨状だ。ここまで激しく雨が降っていなければ、かなり遠くまで血の臭いが漂っていただろう。手に手に刀や剣を持っているところを見ると、杣人(そまびと)とも、山の猟男とも、山伏とも思えない。

(群盗が、仲間割れでもしたのか……?)

 眉をひそめ、足を緩めた小丸を置き去りにするように、保憲は、庵の戸口へ、走ってきた勢いそのままに駆け込んでいった。小丸もはっとして後を追う。

 庵の戸は外れてなくなっており、屋根には大穴が開いていた。長い間使われていないのだろう。何者か分からない男達は、その庵の中にも大勢折り重なるように倒れていた。屋根の大穴から降ってくる雨に打たれて、暗がりの中、ぴくりとも動かない。

 と、不意打ちのように、人ではあり得ない気配を庵の奥に感じて、小丸は前に立つ保憲の傍らへ一跳びし、身構えた。何かが、今まで故意に消していた気配を表したのだ。

 さほど広くもない庵の隅の闇に、大きな人影が佇んでいる。保憲は、その人影を静かに見つめている。すぐに、小丸の目も闇に慣れて、それが山伏の姿をした天狗であり、しかもその両腕に、あの鬼使いの青年を抱えているのだと分かった。

「手当テハシタ。小野(しょうや)ノコト、後ハ託ス」

 天狗は、雨音に負けない割れるような声で告げて、ぬっと青年の体を差し出した。

「白君」

 保憲は己の式神を呼んで、二人がかりで青年の体を受け取ると、天狗を見上げて問うた。

「あなたは、この人の知り合いなのか」

「アア」

 天狗はにやりと笑う。

「ソイツガ死ヌ前カラノ知リ合イダ」

「死ぬ前から――? では、この人は、二生の人なのか?」

「死ネバ、マタ名ガ変ワル。今度ハ、オレノコトモ忘レテイルカモシレン。デキレバモウ暫ク生カシテオイテクレ。ソイツガイルト、イロイロ面白イ」

 一方的に言うと、天狗は翼を広げ、屋根の大穴へ向けて、ばさりと飛び立った。

「あなたの名は……!」

 見上げて放った保憲の問いには、雨とともに、一言、降ってきた。

「――鑑禎――」

 既に伝説の中に語られるその名を聞いて、小丸は半信半疑の思いがしたが、保憲は天狗の話を全て信じた様子である。

「急いで帰るぞ。この状態では、陰陽寮にも、どこにも引き渡したくない」

 白君に手伝わせて自分の背に青年を負うと、さっさと庵の外へ出ていく。小丸はまたも慌てて後を追いながら、問うた。

「何で、白君に背負わせない?」

「白君には体温がない。怪我人の体をこれ以上冷やす訳にはいかない」

 素っ気なく答えて、保憲は走り出す。小丸はじれったい思いで言った。

「なら、おれが背負う」

「当然、途中で交替して貰うぞ」

 保憲は前を向いたまま言って、ぬかるんだ斜面を蹴立て、来た道を全速力で下り始めた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ