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月と花  作者: 広海智
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承平陰陽物語 第七

   保憲(やすのり)賀茂斎院(かものさいいん)白君(しろき)()けし(ものがたり)  第七


          一


 賀茂祭は弘仁十年三月から中祀(ちゅうし)とされ、祭祀のある中の酉の日を挟んで、申、酉、戌の三日に渡って行なわれるが、この祭に先立ち、斎院(さいいん)御禊(ごけい)が行なわれる。

 斎院とは、伊勢神宮の斎宮に倣い、賀茂神社に奉仕する未婚の内親王(ないしんのう)或いは女王(にょおう)のことだ。今の斎院は先帝の皇女である三品(さんぼん)婉子内親王(よしこないしんのう)。今年三十歳になった斎院で、宮中初斎院での二年間の潔斎を経て、戊午(つちのえうま)の明日、四月十二日に、京の北の紫野(むらさきの)にある、本院とも呼ばれる斎院に入られることになっている。しかし、その前に例年の御禊が行なわれるのだ。

 御禊とは、予め賀茂川で禊を行ない、身を清めておくことである。その御禊に、供奉の諸司に加え、陰陽寮の官人も随行する。随行するからといって斎院の傍近くに行ける訳ではないが、機会はあるだろう。婉子本人をちらとでも見ることができれば、力を及ぼせる。

(あのこと、玉依姫様に、是非お尋ねしたいからな)

 保憲は、陰陽寮の一室で、百鬼夜行の報告書をしたためつつ、考える。

 御禊は、()の日に、賀茂川の川原のどこで行なうかを点定し、午か未の日に行なうのが慣例だ。今年は明日の午の日である。

(白君を使えば、直接話ができる……)

 保憲は胸中で算段しながら、さらさらと報告書を書き上げ、筆を置いた。両隣で、それぞれ同様に文机に向かい、百鬼夜行の報告書をしたためていた時人と名嗣も、ほぼ同時に、かたん、かちゃりと筆を置き、自らの書いたものを目で読み返し始めた。

「なあ」

 不意に口を開いたのは名嗣である。

「秦河勝様は、何で、おれや時人じゃなく、保憲と目を合わせたんだろな……?」

「秦氏と縁続きの……賀茂氏の者だから、だろう……」

 時人の答えに、それでも納得がいかないという顔で、名嗣は保憲を見る。

「けど、縁を大事にするなら、それこそ秦氏の者の前に百鬼夜行を生じさせるなり、何なりすりゃいいんじゃないのか?」

「今の秦氏に、百鬼夜行をどうこうできるほど力のある人はいないよ……」

 時人が目を伏せて答え、保憲は頷いた。恐らくは、そういうことなのだ。秦氏の末裔は多くいるが、見鬼の力に恵まれ、そういう類の力を持つという人の話は聞かない。陰陽寮にもいない。

(かつて秦氏が持ってた先進的な知識の内、陰陽道の範疇に入るものは、全て、賀茂氏が引き継いだ)

 保憲は、黙して思う。秦氏の先祖は、古、大陸より渡ってきたという。いわゆる渡来人であった彼らは、養蚕や治水、暦法といった、その先進的、豊富な知識で以って勢力を築いた。その知識は繁栄の礎であり、彼らは他の氏族に、決してそれらを教えることはなかった。けれど、賀茂氏は、秦氏と何度も姻戚関係を結び、縁続きとなることで、その知識を得たのだ。

(秦氏は、何故、賀茂氏にだけ、その胸襟を開いたんだろう……)

 その答えも、或いは、玉依姫のあの言葉にあるのかもしれない。詳しいことが知りたい。母の素性に迫れるかもしれない。それゆえ、できるだけ確かな方法で、玉依姫ともう一度会いたいのだった。


            ◇


 賀茂斎院(かものさいいん)にとって、賀茂祭は一年の中で最も晴れやかな日々だ。京に住む人々だけでなく、辺りの村々、国々からも見物人が集まる祭。その祭の、主役なのだ。しかし、だからこそ緊張もする。何か失敗しないかと、不安になる。しかも今年はその祭と同時に、住まいも紫野の本院へと変わるのだ。

(まあ、悩んでも仕方ないわね)

 自分の周りで動き回る女房達をぼんやりと眺めつつ、斎院婉子は思う。段取りはとりあえず覚えたし、もし何か忘れるようなことがあっても、斎院司(さいいんし)の者達が助けてくれるだろう。別に斎院たる自分が指揮して祭を行なう訳ではないのだ。本院へ住まいが移ろうと、身近に仕える者が変わる訳でもない。

(わたくしはただのお飾り。ただそこにあって、言われた通りに動いていればよい)

 そうして、安穏な日々を過ごす。歴代の斎院達は、物語にも描かれるような、実に優雅な日々を過ごしてきた。自分も、願わくはそうありたい。

「宮様、お支度(したく)整いましてございます。どうぞ、お車へ」

 女別当(にょべっとう)に告げられて、婉子はゆるりと立ち上がった。衵扇で顔を隠し、腰から後ろへ垂らした裳と髪を引き摺って自室を出て、斎院の車寄へと袴を捌いて廂を歩く。祭祀のある酉の日は輿(こし)に乗るのが習わしだが、祭に先立つ今日の御禊は牛車で行くのが慣例だ。前駆の馬や、車を引く牛など、帝が御覧になってから、この宮中初斎院へ回されてきているのである。

 賀茂川への沿道には、見物の人々が集まっていた。酉の日ほどではないにしろ、賑やかだ。斎院に卜定されて以来、精進潔斎した静かな暮らしをしている身には、より一層に。

 やがて車が、川原の点定されていた地点へ到着し、婉子はともに乗っていた女房に先導されて降りた。先追(さきおい)や随行の者達の視線が注がれる中、川岸へ歩み寄り、緩やかに流れる水へ両手の指先を浸ける。その時だった。

 宮様。

 声が、頭の中で響いた。

 婉子様。

「誰?」

 口の中で呟いた婉子のすぐ傍らに、同じように水面へ屈み込むようにして、少女が現れた。見掛けない女童だ。十六、七歳だろうか、既に裳着を済ませていてもいいような年頃に見えるが、童装束の汗袗を着ている。裏も表も白い白襲だ。その下に着た衵も、上袴、重袴も、皆、白い。

 婉子様、お願いがございます。

 少女の唇が動いた。

(人ではないのだわ)

 婉子は察した。

 酉の日には、(しも)の社までお連れ下さい。

 ただそう告げて、少女の姿は川面を渡る風に吹かれるように、ふうっと消えた。


          二


 賀茂神社は、(かみ)と下の二つの社に分かれている。上の社は、賀茂別雷神を祀っていて賀茂別雷神社といい、下の社は、賀茂別雷神の母、玉依姫と、祖父、賀茂建角身命を祀っていて賀茂御祖(かものみおや)神社という。

(「下の社までお連れ下さい」ということは、玉依姫様か賀茂建角身命様に用があるということね)

 婉子は昨日見た少女のことを思い出しつつ、脇息(きょうそく)に寄り掛かって、彼女の新たな住居となった本院――紫野の斎院の庭を眺めていた。未の日の今日は、警固が始まる日。これから祭の終わりまで、衛府が諸官司などの警備を行なって、非常を戒めるのだ。

 午の日の昨日は、御禊と、そして、御生(みあれ)の神事があった。御生とは、子である賀茂別雷神が、祖神(おやがみ)を慕われるのを哀れんで、御祖(みおや)の神が形を現されたことをいう。異説もある。賀茂別雷神は、われは天神の御子であると言って天に昇った。玉依姫らが恋い悲しむと、夢に現れて、われに会おうとするなら、天の羽衣、天の羽裳を作り、火を焚き、鉾を祭って待て、また走り馬を飾り奥山の賢木(さかき)を取って阿礼(あれ)に立て、種々の彩色を垂れよ、また葵、楓の鬘を作り、いかめしく飾って待つならば来るであろうと告げた。姫は夢の教えのままに別雷神を祭ったという。何にせよ、この神事は、古から行なわれてきており、(さかき)に神をお移しして、再びの誕生を祝うというものだった。酉の日の祭祀とは異なり、深更、人目を(はばか)って密やかに行なうものなので、他の祭祀や神事よりも神の息吹が感じられるようで、とにかく肩が凝った。

 申の日の明日は、祭の初日で、賀茂国祭(かものくにまつり)というものが行なわれる。ここ、山城国の国司(こくし)、即ち(かみ)(すけ)(じょう)(さかん)が検察して、人を集め、騎射(きしゃ)を催すのである。これがもともとの賀茂祭の形だという人もいる。

 そして明後日の酉の日、婉子は輿に乗って、まずは下の社へ参り、その後、上の社へ参るのだ。

(あの女童は、他の誰にも見えていなかった)

 人ではない、と察した婉子の勘は正しかった。周りにいた女房達にそれとなく探りを入れてみたが、誰も、あの時、そのような少女を見てはいなかった。あの少女は婉子にだけ見えて、婉子にだけ言葉を伝えたのだ。

(一体、あれは何なのかしら)

 物怪かとも思ったが、禍々しい感じはしなかった。その白い衣のせいか、むしろ、清浄な感じすら受けた。けれど、何であれ。

(どう「お連れ」したらよいのかも分からないのだから、わたくしはわたくしの為すべきことをしているしかないわね)

 婉子は袖の陰で小さく欠伸をして、脇息を枕にし、横になった。この本院は、宮中初斎院より静かで少し寂しいが、居心地はいいようだ。明日から三日間、また忙しい。今日は、斎院婉子にとって、休息の日だった。


            ◇


 警固が始まった。左近衛府の官舎の辺りでちらと見かけた左近衛少将藤原敦忠も、三月三日に五条第で見た時とは打って変わった、厳しい面持ちで歩いていた。

(ただ祭と言えば、賀茂祭。その賀茂祭の時に、何か起これば大事(おおごと)だ)

 まして、斎院の身辺に怪異があったとなれば、また陰陽寮が責められる。しかし、それほどの危険を冒してでも、保憲は、知りたいのだ。

(幸い、婉子様は白君のことを黙ってて下さってるようだしな……)

 斎院としても、面倒事は極力避けたいだろう。何とか、このまま、上手く事を運びたい。白君を通して、斎院とともに下の社――賀茂御祖神社へ赴き、確実に玉依姫に会う。会って、先日の話の続きを請う。

(白君なら、大丈夫なはずだ……)

 胸中で呟いて、ふと、保憲は自嘲する。今日から、袷も袍も指貫も、綿を抜いた夏物に替えているのだが、そんなことなど全く忘れて、公私ともに、明後日に迫った祭祀の準備に追われている自分がいる。例年にないことだ。

(やっぱり、相当図太くなってるな……)

 薄い袍の袖から入り込む風を心地よく感じながら、保憲は陰陽寮の庭を足早に横切った。


          三


 申の日の賀茂国祭は滞りなく終わり、祭の中日たる酉の日の夜が明けた。簾越しに見える朝の光が美しい。さすがに緊張を覚えて、婉子は赤い衵扇の陰で深呼吸した。

 神に幣を奉る、奉幣使(ほうへいし)。他にも、内蔵寮(くらりょう)から、五位以上一人。左右の近衛府、左右の馬寮から、五位以上各一人。馬、十二騎。皇太后、東宮の使(つかい)、五位以上各一人。内侍(ないし)命婦(みょうぶ)、蔵人、闈司(いし)、各一人。皇太后の命婦、蔵人、各一人。朝廷から遣わされた、これらの供奉(ぐぶ)の者達を一々見ることも、奉幣使の乗る飾馬をうっとりと見ることもできない。婉子は(れん)と呼ばれる豪奢な輿に乗って斎院を出発した。

 地下(ぢげ)の官人達が(ほこ)、弓などの神宝を持ち連なり、京の都の治安を担当する検非違使(けびいし)、近衛の使の中将や少将、内侍の使なども車を連ねた行列は、一条大路(いちじょうおおち)を通って、下の社――賀茂御祖神社へ向かう。一条大路は、それはもう凄い人出だった。

 輦の壁代の隙間から見える物見車の数もおびただしく、広壮な桟敷も造られて思い思いに着飾った貴族達が並んでいる。行列の者達も、それぞれ車や衣に風流を尽くし、花飾りを着けて美しいが、沿道の貴族達もまた華やかだ。賑やかな人声も絶えない。斎院たる自分が通る今はもう収まっただろうが、物見車の場所を争う車争(くるまあらそい)も起こっただろう。今だ騒いでいるのは、近隣から見物に集まった身分低い者達だろうか。或いは、車、衣、馬具などの奢侈が過ぎて法に触れ、棄却を命じられている者もいるのかもしれない。輦の障子、壁代越しに聞こえる喧騒、賑わいは、どこか浮き世離れして婉子の耳に届いた。

(あの女童の姿をしたモノは、どこにいるのかしら)

 ふと思った瞬間、気配があった。

 ここに。

 長い黒髪に縁取られた白い顔がぼんやりと婉子の間近に現れ、また消えた。どうやら憑かれているらしい。

(禊に行って憑かれていたのでは、仕方ないわね)

 嫌な感じはしないのが救いだ。

(まあ、なるようになるでしょう)

 婉子は半ば投げやりに、溜め息をついた。

 京を出た行列は、京の東北、賀茂川沿いの(ただす)の森にある賀茂御祖神社へと、厳かに進む。

(いよいよね)

 婉子は気を引き締めて、輦の中、姿勢を正した。

 社前に至ると、斎院はまず、輦を降り、社外に設けられた仮屋(かりや)――(あげばり)に入り、清らかな衣に着替え、今度は腰輿(たごし)に乗り、社殿近くまで行って降り、徒歩で社前の殿舎に行く。奉幣使も社前に至り、紅紙に書かれた宣命(せんみょう)を読む。

 異変が起こったのは、奉幣使がそうして朗々と宣命を読み上げた直後だった。

 玉依姫様。

 まだ社前の殿舎にいる婉子の耳に、声が聞こえた。畏まった硬い響きの、あのモノの声だ。

 先頃はお助け頂き、ありがたく思っております。今日は、どうかお教え頂きたく、まかり越しました。「桂に連なる子」とは、どういうことでしょうか。「われらが愛し子の末なる者」とは、如何なる意味でしょうか。どうか、お教え下さい。

 婉子には、何のことか分からない。けれど、神には、分かったようだった。

 今宵、夢で会いましょう、桂の子よ。

 柔らかな声が、どこからともなく答えた。あのモノの声ではない。優しい、女の声だ。

(玉依姫様――)

 婉子は、まじまじと、目の前の社殿を見つめた。


          四


 下の社から牛車で上の社へ行き、下の社と同じ祭式を行ない、今夜は神館(こうだち)で一泊。婉子内親王は、滞りなく祭祀を行なったようだ。

(迷惑をかけてしまったが、しかし、肝の据わった宮様だったな)

 保憲は自室で息をつく。白君を通して、今日は一日、見物にも行かず、意識を斎院婉子の傍に飛ばしていた。玉依姫に願ったのも、保憲自身だ。疲れたが、それだけの甲斐があった。

(今宵、夢で)

 神の言葉に嘘はないだろう。

(漸く、あなたに近づける、母上――)

 保憲はごろりと仰向けに寝転がり、まだ上げてある格子の向こうの、暮れなずむ空を見つめた。母は何者なのか。何故、この家に入り、姉と自分を残して、出ていったのか。何故、今頃になって、姉の夢に現れ、小丸の前に姿を現し、寛朝を通じて自分を助けるのか。

「……格子を下ろすぞ」

 ふわりと室内に現れた白君が、保憲を振り向いて言った。

 衾を被った体の上を、夜風が吹き渡っていく。

 また、耳元で水音がする。深く、豊かに流れる水音。――知っている。自分は――自分の血は、この音を知っている。

「やはり、また会えましたね」

 夢の中、玉依姫は微笑んだ。手を伸ばし、保憲の頬に触れる。

「われらが愛し子の末なる者にして、桂に連なる子。そなたの問いに答えましょう」

 途端に、情景が変わる。――ごぼごぼと水を掻き分けて、少女は水面から顔を出した。空に浮かんだ日輪が眩しい。

「わが従妹殿は、まさにその名の通り、氷魚(ひお)ですね。それでは、禊か泳いでいるのか分からない」

 からかうような声に少女は振り向き、岸に現れた少年へばしゃりと水をかけた。袖で顔を庇った少年は、まだくすくす笑っている。

「幾らあなたが父上の妹君の子だからって、賀茂氏と仲良くする気はないわよ」

 言い放った少女に、少年は微笑んだまま言った。

「でも、あなたはその叔母上、わたしの母の幼い頃とそっくりらし――」

 少女は、少年の言葉を遮るように、ざぶん、とまた川の中へ潜った。

 日が落ち、また昇り、その合間合間に、夜空の星々が巡る。そうして、風景は、とある夜に定まった。

 夜空の端から端へと流れる、ぼうっと白い天の川が美しい。ばしゃばしゃと浅瀬を歩く水音に、すらりと成長した少女は川岸の宵闇を見つめた。


  たぎつ瀬のなかにもよどはあるべきをなどわがこひのふちせともなき

  〔激しく流れる早瀬の中にも淀みはあるというのに、どうしてわが恋は淵も瀬もなく激しくたぎるばかりなのか〕


 現れて歌を詠んだ少年の、思い詰めた顔は、水をかけていた頃より、ずっと凛々しい。


  こひこひてこよひあふ瀬は天の川はやきながれにしがらみあへず

  〔ひたすら恋い焦がれて今宵逢える瀬は七夕で牽牛と織女で一年に一度逢う天の川のようだ、速い流れなので遮り切れない――恋は止められない〕


 少女は歌を返して、ばしゃりと、浅瀬へ足を踏み入れた――。そこで、再び玉依姫の姿が現れた。

「この子らの子は、賀茂氏と秦氏の血を引く、われらが愛し子。そなたの父はこの者達の末なる者。そうして、そなたの母の文女(あやめ)は、桂女の一族の者。ゆえに、そなたは、われらが愛し子の末なる者にして、桂に連なる子なのです」

 玉依姫の気配が遠ざかる。耳元の水音も遠ざかり、消えていく。

 保憲は、ぱかりと目を開けた。室内には、格子や簾、壁代越しに、薄明るく望月の光が差し込んでいる。まだ夜が明けていないのだ。

(「われらが愛し子」か)

 玉依姫の優しい声は耳に鮮やかに残っている。玉依姫と大山咋神から賀茂別雷神が生まれたという神話は、本当にあったことを元にしているのかもしれない。玉依(たまより)とは、霊依(たまより)魂憑(たまつき)ということ。つまり、玉依姫とは、普遍的に、神霊が憑依する乙女のことなのだ。

 とにかく、夢で見せられたあの二人の婚姻により、秦氏の知識は賀茂氏へと引き継がれた。

(本当に、胸襟を開いた訳だ……)

 微かに失笑して、保憲は衾を脇へどけ、起き上がる。

(それにしても、人にあらざる人とは思ってたが、まさか桂女とはね……)

 桂女、桂姫と呼ばれる一族は、都の西南、桂川沿いの桂という里に住まう女系の巫一族だ。鵜飼の夫達を持ち、鮎売の供御人として鮎を売り歩いているが、他方、産婆として安産の祈祷をしたり、戦勝祈願をしたり、軍に随行して士気を鼓舞したりすることも生業としている。

(確か、神功皇后に仕えて、新羅遠征に同行し、そのお産のお世話をした者の末だという一族だったな)

 まさか母が、そのような一族の者だったとは知らなかった。父からも、何も聞いていない。やはり父も、その事実を知らないまま、ただの遊女として母を邸に迎えたのかもしれない。

(生霊として現れるのも、巫ゆえか……?)

 ひっそりと苦笑した保憲は、ゆっくりと立ち上がった。

 静かだ。蛙の鳴き声も、鳥の囀りも聞こえない。もう夜半を過ぎて、暁なのだろうか。ふと、無性に母に会いたくなった。三歳の時に生き別れて以来、一度として会っていない、顔すら忘れてしまった母。幼い頃は、確かに会いたいと思っていた記憶があるが、日増しにそれは憎しみへと変わっていき、会いたいなどとは思わなくなっていた。それでも、ずっと母のことが気に懸かっていたのは確かで、或いは、自分は会いたい気持ちを無意識に抑えていただけなのかもしれない。

(母上、邸を出ていってしまわれたのが、わたし(、、、)の定めを変えるためというのは、真事ですか……?)

 父がそう語ったという、姉の話を疑う訳ではない。葛城山で、寛朝が叫んでくれたこととも一致する。きっと事実だ。けれど、そのことを直接母の口から聞きたいという願いが、ふと心の中に芽生えていた。

 保憲は、淡い月明かりの中、中の戸に歩み寄り、ほとほとと叩いた。母が桂女の一族だったことを、姉にも知らせなければならなかった。


          五


「人には、様々な性があるが、気をつけるべきは、他を惹きつける性だ。男に好かれる性、女に好かれる性くらいなら、まだ可愛い。男女構わず人に親しまれる性であっても、その者自身が善い者なら、充分幸せになれる。だが、厄介なのは、虫や獣に慕われる性、木石や物具(もののぐ)に恋われる性、この世やあの世の鬼に慈しまれる性、遍くところに()す神に愛でられる性、この四つだ。この四つ何れかの性に生まれつくと、人として生きることが難しうなり、特に、鬼に慈しまれる性、神に愛でられる性に生まれると、人並みに生きることが叶わぬようになる。ゆえに、これらの性の者が多く生まれる一族は、わしら桂女のように、特別な一族となるか、或いは、人にあらざる一族として世俗と別れるかせねばならぬ。そなたに流れる血を、心せよ」

 懇々と諭した老女の言葉は、一族を出る孫娘の胸に、深く重く沈んでいった。


            ◇


  夏虫の身をいたづらになすこともひとつおもひによりてなりけり

 〔夏虫が燈火に飛び込んで身を焼き滅ぼしてしまうのも、私と同じように「思ひ」の「火」によってであった〕


 読み人知らずの有名な歌が、頭を過ぎる。ただの恋歌が、わが子にその童名を付けてよりのちは、ひどく不吉に聞こえる。けれど、そう名づけなければならなかった。悪を吉に転じさせるために、悪夢を吉夢へ変えるために、敢えて夏虫という名を付け、定めとして背負わせて、立ち向かう力を付けさせる。その道しか、選びようがなかったのだ。

(葛葉、思わせ振りな歌だけ残したあなたのことも、ひどいと思ったけれど、わたしも相当、ひどい母親ね)

 事情も説明せず、ただ、陰でこそこそと動き回っている――。

 気配を感じて、あやめは自分の壺装束の裾を見た。壺折りして引きずらないようにした袿の裾の辺りに、今まさに、一人の子供が触れようとしたところだった。髪を真ん中で分け、肩の辺りで切り揃えた振り分け髪の、三歳ばかりの児だ。袴着(はかまぎ)は、この正月にでも済ませたのだろう、袴の紐を背から胸へと襷掛けにして、丈の短い衣を着ている。この、市の人込みの中、親からはぐれたのだろうか。

「どうしたの?」

 しゃがんで目の高さを合わせ、問うと、子供は、じっとあやめの目を見返し、妙に大人びた口調で言った。

「ずっと会いたかった、あなたに」

「――どうして?」

 胸中に湧き上がった警戒心を押し隠して、あやめは問いを重ねた。子供は当然のように答えた。

「兄上の母上だから」

「『兄上』?」

「賀茂保憲」

 どくん、と心臓が鳴った。つまり、この子供は、賀茂忠行とあの真木の子なのだ。

 檜や杉などの良質の木を意味する真木を名とした、今の陰陽頭葛木宗公の娘。世間からは政略結婚と言われながら、忠行は彼女を後妻とした。あやめが、そう仕組んだ。

 少し微笑むだけでも、可憐で美しいというのに、いつも硬い表情をして、取り澄ました振る舞いで、損をしていた真木。けれど、本当は、寂しがりで、誰かといることを、強く望んでいた。だから、忠行の許を去る時、彼女に後を譲ったのだ。

(そう、あの子にも、こんな子ができたのね)

 既に子供が二人できたことは知っていたが、実際見るのは初めてだった。

「名は、何というの?」

 するりと、問いが口をついて出た。

「螢」

 一言、答えが返ってきた。

 螢。広く夏虫と呼ばれる虫達の中に含まれることもある、思いの火に身を焦がすとされる虫の名。それを、童名とされた子供。

「そう、あなたもまた、火に関わっているのね」

 あやめは呟くように言った。

 常陸国(ひたちのくに)は、火立(ひた)ちの国。火の立つ国。災いの火種を抱え、やがて、それが燃え出す国。

 秦河勝が邪気を集めて生じさせた百鬼夜行を、保憲達が祓ったことで、京の都から、災厄は遠ざかった。けれど、いずれ、東の野に炎が立つ。その時、保憲は――夏虫は、その火中(ほなか)に立っているのだろう――。

「小丸は? 小丸も、火に関わってるの?」

 螢が真っ直ぐな眼差しで問うてきた。

「小丸は――、あの子は」

 あやめは、咽に(つか)えを感じて、手を遣った。小丸は、思いの強い子だ。強い思いのままに、どこまでも、どこまでも、走り続けることができる。そういう子だ。

 だからこそ、葛葉は、わが子を導くため、歌を一首残して去った。だが、同じくわが子の行く末を案じた安倍益材によって、その歌は、一部を、わざと変えて伝えられた。

「あの子は、燃えてくる火に向かう、向かい火よ」

 搾り出すようにして告げたあやめを、螢がまじまじと見つめる。


  こひしくはたづねても問へ和泉なる信太(しのだ)の森のうらみくずのは


 世間で知られている歌は、そうなっている。けれど、葛葉が本当に残した歌は、違った。


  こひしくはたづねても問へ常陸(ひたち)なる信太(しだ)(こほり)のうらみくずのは

  〔恋しく思ったならば捜してでも訪ねてきなさい、常陸国にある信太郡(しだのこおり)の裏見の――心残りの葛の葉です〕


 それを、益材は、常陸国信太郡から和泉国の信太の森へと、訪ねて行く先を変えて伝えたのだ。火立ちから()()へと、益材は子の定めを変えようとしたのである。しかし、定めは、変わらない。小丸は、夏虫と出会った。

 小丸は、燃えてくる火に向かう、向かい火。己を見失えば、燃えてくる火と一つになって辺りを焼き尽くすが、己を保てば、燃えてくる火の勢いを弱め、こちらを守ってくれる。

「いずれ、あなたにも分かるわ」

 低い声で言ったあやめに、螢は、真っ直ぐな眼差しのまま問うてきた。

「兄上は、夏虫だから、火に飛び込むの?」

 無邪気で鋭い問いに、一瞬息を詰めたあやめは、ゆっくりと息を吐き出した。名に込めた思いを伝える、いい機会だと、そう思えばいいのだ。

「いいえ、逆なのよ」

 あやめは、真っ直ぐに螢を見つめ、一語一語、話す。

「あの子は、修行もしていない内から、普通の人には見えないモノ達が見えてしまった。だから、そういうモノ達から、恐れられ、呪われ、祟られてしまう。確実に生き延びるためには、自ら進んで、立ち向かわなければならない。自ら火に飛び込むことで、漸く運命を切り拓いていける。そういう定めの子だから、夏虫と名づけたの。そう、お兄さんに、教えてあげてくれる?」

「分かった、教える」

 螢はにこりと笑い――、あやめは、ふっと夢から覚めた。

 そう、市に、幼い児などが実際に来る訳はないのだ。螢との会話は、全て、夢だったのである。

(夢を渡って、わたしに会いに来た……。末恐ろしい子ね)

 近くで雄鶏が鳴き始めた。夜が明ける。遠ざかる夢をもう一度掴もうとするように、あやめは目を閉じ、言霊を紡いだ。

(たね)(やす)んずる者、晴れて明らかなる者、保憲を、頼むわね……」

 寛朝にも頼んだ。先日の夜など、あやめも知らないところで、百鬼夜行から保憲を守ってくれたと聞く。ありがたいことだ。だが、まだ足りない。これから、更に多くの者に頼んでいかなければならない。あやめは、ゆっくりと目を開いて、隙間から仄かな夜明けの光を滲ませ始めた板屋(いたや)の天井を、じっと見上げた。


            ◇


――「お母様の素性には、何かあると思っていたけれど、桂女ということなら、お母様は、お父様と、恋をなさったのね。一緒に暮らし続けることはできないと分かっていながら、それでも、一度はこの邸で暮らし、わたくし達を生んだのね……」

 母が桂女だと知った姉の感想は、相当感傷的だったが、それも仕方ないと思われた。母の素性を、姉もまた、ずっと求め続けてきたのだ。

(小丸も、目を覚まして聞いてたな……)

 小丸が、姉と同じほどに身近な存在になっていく。

(何にしろ、また寝不足だ……)

 姉や小丸は、時間を作って昼寝もできるだろうが、出仕する自分はそうもいかない……。

 袍を纏い、冠を被って出仕の身支度を整え、妻戸を開けて部屋から出た保憲は、そこで、驚いて軽く眉を上げた。簀子を歩いて、弟の螢がこちらへやって来る。

「どうした、螢?」

 住まいの東の対から寝殿を通り過ぎて、この西の対まで、朝から何をしに来たのだろう。何より、ここに螢やすがるが来ることを、義母の真木は喜ばない。

「夢を、見たの」

 目の前まで来た螢は、真っ直ぐに保憲を見上げて告げた。

「怖い夢か?」

 問えば、螢は少し考える様子をしてから、答えた。

「知るのは怖いけど、知らないと、もっと怖いから、見たよ。でも、怖くなかった。兄上が夏虫なのは、自ら火に飛び込むことで、運命が切り開けるからなんだって」

 口達者なのは確かだが、生まれてから二年しか生きていない、三歳の子供の言うことは分かりづらい。まだまだ、魂が神に近いところにあるのだろう。

「へえ。おれは、自分から、火に飛び込まなきゃならないのか」

 少しおどけて言うと、螢は大真面目に頷いた。

「うん。そうしたら、運命が切り開けるんだよ。でも、きっと大変だから、ぼくが兄上を守る。小丸と一緒に」

 きっぱりとした言葉に、保憲は面食らったが、すぐに微笑んで応じた。

「頼もしいな。ありがとう。じゃあ、行ってくる。母様が捜しに来る前に、東の対へ戻っておけよ」

「うん。行ってらっしゃい」

 螢は無邪気に笑って、階を降りる保憲に手を振った。

(夢、か……)

 夢は、重要だ。

(一体、どんな夢を見たんだろうな……)

 浅沓を履いて西の中門へ向かいながら、保憲は、自らが見た夢を思い返した。秦氏と賀茂氏の血筋たる父。桂女の母。双方の血を引く自分。父の恩に報いるため、父の役に立つために男として生きると決めた自分。小丸を二度と孤独にはしないと、小丸のために生きると心に誓った自分。

(違うよ、螢)

 保憲は、硬い表情で思う。

(おれが、おまえを――おまえ達を守るんだ)

 先日の寛朝の問いは、曖昧な答え方をして、はぐらかしたが、保憲には心当たりがある。

(「平らげ、まさに帝たらんとする者」とは、恐らく――)

 西の中門を潜り、西の棟門から出て、勘解由小路で、保憲は、東の空を見遣る。


  (ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかえりみすれば月かたぶきぬ


 幼い頃から口ずさんできた歌が、暗示のように脳裏に浮かぶ。

(母上、わたし(、、、)が飛び込むべき火が、あなたにははっきりと見えてるのかもしれませんね)

 胸中で語りかけて、保憲はくるりと西を向き、大内裏へと足を速めた。

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