後編
5 黒い記憶
覚悟が必要だった。
ゴキブリの巣というものが、どれほどおぞましいものか、よくわかっている。
世の中は、知らないほうがいいこと、見なければよかったことであふれている。その一つがこれだ。
康介は、覚悟を決めた。決めなければ、いつまでも悪夢は終わらないのだから。
勢いよく扉を開け放った。
腰に戻していたスプレー缶を、素早く手に取った。
ロッカーのなかには、まだ何十頭というゴキブリどもがいた。大きく開いた扉から、かなりの数が飛び出してきた。
両手の殺虫剤のボタンを押し込んだ。
床に何頭も落下する。
そこで、見えた。ロッカーのなかには、一足の靴が残っていた。転校した生徒が忘れていったものだろう。そこが巣の中心になっていたようだ。
それと、紙のようなもの。なにか字が書いてある。習字だろうか?
「パンとかはないの!?」
弟が、そう声をあげた。眼で確認できるかぎり、そういうものはなかった。
「靴と習字の半紙だけだ」
「そういえば、木村は書道部だったんだ」
シュ──ッ! とにかく、いまはゴキブリを殲滅することだけに専念しよう。そう心に固く誓って、スプレーをまいた。
それに続くように、ほかのみんなもスプレー缶を押して、ゴキブリに浴びせていく。
それが、七、八分ほどだっただろうか。
動く物体は、もうほとんどいなくなっていた。
「でも、なんでこんなになっちゃったんだろう? 食べ物はなかったのに……」
それまでみんな無言だったが、やっと省吾が口を開いた。
「書道か……」
康介は、つぶやいた。
そのつぶやきの意味が、みんなにはわからなかったようだ。
「書道がどうしたんだ、兄ちゃん? そんな趣味あったっけ? たしか顧問は、北原先生じゃなかった?」
「え、ええ……そうよ。わたしよ。いまは書道が流行っているから、いっしょにやってみたかったのよ。うちの部では、市販されている半紙からじゃなくて、手作りの和紙で書道をする本格派なんです」
どこか自慢げに、女教師は言った。
「やっぱり和紙か。ゴキブリは紙も食べる。とくに和紙を」
「じゃあ、それが餌になってたんですか!?」
「どうでしょう。最初のきっかけには、なったのかもしれませんね。さっきも言いましたが、ゴキブリは糞も食べる。それに仲間の死骸も食べます。一度、巣ができあがれば、爆発的に大発生しますから」
事態は、収束をむかえようとしていた。
やっと緊張から開放されようとしていたときだった。
「キャ! 上!」
省吾の女友達が、悲鳴を放った。声に従い、見上げた。
ロッカーに気を取られていたら、ヤツらは天井に集まっていた。まだ一〇頭以上いる。まるまると太っているヤツばかりだった。
康介は瞬間的に、上めがけて殺虫剤を向けた。しかし、ボタンにかけた人差し指に、力は込められなかった。
あのときの光景がよみがえった。
二年前の夏──。
上にいるゴキブリは、危険だ。
いや、はやまるな。康介は、自分にそう言い聞かせた。これは、日本で一般的に見られるクロゴキブリだ。攻撃性があり、行動的なワモンゴキブリではない。
しかし……あのときも、クロゴキブリだったではないか!
もう一人の自分が、そう主張する。
クロゴキブリでも、アグレッシブなのがいる。こいつも飛ぶかもしれない。
あのとき、上方の棚の扉に止まっていたゴキブリは、スプレーをまいた康介めがけて飛翔したのだ。
そう。康介の顔めざして。
そして、ほっぺたにくっついた。
康介は、パニックをおこした。心の奥底から絶叫を放ったのは、生まれて初めてのことだった。
気がついたとき、ゴキブリはペシャンコに床で潰れていた。
かたわらには、まだハンターになるまえのセロリがいた。この子がやったのか?
それにしては、ペシャンコになりすぎている。
だれだ!? ほかにだれがいる!?
「兄ちゃん!」
弟の叫びで、われに返った。
覚悟を決めなければならない。
あいつらに羽はない。翅もない!
飛びはしない!!
康介は、左右同時にスプレーを放った。
ゴキブリどもは、慌ただしく散っていく。
一頭、二頭、床に落下した。
「イヤ!」
女性たちが、遠くへ逃げる。
それでもかまわず、まだ生きているゴキブリに、康介は殺虫剤を散布していく。
そのうちの一頭──あのときのヤツに、どこか似ていた。
アグレッシブな黒いヤツ!
スプレーをまいているはずの自分に恐れることもなく、ヤツはこちらに向かってきた。
そこからは、スローモーションのようだった。
翅を広げた。
飛ぶ。ゆっくり。
実際には、風のように速いはずだ。いや、ゴキブリは飛ぶのが得意ではない。正確には飛んでいるのではなく、高い位置から滑空しているだけだから、そよ風程度だろうか。だが、康介には疾風に感じられた。
ヤツめがけてスプレーを噴射する。
空中で仕留めなければ、こちらがやられてしまう。
確実に、薬液は黒い体にふりかかった。
しかしどういうわけか、ヤツの飛翔は終わらなかった。
四〇センチ、三〇センチ、二〇センチ。
ダメだ、こちらに来る!
絶叫を放ちそうになった。あの日のように!
一五センチ。一三センチ。
一〇、九、八……。
そこからさきのことは、覚えていなかった。
「兄ちゃん! 兄ちゃん!」
「坂崎さん! 坂崎さん!?」
その呼びかけで、自分がいまなにをしているのか理解した。
床には、ペシャンコになったヤツがいた。
荒い息づかいが、自分の耳にも届いていた。
「だ、だれが……やったんだ!?」
呆然と、康介は訊いた。だれに対して発した問いなのか、康介自身もよくわかっていなかった。
「兄ちゃん……!?」
「あ、あなたがやったのよ……」
どうやって!? 康介は心のなかで、そう自問した。
康介の手から、スプレー缶がなくなっていた。見れば、二本とも床に転がっている。
自分の手を見た。
汚れていた。あいつらの汁で。
「うわああああああっ──!!」
6 魔吸引
兄は、ようやく落ち着きを取り戻していた。あれから、一五分ほどが経っただろうか。
省吾は、あんな狂気に満ちた康介の姿を見たことはなかった。ゴキブリを素手で叩き潰していた。親の仇でも、あれほどのことができるだろうか。
一旦、みんなで教室を出ていた。水道で、兄は両手を丹念に洗い流していた。染みついたゴキブリの体液を、細胞の奥から消し去ろうとするように。
「すまん、取り乱した」
手を拭きながら、兄は言った。
〈ニャアーン〉
心配そうに、足元でセロリが鳴いていた。
「おそらくヤツらは、ほとんど死滅した。あとは仕上げだけだ」
兄はそう言うと、車に荷物を取りにいった。五分ほどで戻ってきた。掃除機のようなものを抱えていた。いや、掃除機以外のなにものでもなかった。
「それで吸い込むの?」
省吾は、訊いた。そうだ、と返事があった。
「え? だったら、最初からそれで吸い込んじゃえばよかったんじゃないですか? そのほうが簡単だし」
真紀が、不思議そうに声をあげた。
「そうだ、こういうことを聞いたことがある……掃除機で吸い込んだら、真空に近い状態になるから、なかの生き物とかは窒息死しちゃうって」
山下が、それに続いた。
「窒息しなくても、凄い勢いで叩きつけられるから、虫はひとたまりもないはずだよ」
「しかし、確実じゃない。生き残ったら、掃除機のなかから出てくるんだぞ……想像してみろ。それに、ゴキブリの生命力をナメちゃいけない」
「でも、寒い地方では生きられないんじゃなかったっけ? 所詮は虫なんだし、掃除機で吸っちゃえばよかったんだよ」
省吾は、山下の意見に加担した。
「それは、わざわざ寒い場所に居つく必要がないからだ。この世界には、あたたかい場所がいくらでもある。もし、いま地球に氷河期がおとずれたとしたら、ヤツらは氷点下でも生き抜くように進化するだろう」
兄の見解に、うすら寒さを感じた。
「つい数年前までは、北海道にゴキブリはいなかった。だが、いまではどうだ? よほど寒い屋外でないかぎり、普通に生息しているぞ」
「……」
だれも、なにも言い返せなくなった。
「だから、おれは確実な方法を取る。これで吸い込むのは、死んでいるヤツだけだ」
兄を先頭に、再び教室に足を踏み入れた。今度は、セロリもついてくる。みな、殺虫剤は置いてきた。そのかわり、兄から雑誌や新聞、蠅叩きを渡されていた。それも掃除機といっしょに、車から運んできたものだった。
兄いわく、最も効果的な武器は、こういう打撃武器だという。
なんと原始的な……。
殺虫剤は、抵抗力のある固体には効かないこともあるらしい。しかしこれならば、当てさえすれば、まちがいなく息の根を止められる。
ただし、ゴキブリを潰せる勇気があれば、だが。
ブオオオオ──ッ!
掃除機の轟音が、夜の教室に充満した。
死骸となった黒の群れが、次々に吸い込まれていく。ロッカーのなかも、丹念にきれいにしていく。ロッカーの上、裏、くまなく掃除機をかけた。もう生きたヤツはいなかったので、直接攻撃を仕掛ける必要はなかった。
省吾は、ホッと胸を撫で下ろした。
悪夢は去ったのだ。
7 黒の終焉?
帰り支度を急いだ。もう一〇時を大きく過ぎていた。省吾たちにも手伝わせて、荷物を車に積み込んだ。
「ありがとうございました」
北原すみれの礼に、康介は軽い笑顔を返した。
「またなにかあったら、いつでも呼んでください」
「なあ、兄ちゃん。もうあれで、あいつらは出ないよな?」
「すくなくても、あの巣は殲滅した。外から侵入してくるヤツがいるかもしれんが、もうあんなに出ることはないだろう」
その言葉に、省吾やほかのみんなは、安堵したように、ニコやかになった。
運転席に乗り込んだ。セロリも助手席についた。省吾は、真紀という女友達を送っていくそうだ。もう一人の彼の家は、すぐそこだという。
「送っていきましょうか?」
北原すみれに、康介は申し出た。
「あ、いえ……大丈夫です。わたしの家も近いですから」
「そうですか……」
頭を一度下げてから、康介はアクセルを踏み込んだ。
正直、残念に思った。しばらく胸のなかには、その感情が残った。
どれぐらい経っただろうか? ふと、不安にかられた。
省吾たちには、ああ言ったが……本当に、恐怖は去ったのだろうか?
世の常を思い出した。
悪夢は、そう簡単には終わらない。
8 黒いリベンジ
思い出したくもない夜は、あっけなく明けた。すがすがしい朝だった。いつものように学校へ行き、いつものように教室で時間をすごした。
ホームルーム、一時限目、静かに学園生活が流れていく。
あのおぞましき存在の痕跡は、昨日のうちに消していた。だから、省吾のほかにそのことを知っている者は、真紀と山下、北原先生しかいない。
もう忘れ去られるべき過去なのだ。
そして二時限目──。数学の授業だった。もちろん教壇に立つのは、美人すぎる数学教師こと、北原すみれだ。
その授業のさなか、省吾はチョンチョン、と肩をつつかれた。
となりに視線を向けると、真紀が合図したものだった。
「なんだよ?」
ひそひそ声で、それに応じる。真紀は、ヒョイッと後ろを指さした。
省吾は首だけを回して、後方を確認した。後ろの席は、山下だ。
どうやら山下が、気持ちよさげに眠ってしまっているらしい。起こしたほうがいいんじゃないの、と真紀はアピールしたかったようだ。
たしかに北原すみれは、ああ見えて怒りだすと般若のようになる。省吾は身体も後ろに向けて、山下を起こそうとした。
それにしても、だらしない寝顔だった。いつも知的な雰囲気を気取っているというのに、これでは台無しだ。大口をあけて、涎を垂らしながら、いい夢を見ている。
山下の頭に触れようとした手の動きが、ふいに止まった。
なにかを感じ取ったのだ。それはなんだ!?
いま眼に見えていることに、不自然なところがある。
山下の口……そこから、二本の髪の毛のような線が飛び出ていた。
なにをくわえているのだ?
その線が、動いた。
「ちょっと坂崎くん、なに後ろ見てるのよ? 前を向きなさい」
北原すみれの声にも反応はできなかった。
「省吾?」
真紀も、不審に思ったようだ。
思わず、省吾は立ち上がった。山下から距離を取る。
「しょ、省吾!?」
「坂崎くん!?」
あまりに勢いよく立ち上がったものだから、クラス中が驚いてしまったようだ。しかし、そんなお騒がせな態度を反省する余裕は、省吾にはなかった。
山下の口のなかに、なにかが入り込んでいた。それがなんなのか、本能的に省吾は察していた。
そいつが、ヒョッコリと顔を出した。
黒光りするボディ。
まちがいない、ゴキブリだ!
「キャ──ッ!」
真紀の悲鳴が響いた。教室だけでなく、学校中に聞こえたのではないか。
「ん? なんにゃ……」
山下が眼を覚ました。うまくしゃべれていない。
「どうしぃらんら?」
と、山下も口のなかの異物に気がついたようだ。手で、取り出した。
それがなんなのか理解したときに、山下は絶叫を放っていた。
手にしたゴキブリを投げつけた。教室は、パニックになった。
「うわ──ッ!」
しかも、それだけではなかった。べつのところからも悲鳴は聞こえた。
「どうしたの!?」
前列に座る女生徒が、急に席を立ち上がっていた。
「引き出しから!」
机のなかから、ゴキブリが出現していたようだ。
あちこちで、同じような出来事が。ついには、北原すみれまで。
「いや──ッ!」
教壇の上にも、一匹。
「大丈夫か、山下!?」
「あ、ああ……」
省吾は、いまだなにがおこったのか正確に認識していないような山下に、声をかけた。
「ど、どうなってるんだ!?」
山下は、自らにふりかかった災難と、教室をいま襲っているおぞましい光景に、恐怖しているようだった。
「オレの口のなかに入り込んだのか……!?」
その問いには、省吾は答えられなかった。山下の今後の人生において、完全なるトラウマとなってしまうだろう。できれば、否定してあげたかった。
「省吾……昨日ので、終わりじゃなかったの!? まだ何匹も出てきてる!」
合計で六匹が、この教室で徘徊していることになる。
「こ、これを……どこかにやってちょうだい! だれか、お願いよ!」
教壇付近では北原が懇願しているが、だれもそれに応じてくれそうになかった。いずれも昨日のと同様に、一匹一匹が大きい。やばいデカさだ。
教壇の上のゴキブリ。それが、北原めがけて歩きだした。
北原は、黒板に背中がつくまで後退していた。そんなことでは逃げられなかった。ゴキブリの羽が開きだしたのだ。
北原すみれの瞳に、絶望の色が浮かんだ。
このままでは、飛ぶ。
と、そのとき──!
教室のドアが、音をたてて開いた。
なにかの影が侵入していた。
省吾には、それがなんなのか、すぐにわかった。昨夜と同じような登場の仕方だ。
「セロリ!」
飛翔を開始した黒き物体。
セロリのしなやかな身体も飛び上がっていた。
空中でネコパンチ!
鋭い爪で、ゴキブリは迎撃された。
開け放たれた扉の前には、兄である康介が立っていた。
「さ、坂崎さん!」
「おれとしたことが、忘れていた」
「なにを忘れたんですか!?」
助かったことに安堵する暇もなく北原が発した問いに、康介が答えた。
「ゴキブリは隠れる生き物です。昨日は、見えているものだけを殺していた。だけど、隠れたヤツも退治しなければならなかった」
「兄ちゃん……それ、忘れちゃ困るだろ!?」
省吾は、強く抗議した。
それから、康介とセロリによって、生き残っていた数匹が駆除されていく。机のなか、ほかのロッカー。教室の隅々まで、今度は逃さぬように、丹念に作業しているようだ。
そのあいだ、ほかの生徒たちには、北原が昨夜の事情を説明していた。みな顔をしかめ、気持ち悪がっていた。どうやらこのクラスには、ゴキブリが大丈夫な猛者は一人もいなかったようだ。
「おかしいな……」
もう残ったゴキブリも、すべて退治し終わったころ、康介が冴えないつぶやきを口にしていた。
「なにがですか?」
「え? いや……」
「なんだよ、兄ちゃん、ハッキリ言えよ」
省吾は、たまらずにうながした。本当に、もう終わりにしたかったのだ。
「数が多いんだよ」
康介はそう答えると、いまの短時間で駆除したゴキブリの死骸を指さした。教室の一点に集められていた。昨夜のように掃除機を使うのではなく、教室にあったホウキとチリトリでやったようだ。二〇匹ぐらいいた。いずれも、まるまると太っていた。
「数? どういうことですか、坂崎さん?」
「数が合わない」
9 真の巣窟
そうだ、数が合わないのだ──。
康介は、多すぎる死骸に違和感をもっていた。どこかに隠れているといっても、一〇頭がいいところだろう。
一つの可能性があった。
「もう一つ、巣があるのかも……」
その言葉に、北原すみれの美しい表情が固まった。
「そ、そんな……」
クロゴキブリは大きく成長するまでに、最低でも一年はかかる。一般的には一年半から二年とも。しかしロッカーの主が引っ越してから、まだ二ヵ月ほどしか経っていなかったはずだ。だとすると、あんなにまで大きくなったゴキブリの巣ができるのは、不自然なことなのだ。
ありえるのは、すでにどこかに巣があって、そこから移ってきたゴキブリが、新たなる巣を形成したのではないか……。
「どういうことだよ、兄ちゃん!」
省吾をはじめとして、クラスの生徒全員が訴えかける視線を向けてきた。
「ベイト剤を仕掛けたほうがいいかもしれない」
「でもそれ、時間かかるんですよね?」
そう言ったのは、昨夜もいた省吾の友人だった。
「そうだ。今日中に、というわけにはいかない」
「そ、そんな……いまなんとかしてください!」
その抗議は、省吾のガールフレンドの真紀という子だ。
「じゃあ、スモークを焚く」
「バルサンか!?」
「そういうたぐいのものだ」
省吾の問いかけに、康介は答えた。
「持ってるなら、なんで昨日やらなかったんだよ?」
「スモーク系は、あまり効果的じゃないからだ。煙の届かない場所に逃げ込まれることもあるし、べつの部屋に行かれたら、もっと被害を拡散させてしまう」
「効果がないのに、大丈夫なのか?」
唇を尖らせながら、省吾は言う。
「まったくないわけじゃない。要は、使い方しだいだ」
お願いします、と北原が言った。
「時間は大丈夫ですか?」
彼女の授業が続くのならいいが、高校では教科ごとにちがう先生が受け持っているはずだ。次の時限に、はみ出るわけにはいかないだろう。
「あと、三〇分ぐらいあります」
正直、それではたりなかったが、このさい仕方がない。
康介は、すぐ準備に取りかかった。
全員を廊下に出して、スモークを発生させた。
二〇分ほど経ってから、康介一人が入っていった。本来なら、最低でも二時間はおかなければならない。こういうことも想定して、ちゃんと防毒マスクも所持していた。
窓を開けて、煙を外に逃がす。
一〇分ほどで、どうにか呼吸できるまでに空気が循環された。
ものものしいマスクを脱いで、康介は肉眼で床を見た。発生させるまえに、教室の中央付近にプラスチックの皿を置いておいた。動物に餌をあげるときのようなやつだ。
水をそそいであった。
その皿のまわりに何頭かの死骸があった。ゴキブリは、死ぬ間際に水を求めるという。その習性を利用したのだ。スモークで死滅させた場合、眼に見えないところで果てていることも多い。そうなると、どれぐらいの効果があったのか不明になる。
が、この方法ならば、亡骸が発見できるので、効果がわかるというわけだ。
「どうですか?」
北原すみれも入ってきた。煙そうに手を口にあて、眼を細めている。省吾とその親友もあとに続いていた。
「そこに死んでるので、ホントに終わりなんだろうな!?」
省吾が、念を押してきた。
「そうだといいがな」
曖昧に、康介は返した。
「あ! ここにいるっ!」
そう叫びを放ったのは、遅れて入室してきた真紀だった。真紀は、数人の女生徒といっしょに、恐る恐る教室に踏み入ったようだ。
真紀が指し示していたのは、入り口のすぐ上だった。校内放送を流すためのスピーカー近くの壁だった。白い壁面に、黒いものがこびりついている。
康介は、腰のホルスターから殺虫剤を抜いた。
スピーカーの下まで行くと、スプレーをまくためのモーションに入った。
一瞬、トラウマが頭をかすめた。ヤツが、こちらめがけて飛び掛かってきたら……また昨日のようになってしまうのではないか!?
自分では覚えていないが、狂ったように素手でゴキブリを叩き潰したという。
(おれは、プロだ!)
そう心に刻み込んで、スプレー缶のボタンを押し込んだ。
しかしヤツの反応速度は、そのスピードを上回った。
こちらには来なかった。そのかわり、スピーカーに向かっていった。
と、思ったら──ヤツの姿が消えた。
「ん!?」
「どこへいったの!?」
真紀の問いは、沈黙に吸い込まれた。
机を運び、それを台にしてスピーカー付近を捜索した。だが、どこに行ったか解明できない。
「あのなかに入り込んだんじゃないのか?」
省吾が言った。
スピーカーは、縦四〇センチ、横六〇センチほどの箱型で、壁から出っ張るように設置されている。どこの学校でも見かけるようなタイプだ。
「あのなかに!?」
北原すみれの声音には、嫌悪感が滲み出ていた。
「もう一つの巣か……」
康介には、ひらめくものがあった。
「す!?」
省吾が、素っ頓狂な発音をした。あまりの驚きようだ。
「こ、こんなところに、巣ができるわけないだろ!?」
わが弟ながら、ド素人だな、と康介は感じた。
「いや……聞いたことがあるぞ」
そう口を挟んだのは、友人だった。
「機械のなかとかにも、ゴキブリは巣をつくるって……暖房機のなかとか、電子レンジのなかとか……」
友人の言葉を、省吾だけでなく、ほかの生徒たちも、生理的悪寒に耐えながら聞いているようだ。
「パソコンのなかに巣ができていた、って事例もある」
康介は、友人の知識につけたした。
「どうも調子が悪いから、なかを開けてみたら、ゴキブリどこもが、うじゃうじゃいたそうだ」
北原すみれが、両腕を交差して、自分の肩を抱き寄せる仕種をした。身体の芯から、ゾクゾクしたのだろう。
「しかし……そういう場合、巣をつくるのは、チャバネのような小さい種なんだが……」
ん!? これは……?
康介は、あるものを発見した。この教室の構造的なものだ。おそらく、学校中がこうなっているのだろう。
入り口から、なかへ向かって一メートルほどの位置。ちょうど、スピーカーが設置しているところの延長線上に、それはあった。
天井だ。細かい編目状のダクト口がある。
なるほど、スピーカー付近にスモークが効かなかったのは、このためか。
もし予想どおり、スピーカーのなかに巣があったとしたら、そこも煙からまぬがれているだろう。
「あれから侵入したのかもしれないな」
康介のセリフに、みなが納得できないような顔をした。
「なに言ってんだ、兄ちゃん。そんな隙間からゴキブリが出入りできるわけないだろ?」
「幼虫なら二ミリ、成虫でも小さな個体なら五ミリあれば出入りできるといわれている。まあ、さすがにあそこまで大きいと、もっと隙間がいるだろうが……」
とにかく、スピーカーを解体してみなければならないだろう。
机の台に乗ったまま、スピーカーに手をかけた。あたりまえだが、頑丈にできている。ゴキブリが、いつどこから飛び出してくるかわからない恐怖におびえながら、康介はスピーカーの構造を観察した。
前面の四方が、ネジで止められている。そこを外せば、内部が見れるはずだ。
ドライバーを確保するために、康介は机から降りた。
すると、入り口に見知らぬ男が立っていることに気づいた。
「あ、国立先生」
どうやら、次の授業を受け持っている教師のようだった。
「なにごとですか?」
「すみません、国立先生……もう少し待ってもらえませんか?」
「わかりました。なにか大変なことがおこっているようだ」
五〇代と思われる面長の教師は、イヤな顔一つせず了解してくれた。
康介は、ドライバーを取りに車まで戻ろうとしたが、生徒の一人が持っていた。部活動でパソコンを組み立てるときに使うそうだ。てっきりパソコン部に所属しているのだと思ったが、『マイコン部』という名称らしい。一〇年ぶりぐらいに、その名を耳にした。
ドライバーでネジをはずしていく。
そのさなかにも、いつゴキブリが飛び出してくるかわからない。緊張した。
四つのネジをはずし終わると、スピーカーの前面部は、手で支えていないと独りでに落ちてしまう状態になった。
ひと呼吸おいてから、康介は前面部を開けた。
予想を遙かに超えた惨状だった。
狭いはずの空間に、黒き群れが、ひしめき合っている。
生徒たちの悲鳴が連続した。
反射的に康介は、腰のホルスターから殺虫剤を抜き、ためらわずに噴きかけた。
ゴキブリが、一斉に広がった。
本当の悪夢は、ここからだった。
エピローグ 殺戮
兄ちゃんが殺虫剤を噴きかけると、ゴキブリたちは教室中に散った。オレは、どうにか教室のドアを閉めた。外へ逃がさないためだ。
このとき、教室に閉じ込められることになったのは、オレたち兄弟以外では、山下と真紀、北原先生、斉藤という男子生徒、荻野目という真紀の友達、そしてネコのセロリだった。
殺虫剤を持っているのは、昨夜とはちがって、兄ちゃんだけだ。とにかく、打撃武器をさがさなくては!
昨日のことを知っている連中は、みなそう思ったらしい。オレは教科書を丸めて手にした。真紀は、ホウキを。先生は出席簿を。山下は上履きを片方脱いで。
昨日を知らない斉藤と荻野目は、ただ逃げ回るだけだった。
兄ちゃんが言っていた「打撃こそが最強の武器だ」という意味がようやくわかった。開き直って叩き潰せば、これほど簡単に始末できるものはない。
狂ったように、叩きつづけた。
兄ちゃんは、冷静に殺していく。
セロリも、情け容赦ない。さすがは、プロたちだ。
オレは、ぎこちない殺戮だな、とヤツらを潰しながら考えていた。殺すことに慣れていない。だが、なにかが吹っ切れたような快感があった。
それは、真紀も山下も先生も同じだったのだろう。
黒い群れは、生かしておいてはいけない。
この世から抹殺しなければ!
生物の専門家なら、生態系がどうとか理屈をつけたがるが、ゴキブリは神の失敗作だ。
そう、ネコとくらべれば、それがよくわかる。ネコはかわいい。イタズラをしても許せてしまう。ゴキブリは、気持ち悪い。なにもしていなくても、存在が許せない。
ある意味、こいつらも被害者だ。どうして神は、ヤツらをこんなふうに誕生させてしまったのだろう。
なんと不憫な。
不思議だった。
いま、オレは同情していた……黒光りしているこんなヤツらに。
いつのまにか、粗方を潰しおえていた。
みな、荒い息づかいで、悪夢の終焉を予感していた。
ドアが開いたのは、そういう状況のさなかだった。
「大丈夫ですか?」
歴史の国立先生だ。
「あ!」
北原先生が、驚きの声をあげた。
国立先生の足元から、一匹のゴキブリが這い上がっていったではないか。
そして、顔でピタッと制止した。
「せ、先生……!」
しかし、国立先生は表情を変えなかった。
あろうことか、その顔に止まったゴキブリを素手でつかんだ。
眉毛一つ動かさず、グニュ!
国立先生の手のなかで、ゴキブリは汁を滴らせながら、見るも無残に圧死していた。
手のひらを広げ、国立先生はゴキブリの死骸を確認する。
「なんだ、アブラムシですか」
口から出たコメントは、それだけだった。
木村太郎でも、もっと気の利いたことを言うぞ!
オレは、国立先生に戦慄した。
国立先生は、手のひらを濡らしているヤツらの汁を……汁を……!
ペロリと一舐めしたではないかっ!
ゴキブリを素手で握り潰し、その体液を味わえる男。
漢!
本当に恐ろしきは……ゴキブリではなく、人間なのかもしれない。
……そんな、ありきたりなオチだ。