前編
プロローグ 魔の扉
そのクラスに問題がおこりはじめたのは、五月の終わり頃だった。あるモノが、教室に現れるようになったのだ。
都心郊外に位置する平均的な学力の公立高校。平凡な日常をおくっていたその学校に、突如として舞い降りた恐怖。
生徒たちは、つねにあるモノの存在を意識していなければならなかった。
六月に入り、もうすぐ七月になろうかという時期になって、一人の生徒が、あることに気がついた。
そう、気づいてしまった。
「そういえばさあ、このロッカーって、転校した木村のだったよなぁ?」
坂崎省吾は、もう使われなくなっているはずのロッカーの扉に手をかけながら、そう言った。
「え? たしか、そうだったはずだけど……それがどうかした?」
答えたのは、清水真紀だった。省吾と彼女は、つきあっているわけではないが、なんだかんだで、いつもいっしょにいることが多いコンビだった。
放課後、掃除の時間。他校では、専門の業者や清掃員を雇っているところもあるらしいが、この『門前払高等学校』では、古くからの伝統どおり、生徒たちの手により掃除がされている。
「べつにどうもしないんだけどぉ……」
省吾は、言いよどんだ。なにかがあったわけではない。しかしどういうわけか、そのロッカーが気になったのだ。
四月の終盤、ゴールデンウィーク前に、急に引っ越すことになった木村という生徒がいた。とくに親しかったわけではない。悲しくも、嬉しくもなかった。それ以来、開けられることのなかったロッカーに、いったい自分はなにを感じたというのだろう。
「なら、掃除をはやく終わらそうよ」
「でもな……」
「どうしちゃったの? 細かいことを気にしない省吾らしくないよ?」
「なんか気になんだよ……」
「ホントに、どうしちゃったの?」
あらためて真紀に問われて、省吾は得体の知れない「なにか」によって、自分は操られているのではないかという感覚に襲われた。そうだ、気になったのではない。
そのロッカーが、自分を呼んでいるのだ。
「じゃ、開けちゃえば?」
そう無責任に発言したのは、同じく掃除当番の山下だった。
「やっぱり、おまえもそう思うか?」
「いや、オレはどうでもいいよ。でも、省吾が開けたいんだろ?」
ああ、と決意をこめて省吾は答えた。
「ねえ、そんなことより、掃除、はやく終わらそう! 今日、ドラマの再放送、最終回なの」
真紀の抗議が、教室にむなしく響く。
「いくぞ」
心のなかで、せ~の、と掛け声を放つと、扉を開けようと力をこめた。
「待て!」
鋭い山下の声で、しかしそれは中断した。
「な、なんだよ! どうした!?」
省吾だけでなく、真紀も驚いたようだ。
「ちょっと、ビックリするじゃない!」
彼女も、ロッカーの近くに来て注目していたようだ。文句をたれておきながら、気になっているらしい。
「え……いや、ほら、こういうのって、呪いのロッカーだったりして。開けた人間が次々に死んでいくとか……」
「なに、バカなこと言ってんの」
山下の戯れ言は、真紀によって一蹴された。
「いくぞ、今度こそ!」
省吾は、再び扉にかけた右手に力を入れた。
「生首が出てきたりして」
もう山下の冗談には応じない。勇気をもって、開け放った。
カチャッ! 久しぶりだったからか、大きな音がたった。
ロッカーのなかは、空ではなかった。なにかが入っていた。転校していった木村は、片づけていかなかったようだ。急に決まったことだから、そんな時間もなかったのかもしれない。
「なにが入ってるの?」
真紀の質問には、すぐには答えられなかった。省吾にも、それがなにかわからない。暗くて見えないのだ。いや、教室の照明が反射しているから、暗くはないはずなのに。
カサカサ。なにかの音がしている。
「これだよ、これ……」
省吾は、その音を聞いて、妙に納得した。いまから思えば、自分はこの音に呼ばれていたのではないだろうか。
「なんだろう?」
なにかの物体があることはまちがいない。だが、それがなにかは不明だ。
暗いから見えないのではなく、その物体自体が黒いから見えなかったことに、省吾は気がついた。触ってみることにした。
「ん?」
「どうしたの?」
手を伸ばそうとしたとき、物体に反射していた光が形を変えたような……。
省吾は、もっとロッカーに近づいた。物体に眼を凝らす。
それがなんなのかわかった瞬間、省吾は、ロッカーの扉を閉じていた。
バタンッ! という炸裂音に似た衝撃に、真紀と山下は、悲鳴のような声をあげた。
「おどかすなよ!」
「なんなの!? なにがあったの!?」
二人の言葉も耳に届かず、省吾はロッカーから逃げるように距離を取った。
呪いで死ぬことよりも、生首があることよりも、ずっと恐ろしかった。
それらは、どうせ現実にはありえない。
だが、これは……これはっ!
遅れて、絶叫を絞り出した。
「うわ────ッッッ!!」
1 悪夢
男は、夢を見ていた。夢であって、それは現実におこった惨劇。
二年前の夏、夕暮れ──。
薄暗くなってきた台所で、男はある気配を感じ取った。なんだろう、と何気なく天井を見上げた。正確にいえば、天井と壁の角に、はめ込まれるように備え付けられた棚だった。
真っ白な棚の扉に、ヤツはいた。男は、反射的にスプレー缶をさがした。幸運なことに、すぐ手の届く範囲にそれはあった。
いや、不運だったのか。
スプレーのボタンをヤツめがけて押し込んだ。必死だった。
霧状の液が、ヤツに噴きかかった。仕留めたはずだ。
だが、ヤツは突然動きだした。速い。しかも、こちらに向かって!
飛んだ……。そのときに男は、やられたな、という感情に支配された。もう終わりなのだ。
いや、悪夢のはじまりなのだ。
「うわっ!」
男は──坂崎康介は、眼を醒ました。
寝汗がひどい。自然に醒めたというよりも、自分のあげた声で、強引に起こされたようなものだ。
あれから見つづけている、いつもの悪夢。
夢のなかなのに、現実におこった過去の出来事だということは、つねにわかっている。夢独特の、滅茶苦茶な展開になるということもない。過去に忠実なままだ。
すでに、夕陽の赤が部屋を満たしていた。自宅もかねている事務所だ。いつのまにかソファで寝込んでしまったようだ。
従業員は、自分だけしかいない。去年まで、ここには四人の社員がいたが、それももういない。父親が急逝したために、康介が慌てて跡を継いだ。しかし、若干二三歳の若造に、だれもついてきてはくれなかった。
いまでは開店休業状態だ。ただ幸運なことに、祖父がまだ健在で、しかもこのあたりの地主だった。この事務所も自分たち一族のものだ。だから、賃料を気にする必要がない。仕事がなくても、どうにかなっていた。むしろ、社員がいなくなって人件費がうくだけ、幸いといえた。
〈ニャア〉
かわいい鳴き声が、まるで心配してくれているように響いた。
飼い猫のセロリだ。アメリカンショートヘアーの女の子で、康介の相棒だった。
「大丈夫だよ、なんでもないんだ」
たぶん、うなされていたのだろう。彼女は、よく自分のことを気づかってくれる。
トゥルルル、トゥルルル。そのとき、電話が音をたてた。
おそらく仕事ではないだろうが、少しは期待して康介は受話器を取った。
「はい。坂崎害虫駆除サービスです」
相手の声を聞いて、営業ボイスを出してしまったことを後悔した。
「なんだ、省吾か」
弟の省吾だった。年齢は一七で、高校二年生だ。
「どうした? え? 仕事?」
弟の声音は、妙に興奮していた。焦っているようにも感じられる。
「いますぐ?」
どうやら、かなり切迫しているようだ。
「わかった、わかった、すぐ行けばいいんだな?」
弟の頼みでは、むげに断ることもできない。
「料金を安くしろ? バカにするな、弟から金を取れるかよ。ただでやってやるよ。で、敵は?」
康介の耳に、聞きたくない名称が流れ込んできた。
「ヤツらか……わかった。いまからいく」
受話器を置いた。すぐに康介は、支度をはじめる。具体的な状況はわからなかったが、それほど本格的な装備はいらないだろう。
基本装備と《捕食者たち》を車に積み込むと、康介はセロリとともに出発した。
2 黒の襲来
「ちょっと、どういうことなの、坂崎君?」
クラス担任の北原すみれに、省吾は責められていた。
「なに勝手に、業者の人に依頼してるのよ」
北原は、教師のなかでは若い。年齢は、二五か六ぐらいではないだろうか。ほかの生徒たちが、からかい半分で歳をたずねたりしているのを聞いたことはあるが、予想どおり毎回はぐらかしている。同時に、恋人はいるのか、スリーサイズは? など、ひとむかしまえの、ちょっとエロい学園ドラマのような質問をしたのでは、まともに答えてはくれないだろう。
そういう興味が湧くのも納得できるほど、北原は美人だった。校内では『美しすぎる数学教師』として有名だ。
「大丈夫ですって、兄ですから」
「でも、プロの人でしょ? わたしの独断で、お金なんて出せないわよ。学年主任や教頭に怒られちゃうわ」
「でも、すみれ先生、かなりヤバいみたいなんですけど……」
言ったのは、清水真紀だった。女生徒たちは『北原先生』ではなく、『すみれ先生』と呼んでいるようだ。
「なにがヤバいよ、ただの虫でしょ!? 主任や教頭にくらべれば!」
すでに日の暮れた教室内。省吾、真紀、山下の三生徒と北原すみれしかしない。蛍光灯の照明のなか、北原はスプレーを片手に、ロッカーを勇ましく開け放った。
スプレーをありったけ噴きかけた。といっても、残りはあまり入っていなかったようだ。ものの一〇秒ほどで、なにも出なくなった。
「しょうがないわね……」
愚痴をつぶやいたあと、北原はロッカーのなかを凝視する。
「な、なにこれ……!」
パタンッと急いで扉を閉めた。よろよろと、後ずさりをする。
「先生?」
真紀の問いかけにも、無反応だ。
「い、いや……イヤ──ッ!!」
凄まじい悲鳴がほとばしった。
しかし、さきほど省吾のあげた叫びよりはマシだっただろうか。そのことが脳裏をよぎり、省吾は恥ずかしさに頬を赤らめた。
省吾の見たものと、いま北原が見たものが同じだとすれば、ロッカーのなかには、黒々した生き物の群れが巣をつくっている。
GOKIBURI!
何十匹いたかわからない。いや、三桁か。
「ど、どういうことなの!?」
「そういえば、最近……ゴキブリが出没してましたよね、この教室?」
途方に暮れたような教師の声に、山下が答えた。
「そ、そうね……先月ぐらいから……」
「ここ、転校した木村のロッカーです。たぶんあいつ、片づけずに行っちゃったんじゃないですか? 食べ残しのパンとか入れたまま……」
山下の推測に、省吾は首をかしげる。
「いや、木村は典型的な食いしん坊のデブキャラだった。食べ物を残すなんてことはしないだろう」
省吾の言葉に、三人は妙に納得したようだ。みな、木村のダブついた体型を思い出したにちがいない。
「でも先生、これでわかったでしょ? 兄を呼んだのが」
北原は、返す言葉がみつからないようだった。
と──。
「キャ!」
真紀の悲鳴が、ポップコーンのように弾けた。
「どうした!?」
「いま、足元を!」
省吾も、見た。床を、黒い物体が駆け回っている。
「い、いや!」
四人は、ロッカーから距離を取った。ロッカーは教室の後部に並んでいる。教壇のある前面にまで逃げていた。
「よく考えてください」
冷静をよそおうように、山下が言い出した。
「あの閉まったロッカーにゴキブリが入り込んでいるということは、正規の扉以外に、ゴキブリが出入りできる隙間があるんじゃないですか?」
たとえ、餌があのロッカーのなかに入っていて、そのなかでずっと生息できるのだとしても、最初の一匹が入り込む穴か隙間は絶対に必要だ。
「そ、そうね」
「だったら、先生がいま殺虫剤を噴きかけたことで、その隙間から一斉に出てくるんじゃありませんか!?」
山下のおぞましい想像に、省吾は背筋がゾクリと震えた。
「どうすればいいの、山下くん!?」
真紀の声も、おびえをふくんでいた。
「そのロッカーの隙間を塞ぐとか……」
「ムリだよ! どんどん出てきてる!」
省吾の眼には、ロッカーの後ろの壁を這いまわっているゴキブリの姿が映っていた。
一匹二匹の数ではない。
ロッカーの上を通って前面の扉に止まっているゴキブリもいる。壁をそのまま登り切って、天井に到達しようというものも。一匹一匹が、とにかくデカい。こんなのが一匹でも家のなかに出現したら、家族中がパニックになる大きさだ。
「ほかにないの!?」
「この教室を閉め切って、バルサンを焚くしかありません!」
「と、とにかく、いったん出ましょう!」
北原の提案に、省吾はうなずいた。四人は教室の外に避難しようと、ドアに向かった。
しかし、そこにも一匹が。
「アレ、どうにかして!」
床にいた一匹が、まるでこちらに狙いをさだめたかのように、迫ってきた。
省吾は、反射的に遠ざかった。山下も要領よく逃げている。
しかし、女性陣二人が動けなくなっていた。
足元までやって来たと思ったら、そこで一瞬、ヤツは止まった。どちらにしようか、と思案しているようだった。
そして、決めたようだ。
北原すみれの足に向かって、突進を再開した。
「イヤ──ッ!!」
そのとき、教室のドアが開いた。
シュ~ッ! とスプレー缶が音をたてた。
「兄ちゃん!」
省吾は、歓喜の声をあげた。
北原めがけて走っていたゴキブリは、即死していた。
「中途半端に殺虫剤をまいたな?」
兄──坂崎康介は、言った。
「先生が、やっちゃったんだよ。オレじゃねえよ」
援軍が来てくれて安堵の空気が流れつつあったが、しかし山下が警戒の叫びを発した。
「清水! 後ろ!」
「え!? イヤ! 来ないで!」
真紀の背後からも、黒い虫がガサガサと迫っていた。
〈ニャアーオ!〉
攻撃的な鳴き声が響いたのは、次の刹那だった。素早い身のこなしで一同の足元を駆け抜けると、毛並みの美しいネコが、鋭い爪を突き立てた。
ゴキブリなど、ひとたまりもない。
「セロリ!」
省吾は思わず、頼もしい助っ人──いや、助っ猫の名を呼んだ。
ネコは、それからも次々にゴキブリをあの世へ送っていく。
「なんなの、このネコ!?」
「兄ちゃんの飼い猫のセロリだよ」
真紀の問いに、省吾は紹介をかねて説明を入れる。
「この動き、ただのネコじゃないわ……」
どこか呆然と、北原がつぶやいた。
「セロリは、最強のゴキブリハンターだ」
康介が言った。
「でも兄ちゃん、いくらセロリでも、これだけの数は退治できないだろ?」
「ちゃんと考えてあるよ」
スプレー片手にそう語った兄の姿は、とても頼もしく見えた。しかし、省吾は不安に思う。兄が、最もこの地球上で苦手なものは、このゴキブリどもにほかならない。
「これから、あいつらを一掃するぞ」
3 捕食者
康介は、みんなをつれて、一時的に外へ出た。ドアを閉め、四人を廊下で待機させる。康介だけ車に戻って、道具を運んだ。業務用の殺虫剤を人数分用意した。
「これは、まだ使うな」
康介は商売道具を廊下に並べながら、そう指示を出した。
「どうして?」
弟の問いは、とりあえず無視をした。
理由を言えば、さらなるパニックを呼び込むかもしれない。
殺虫剤をあまり使いたくない理由――それは、殺したくない生物まで死んでしまうかもしれないからだ。運んできた道具の一つに、それが入っている。
「それは、なんですか?」
先生らしき女性に、今度は質問された。問題の道具には布を被せてあるので、なかになにが入っているのかはわからないようになっている。
「あ、わたしは坂崎君の担任をつとめている北原です」
女性が思い出したように、自己紹介をはじめた。
「すみれ先生って、女子からは呼ばれてんだぜ。美人すぎる数学教師って評判なんだ。けっこう、きれいだろ、兄ちゃん?」
市議、海女、スパイに続いて、数学教師まで……。そんなどうでもいいことが、脳裏をよぎった。
「おれは、省吾の兄の康介です。こっちはセロリ」
やはり省吾の言葉は無視して、康介も社交辞令に応じた。
〈ニャア〉
「かわいいネコですね」
女教師――北原すみれが、セロリの頭を撫でようとした。
康介は、慌てて北原の手を握った。
「え!?」
「ダメ! 彼女、女にはなつかないんだ」
〈グルルウ!〉
触られる寸前、セロリはそれまでのペット顔から一転、まるで肉食獣のように牙を剥いて、低い唸り声を発した。北原の表情が氷結した。
「か、彼女!?」
「そう。セロリは、レディだから」
「わたしでも、ダメなのかなぁ」
そう言って、セロリの頭を撫でようとしたのは、省吾の女友達だった。たしか、真紀という名前だったはずだ。
セロリは、やはり真紀にも野生を剥き出しにする。
「こわいよぉ……」
「オレには、とってもいい子なのに……」
省吾が頭をなでなですると、いつものように甘い声をあげた。
「そりゃ、おまえが男だからだ」
「まさに、メスネコね」
嫌悪感をふくんで、北原が言った。
「とにかく、まずはこいつらで粗方、ゴキブリどもを一掃する」
康介は、布に包まれた箱型の物体をかかげてみせた。
「ですから、それはなんなんですか?」
また、北原に訊かれた。
「《捕食者たち》です」
そういう答え方をした。わざと、わからないように。
「もったいつけるなよ、兄ちゃん」
「気になるなぁ……」
そうつぶやいたのは、省吾の友達だった。彼の名前は思い出せない。
康介は、布に包まれたものを持って、教室のなかに入っていこうとした。だが、康介の前には北原がいたので、回り込んだ。北原のほうでも、邪魔になっていると気づいて、どこうとしたようだ。
同じ方向に、かち合ってしまった。
「ご、ごめんないさい」
康介は、美人すぎる数学教師と数瞬、真正面で見つめ合うことになった。どこか気まずく、恥ずかしい空気が流れた。
「あー、なんかヤラしい雰囲気ー」
省吾が、高校生のノリでからかった。
急いで北原が正面から移動しようとする。そのときに、足をもつれさせてしまったようだ。ヨロッと倒れこんできた。
はずみで、持っていた箱状のものに被さっていた布を、彼女がつかんでしまった。
ひらっ、と包まれていたものがあらわになる。
箱型のものは、虫カゴだった。北原は片膝をついて転倒をまぬがれたが、ちょうど目線が虫カゴの高さになっていた。
「イ、イヤ――ッ!!」
悲鳴が、夜の校舎に響きわたる。
虫カゴのなかには、蠢くものがあった。
「な、なんだよ、兄ちゃん! それは!?」
「アシダカグモ」
北原は、虫カゴから視線をはずせずにいた。どうやら、恐怖のあまり動けなくなってしまったようだ。しばらくの間をあけてから、よろよろと距離を取った。腰を抜かしたように座り込んでしまう。
蠢くものの正体は、大きな大きなクモだ。
おそらく都心に住んでいる人間には、一生ご対面することのないほどの巨大グモだった。しかし、いまも地方へ行けば、それほどめずらしいクモではない。普通に、家のなかに出没する。バラエティ番組などでよく見かけるタランチュラを少しスリムにして、手足を長くした感じだ。
「ゴキブリの天敵といえば、アシダカグモと相場が決まっている」
「天敵!?」
「そうだ。ゴキブリの天敵で一番現実的なものは、ネコだ。だが、ネコは気まぐれだからな。セロリのようなハンターはべつだが、一般のネコは遊び感覚で狩りをする。仕事でも、食べるためでもない。だから、気が向かないときには狩りをしない。温室育ちのネコだったら、逆にゴキブリを怖がってしまうこともある」
突然はじまった講釈に、四人はポカンとなってしまった。しかし、康介はかまわずに続けた。
「本当の意味で、利用価値の高い天敵は、こいつだ。アシダカグモは、むかしから益虫として大切にされてきた。こいつらは、ゴキブリをはじめ、人間にとって害をなす虫を好んで捕食する。さらに、口から殺菌作用のある液体を出せるようになっているんだ」
「その話、聞いたことがあります」
そう言葉を挟んだのは、名前の思い出せない友達だった。どうやら、雑学だけはよく知っているタイプらしい。
「その液を獲物に注入して、殺菌するんですよね?」
康介は、彼にうなずいてあげた。
「自分の足も舐めて、それで消毒しているから、清潔でもある。だから、アシダカグモを家のなかに住まわせておけば、勝手に害虫を駆除してくれるし、クモ自身も病原体を保有していないから、衛生的にも問題はない。しかも人間の食料には、まったく興味がないときた。害虫がいなくなったら、いつのまにかいなくなっているし、人間にとって、これほど都合のいい存在はない」
だが最後に、こうつけ加えた。
「見た目が平気ならな」
北原が、きれいな顔を歪めた。
「ムリよ、ムリ! ゴキブリと、どっこいどっこいだわ」
「そのクモ、何匹いるんですか?」
真紀の問いかけに、康介は答えた。
「一二。おれが訓練したヤツらだ。《マジェスティック・トゥエルブ》と呼んでいる」
教室のドアを開けた。入り口付近に、ゴキブリの姿はなかった。さきほど、殺虫剤で康介自身が退治したものと、セロリが仕留めた死骸があるだけだ。
教壇近くまで、歩を進める。後ろから、四人もついてきた。怖いもの見たさだろう。
康介は教壇わきの床に、虫カゴを置いた。蓋を開ける。
同時に、虫カゴの側面を指で叩きはじめた。リズムを取っているように、軽やかに。
なかから、すぐに巨大なクモたちが出てきた。ぞろぞろと。
素早い動きだ。ゴキブリの移動速度にも劣っていない。
あるクモは、床を。
あるクモは、壁を這う。
ゴキブリどもは、教室後方のロッカーが並んでいるあたりに集中していた。天井に登っているものもいる。眼に見える位置にいるものだけでも、ざっと二、三〇匹いるだろうか。
アシダカクモは、それぞれ一直線にゴキブリめがけて走っていく。振動でゴキブリの存在を察知しているのだ。
一匹が、ゴキブリを捕まえた。
それが合図のように、あっちでも、こっちでも、クモによる捕食の宴がはじまった。
「でも、いちいち食べてたら、とんでもない時間がかかんじゃねえか?」
省吾の疑問は、とても素朴に感じられた。
「いやいや、たしかアシダカグモは、食べてる途中でも、動いている獲物をみつけたら、そいつに襲いかかるんだよ」
答えたのは、友人だった。
ね? そうでしたよね? という瞳を向けてきたので、康介はまたうなずいてあげた。
「とりあえず、しばらくはあいつらに任せておこう」
「どれぐらいだよ、兄ちゃん?」
「二時間ぐらい」
4 地獄へ突入
もうすぐ、九時になろうとしていた。
兄からは帰ることをすすめられたが、いまさら引くつもりはない。山下も、いっしょの気持ちらしかった。真紀も残っている。せめて真紀だけは帰宅させたほうがよいのだが、彼女も最後まで見届けたいにちがいない。
職員室だった。教員は、北原すみれ以外にはもういない。ついさきほどまで教頭がいたのだが、あとは任せました、と言い残して去っていった。業者である兄に依頼をしたことは、よしとしてくれるようだ。普段、接することはないが、北原が言うよりは、良い人のように省吾の眼には映った。
兄である康介は、北原と話し込んでいた。どうやら意気投合して、いい感じだ。年齢も近いから、お似合いの二人なのかもしれない。
「もういいころだ」
先生との会話を打ち切って、兄がそう言った。
全員が、それぞれの顔色をうかがう。
兄以外は、不安そうだ。また、あの場所に足を踏み入れなければならないのだから。
たぶん兄の心情も穏やかではないだろう。害虫駆除会社を父から受け継ぎはしたが、だからといって、大のゴキブリ嫌いが克服されているとは思えない。
兄を先頭に、職員室を出た。
あの教室へ──。
なにか決意を込めたように、兄がドアを開け放つ。
入って最初に眼に飛び込んできたのは、ゴキブリを食べている最中のアシダカグモの姿だった。
「おえ」
床には、原型を崩したゴキブリの死骸と、食事中のクモ、まだ生きているゴキブリも十数匹はいるだろうか。インディ・ジョーンズちっくな惨状と化していた。
兄が、クモが入っていた虫カゴの側面を一定のリズムで叩き出した。すると、どうだろう。クモたちが集まりだしたではないか。なんと、自らの足で虫カゴに戻ってきた。
一二匹すべて。
「どうなってんだ!?」
省吾は、感嘆をふくめた問いを発していた。そのとなりでは、山下も驚き顔になっている。
「まさしく、クモ使いだ……」
ゴキブリは大嫌いなくせに、クモは平気だなんて……省吾には理解できなかった。同じように気持ち悪いのに。二時間前に語ったクモの解説からは、相当な情熱が感じられた。それに比例して、手塩にかけたのだろう。
「それじゃあ、本丸に攻め込むぞ」
兄は宣言した。みんなにはあらかじめ、殺虫剤が手渡されている。見たこともないメーカーのものだった。業務用の強力なやつらしい。
だからなのか、セロリだけは離れたところで待機させるようだった。兄が指示を出すと、そこからセロリの足は止まって、ついてこなくなった。
「でもさ、結局、こういう方法しかないのかよ、兄ちゃん?」
「なにがだ?」
「プロなら、もっと賢い方法があるんじゃないのか?」
「そうですね。ベイト剤とかはやらないんですか?」
山下が、聞き慣れぬ名称を出した。
「ベイト剤?」
「罠の一種だ」
兄が答える。
「ゴキブリホイホイみたいなヤツ?」
「ちがう。毒の餌を仕掛けておくタイプの罠だ。その餌を食べたゴキブリは、巣に帰って糞をする。その糞を食べたべつのゴキブリにも毒がまわる。またそのゴキブリの糞を……その繰り返しで、巣ごとゴキブリを一網打尽にする方法だ」
「だったら、なんでそれをやらないんだ?」
「さっきの話じゃ、巣の場所はわかってるんだろ? だったら、そんな回りくどいやり方をする必要はない」
兄には、だいだいの情報を職員室で伝えてある。
「罠を仕掛ける方法は、時間がかかる」
たしかにそれでは、いつ解決するかわからない。これからしばらく、ゴキブリが現れるか戦々恐々とすごすなんて、想像しただけでキツい。
「あのロッカーだな?」
兄が、指をさしていた。省吾は、うなずく。
兄がロッカーに近づいていった。近づくにつれ、ゴキブリの死骸が散乱している。もちろん、生きているものも。
「何匹もいるな」
省吾はそう口にしたが、それに応えた山下は、したり顔だった。
「ゴキブリは、一羽、二羽、って数えるんだよ、正確には」
「そうなのか?」
「だって、羽があるじゃん」
その言葉が出た瞬間、兄の様子が一変した。
「ちがう! ヤツらに、羽はないっ!」
山下の胸ぐらをつかんで、兄は叫んでいた。
「え、え……!?」
山下も突然のことに、驚く以外のリアクションをとれなかったにちがいない。
「に、兄ちゃん!? どうしたんだ!?」
「わ、悪かった……」
兄は、すぐにわれを取り戻してくれたようだ。
「わかりました……一匹、二匹って数えるようにします……」
なにかを悟った山下は、そう言った。
「そうじゃない。『匹』でもまちがいではないが、虫の数え方は、チョウでもゴキブリでも『頭』が正式なんだ。それに虫の羽は『翅』と書く」
「べ、勉強不足でした……」
険悪な空気が流れたが、それを振り払うかのように、兄は問題のロッカーに向き直った。
シュ──ッ! ついに、スプレーを噴きかけた。まだかなり遠い位置からだったが、それでもゴキブリは方々へ逃げていく。
一歩、一歩が重い。
兄だけは、二本のスプレー缶を持っていた。腰のホルスターに一本を入れていたが、その一本も取り出し、二刀流になっている。
緊張感が、教室中に充満した。
ときおりスプレーを放ち、なんとか木村のロッカーにまでたどりついた。
兄が、振り返った。
「いくぞ」
省吾は、横にいた山下の顔を見た。次いで後方からついてきた真紀の顔。そして、北原先生の顔を。
前に視線を戻し、兄に向け、うなずいた。
兄は一本をホルスターにおさめ、あいた左手で、ロッカーの扉に触れた。