オープニング
1.
(pm10:00 ナゴヤシティー 碧南バイパス裏路地)
気付かない内にそいつは目前に迫っていた。
闇に溶け込み、こちらを伺っていた。
そいつが国家の殺し屋、公共の最大幸福実現の為に細部を詰める掃除人、魂のハイエナ、つまり処刑庁の執行官だって事を知ったのは兄貴が息絶えた後の事だ。
奴が動く度に闇の体積はそのしなやかな身体分だけ膨張し収縮した。
足音も、コートの衣擦れの音も、呼吸音さえも認識させる事なく奴は俺たちの目の前に現れた。
奴は既に銃をこちらに向けていたので、お喋りの必要はなかった。
珍海王とのシマ争いで珍の養父宅へカチこんだ件なのか(三級市民に爆弾抱かせて邸宅を潰してやった。珍の養父は愛人共々バラバラになったそうだ)、
3か月前に行った公共墓地から盗掘した一級市民の屍体売買の件で来たのか、
はたまた地下ファクトリーにおける児童略取の件で俺たちに用があったのかそれはわからなかったが、いずれにしろ執行官てのは他の役人と違い現場での裁量に依る所がでかいそうだ。
部長まで決済を上げた後犯罪者を執行、なんて悠長な事はしない。
執行するとそいつが心を決めれば次の瞬間には死体が転がっている。そういう類の権力だ。
決断から執行までの間、速力は決して衰えない。ブヨブヨの尻の奴なんか一人も居ない、死の司祭連中。
兄貴の行動は流石に熟練の犯罪者らしく素早かった。そう、一郎兄貴はプロだった。
C区でガキに身体を売らせたり、公共墓地を暴き、生前の姿のまま修復保存されたアダム階級の屍体相手に励む事に精を出す連中。口にする事さえ憚られる様なゲス共。俺らの所属する組織はそんな奴らばかりだし、勿論俺らの生業もそいつらと変わらない。
だけど兄貴だけは何かが違った。世間のクズ共とは生まれ持ったものが全然違っていた。
品位って奴があったんだ。何をこなしても様になった。
あの時は確か児童略取の件で内偵調査を行っていた女刑事のケツを押さえた時の事だ。
猿轡を噛ませ後手に縛られた女の前でそいつの旦那のカマ野郎のケツを掘ってる時ですら兄貴の内側には高潔な魂があった。
「誰かさんは締まりが良いらしいな」そいつの免許証を見ながら、セスだと?犬の様な名前だ、、と兄貴は呟きながら腰を素早くグラインドさせていた。
哀れなセス某は肉と鉄、2つの銃で撃ち抜かれ、前述の拘束された女刑事も数瞬の後に同じ運命を辿った。
くそったれのアダム共、嫌ったらしいカウボーイ達、そして俺たちデミヒューマンの世界、階級制度、貧困、死、死。
だけど俺には兄貴がいた。
いつだって兄貴は俺のヒーローだったんだ。
親は兄貴が6歳、俺が3歳の時に俺らをブローカーに売った。
兄貴の19歳の誕生日、奴らはちょうどこんな路地裏で脳天を撃ち抜かれ、後頭部をザクロの様に割って転がってたっけ。
ヤサは俺が突き止め、兄貴が手を下した。
視界に映る情報が脳に伝わるより早く脊髄が動き、兄貴のブローニングから1.2.3発、立て続けに奴に向け火薬にノックされた音速の弾が向かって行った。
兄貴の視神経はナゴヤシティーの闇医者の手で改造され、動体視力の倍増に加えてニューロンを介さず筋肉へのフィードバックが可能となっている。
ま、かいつまんで言うと銃に関しては常時神業級の早撃ちが可能という事だ。
なのにその男、その時は勿論名前すら知らなかったのだが、玉置鉄三郎執行官、通称「玉鉄」には兄貴の弾は一発も当たらなかった。現実はキアヌ主演の古い映画じゃないから、すり抜けた訳じゃないのは解る。
弾より早く動ける奴なんかこの世にいない。つまり奴の装備の問題だった。
治安維持安定局監修の白書を見る限り、処刑庁の執行官は3タイプに区分けされる。
1に一部カウボーイ連中と民間から引き抜かれた、執行力に長けたデミヒューム混合の管轄所勤め。
2にカウボーイのみで構成された本部勤めのキャリア。
そして3が処刑本庁維持安定局内の別棟に「区別」された「生存機会均等室」に配属された狂犬中の狂犬共だ。
1.2.3それぞれに別会計勘定となっている為備品に掛けられる金が全く違う。
絶対的格差によって産まれた精神的汚物溜めの中で日々蔓延する猟奇犯罪、組織化されたカオス。
介護医療福祉、社会保障費の積極的投入では決して解決できない生態系が都市部を中心としてこの国に根付いていた。
国策としては公務員の執行力を高める方向へ、特に処刑庁において平均執行率96.8%の花形、生存機会均等室に掛けられるコストは国家機関の中ではダントツだった。
玉置生存機会均等室付執行官殿の装備の仕組みはよくわからなかったがいずれにせよ兄貴が発した弾丸は全て逸らされ、跳弾が辺りの壁を削った。
弾丸の無効化を見て取ると兄貴は即座に銃を捨て奴に向かって奔った。
脇のホルダーからグルカナイフを抜いて奴まで5mの距離を狼の様に雄々しく詰めていった、少なくとも俺にはそう見えた。
だが瞬きの合間の時間、兄貴の右手首から上が消失していた。傷痕から間欠泉の様に血が噴き出す。
ナイフの柄を握りしめた右手が回転しながら路地を転がっていき、排水溝の中へ消えた。
俺はといえば油汗を流して意味不明の呻き声を上げていた。
手が震え、射出装置の起動がうまくいかない。俺は直接人を殺った事はない。
この世界に入ってからはいつも兄貴の後ろについていた。兄貴は俺が手を汚す事を嫌がった。
震える手を顎で抑え、何とか射出装置の起動に成功し腰溜めに構えた所で俺の動きは"終わっ"た。
俺がもたついてる合間に兄貴は既に"終わっ"ちまってたんだ。
「1057(ヒトマルゴーナナ)、執行完了」
眉間を撃ち抜かれ路地に倒れ伏した際頭の後ろを熟れたザクロの様に割った兄貴を見据えながら奴はそう言った。
何の感情もない淡々とした声色だった。
まるで決められた手順に沿って住民票を発行する窓口職員の様な。
延々とExcelに明細書のデータを打ち込んでいく事務員の様な。
人1人を殺ったにしては倦怠と無関心の気を感じさせる奴の態度を見て俺は改めて
「あぁ、こいつは役人なんだな」
と何故だか納得していた。
「殺る」という行為に対して奴には法執行という名の分厚いフィルターが掛かっている。完全に正当化され、義務化され、マニュアル化され、完結しているのだ。
そしてその男は銃すら弾くギミックを装着している。精神的にも肉体的にも俺の遥か上を行っている。
気付いたらおれは既に逆の方向へと走り出していた。
これから先は国と"組織"、両方から追われる事になる。
犯罪者として、あるいは実の兄貴を殺られ敵前逃亡した裏切り者として。
腰抜けとして。
臆病者として。
それがこの俺、墓瀬次郎と玉置鉄三郎との邂逅だった。