エピローグ
夜の風が頬を撫でる。
家に帰った私は、庭の木を見上げた。私の背の二倍程ある木は、月の光に照らされて神秘的な姿を見せる。
しかし家を囲む森の木々とは違って、春だというのに葉っぱの一枚もついていない。
「ワン!」
「ん? どうかしたの?」
チビ助が1度だけ吠えた。アイヴィーがしゃがんで首を傾げるけど、それに応えて人間の言葉を話すわけもなく。
「挨拶か何かじゃない? この木か、他の何かかは知らないけど」
「そうなのかなあ」
犬の気持ちをどう推し量るにせよ、それは人間の都合の良い解釈でしかない。
私はそう思うから、あまり深く考えない。
「さ、やることやって晩御飯にするわよ」
視線をチビ助に移し、私は屈んで首輪に手をかけた。お爺さんがプレゼントしたという、赤い首輪に。
「……」
チビ助は抵抗しなかった。
抵抗しないんだ。なんて興ざめしてしまう程には、私も犬の気持ちを考えて押し付けてしまっている。
そればかりか、あのお爺さんに肩入れまでしている。
私らしくない。
「はぁ」
いったん手を離し、息をつく。アイヴィーを地面に座らせ、その肩に寄りかかった。
「ねえアイヴィー」
「なに?」
アイヴィーの冷たく、柔らかい肌の感触で頭を冷やす。
「……なんでもない」
「そっか」
深追いはせず、この子は私の頭を撫でてきた。振り払うのも面倒だから、そのままにしておこう。
目を閉じ、お爺さんの最期を思い出す。チビ助とありったけじゃれ合い、絆を確かめ、幸せそうに旅立っていった。
絆だなんて、恥ずかしくて鳥肌が立ちそうだ。
「ふふっ」
絆だなんてくさい言葉、思い付いただけでも恥ずかしい。
その照れ隠しか、思わず笑いが込み上げる。
「あははっ。ホントに私らしくないわ」
笑ったら、嘘みたいに気が紛れた。
考えてみれば遺品なんて、形見の方が多いじゃないか。今までだってそれをたくさん頂戴してきたわけだし、今回もそれと変わりない。
「元気、出たみたいだね?」
「そりゃあもう元気だわ」
アイヴィーの肩から離れ、チビ助の方へと手を差し出した。私の意思を汲み取ってくれたのか、チビ助は私の胸に飛び込んでくる。
「よし、いい子だ」
その頭を撫で、顎をさすり、再び首輪に手をかけた。そこそこ年季の入った風貌をした赤い首輪は、いともたやすく外れてしまう。
首輪を取った方の腕でチビ助を抱えつつ、ポケットを探った。そこからシルクのハンカチを取り出し、手の上に広げて首輪を乗せる。
もう迷いはない。
「アイヴィー、お願い」
「任せて!」
ゆっくりと目を閉じ、開いたアイヴィーの瞳が紅く輝く。
それと同時に、首輪が紫色の炎に包まれた。
私の手の中で、音も煙も立てずに首輪が燃えていく。私と、アイヴィーと、チビ助は、静かにそれを見守った。
やがて炎が消えると首輪の輪郭は消え、月明かりにきらめく灰だけが残った。
「はい、おしまい」
「これっぽっちか。これじゃ長くは持たないわね」
「もっとお客さんが来れば大丈夫だよ!」
「そんな頻繁に来られても迷惑だわ」
お客なんて週に一人で十分だ。特に探し物は、これっきりにしてほしい。
なんてことを考えながら、チビ助を引き剥がして腰につけた灰袋へと灰を移す。
灰袋の中身は今回の分を合わせて、私の握り拳ほどになった。
「あとは最後の儀式ね」
立ち上がり、振り返って素っ裸の木と向かい合う。
「あー。ずいぶん久しぶりな気がするわ。待たせてごめんね」
返事をするはずもない木に語りかけつつ、灰袋に手を突っ込む。
ちょっとケチって四本指で灰を掬い、準備は整った。
旅立っていったお爺さんへの手向けに。
そして、死せる者全ての安寧を願って。
「枯れ木に花を咲かせましょう」
撒いた灰は風に乗ってきらきらと宙を舞い、文字通りの枯れ木に降りかかる。
ひとたび瞬きをすれば、妖しくも美しい桜色の花が満開に咲き誇っていた。
「ワン!」
チビ助のひと吠えが夜空へと消えていく。見上げると花だけではなく、星月夜もまた綺麗だった。
「今晩はお花見とお月見ね。アイヴィー、外で待ってるから手早く準備して。もうお腹ペコペコ」
「うん! すぐ用意するから待ってて!」
日常に戻る前に、もう少しだけこの美しい景色を楽しもう。
せっかくの感傷的な気分が、醒めてしまわないうちに。