チビ助
「チビ助!」
お爺さんが突然声を上げて走り出す。私とアイヴィーはその声に驚かされながら、すぐに後を追う。
保健所から目と鼻の先にあったスーパーへ、食糧を調達しに来たところだった。田舎らしくだだっ広い駐車場を抜けて、店に近付いた矢先のことである。
「チビ助やないか!」
スーパーの入り口近くで屋台を構えるたこ焼き屋。その軒先で気持ちよさそうに眠る仔犬がいた。
しかし、そんな都合の良い見つかり方があるだろうか。
「それ、本当にチビ助なの?」
「ええ、間違いありません。この首輪も、ワシがあげたものです」
嬉しそうにお爺さんが言う。どうやら本当にこの子が、チビ助らしい。
だけどどうして、こんなところにいたのか。
「そいつ、チビ助ってんだ。可愛いだろう?」
「えっ? あぁ……え?」
しゃがみ込んでチビ助を見つめる私たちに声をかけてきたのは、年若いたこ焼き屋の店主だった。
店主の彼は間違いなく、チビ助と言った。それを聞いた私も、お爺さんも、揃って目を丸くする。
「こいつはね、ある爺さんのペットなんだ。だけどどうしたことか、最近ずっとこの屋台から離れないんだよ」
どうやらお爺さんのことも知っているらしい。当の彼はというと、眉間に皺を寄せて記憶を辿っているようだ。
「お爺さんのこと、何か知ってるんですか?」
「お、嬢ちゃんあの人の知り合いかい? 俺はよく知らないんだが、腹を空かせた様子でこの辺りをうろうろしてることが何度かあったんだ。こいつも一緒でな」
ふと横を見ると、お爺さんが思い出したと言いたげな顔を見せた。
まったく、もっと早くに思い出して欲しかった。
「そういや爺さん、ここんとこ見なくなったなあ。チビ助を置いてどっかに行っちまったのかねえ」
どこかに行ったというのは、あながち間違いではない。伝えるべきか迷ったけど、やめておいた。
「しかし困ったもんでね。近いうちに店を畳むことになっちまったから、そうなるとチビ助の居場所がなくなっちまうかもしれないんだ。嬢ちゃん、もし爺さんの知り合いなら引き取ってくれないか? このままじゃあこいつを路頭に迷わせるかもしれないんだ」
有難いような有り難くないような提案だった。彼が引き取ってくれたならそれでお爺さんも満足しただろうし、依頼は達成出来ていただろう。
後でわざわざシャーロットに引き渡す手間を考えると、こっちの方が面倒だ。
とはいえ彼に引き取るつもりはないみたいだし、仕方ない。
「いいんですか?」
「ああ、頼むよ。そうしてくれたら、俺もずいぶん気が楽になる」
人の良いたこ焼き屋の店主は、安心したような笑顔を見せる。
「そうだ、お礼にたこ焼き一皿まけとくよ!」
「本当ですか! ありがとうございます!」
思わぬ報酬に、私は自分でもわかるぐらい顔を輝かせた。タダ飯ほど嬉しいものは中々ない。
店主から焼き立てのたこ焼きを受け取り、店先のベンチに腰掛けて遅めの昼食とした。
「あぁ、美味しい」
熱々のたこ焼きが口の中でとろける。幸せが私の身体に染み込んでいく気がした。タダ飯という至福のひとときに、ここまでの気苦労も幾分か紛れる。
「チビ助、お兄ちゃんの好意に甘えて食いつなぐなんて、お前もずる賢いなあ」
お爺さんが眠ったままのチビ助に、誇らしげに語りかける。誇っていいかどうかはわからないけど、そのおかげで生きながらえたのは事実だろう。
しかし、拍子抜けするような形で依頼が達成できた。あとは彼が成仏するのを見届けるだけ。
「お手数かけました。これで安心して逝けます」
私の隣に腰掛け、お爺さんが安堵の息をついた。
「このお店、よくお世話になってたんだ?」
背を向けているとはいえ、店主に怪しまれないよう私は声を潜める。
「ええ、思い出しました。お金も食糧も尽きてどうしようもなくなった時は、ここに来てたんです。ワシはともかく、チビ助が痩せこけていくのが耐えられんかったんですよ。だからチビ助だけでいいからと、好意に甘えておりました」
「ふうん。そもそもチビ助って、野良犬だったの?」
私の問いかけに、彼は思い起こすように遠くを眺めた。
「わかりません。ですが、いつかの冬の日に、あの橋の下で出会ったんです。もしかすると天から授かったと言った方が、正しいかもしれませんな」
「授かった?」
「はい。あの日、あまりの寒さに死を覚悟して、凍えながら意識を失ったんです。その後、目を覚ましてふと気付くと、腕の中にチビ助がいて。もちろんびっくりしましたが、とても温かくて救われた心地がしました。もしチビ助がいなかったら、ワシはあの日に凍死していたかもしれません」
少し大袈裟ですがね、と彼は穏やかに笑った。
「その日から、チビ助は何をするにもついてくるようになったんです。当然、餌なんてまともにやれないもんですからね、出来る限り木の実や虫なんかをあげようとはしてましたが、それにも限界が」
「ワン!」
お爺さんの話を遮るように、いつしか目を覚ましていたチビ助が吠えた。
「おや、吠えるなんて珍しい。大人しい子なんだがな」
屋台からひょこっと顔を覗かせた店主が言う。その言葉にお爺さんも頷いた。
「滅多に吠えない子なんですが、」
「ワン! ワンワン!」
小さな身体に見合わない大声で、チビ助が吠える。その目線の先にいるのは、お爺さんだ。
「ねえアイヴィー、犬には霊体が見えるの?」
「えぇ……どうなんだろう」
動物には霊感があるなんて話をどこかで聞いたことがあるけど、あれは本当なのかもしれない。
チビ助はお爺さんをひたと見据えて、何度も吠えていた。
「おうおう、どうしたんやチビ助よう」
お爺さんがしゃがみ込もうとすると、チビ助がどこかへと小走りに逃げた。
「あ、おい!」
私としても見失うわけにはいかないので、食べかけのたこ焼きをベンチに置いて、お爺さんと一緒にチビ助を追う。
チビ助はスーパーの裏手に回って、人気のない場所で足を止めた。
振り返ってお爺さんがいるのを確認すると、物陰から何かをくわえて再びお爺さんの前に姿を見せる。
「どうしたんやチビ助」
今度は近寄っても逃げなかった。
チビ助がくわえていたのは、少し日が経って乾燥したたこ焼きだった。
「また貰ったんか? あの兄ちゃんには、何回もお礼言わんとあかんなあ。良かったなあ、チビ助」
お爺さんが嬉しそうに語りかけるが、チビ助はうんともすんとも言わない。
「一度に食べてしまわんと取っておいたんやな、偉いぞチビ助」
それでもチビ助は微動だにしない。
聞こえているのか、聞こえていたとして理解出来ているかはわからないけど、褒めてほしいのではないようだ。
乾燥し切ったたこ焼きを食べようともせず、ついにはそれを地面に置いた。
チビ助は鼻を使って、たこ焼きをお爺さんの前へと押しやる。
「チビ助、これ……ワシにか?」
もう一度、たこ焼きを押し出す。
「これ、ワシのためにとっといてくれたんか? ワシが腹を空かせて……死んで、冷たくなったからか?」
チビ助は動かない。ただじっと、お爺さんの目を見つめる。
「そうか……そうか……ありがとなあ」
お爺さんが涙を堪えながら、チビ助に両手を差し出す。
頭を、顎を撫でようとしたその手は、儚くもチビ助をすり抜けた。
「そうや。ワシ、死んでしまったからな、お前を撫でてやれんのや。お前のとっといてくれたたこ焼きもな、食べられんのや」
思い切り歯を食いしばって、目も当てられないような表情をしていたけど、とうとう彼の目から涙がこぼれた。
ひとたび涙が頬を伝うと、歯止めが効かなくなるらしい。
「チビ助ありがとな。ありがとなあ」
腕で目を覆い、お爺さんが崩れ落ちる。
「ワシに食わせるために、待っとってくれたんやなあ」
おいおいと泣くお爺さんを見かねてか、チビ助が擦り寄ろうとした。
しかし無情にも、彼らが触れ合う事はない。
「ごめんな。死んでしまったから、何もお返ししてやれんのや。ごめんなあ」
さすがの私でも、いたたまれない気持ちになった。
だけど仕事に私情を挟んでイレギュラーなことをするのは良くない。
本当は良くないけど、犬の時ぐらいならいいだろう。
私は振り返り、泣き腫らしたアイヴィーに合図を送った。
「うぇ? いいの?」
「うるさい。私の気が変わってもいいの?」
「あわわわ、わかったから!」
小声でそんなやり取りをして、アイヴィーを憑依させる。
(鎌)
(はい!)
虚空から大鎌を呼び出して、狙いを定めた。
チビ助の首をめがけて、ひと思いに鎌を薙ぐ。音も手応えも、何もない。
だけど、上手くいったようだ。
「ワォーン……?」
自分の抜け殻を見つめて不安そうな声を上げるチビ助。
異変に気付いたお爺さんは顔を上げたけど、状況は理解できないようだった。当然か。
「いわゆる、幽体離脱ってやつ? ほら、撫でてあげるんでしょ」
私は鎌に寄りかかり、あらぬ方へ視線を向けて言い放つ。
少しの間をおいてから、その意味を理解したお爺さんから感謝の言葉が聞こえた。
ちらりと横目で彼らをみると、それはそれは幸せそうにじゃれ合っていた。