依頼の始まり
「さて、不都合が無ければ望みを聞かせてもらえる?」
お爺さんに話を振って、ようやく紅茶を口にすることができた。湯気は消えたものの、まだ十分温かい。猫舌の私にはちょうどいい頃合いだった。
彼は改まったように咳払いをして、口を開いた。
「結論から言いますと、チビ助を引き取っていただきたいんです」
茶菓子のクッキーを手に取ろうとした私の時間が止まる。お金のかかる、嫌な予感しかしない。
「チビ助……っていうのは?」
「はい。生前、ワシが可愛がっていた犬がおるんです。厚かましいお願いは承知の上ですが、なんとか引き取っていただくわけには……」
お爺さんは顔に皺を寄せて、私の顔を覗き込んでくる。心から頼むという、その気持ちだけは嫌でも伝わってきた。
しかしなぜ家族に託すのではダメなのか。そんな疑問が浮かびはするが、未練を残して霊になり、ここに来た以上はそれなりの理由があるわけで。
「ええと、どうして私に……?」
すると彼は、ばつの悪そうな笑みを浮かべた。
「他でもない、生前のワシが家無しの身だったからです。気付けば家族や知り合いなんてものは、チビ助だけだったんですよ」
「それは気の毒に……」
快活そうな雰囲気からはとても想像がつかなかった。お爺さんがいわゆるホームレスだったなんて。
「だから今生の……死んじまいましたが、今世のお願いです!」
そう言って彼は大仰に頭を下げる。アイヴィーどころか私もビクついてしまうほどに。
「このままじゃあチビ助は……保健所に連れていかれてどうなることか……」
うっうっ、と嗚咽を漏らすその姿を見てなお一蹴するほどの度胸は、さすがの私も持ち合わせていなかった。
「わ、わかったわ。わかったから顔を上げて」
「本当ですか!」
私が言い終わるか終わらないかのうちに勢いよく顔を上げた彼の頬に、涙は伝っていなかった。
とはいえ、嘘を言っているわけではないだろう。それなら報酬も手に入るだろうし、依頼の難易度としては高くない。
チビ助の方は引き取って依頼を達成した後に、他へ預ければいいだろうし。幸いにもあてはある。
「ありがとうございます! 本当にありがとうございます! このご恩は一生……死んじまってるんで、来世まで忘れやせん!」
何度も何度も頭を下げるお爺さん。落ち着いていた声のボリュームが圧力を取り戻し、耳が痛い。
来世、と律儀に正したけど、チビ助を他へ預けるつもりの私としては忘れてくれた方がありがたかった。
「さ、それじゃ早速引き取りに行くわ。準備するから、家の外で待っててくれる?」
「かしこまりました!」
彼は俊敏に敬礼すると、紅茶を一気に飲み干して立ち上がり、また一礼をして玄関へと向かっていった。
嵐が去ったような心地で、私は残る紅茶を飲み干して席を立つ。
「着替え持ってきて……って、」
アイヴィーの方を振り返ると、眩く輝く笑顔が私を照らしていた。
「ああ、犬ならシャーロットに引き渡すわよ」
その一言で、束の間の喜びが崩れ去った音がした。わかりやすいヤツだ。
「な、なんで! なんでなの!」
「犬なんて増えてウチで養ってけるわけないでしょ? ほら、あんたさっき食器割ったし。餌代に回すお金なんてないわ」
「う、うぅ……でもでも……」
いつもなら泣き出していそうなものを、今日は珍しく食い下がってくる。そんなにワンちゃんをお迎えしたいか。
「第一、世話すんのが面倒なの」
「お世話なら私がするもん!」
「吠えたらうるさくて眠れないし」
「吠えないようにわたしがしつける!」
「怖がってお客さんが来なかったら?」
「わたしがなんとかする!」
手強い。というかコイツを諭すのも面倒だ。
「あーもう。とりあえず着替え持ってきて。お爺さん外で待たせっぱなしだから」
「はぁい」
仕方ない。次の新月までは要求を飲んでやろう。新月を迎えたら、アイヴィーのいない間にチビ助をシャーロットへ引き渡す。それでいいか。
今日はやけに面倒が増える。これ以上増えたら二日ぐらい引きこもってやろうと、心のすみで呟いた。