⑧
理髪店を出ると、夏の陽差しが悠二の頭皮に突き刺さった。縛るほどあった後ろ髪が失われていた。小学四年生から高校を卒業するまで、ずっと野球少年だったので、悠二は短い髪型にさほど抵抗を感じていない。……とはいえ、一気にスポーツ刈りにまでするか?
理髪店といえばここにしか来ないので、苦情はなんとか胸の内だけに収めている。片手で後頭部を逆撫でしてみると、ザクザクと懐かしい感触。辛かった練習風景が真っ先に浮かんでしまって、呼吸まで浅くなってくるようだった。
とにかく、まずは荷物を置きに帰ろうと、買い物袋を両手に分けて歩き出した。
途中、ショーウィンドゥに映る自分を、幾度となく見た。道行く人にナルシスト発見と思われるほど、じっと立っていた。直射日光で頭皮が青光りしないか、と心配でならない。
悠二は金田が経営するコンビニの前まで来て、赤信号に足止めされた。すでに全身からは汗が噴き出している。うつむいて目を固く閉じた。これは暑い……。それで少しでも茶目っ気を起こそうものなら、そのまま車道に倒れ込んで、冗談で済まなくなりそうな予感がする。
気を強く持って瞼を開くと、向こう岸の歩道を行く自転車があった。二人乗りの母と娘? 楽しそうに前後で会話しながら、右折していった。
あのピンクの自転車はたしかに悠二の所有物で、遠ざかっていくのは、雪子だった。
悠二は信号が変わっていたことに気づかなかった。
ふと我に返って横断歩道へと歩を進めた。腑抜けた顔で横断していると、彼の踵を掠めるように、痺れを切らした車が唸りを上げた。
――昨晩の十時すぎごろ。
この交差点で、悠二と雪子は別々の方向に帰るはずだった。
お互いに手を振った後、悠二はひとり自転車に跨って目の前の赤信号を見上げていた。
「神田さぁん。今度、ええ情報があったら、絶対教えてな!」
見ると、雪子が頭の上で手提げ鞄をグルグルと回していた。
悠二は噴き出した。
「なんやったら、俺んとこでもうちょっと飲んでいきませんか?」
雪子はびっくりしたような顔をしてからうつむいた。少し間を取った後「えぇ、どうしようかなぁ」と言いながら、ウネウネと上体をくねらせて悠二に歩み寄った。
そして、自転車の荷台に横乗りして、悠二の腰に手を回した。
「俺んとこって何にもないし、なんか買ぅて帰らんと」
「この時間に開いてる店って……。コンビニくらい?」
二人の眼前には、金田の経営するコンビニの照明が光っている。その灯りを見つめたまま、二人はしばし固まった。
腰に回されている腕に力が加わったのを感じて、悠二は後ろを振り向いた。雪子が悠二の背中に顔を埋め、無言で違う方角を指差している。
悠二は「やっぱ、そうやね」と言って、それに従った。
ペダルを漕ぎ出してすぐに、どちらからともなく笑い声が漏れてくる。
悠二に招き入れられて、囁くように「お邪魔しまぁす」と言った雪子は、部屋の灯りが点くなり感嘆の声を上げた。
「めっちゃ片づいてるやんか」
彼女は覗き込むようにしてリビングへ進んでいく。どうも独身男性の一人暮らしに偏見があるようだ。この部屋は物が少なく料理も滅多にしないので、生活臭が薄い。それだけなのに。
悠二は買い物袋をキッチンへ置いた。
「まぁ、寝に帰ってるだけやしね」
六畳のリビングには、中央部分にだけ丸いカーペットが敷いてある。その上に丸い卓袱台と、二つの座椅子が配置されている。悠二はトイレにエアコン、テレビ、氷、食器と忙しなく動いて、やっと座椅子に落ち着いた。
「この映画、去年に見逃したやつやん。もうテレビでやるんやね。最初から見たかったわぁ」腕時計を見て、焼酎の水割りを一口飲んだ。
「もう、半分過ぎとんね」
パチンコが早めに決着した場合など、悠二はよく一人で映画館へ行って時間を潰している。観た映画の本数だけは、映画鑑賞が趣味だという人と同じくらいだ。
たしかこの映画の始まりは……と、宙に視線を巡らせる悠二を後目に、雪子は次々とチャンネルを変えた。歌番組に行き着いたところで、リモコンから指を離した。
今のところ、二人の共通の話題といえば、パチンコ関連の話しかない。しかし、それはスナック雅玉の従業員も交えて、散々語り合った後だ。もう少し込み入った話に進みたいところ。職は? 家族構成は? 野暮な話は避けるのが妥当か、と迷った。
詮索したいという思いに駆られながら、テレビから流れる情報を元に、当たり障りのない会話が断続した。
しばらくして、テレビがCMに入ったのを期に雪子がトイレに立った。
悠二は焼酎のグラスに口をつける。飲みながら、彼女が座っていた座椅子をじっと見つめた。
膝立ちで這っていって、雪子の座椅子を少し自分のほうへ近づけてみた。回転する台座付きの物で、結構な重量がある。自分の座椅子に戻り、テレビを一度見て、また座椅子に手を伸ばした。新しく水割りを作って、トイレのほうへ気をやった。三回目の移動で、二つの座椅子は隣同士になった。
トイレから出てきた雪子はリビングへ戻って来ず、キッチンに立っている。
「なぁ、神田さんとこの冷蔵庫って、めっちゃ大きぃない?」
悠二は返答に困った。話の流れを、同棲時代の名残へは持っていきたくない。
「無駄にデカいんやわ。けど、何も入ってへんねん。あ、さっき買ぅてきたアイスを取ってくれはる?」
雪子はリビングに戻ってきて、ごく自然に悠二の隣へ座った。自分の分のカップアイスを卓袱台に置いて、悠二の分を「はい」と、さし出した。
二人は体を傾かせれば、肩が触れ合う距離にいる。間に割って入る肘掛がなんとももどかしい。座椅子の新しい配置を見たときの雪子を、悠二は見ていなかった。見ていたら、アイスを食べることなく二人はすぐにでもキスをしてかもしれない。
雪子は唇を舐めてから、唐突に訊いた。
「神田さんって、何歳くらいなん?」
悠二が二十九歳だと正直に告げると、雪子は「えぇ、六つも下かぁ」と、座椅子の外へひっくり返ってみせた。
もちろん、悠二は紫色のパンティを見逃さなかった。