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 雪子

 翌朝、悠二の部屋には珍しく冷房がきいていた。

 身震いをしてタオルケットを引き寄せる。少しすると、目覚まし時計が朝を告げた。

 そうそう、うちのはたしかこんな音が鳴るんだった……と手を伸ばした。耳障りなので一刻も早く止めたいが、これがなかなか触れられない。体はぐいぐいと上へ伸びていき、おそらくもう少しというところで、その音は誰かに止められた。


「なぁ、駅かバス停まで送ってぇな」

 雪子はそう言うとスカートのファスナーに手をかけた。

「なんか、体が動かへん。ピンクのママチャリで良かったら、勝手に乗ってってええで」

 悠二はそれだけ言って寝返りを打った。

「もぉ」と、小さな文句が聞こえた。

 その後、しばらくキッチンで包丁やら水道の音が忙しなく続いていが、やがて玄関ドアの閉まる音がして、部屋は静寂に包まれた。

 そのころになって悠二は薄目を開け、なんとかエアコンのリモコンを取った。切のボタンを押してニヤリ。マットレスの中央へにじり寄ると徐々に大の字になっていった。


 悠二が二度寝から目覚めたのは、正午になってからのこと。

 リビングへ行くと、昨夜放置したはずの空き缶や皿が綺麗に片づけられていた。冷蔵庫を開けると、中にラップされている皿を見つけた。酒のツマミとして買ってきた物の余りが、別の料理になって盛られている。

 悠二は髪を束ねて引っ張り上げながら、昨夜の記憶をたどった。


 昨夜、二人は三回戦を戦い抜いていた。

 悠二はいやらしい笑みを浮かべると、自分の体を嗅いで風呂場へ行った。洗面所の鏡の前で全裸になると、大胸筋にグッと力を入れる。息も絶え絶えに三回戦へ突入しようとした自分を褒めてあげたい、と思った。

 さっぱりしたところで、データノートとボイスレコーダーと冷蔵庫の中にあった皿をリビングの卓袱台に並べた。昨夜にできなかった、まとめの作業に取り掛かろうとしている。

 昨晩は飲みに行ったので、夜九時以降の最終データが取れていない。このまま無計画に打つと、だいたいは振込みマシーン状態になってしまう。今日は打たないほうが賢明、と経験が警告音を発していた。悠二はボールペンを箸に持ち替えた。

 食後にインスタントのコーヒーを淹れ、ノートの傍らに置いた。

 室温の上昇を肌で感じながら、ボイスレコーダーの内容を書き起こしていった。考察抜きの単純作業なので二十分とかからない。さっさと終えると、静かすぎる環境に寂しさを感じてテレビを点けた。コーヒーを飲みきる間だけ、その画面を見るともなしに眺めた。


 悠二は洗濯を済ませてから、出かける準備を整えた。

 靴を履きながら片手で玄関の小物入れを探ったが、部屋と自転車の鍵が指に触れない。すぐに思いついてドアポストを開けると、部屋の鍵だけが落ちた。

 表に出て、自転車置き場を覗く。ピンクのママチャリがないことを確認して笑みを浮かべた。あれに乗っていったということは、雪子がまた会いに来るということだ。

 悠二が階段を降りていく音で、一階の通路を掃いていた安堂が顔を向けた。


「あぁ、神田さん。お早うさん。今から? 頑張ってきぃや」

 安堂はタオルで鼻頭を押さえ、こもった声を出した。

 対照的に悠二は昨日の快勝を含ませた。

「頑張ってきますわ。今月は安泰の予感がしますねん」と、軽口をたたいた。この一番気温の高い時間帯に、よく掃除をする気になれるなと思ったが、口にはしなかった。


 悠二が向かったのはパチンコ店ではなく、商店街方面だった。手に入れた資金を不慮の事故で失う前に、雑貨のストックなどの物品に変えておくためだ。

 昨日、パンクした自転車を押して、道路の端を歩いていた状況とは違う。外気温は昨日と同じくらいだったが、彼の足取りは力強かった。資金に余裕があると気の持ちようも変わる。元々、すらっと長い脚を持つ悠二が颯爽(さっそう)と歩くと、木陰で井戸端会議中の奥様たちの目を惹いた。


 デパートでいろいろと買い込んだ後、悠二は理髪店の待合椅子でやっと腰を下ろした。

 ここの従業員は店主が一人。先客は中学生くらいの男の子が一人。もう刈る箇所なんてないくらいの髪型にされている。待ち時間は短そうだ。

 蒸しタオルを一つ貰って大きく息を吐いた。

 久しぶりの衝動買いだ。電池やらの細かい物も買い揃えて、紙袋は三つにもなっている。それを楽しいと感じる人は多いらしいが、悠二が感じるのは疲れだけだ。喉元を拭くついでに天井を見上げ、一旦、買い物袋を置きに帰った後、どうするか? を考えた。パチンコ屋へ行くことは決定事項だ。今日は打たない、という決心が鈍らないよう、所持金ゼロで行くか、それともいつでも戦える態勢で行くか、で迷っている。


「お待たせしました、どうぞぉ。――夏に神田さんが来るんは珍しいですよね。あ、荷物はこちらへ」

「ああ、そうやね」

 普段は自宅の風呂場で、気になる箇所にちょこちょことハサミを入れるだけなので、プロの手は必要ない。裸で散髪することが億劫になる冬場にだけ、この理髪店を利用していた。

「ちょっとバッサリいこうと思って。今年はとくに暑い気がするわ。毎年、誰かに言うてるかもしれんけど。まぁ、スッキリとした感じで頼んますわ」

「ほんまに暑いですよね。はぁバッサリですか……。任しといてください」

 店主はイメージを膨らませるように、ゆっくり視点を変えては、髪を持ち上げたりしていた。


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