劇終
電車に乗り込むと空席が一人分ずつ点在していたので、悠二と亜美は離れて座った。ここから山科駅までは二十分ほどだ。同じ景色を共有しながらも、それぞれに考えていることは別々。二人の頭に共通していたのは、少し前から感じている尿意だけ。気になっていた仕事をやりとげて、ひとつ不安が解消されたという表情ではなかった。
悠二の体には、いまだ母に射竦められるような感覚が残っている。タクシーに乗っている間、行き先を告げて以降、何も喋らなかったのはそのせいだ。
――悠二と親密にならなければ、雪子は殺されることはなく、亜美も刺されることはなかった。
母の目がそう言っているように感じた。それはまだ誰にも面と向かって指摘されたことがない、彼自身が今もっとも言われたくない言葉だ。
心を見透かされるような母の目を、悠二は苦手としている。勝手に自問自答してしまうのだ。
自分に嘘はつけないので、やはり、それは一番痛いところを真正直に突いてくる。それが母のせいではないとわかっていても、いつも切っ掛けになるのが母の目だったように思えて、今はもう遠ざかったと頭で認識できているのにもかかわらず、苦々しい唾液だけが口に広がっていた。
一方の亜美はもう少し近日のことを考えている。職を失ってしまったことだ。また誰かのお世話にならなければならない、という不甲斐なさがもたらす空虚感で、明るい話題を提供する気が失せていた。
入院中は公男とのことで胸を痛めた。
それは確かだったが、午前中、退院したその足で伊藤ベーカリーを訪ねたとき、公男は何も言ってくれなかった。
亜美は、彼の独り立ちしようとしている姿に憧れていた。傍にいて手助けしてほしい、と告白されたときにあった胸の疼きは、今でも忘れていない。
しかし、房子と交代して奥へ引っ込む公男の後ろ姿は、ただの丸い紙風船のようだった。自分の中で急速に冷めていくのをはっきりと感じた。キングとアベベが店の中で怒鳴っている姿を傍から見て、余計冷静になれた。
今、湖面で光るさざ波を綺麗だと感じられるのは、入院以来、初めてキングが来てくれたことが自分の中で大きすぎて、プラスマイナスでゼロになっているのだと思った。
電車はほどなくして山科に到着した。
ホームには乗りかえる車両がすでに待機していたが、どちらともなくトイレタイムを提案し、一本遅らせることにした。ローカル線とはいえ、昼の時間帯でも十五分おきくらいに電車が来るので、そこに心意的損失感はない。
身軽になった後で乗り込んだ京阪の車両は座れないほどではなかった。
ちょっとの間だけなので、二人はドア付近で立った。悠二がもたれるようにして手すりをつかんでいる。亜美からすると、悠二も頑丈な手すりみたいなものなので、亜美は悠二に掴まっていた。それを悠二は、とくに嫌がって避けたりはしなかった。
時折、亜美は悠二を見上げ、顔色を窺っていた。
パン屋を辞めてきた、と悠二に告げること。そんなことが今の彼女には難しい。頭の中でその機会を計ってみる。おそらく今夜は何もない。話は明日の晩以降――。
「ほな、悠さんおやすみ~」
「おう、おやすみ……って、ごたごたで延期になってるけど、お前っていつから向こうへ行くねん?」
「あぁ、私、伊藤ベーカリーを辞めてきたし、もう引っ越さへんよ」
「ギャッフーン!」
――とは、ならないだろうし、その次が思い浮かばない。
畏まって報告するパターンも想像してみたが、どうしても穏便に済まなかった。キングとアベベに告げたときの反応が、頭にこびりついている。
ところが、亜美が思案するまでもなく、言うタイミングは呆気なくやってきた。
「……アパートを探さなアカン。それよりまず住む土地を決めんとアカン」
亜美は物思いに耽っていたせいで、最初のほうを聞き逃した。
「え、誰か引っ越しすんの?」
「俺やがな。一週間くらい前に、大家の息子夫婦が訪ねて来よってな。アパートを手放すって言いよったねん」
「あそこを取り壊すん?」
「壊すかどうかは知らんけど、土地ごと手放すって決めたらしいわ。まだ半年くらいの猶予があるさかい、今すぐってわけやないけど」
「それで……」
亜美はうつむいた。息子がいるというのは知らなかったが、母親が逮捕され、生きているうちに出て来られるかが微妙なだけに、その家族の心中は計り知れない。わからないながらも、もしかして裁判費用の捻出するためかもしれない、と思った。
「居座って、ヤカラ飛ばし続けたところで、金にならんし体力がいるだけの話や。それに、周囲がうるさくなってきて急に住みにくくなったわけやし、こっちとしても願ったり叶ったりやん。引っ越し費用を出してくれるっていうから(わかった)ってあっさり返事したわ」
電車を降りて改札を抜け、駅前のパチンコ屋へ向かった。客でもないのに無断駐輪する者が後を絶たないのか、常駐の爺さんが、駅から来る者に睨みを利かせていた。
二人はパチンコ客を装って一旦店内に入り、水分を摂った。慣れていない亜美からすると、パチンコ店内の音楽は落ち着かないようだった。何もせず座っていると、怒られるような気がするらしい。
ゆっくりしてから出てきて、ピンクのママチャリに跨った。リュックは前のカゴに入れる。
「私も一緒に部屋を探すわ」
「は? なに言うてんねん。亜美に関係ないやんけ。――あぁ、新しい部屋が決まったら、ちゃんと住所を教えたるって」
「ううん、私も一緒に住むことになるし、見ときたい」
悠二は自転車を停めて振り返った。亜美の顔を見て、冗談かどうかを判断するためだ。
悠二はそれだけで察した。ここ最近、伊藤のオッサンの態度に違和感があったので、やっと結びついたといった顔だ。またペダルをこぎだした。
「北極熊はどう言うとんねん?」
「店長は……べつに何にも言うてへん」
(北極熊って誰のことよ)と訊き返さないところ、亜美も公男を北極熊だと思っていたに違いない。
ここからだと清の雅玉と金田のコンビニは近い。寄って今日のことを報告しておこうか……どうせ今頃は戦っている最中か? 思考を少し脱線させて一旦落ち着くと、ゆっくり戻ってくる。
「俺が伊藤のオッサンを吊し上げたろか?」
「ほんまに、ほんまに、もうええから。ぜんぜん未練とかないし」
キングの暴走を止めたように、亜美は腕を回し背中へ顔を埋めた。悠二も端からそんな気はない。
悠二はため息を連発している。体力が低下していて自転車を繰ることに疲れているだけかもしれない。
亜美は悠二がなにか言ってくれるのを待った。
が、結局二人は、ようやくグラッツェ安堂が見えてくるまで、喋らなかった。
このアパートで暮らした人の数は、のべで約八十人と聞いている。それが年内で役目を終えようとしていた。ひっそりとしているのは、この時間に誰もいないせいだが、見る側の気持ち一つで、いかようにも感じられた。
アパートまでもう少しといったところで、悠二がボソリと言った。
「亜美は、雪さんに捨てられたんとちゃうかったんやなぁ」
「それは悠さんも同じやん」ボソリと言い返した。
「まぁな」
悠二は舌打ちしてから「ひとつ嫌なことを教えたろうか?」
「嫌なことやったら、聞きとぅないわ」
それを無視して、続けた。
「亜美が大事にしてるこの自転車なぁ。昔、俺が大家さんに貰ったもんやぞ」
亜美はサッと飛び降りて、両手で尻を激しく払っていた。
―― 了




