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昼夜に既定の食事を摂らなかったことで、亜美にはメディカルチェックが入った。
吐き気があることを訴えると、せっかく経口できるようになっていたのに、また点滴による水分の補給がなされ、医師と看護婦の言葉のマジックにまんまと騙されるような形で頭痛は治まっていった。
そんな折、見舞いに訪れたのは、伊藤房子。伊藤ベーカリーの奥さんで、亜美をパン屋へスカウトした人だ。
亜美の母親が失踪してしまったことを、伊藤ベーカリーの従業員で知らぬ者はいない。房子は亜美に対して母親のように接することがあるが、従業員すべての母であるような存在なので、それで、というわけでもなさそうだ。
ちなみに房子は息子、公男と亜美の交際を認めていた。当然、亜美への要求は日増しに多くなっている。アルバイト時分とは比べるまでもないが、仕事以外に教えられる事柄も多い。――しかたないことだ。亜美も理解して、愛のムチみたいなものだと思うようにしている。
この病院の面会時間は午後の二時から夜の八時まで。もう後三十分で終わりという頃だった。
亜美は起き上がってベッドの縁に腰掛け、房子と正対していた。
「すみません。ご迷惑をおかけしています」
房子は微笑んで首を横に振る。
「お母さん、失踪したんやなくて、亡くなってはったんやね。悔しいやろうけど、気を落とさんようにね」
亜美はしんみりとうなずいて、礼を言った。
「公男は朝も晩も忙しくしてるんよ。スイーツのほうは私が補助に入るようにしてるし」
「もう歩き回れるようになってますんで、私も来週には店に戻れると思います」
房子はゆっくりとうなずくと、言いにくそうに咳払いした。
「無理して急がんでもええんよ。じつは店番に一人募集してパートさんを雇ったんよ」
「そうなんですか?」
「そやし、亜美ちゃんは余計な気を遣わんでねぇ。健康が一番大事やしね。ゆっくり静養してくれたらええわ」
「はい。でももうすぐ退院できますし」
「ううん、無理はしたらあかんよ」
房子は微笑んで首を振る。長い息をついた。
「うちの店にも、話を聞かせてほしいって、しつこい人が何人か来るんよ。それで常連さんの間でも、だいぶ噂になってるみたいやわ」ため息を挟んだ。「もっと大きな所やと、またちょっと違ってくるかもしれへんのやけど、うちみたいな所の客層は、常連さんと学校帰りの学生さんばっかりやろう? いろいろ言ぅてくる人がおるんよ」
亜美の首が徐々に傾いでいく。呼吸が浅くなっていた。
「今、公男とお父さんが、あちこちで新規の交渉に出向いていってるの知ってるやろ? 大事なときなんよ」
房子は腰を浮かせて、亜美の腕をさすった。
「亜美ちゃんは何にも悪くないんやけどね」立ち上がってもう一度「大事なときなんよ」と言う。房子は腰に手をあてて続けた。
「当事者でもない限り、ちょっと違う事件が起こったらすぐ関心は移るけど、今はね。犯人は捕まってるし事件は解決したようなもんやろ」視線を宙に巡らせ、おどけるように言う。「二か月くらい我慢してたらええやろか……」
亜美はうなだれて返事をしなかった。
「――亜美ちゃん、一緒に住んでる男の人と、血は繋がってないんやってね」
亜美がパッと顔を上げた。その表情は硬い。房子は亜美の目を見て、すぐに撤回するように手を振った。
「体調のことでもいいし、これからのことでもいいし、何かあったら私に言いや。おばちゃん、相談に乗ったるさかいな」
「ありがとうございます……」
房子は優しい笑みを浮かべた。「ゆっくりしいや」病室を出ていった。
亜美は水を口に含み、しばらく考えてから、病室についている浴室に入った。シャワーを出してしゃがむと、途端に嗚咽が込み上げてくる。しがみついていた幹が痩せ細っていくような感覚があって、それが悲しいのか、悔しいのか、わからなかった。




