⑮
亜美が入院して二週間が経った頃。腸の風穴が塞がり、ようやく部屋から出られるようになったというのに、今度は刺された部分より少し上の胃に穴が開いた。亜美が痛みに耐えきれずナースコールを押したのは、二十三時からのニュース番組を小さな音量でこっそり観ていたときで、痛みを感じてから二十分ほど我慢した末のことだった。
この日のことを、後に彼女は最悪の日と呼んでいる。
その日の朝食後、暇潰し程度のリハビリを終えて戻ってくると、悠二ともう一人の男が廊下に立っていた。ここ何日かまったく来なくなって安堵していたのに、また警察の人かと亜美はうんざりといった様子で立ち止まった。
悠二が気づいて片手をあげる。その男が振り向いた。伊藤ベーカリーで接客した覚えのある顔だ。なぜ、ひと言「連れて来る」と言っといてくれない? 悠二にはそういう気遣いが欠けている。亜美はゆっくりと歩み寄っていった。
そういえば、悠二はすぐに気づいたと言っていた。なるほど、似ているのかもしれない、と亜美も感じた。お久しぶりです? はじめまして? まずは何と言っていいか思いつかなかった。
「どこ行っとんねん」まず口を開いたのは悠二だった。
「筋力が衰えるさかい、とにかく歩けって先生が言うんやもん」
「ああ、リハビリっちゅうやつか。ふ~ん。――亜美、ええっと、この人が藤原さんや」
悠二に指されて藤原はちょこっと頭を下げた。
「藤原さん、万年筆ありがとうございました。大事に使わせていただきます」
亜美の丁寧な物言いに、藤原は頭を掻いた。
「大変やったね。もう大丈夫なんですか?」
「はい、もう三、四日で退院です」
――沈黙。
悠二がアホの子みたいに、真ん中に突っ立って二人の顔を交互に見比べている。
「ええっと、とにかく元気そうで良かった。それじゃ仕事がありますので、今日のところは」
藤原は抱えていた花束を亜美の胸の前に差し出した。初回はさっさと退散するようだ。
「また会いに来てええかな?」
亜美はスッと悠二に寄って、言う。
「はい、パパがええって言うんやったら……」
「そう。じゃまた神田さんに都合を聞いてからにするよ。お大事にね」
藤原は笑顔で片手を上げ踵を返した。亜美は丁寧にお辞儀して、その後姿を見送った。
亜美がベッドに戻ると、悠二は見舞客用の椅子に腰を下ろすなり噴き出した。
「パーパ―て、お前笑わしよんのぉ。背中に寒イボできるやんけ」
「もぉ! いきなり連れて来んといてよ。私にも心の準備があるやんか」
悠二はおもむろに立ち上がって花瓶を取った。
「水入れ替えてくるわ」
「うん」
病室を出るときに肩を震わせながら振り返る。おもいきり馬鹿にした顔で言った。
「パーパ―って……」
「もお!」
亜美は手直に投げる物を探した。
悠二が出ていった後、亜美の表情がにわかに曇った。
藤原のことはもういい。元々いないことを前提に育ってきたので、自分のレールに交わらない人だと思うことが、想像していたより苦ではないと確認できた。
亜美が気にしているのは週刊誌の記事のこと。
アベベが持ってきた漫画も小説も読破して、暇でしかたなかったので院内をウロチョロとしていたところ、新聞雑誌のコーナーに置かれていたものだ。自分ことが載っているかも、と手に取ってパラパラとめくってみたら、本当に載っていた。
それにはグラッツェ安堂の階段を下りてくる悠二と女性の写真が掲載されていた。全体に白黒写真なうえに顔にモザイク処理が施されているが、知っている人が見たら、悠二以外の誰にも見えない。先に階段を下る女性は、自分じゃない。見覚えがない。おそらくこれが美紀という人だろう、と亜美は思った。
記事には安堂以外の名は伏せられている。亜美がひと気を憚らず声にして驚いたのは、大家宅の冷蔵庫から女性の遺体が発見されたという事実。そして、その遺体は七年ほど前から消息を絶っている、今回の傷害事件の被害者の母親である可能性が出てきた、という内容でさらに総毛立った。
悠二は花瓶に花束を無造作に突っ込んだ後、椅子に限界まで腰をずらして座っている。喋るわけでもなく、ただ腕を組んで目をつぶっていた。
「なぁ悠さん」
悠二がビクッとして目を開ける。寝ていたようだ。今は午前中。普段なら眠っている時間なのでしかたないか。
「週刊誌に書いてあったことってホンマなん?」
悠二はギロリと亜美を一瞥してから座り直した。
「見たんかいな……。まぁいずれわかることやし、隠しててもしゃーないことやけどな。――大家さんなぁ、二〇三号室にだけ盗聴器を仕掛けとったんやて。自分で口にするのも嫌やけど、俺に近づく女にニラミを効かすっていうか、許さんっていうか……」後頭部をガシガシと掻いた。
「婆ぁ幾つやねんって話やな。俺の親にも、くれぐれもよろしくって頼まれてる、とか何とか……訳のわからん供述を繰り返しとるらしいわ」奥歯を強く噛んで続ける。
「それで、雪さんを家に上げたときに、お茶を出すふりして、後ろから金づちで殴ってから首を絞めたんやて。――亜美を襲ったんは……まぁ、前の晩にお前が俺の部屋に来たやろ。あれを聞いとったんやろうな」
亜美は話を聞きながら放心していた。視界がぼやけているのが自分の涙のせいだと気づかなかった。
冷蔵庫から見つかった遺体が母だったらどうしよう?
ついでに、写真に写っていた、一緒にいた女性は誰だ?
そう言いたかったのだが、事はもっと進んでいた。
亜美が見た週刊誌は、先週号だった。




