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目隠しのブルーシートは外され、府警察の黄色いテープが大家宅の玄関のみに残されている。記者やレポーターが悠二のところへ押しかけて来ないのは、敷地出入り口に虎ロープが張ってあって(住民以外許可なく立ち入りを禁ず)とぶら下げてあるからだ。それは二、三日なのか、今日だけのことなのかは住民に報されていない。
美紀がグラッツェ安堂へ訪れたのは午後一時を回った頃で、いつもより化粧に気合が入っていた。門柱の虎ロープをくぐろうとしたところで、ちょっとイケメンの雑誌記者に声をかけられたそうだ。刺された女の子のことはまったく知らない、と言ってもしつこくしてくるので最初の好印象が反転してしまってむかついているらしい。
「周辺はもう静かになってる感じやったけど、ちょっとえらいことになってるやん」
美紀は座椅子で斜めに脚をたたみ、自分で淹れたコーヒーをすすった。その席は雪子から亜美へ受け継がれているが、元々同棲時代に美紀が選び、悠二が収まっている物とセットで購入した品なので、本来の持ち主が座っているだけだといえる。
「おう、なかなか面倒くさいことになってるわ」
「亜美ちゃん、痛かったやろうなぁ」
「あぁそれ訊くの忘れてたな。明日行って亜美に訊いてくる」
「そんな、予防接種で順番待ちしてる子供みたいなこと、やめときぃよ」
大家宅に二つある冷蔵庫のうちの一つから、女性の遺体が発見されたことについては、まだどこも報道していない。押収物がかなり大きな物であったということぐらいだ。いろいろな現場を取材してきたであろうベテランの記者なら、警察車両の台数やら雰囲気で感づいているか。
悠二は、発表があるまで誰にも言わないと美紀に約束させたうえで、遺体のことと盗聴器のことを話した。
美紀はベタにコップを落としかけて愕然とした。その反応は悠二の予想以上に険しい。そのショックが体の内面を跳ね回っているかのように、彼女はしばらく前後に揺れていた。
「盗聴器って……いつからやろう?」
「それこそ大家さんしかわからへんやん」
「――たぶんやけど、私がここにいた頃からやと思う。うん、絶対そうやわ」
「なんでや? そういえば美紀も大家さんのこと嫌いやったのぉ」
「うん。あ、亜美ちゃんもなん?」
悠二は苦々しくうなずいた。
美紀は考えるように顎の先をコリコリと掻いて言った。
「なんかなぁ、険があるっていうか、ときどきものすごい睨んでくるときがあったんよ。それも気分のええときに限って、ていうか……そうやわ! 悠ちゃんと喧嘩した次の日なんか、あのお婆ぁ、珍しくニコニコしとった気がするわ」
「趣味で盗聴してて、楽しそうにしてる奴、全部腹立つってか?」
「でも悠ちゃんは、そんなん感じひんかったんやろ」わかってないと言いたげに首を振る。「女限定で嫌ってるんちゃう? ……あっ」
美紀は何かに気づいたか思い出したようで、悠二から目を逸らした。
このアパートには亜美の他にもう一人だけ女性がいる。二〇一号室の住人。離婚したとかで独り暮らしだった。悠二は、そのでっぷりと腹の出たオバサンについても、大家を苦手としていたかどうかを知りたいと思った。
「そやけど亜美は、今日でここを出ていく予定やったんやぞ。――あぁ、これから頑張ろうって希望に燃えとる奴も嫌いってか……。それにしても、いきなり包丁はないよなぁ」
美紀は悠二を訝るように窺うと、緩やかにうなずいた。
その後、二人は当たり障りのない会話をしながらテレビを観ていた。
世間ではGWが始まっている。それでニュース番組は高速道路の渋滞状況から始まった。さっそくの交通事故で、レポーターが現場の状況を興奮気味に伝えている。その後スタジオでは、芸能人の不倫問題について、まったくの他人が怒って意見を述べていた。このアパートで起こった傷害事件のことは、二分ほど現場の状況を伝えるだけに留まっていて、続報が入りしだい伝えるということだった。グラッツェ安堂の名は伏せられている。
「私、実家に車で帰ってきてんのよ。明日から仕事やし、そろそろマンションに帰るわ」
美紀個人のGWは今日で終わりらしい。立ち上がってぐるりと部屋を見渡すと「亜美ちゃんのこと、ちゃんと見てあげぇよ」と言う。
この一か月の間、美紀はしゅっちゅう電話を寄こしていた。そのことから、今晩は泊まっていくような気がしていたので、悠二は肩透かしをくらった。
一人で部屋にいたところでどうしようもなく暇だろうと考え、悠二も立ち上がった。パチンコ屋へ行くしかない、と思った。美紀を見送った後、さっそくパチンコノートの考察に取り掛かる。
その作業中、悠二はふと気づいた。
安堂に盗聴されていた。
亜美が刺された。
冷蔵庫の遺体は雪子かもしれない。
その三枚のカードを前にして、どうしてこんなにも冷めていられるのか? 自分がわからなくなっていた。
アベベという子は口悪くしながらも、亜美を本当に心配していた。たぶん明日も見舞いに行くだろう。それに引きかえ、自分はどうだ……。たしかに腰を抜かすほど驚いた。が、いまだ安堂を罵る気にはなっていない。何か手違いがあって、偶然包丁が刺さってしまったような感じが頭の片隅に居付いている。
ノートの数字と安藤の姿が目の前でふわふわと浮遊して、何も考えがまとまらない。亜美の本当の父親である藤原に連絡をとって、そのリアクションを学んでみようかと思いついて微笑んだ。悠二はノートを閉じた。パチンコを打ちたくてしかたなかった。
美紀はカツカツと歩きながら、悠二と亜美のことを考えていた。その想像は邪なもので、考えれば考えるほど腹に据え置きかねるものだった。
彼女は駅を越え、噴水広場の中ほどで声をかけられた。見ると数時間前にアパートの出入り口でしつこくしてきた雑誌記者だったので一旦は無視して歩き続けた。
「刺された女の子の母親が、数年前に失踪していますよね」と言われ、美紀は脚を止めた。
するとその記者は、打って変わって人懐こい笑みを浮かべて言った。
「そこの喫茶店でコーヒーでもいかがですか? ケーキも美味しいって評判ですよ。そうそうお話をうかがわせていただけるなら謝礼の準備もございますが」
美紀は一瞬目を逸らしてから、うなずいた。
二人は噴水公園わきにある(ココフラ)という喫茶店へ入っていった。




