⑫
「神田さん、大丈夫ですか? まだ雪子さんだと断定されたわけではないんですよ」
刑事は悠二と目線を合わすようにしゃがんだ。
面白いほど足腰に力が入らない。悠二は一旦正座のように座り直して、しばらく自身の体に訊いていた。
「それで、写真……」
「いえ、照合のために欲しいんじゃないんですけどね。女性の遺体は冷蔵庫にありましたが、冷凍保存されていたわけではないので、だいぶ腐敗が進んでいました」
ゾクゾクと首から背骨へ震えが走る。
腐敗……。ホラー映画では大丈夫でも、知り合いの、それも惚れていた女の腐乱死体は見るに堪えないだろう。そんなのはヘッチャラだと、ただの映像を観て豪語する者も、実際に腐敗臭が鼻を突いた途端に吐くらしい。
「――俺が、身内が見てもわからへんくらいですか?」
「ええ。そんなレベルではなかったですね。衣服の類はありませんでしたし、死因も身元もまったくわかりせん。あくまで可能性ですから気を悪くせんでほしいのですが、お嬢さんに協力してもらって、DNA鑑定が必要でしょう」
悠二は立ち上がろうとした。刑事が腕を添えて、悠二を支えた。
尻と太腿をこぶしでトントンと打っていくうちに、ひとつ思い出したことがある。
「雪さんがここへ越してくる日に、ちょうど大家さんの家に新しい冷蔵庫が届きました。ぜんぜん関係のないことかもしれませんのやけど……。朝から待っていた引っ越し業者が、やっと来たと勘違いして表に出ていったんで、よぅ覚えてます」
「そうですか。ではそれも確認しておきましょう。とすると、そのときにはもう計画してたんでしょうかねえ。――失礼、まだ雪子さんだと決まったわけではないですけどね」
悠二はうなずいたが、内心では雪子に違いないと諦めている。おそらくこの刑事もそうだろう。
「クソッ」と後頭部をザリザリと擦り「亜美」と呟いた。それを亜美に伝える役の人を募集したい、と思った。
「いちおう、この部屋の電話番号も教えといてもらえますか?」
壁掛けの固定電話を差した。
「あ、それは備え付けの物で、今はもう解約してますねん。連絡はこの携帯で……」
ポケットから出てきたのは、亜美の携帯電話。(あ、持って帰ってきてしもた……)もう片方の手で逆のポケットをあさっていると、亜美の電話が鳴った。
「え? あぁすんません」
サブディスプレーには阿部頼子とある。知らない名前だがとりあえず出てみると、
(ういうい~す。亜美ぃ、今電話大丈夫ぅ?)と、大きな声がした。
聞き覚えのある声に「いや、俺や」と応える。
「ありゃ、悠さん? 何で?」
悠二はアベベに搔いつまんで説明して、ここへ来てもらうよう頼んだ。亜美がしばらく入院となるので、着替えやなんかを気のおけない者に手伝ってほしかった。悠二も大家宅の件が片付けば、もう一度病院へ行くつもりでいる。どうせこの刑事も、亜美から話を訊くために行くだろうが、悠二は原チャリで向かおうと考えていた。
それを刑事に伝えると、表もの者に伝えておく、と言って部屋を出ていった。
亜美は手術後すぐに目覚めて、医者からの問いかけに応えていた。
記憶の混濁はなく、二〇三号室を出て安堂に襲われ、救急車で病院に運ばれたことまですべて理解していた。安堂の、普段通りの小馬鹿にしたような目と、あまりにすんなりと入ってきた包丁を、鮮明に覚えている。わからないのは、なぜ安堂に刺されなければならなかったのか、ということだけだった。
「やっぱり血は争えへんわね」
あのとき安堂はそう言って微笑んだ。
倒れた自分を見下ろす目は焦点が合っておらず、細かく激しく揺れていた。
それから、突如大きな体が立ちはだかり安堂の姿は視界から消えた。救急車を呼んでくれ! と叫ぶ悠二の声が、耳からだけでなく、包丁からも体に伝わっくるようだった。
携帯電話に「グラッツェ安堂!」と怒るように言っていたおじさんは一〇三号室の住人だった。場所を告げているのだと一瞬わからなかった。彼もまた悠二の怒号に腹を叩かれたうちの一人だ。
「……だから田代さん、気を楽ぅにして楽ぅにして、ゆったりゆったり休んでね。若いし、すぐに退院できるようになりますよ」
催眠術をかけるような言い回しと、独特なリズムで喋る看護婦さんのせいで、亜美はまたすぐに眠ってしまった。
次に物音で目覚めたとき、また同じ看護婦さんが部屋にいて、喉が渇いたと声をかけると、急須のような形をした吸い飲みを口にあてがってくれた。
「さっきまで伊藤さんって方が見えていたのよ。パン屋さんなんですってね。ナースステーションにケーキをどっさりと置いていって下さったの」
亜美は返事をする代わりに苦笑した。こんな所でも営業活動か……。
「また来るので起こさなくていいっておっしゃるから……。そうそう、あの方の体型が気になったので、メディカルチェックをお勧めしたんですよ。そしたら、逃げるように帰られたわ」
今度は声に出して笑った。それだけでお腹に引き攣れる感覚があり、忘れていた患部の状態が心配になってくる。
「田代さんの恋人?」
亜美はコクッとうなずいた後、気恥しそうに目を閉じた。そして、看護婦さんが出ていくと、ゆっくりと呼吸して、また眠りに落ちていった。




