⑨
亜美の荷物の中の電話が鳴っていた。
悠二は刑事にひと言告げて、病院の外へ出た。着信歴には伊藤公男とフルネームで表示されている。亜美が五時になっても出勤してこないのだから当然か。
さて、どう説明すればいいものだろうと考えながら、悠二はかけ直した。しかし、今度は向こうが出ない。携帯電話のメモリーをあさると、伊藤ベーカリーの電話番号があったので、そちらにかけた。
応答したのは伊藤の奥さんで、亜美が入院することと、病院名を伝えると、息子の名を大声で呼んでいる。これでおそらく北極熊が飛んでくるだろうな、と思うと気が滅入ってきた。
電話を切って振り返ると、救急搬送口の脇に刑事が一人だけ立っていて、何のサインなのだか、悠二に向かってうなずいた。病院内へ戻れと命令されたような気がして、こちらも気が重い。
手術室のほうへ戻る途中はお互いに無言だったが、通路の端にあるベンチに腰掛けるや否や、聴取は再開された。
さっきも言ったようなことをまた訊かれて、悠二は憤懣を露わにした。
安堂はその場でへたり込んでいるところを逮捕されている。これ以上なにが知りたいというのか。合流したもう一人の刑事にメモを取っている様子はなく、ただ手帳を開いて頭を掻いている。
「安藤小津江と亜美さんの仲はどうでしたか?」
亜美が大家さんを一方的に嫌っていることは知っているが、それで、どうして刺されるまでになるのか、と質問に答える前に、悠二の思考は先行する。
「どう言ったらええんか……」と言い淀んで「理由はよくわからへんのですが、亜美が大家さんを苦手としていたことは、まぁその、あります。そやけど大家さんは、ただの大家さんですし、お菓子とか野菜をいただくこともありました。ええっと、それでとくに言い争いになったとかはないです」
悠二は職務質問にしょっちゅう遭う。警察に対する苦手意識は人一倍で、雪子の失踪届を出しにいったときの、向こうの対応以前から、その不満は細々と募ってきていたものだ。
「そうですか。あ、終わったようですね」
主に会話を担当していた刑事が言って、悠二は振り向き立ち上がった。
一人は悠二とともに執刀医に歩み寄り、もう一人はちょうどかかってきた電話を取って、足早に一階へ下りていった。
亜美はまだ手術室から出て来ない。執刀医から説明があるというので、悠二は後ろ髪を引かれながらも、ついていった。
「娘さんの容態については別条ありません。大丈夫です。今は麻酔で眠っていますが、すぐに目を覚まされるでしょう」
ここで、亜美は娘ではないと訂正することに意味はない。なぜかピタリと横に着ける刑事は、おそらく知っているだろうが、そちらは気にせず、悠二は丁寧に礼を言った。
「今日、明日と経過を診て、だいたい二十日ほどで退院できると思われます。ただ、刺されたということなので、心的障害が出るかもしれませんので、精神科医のほうへも連絡しておきます」
「そ、そうですか」
そういうことに気が回らなかった。さきほど刑事に訊かれた、安堂と亜美の関係についてずっと考えていた。たしか、雪子も安堂を苦手としていたような気がする。……思えば、美紀もそうじゃなかっただろうか?
悠二は深々と頭を下げて、診察室から出た。
刑事は医者に訊きたいことがあるようで、そこに残った。
そこへ足早に戻ってきたもう一人の刑事が、悠二を呼び止めた。
「あ、神田さん、うちの連れは?」
「まだ、中ですよ」
親指で今出てきた診察室を差す。
「車でお送りしますんで、少し待っていてください」
その刑事は診察室へ入っていった。そして、すぐに二人で出てきた。
「車でお送りします」ともう一度言う。
「亜美と会ってから、ゆっくりと歩いて帰りますよ」
「いえ、神田さんの部屋を調べさせてほしいものですから、すぐにでもご同行いただきたい」
悠二は唖然として目の前の二人を交互に見やった。言葉は出なかった。




