⑥
悠二が出掛けていった後、亜美は一人立つのでやっとという物干し場へ出た。
そこから見える家並の窓は皆明るい。ちらちらとしているのはテレビ。一家団欒と無縁だった彼女は灯りの密集が好きだった。夜景スポットが好きだというのとは、また少し違ったふうに、彼女は長い時間そうしていられる。苦手とする虫もまだ飛んでいないようだ。ほとんど風がなく寒さは感じない。時折、救急車が通っていくが、だいぶ遠い。静かな夜だった。
亜美は、自分も忘れていたような預金通帳を渡されたことに驚嘆していた。父親の話にはもちろん驚かされた。が、今は悠二のことで頭がいっぱいだ。
悠二がいまだ独身なのは、定職についていないことが原因だし、そもそも本人の結婚願望の希薄さに問題がある。それは間違いないが、自分の存在も大きく関係しているに違いない、と亜美は思っていた。
悠二の人生を狂わせたのが、雪子であり、自分であるという考えが頭から離れない。明日からは向こうで寝起きする。ここを出ていくからといって元通りになるというわけでなし、費やした時間と労力は彼に戻ってこないのだ。
雪子が失踪した時点で、悠二は自分を放り出すことができた。彼がそうしなかったのは、自分があのとき、しがみついて泣き叫んだからだ。思えば、あれほど感情を表に出して必死になったことはなかった。今さらながら恥ずかしさが込み上げてくるようだ。
そんな経緯で手に入れた場所から、世話になった、の一言で巣立っていいのだろうか?
それはあまりに自分勝手ではないだろうか?
これで独立するといえるのだろうか?
無償の愛……。そんなものはないと思っている。そもそも悠二は父親ではない。
たしか以前にもそんなことを考えたことがある。中学三年、夏の終わる頃だ。
学校の先生から高校受験の話が頻繁に出るようになってきて、割とのんびりした友人からも、その話題が振られるようになっていた。猫も杓子も高校進学ぐらいする昨今。とはいえ、義務ではない。親に行かせてもらうのだ。普通の家庭とはいえない立場にいる身としては、大いに耳障りな話題だった。
「お前なぁ、高校ぐらい出とけよ」
「高校? 高校なぁ……」
「近所の公立でええやんけ」
「ああ、あそこなぁ。あそこの制服ってあんまり好きとちゃうねんなぁ」
「服で選ぶな。それと、受験チャンスは一校だけやからな」
「ええ! 厳しいわ」
悠二にどんな思惑があったのかはわからないが、向こうからそう言ってきたので、半ば諦めていた受験勉強を始めた。そのときはぞんざいな物言いで返答したが、嬉しくて堪らなかった。
亜美は部屋の中に戻って梅昆布茶を淹れた。胸の内に、ある計画を思いついて、私物の整理に取り掛かった。前日になってバタバタとするのは、いつものことだ。
亜美の荷といえば、ほとんどが衣服。もう着なくなったものも多い。
しかし、これはなかなか捨てにくい。流行りには周期があって、あと何年かすればまた着られるようになるはず、という説を信じている。すべて持っていくわけにはいかないが、かといって亜美の場合、実家で保管しておいてもらうという手が使えない。
彼女は断腸の思いで、値段よりも新旧を考慮して断捨離に挑む。
そして、ゴミ袋行きと、リサイクルショップ行きをだいたいまとめ終った頃、悠二が帰ってきた。
開け放していた部屋の戸口に立ち、悠二が言った。
「お前、ええ加減にしとかんと、また起きられへんなるぞ」
見ると、時刻は二十三時を少し回っている。
うんと返事して、顔が赤らんでいくのを感じた。
片付けの最中はそれに没頭できていたのに、悠二の顔を見てまた思いがぶり返しくる。早速布団を敷いてもぐり込むまでは普段通りだが、まったく寝付けなかった。こんなときはなにをしても無理なものだ。羊も犬も猫も効果はない。
明日さえ乗りきれば、明後日は休み。引っ越し作業云々が待っているとはいえ、眠気がくれば短時間でも集中して眠れるだろう。大丈夫だ。
亜美は何度か寝返りをうってから、喉を潤すために部屋を出た。
悠二はまだ起きているはずだ。自分には梅昆布茶、悠二にコーヒーでも持っていってやろうと思った。「さっさと寝ろ」と追い払われるだろうか。
ところが、リビングの灯りが消えていた。普段なら亜美が出勤する頃まで怪しいノートとにらめっこしているはずなのに。そのいつもの悠二がいない。
亜美は逡巡した後、覚悟を決めて、悠二の部屋の前に立って声をかけた。




