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 ③

「亜美、こんなとこでなにしてんねん?」

 まずは悠二が口を開いた。

 悠二はそう言うが、見ればわかるだろうし説明するまでもない。それよりも、亜美はメールを送ったことを告げた。

「メール?」探すようにポケットを叩いている。「あぁケータイ、部屋に忘れてきたわ」

 悠二の単純すぎる行動パターンは知っている。メールを送信したのは午前中なので、部屋に携帯電話を忘れてきたこと以前に、出掛けになんのチェックもしていないことを責めた。

「ヌハハ! まぁまぁ亜美ちゃん」

 今度はファイヤーダンサーに肩をガシッとつかまれた。

「カンちゃんのそういうとこは、よぅわかってるやろうに。――伊藤さんとこの旗が立ってたし、なんとなぁく面影があったもんやさかい、カンちゃんに訊いてみたんや。当たりやったなぁ! 亜美ちゃん、ワシのこと覚えてるか?」

 松明(たいまつ)を操り続けて十二、三年とおぼしき肉厚の手が、肩から二の腕にかけてドシドシと攻めてくる。その威圧的な態度と笑い方で、頭に浮かんだ光景があった。

「はい、あの、薄らとですけど」恐々と清を見上げて、すぐ伏せた。

「ほな、オッチャンのことも覚えてるか? ユキちゃんと仲良ぅしてたんやで」

 コンビニの店長が、悠二と清の間から顔を出した。それは夫婦岩に朝日が昇るようだった。

 亜美の脳裏に二つの記憶が滲み出てくる。それは小学校の修学旅行で行った三重県の海岸と、どこかお酒を飲むような所で、大人たちに囲まれている光景。


 悠二に連れられて上った階段の先に、きつい香水をつけた女性がいた。そこで大人たちにいろいろと質問された。そして、母の邪魔者から、悠二の厄介者になったと気づかされた。そのときは、なぜだか絶対に泣かないでおこうと、頑張った。自分の頭上に飛び交う会話に押さえつけられるようで、居堪れない感覚をあの場所で味わった。忘れられるわけがない。亜美は腹のそこで眠っていた(おり)が動きだすような感覚を味わっていた。


「……そや、カネやん、コーヒーでも奢ったるわ」

 清は、悠二に謝るように手刀をあげると、金田の肩をつまむようにして、店内へ戻っていった。

 悠二も片手をあげて苦笑いで清たちを見送った。

 振り返ると「亜美、パン屋さんの顔やないな」と、微笑みながら亜美の強張る頬にペチッと触れた。

「ほんでお前、今日は何時ごろに終われんの?」

 ハッとして、それに答えながら、悠二に触れられた部分が熱くなっていくのを感じていた。

 悠二の胸板がぼんやりと目の前にあって、膝に自分だけが感じるくらいの震えがあった。小学生の頃のように、あそこに寄りかかりたい。しがみつきたいという衝動に駆られていた。こちらの体重は増えたけれど、悠二は、図体だけは立派なので、今でも自分を受け止められるだろう。そんな妄想が頭上をゆっくりと流れていく。足の親指に載る自重(じじゅう)で、前のめりになっている自分を認識した。

 しかし、寸での所で亜美は踏ん張った。

 悠二の手から一歩下がり、気を改めて強く持った。やっぱり駄目だ。止めておこう。気恥しいし危険だ、と思う。悠二は場の空気を読まず、サッと避けて足を引っ掛ける、といったマンガみたいな行動を平気でする人だ……。地面を踏みしめる足裏の感覚を確かめながら、幾度か屈伸をした。


 そうして顔が冷えてくると、これはなにかあるな、と勘ぐり始めた。悠二が帰宅時間を尋ねてくるのは、極めて珍しいことだからだ。

 脳裏には、赤いリボンのついた箱がハッキリと浮かんでいる。あれが、どんなにセンスの感じられない物であろうと、自分がどんなに疲れた状態であろうと、開けた瞬間、大袈裟に喜んであげよう、と亜美は早くも心の準備を始めた。



 悠二には、亜美が嫌なことを思い出して暗くなっているのだと思った。

 かなりの身長差があるので、お互いに立った状態で亜美にうつむかれると、彼女の顔色が窺えない。嫌なこというのは、もちろん雪子がいなくなったときのことで、二人にとっての大事件だが、心障は亜美のほうが大きい。そう思ったので、この場をどうやって和ませようかと思案した。

 そこへ、公男の声がした。

 亜美は公男に目をやって狼狽えてしまう。


「亜美ちゃん、今後の打ち合わせも済んだことやし、今日はもう引き上げようかぁ」

 方向音痴の公男が、店舗の東側出入り口から遠回りして戻ってきた。「あ、お客さん?」

 悠二にしがみつかないで本当に良かった……。しかし、まだ嫌な予感はする。マズい状況に変わりないと思った。

「どうぞ、ゆっくり見ていってください」

 公男はそう言った後、あれっと両眉を上げた。「あぁ、よく店のほうに買いに来てくれはる、お客さんですね。毎度どうも」首だけでお辞儀をする。

 亜美は、公男に背を向けて悠二を見上げ(いらんことを言わんといて)と、目配せで懇願した。

 悠二はそれにうなずいてから「こいつ、ちゃんと真面目にやってますのん?」と言う。

「ゆっ」悠さん! と言いかけて、亜美は歯を剝いて睨んだ。

 ん、どうした? と間の抜けたような表情をする悠二は、彼女の頭をポンポンと撫でた。

「湯? 亜美ちゃん、知ってる人?」

 亜美は公男へ向き直って、言った。

「優良なお父さん(みたいな関係の人)です」

 悠二はやっと察して、亜美の肩に手を置くと「えっと、どうも優良なお父さんです」と繰り返した。

 亜美が肩に置かれた悠二の手に手を添えて、爪を立てる。


 彼女の境遇を説明する場合、悠二と雪子が婚姻関係にないという事実が話を難しくしている。誤解と偏見に晒されることよりも、悠二は説明するのが面倒くさいという思いのほうが強かった。

(履歴書とか、出してへんのかよ?)

 悠二は亜美を全面的にバックアップするわけではないが、彼女の立場を悪くするつもりもない。

 この二人の態度を見ていれば、普通、なにかしらを感じるはずだが、公男は「そうでしたか!」と、急に鯱張(しゃちほこば)って、悠二に深々と頭を下げた。


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