②
軽バンによる外営業は、パチンコ店舗の南出入り口側に車二台分のスペースを間借りして始まった。
亜美は軽バンの後ろのハッチを開けて、パンを並べ直していた。ベーカリー店舗内の販売とは違い、一つ一つのパンがビニール袋包装されているので扱いやすい。彼女の作業は一瞬で終わってしまった。
「ここのお客さんのニーズを知りたいさかい、売れたやつのチェックをしといてな。明日からどんなのを並べたらええか、の参考になるし。あと、もし何か要望があったら、それもメモっといて」
そう言い残して、公男はパチンコ店の中へ消えていった。そして、未だ帰ってこない。
未だと言えば……まだパンが一つも売れていない。
初日から公男の落ち込む姿は見たくないが、パチンコ屋店内の販売許可は貰っていないので、売り込みに行くこともかなわない。思い切って、店から出てくる人に声をかけているが、ただ一瞥されるだけに終わっている。中には睨みつけてくる人もいるので、声かけもだんだんと億劫になってきていた。
しかし暇だからと、車の助手席で寝るわけにはいかないし、ここを離れて、目の前の本屋へ行くなんてことは以ての外。彼女は時折パンの配置を弄っては、軽バンの周囲をぐるぐると回っていた。
(お腹が減ってへんって言うたかて、一個くらいは入るやん。アベベやったら、いっぺんに六個はイケるんやで。悠さんなんか、食パンになんにも塗らんと、両手で圧縮して飲むように食べるんやから。もぉ、食べんでもええし、買ぅてぇな)
手前の都合を押しつけるような言葉が次々と出てきて、我に返った。目が吊り上がってないかと、顔を両手で挟んで揉んだ。
そうしていたところ、一人二人と客が来始めて、今度は急に忙しくなった。レジスターがないので、亜美は電卓を叩いて接客に追われた。
ちょうどそこへ公男が帰ってきて、二人は協力して一つの波を乗り越えた。その大波が一つあって、後はさざ波程度が続いている。さざ波の人たちにパンが売れることは稀で、ただ世間話をしに来る冷やかし客がほとんどだった。そのうちの一人に、やたらとスカートの短い美人がいて、三人は挨拶を交わした。
その女性は、店内でドリンクの販売をしている会社の売り子さんで、パン屋としては共存共栄の間柄になるはずだが、亜美は敵愾心を抱いた。公男の鼻の下が長めなっているせいだけではない。冷暖房完備の店内販売員から、憐憫の混じったような目で見られたような気がしたからだ。
たしかに考えてみれば、今日は天気がいいのでまるで不自由は感じていない。しかし、梅雨の時期なんかには、本当にどうするんだろうか、などといった不安がよぎる。きっと店内から覗くと、自分が軽バンの前に捨てられた子犬のように映るのではないのか。目を伏せてその図を想像してみると、やはり屋内外の差は歴然としている。
売り子さんが戻っていった後、亜美はスライドドアを開けた所に腰を下ろし、空を見上げて嘆息する。
そんな彼女に、公男は、
「店内放送をしてもらったねん。いきなり混んできて、びっくりしたやろ」
とニヤけ顔で言う。味と量に対しての価格などが問われるのは一週間後くらいのことで、今日のところはこんなものでいい、と続けた。
その後も、公男は方々に電話をかけていた。亜美に謝るように手刀をあげて、またどこかへ歩いていってしまった。販売に専念できる亜美とは違って、店長はずいぶんと忙しそうだ。只々感心させられる。やはり公男は頼れる男だ、と改めて思った。
だが、パチンコ店側にいくら握らせれば、わざわざ放送で宣伝してくれるのか、などの話が出てこないことで、多少の不満を感じている。それくらいは、尋ねれば教えてくれるかもしれないが(亜美ちゃんは、そんなこと気にせんでええんよ)といったニュアンスの返答を恐れた。
そんなことで亜美は仕事中、よく自分の不甲斐なさを認識する。それはキングたちといるときもそうだし、家に帰ってからもそうだ。どの場でも、自分が誰かのお尻からぶら下がっている尻尾のようで、なんともやるせないのだ。彼女は諦め半分で、毎度自分のキャラクターを守っている。
亜美は、母親が自分を捨てたと悟った瞬間、悠二にしがみついて児童養護施設行きを拒んでいた。そこがどんな所で、自分がどうなってしまうのか、という不安から、悠二を選択したのだ。ただ怖がっていたわけではない。そこには、明らかな自己保身による計算があった。
とりあえず、今日も家族経営のいち従業員でしかないと再認識。その交渉に参加できるのはいつの日のことか、と口を尖らせて、無機質で巨大なパチンコ屋を眺めた。
冷やかし客すらも途絶えて暇を持て余していたとき、亜美は三点倒立をしながら開脚して、歌を歌っていた。
これは彼女なりのストレス解消法なのだが、現在この技は封印している。一度悠二に目撃されてしまって、そのときにものすごく笑われたからだ。なので、彼女の頭の中だけの行動である。
それで見た目は普通に座って、流行りの歌を口ずさんでいると、店内の音楽がブワッと大きくなった。彼女はすぐに反応して、腰を浮かせた。
店から出て来たのは、悠二よりも背が低くて、公男よりも細身ながら、大きくて強面の男。いつかテレビで見た、タヒチ・モーレア島のファイヤーダンスをしていた男に似ている、と思った。
彼はスマートフォンに対して怒鳴るように喋っている。
(え、ヤクザ? ……恐そう&パンを買わなさそう)
そう思いながらも、亜美はその男が気になっていた。じっと見つめる。
彼女がそうしていると、視線を感じたのか、男が突然こちらを向いた。
亜美は咄嗟に目を逸らした。
そのとき頭に浮かんだのは、ジャングルで虎と出くわしたときの対処法。――けして背を向けて走り出してはいけないのだ。亜美はゆっくりとぎこちない笑顔を上げた。それから、パンを並べる振りをして、なるだけ自然に顔を背けた。
背後から男の電話する声が聞こえなくなったのと、店内の音が一瞬大きくなったことで、男が戻っていったとわかる。じっと見られていたような気がしてならなかったが、とりあえずはホッと胸を撫で下ろした。
ところが、その男は十分と経たないうちに、また店外へ出てきた。しかも今度は、悠二と駅近くのコンビニの店長を連れ立っていた。




