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 第三章

「ほな、一息入れてください」

 今年から新たに店長となった伊藤 公男(いとうきみお)は、二人の職人に声をかけた。

 彼らは各々が腰を揉んだり叩いたりしながら、通用口から出ていった。この二人は親父の代より、ずっと伊藤ベーカリーを支えてきた従業員だ。公男がわざわざ指示しなくても、時間配分は心得ている。

「オトンも、そろそろ一服しよ。車の積み込みは手伝うし、もうちょっとしたら配達に行ってや。オカンは店を頼むな。外販のことがあるし、今日は早めにシャッターを開けるわ。亜美ちゃんは、それが終わったら先に長休憩に入って」

 公男は、窯の熱で赤らんだ顔で汗を拭いながら、あぁと声に出して唸った。

 パン工房を仕切る息子を頼もしく感じているのか、伊東夫妻は「んっ」と短く応えて従った。亜美は「はい」と返事して、できあがった商品の陳列を急いだ。

 亜美がトレイと商品名、値札の位置を確認しているところへ、公男がやってきて言った。

「えっと、それで亜美ちゃんは、十一時頃から僕と外販に出よか」

「私も行くんですか?」

 話を聞きながらも、亜美は工房へ戻って行った。次のトレイを抱えて忙しく行き来する。


 伊藤ベーカリーでは、今日からパチンコ屋の駐車場の端で、菓子パンの車内販売が始めることになっている。

 この店の規模で、配達だけならまだしも外販一か所に二名の人員を割くことはあり得ないが、初日だけは、看板娘を連れていくことにしたようだ。

 亜美にとって、外回りは比較的好きな業務だった。今いち彼女が乗り気になれない理由は、行先がパチンコ店という一点だけ。

「亜美ちゃんも車の免許を取ったら、一人で外販に行ってもらわんとあかんしね。どんな感じになるか、様子を見といてほしいんやわ」

 うんうんと首で返事をして、亜美は階段を上っていった。

 彼女はこれからシャワーを浴び、仮眠を取って、顔に化粧を施す。階段をいく足取りがやや重いのは、先の理由に加えて、まだなに一つ独りでできないという気後れからだ。

 公男は亜美の後ろ姿を目で追っていた。

 納得したようにうなずいて「ヨシ!」とわざわざ声に出し、やる気を(みなぎ)らせた。


 固定店舗配達以外に、街頭販売を始めると言い出したのは、新しく店の代表になった一人息子の公男だ。新顧客の獲得に躍起になっていた。店を繁盛させて、二号店をオープンさせる。その店舗はここより大きく構えたいし、従業員も増やしたい。自分が店長になってから店が大きくなった、と周囲に言わせたかった。

 公男は常連客から「息子さん」と、呼ばれるのを嫌がっていた。親父から店長の座は譲られたが、やはりこの店は両親のものなのだ、という思いが拭えない。両親や他の職人、常連のお客さん、そして亜美に認められたかった。それで、兎にも角にも自分の城を欲していた。

 一方、伊藤夫妻は、息子が今〈その地点〉にいるのだな、と夜な夜な寝室談議を繰り返している。遠からずやって来るだろう、公男の挫折する姿を二人で憂えてのことだ。

 美味い物を作れば儲かるという単純な発想で、息子は先走っている、と。それは伊藤夫妻も通ってきた道だった。かつて自分たちが先代に言ったそのままの台詞を、今度は息子から訴えられている。それで夫妻は、製造と経営のバランスの話を持ち出して、消極的な忠告をしていた。

 しかし、やがては公男に勢いに折れることになった。海外で学んできた公男は、自分たちとは違うかもしれない、と夫妻も期待をするようになっていった。そして一旦店の方針が決まってしまうと、今度は父のほうが積極的になった。私立高校の購買にもぐり込もうと、地元の有力者に掛け合ったのも、父だ。

「息子さんは、ほんまあんたにそっくりやな」

 と、いろんな人に言われていた分、夢を託すような気持ちになっているようだ。


 亜美は微妙な立ち位置で、双方からそれぞれの思惑を聞いていた。だから、公男が一人で成し遂げたい、と思っていることを知っている。父親をライバル視している公男からすれば、父の行為は息子の反発を強める。しかし、自分の立場で夫妻に意見するのはどうか、と遠慮していた。実際、売り上げは伸びているらしいし、忙しくなったという実感がたしかにあった。これで公男のどこを心配しているのか、と亜美の考えは公男寄りだった。どのみち自分が進言したところで、夫妻と公男は大人な対応をするだろうが、なんだか二重スパイみたいで嫌だというのが正直なところ。結果、彼女なりの熟慮沈黙だ。


 亜美は三階から着替えを取ってきた。

 工房の裏手にあるシャワー室でサッと汗を流すと、また三階の休憩所に上がった。

 そこでまずは目覚まし時計をセットする。それから、携帯電話をトートバッグから取り出して、パイプフレームの簡易ベッドに腰掛けた。メールのチェックをしているときに、亜美はふと思いついた。すぐに悠二の電話番号を押して、しばし呼び出し音に耳を傾けた。

 留守番電話サービスになったところで「もぉ!」と、電話を切った。メールへ切り替えて、

〈こちら亜美。悠さんどうぞ。今日から、アルファでパンの車内販売開始。出会うと面倒やし、買いに来たりしないでちょんまげ〉

 と、素早く打った。

 ん~と口を尖らせて〈出会うと……〉以降を削除し〈わざわざ来んでええで〉に変えて、送信。ドサッと横になる。

 じつは昨日、亜美は公男の母親にわざわざ起こしてもらって、その後に少々叱られている。起きられなかった原因は、徹夜の女子会。それは疑いようがない。そんな失態を二日連続でするわけにはいかない。

 亜美はもう一度携帯電話を取って、アラームをセットした。昨晩は良く眠ったし、目覚ましも二段構えだ。それでやっと彼女は掛け布団を首まで引き上げた。


 ところが、目を瞑ると、今度は昨夜のことが気にかかる。

 悠二が部屋の前で喋っていたこと――。誰かと電話していたのかもしれないが、自分が呼ばれていたような気がしている。とにかく、寝入り端のことで記憶は曖昧だった。用があるとすれば、おそらくは卓袱台に置かれていた箱のことではないか? それのことしか思い当たらない。自分へのプレゼントか、と手に取ったほどなので、気にはなっていた。

――亜美はリボンのついた箱を手に取った後、匂いを嗅いで耳元で振っていた。

 早速開けてみようとリボンを解きかけて、手が留まった。〈美紀〉という女の名前が頭に浮かんだからだ。亜美は誰かへのプレゼントをだいたい同じ場所へ、同じ角度で戻しておいた。興味すら湧かなかったかのように見せかけるためだ。

 美紀という人物がどこの誰なのかということを、亜美は知らされていない。一度だけ、悠二の入浴中に着信があって、携帯の画面にその名が出ていた。良くないことと承知で、そのときの電話に出ていれば、このモヤモヤも少しはマシだったか――。

 あの箱については、今夜にでも尋ねれば解決する。些細なことを気にするよりも、今は眠ろう、と寝返りを打った。

(でも、あれが無くなってたら、どないしょうかなぁ)


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