㉗
安堂は話を聞き終えると、お茶を啜り、自前のハンカチを口に当てた。口角がつっと上がったと思えばまた下がり、痩せた瞼を微細に震わせながら閉じていた。
「まぁ、それで良かったやないの。亜美ちゃんが自分で考えてそうしようと決めたんやったら、誰も反対はでけへんわよね」
予想通りの言葉が返ってきて、キングは不承不承うなずいた。亜美と一緒に暮らすという話が反故にされている、とツッコんだところで、安堂にはもう一度、同じ台詞を言われるだろうと思った。
無難に親友のままでいいと心を偽り続けて、告白するタイミングを完全に逸している。女同士でじゃれ合い、冗談混じりに抱きしめたこと、寄り添って雑魚寝した夜のことを思い出して、あの場面だったかと悔悟しながら、過去の映像を吹き消した。
菓子を口に放り込み、味わうことなく茶を飲んだ。思いの外、その弐のお茶は苦く口の中がぐちゃぐちゃになってしまう。口を拳で押さえて、視線を窓の外に向けると、ふがふがと呼吸を鼻だけに頼った。
「私のほうはね」と、安堂が先を促すので、キングは向き直って首で返事をした。
「うちのアパートの前に、おかしな人がいるって話、あったでしょ。あの男の人が誰なんかわかったんよ」
キングはうなずきながら、ふんふんと鼻で相槌を打った。まだ喋れないでいる。頭上に描いたのは、昨日デパートの屋上で、アベベと二人でぶっ飛ばした、瀬戸ストーキング隼人の憎々しい顔だ。
「なんとねぇ。例の男の人、亜美ちゃんのお父さんやったんよ」
口元を隠し、良からぬ噂話でもするように小声で言った。
キングの顔が一瞬で縦に伸びた。それ、ほんまですか、と訊き返す。実際には「うっうふんふん?」と鼻で言った。
口の中の物を一気に飲み込み、胸を押さえて、しばらく食道の鈍い痛みに耐えた。お茶を飲んで、また顔を顰めた。
「ちょっと、大丈夫? お水を貰う?」
背中を擦ってやろうと、安堂は腰を浮かせる。
キングはそれを手で制し、息を整えてから「お父さんって、お父さん? ほんまもんの亜美の親父さんってことですか」と訊き直した。
安堂はキングの剣幕におされて、細かく首肯した。
「そうなんよ。ほら、江利ちゃんらがお泊まり会や言ぅて、遅ぅに出掛けはった日。あれから、またあの男の人が来はったんよ。そしたら、ちょうどそのときに神田さんが帰って来はってバッタリ。もう、ガチャガチャッて喧嘩になってしもて……ほんま怖かったわぁ」
「へ? なんで悠さんと喧嘩になりますのん?」
「う~ん、なんでやろね」目を閉じて首を傾げた。「亜美ちゃんの取り合いとか? ――まぁとにかくそのときに、亜美ちゃんのお母さんの元旦那って、はっきり聞こえたんやわ。それからすぐに二人で部屋に上がって行かはったんで、後はどうなったんか、よぅわからへんのやけど……」
安堂の視線が宙を泳ぐ。「小一時間くらい、神田さんの部屋にいはったんとちゃうやろか」
亜美の父親といえば、亜美に物心がついたときには、もういなかったと聞いている。親の勝手で亜美に不自由な思いをさせておいて、今さらなんの用だ、とキングは心の中で憤った。悠さんと喧嘩になる理由もさっぱりだが、それに関しては、彼女も不機嫌なだけで人を殴ることがあるので、なんとなくわかったような、わからないような。
「お次、お持ちして宜しいでしょうか?」
店員から高音の声がかかった。
キングは自分に尋ねられていると、しばらく気づかなかった。察して安堂が代わりに返事をした。
「ちょっと用事があるし、私はこれで失礼するわねぇ。ほんなら、またね。江利ちゃんはもう一つ頼んではるんよね? ゆっくりして行かはったらよろしいわ」
安堂が通路へにじり出て立ち上がった。
彼女が情報交換を終えると、さっさと席を立つのは毎回のことだ。その参を運んできた店員と、通路ですれ違いざまに一言二言交わして、階段へ消えていった。
キングの前にその参が置かれた。彼女はそれに手をつけず、窓から首を出して路地を見下ろした。
やがて、店の出入り口から安堂が出て来るのが見えた。
いつものように、安堂はこの窓に向かって小さく手を振った。彼女も手と笑顔でそれに応じる。伝票を持ってもらった分も感謝を込めて、安堂が離れていくまで見送った。
店内に顔を戻したときに、斜め前の席を片してした店員と目が合った。
(瀬戸って、和菓子は好きやろか?)
「すみません。ここのお菓子って、テイクアウトできましたっけ?」
持ち帰りはもちろん、全国発送もできると聞いてから、キングはリュックの外ポケットから電話を取り出した。スマートフォンを操りながら、和菓子をひと口に放り込む。
(あい、もっしー)
すぐにアベベの怠そうな声がした。
「お、んん……。レスポンスええやん。――なぁアベベ、瀬戸って和菓子とか好きやろか?」お茶を飲んで口内を空にする。
(なんやの? そんなんウチが知るかいな)
「それもそうやな。うーんと、どうしたろうかいなぁ」
キングは天井から下がる和紙で包んだ電灯を眺めて、思案した。
(あれぐらいで、もう勘弁したったらええやん。伊藤ベーカリーにも、もう行かへんって言うとったし)
「なにがいな?」眉を上げて、お茶をもう一口。
(瀬戸に、ワサビか辛子入りの和菓子を送りつけて、ヒーヒー言わしたろうって、考えてんのやろ?)
「アホか。そんなん思いつきもせんかったわ。――まぁええわ。とりあえず今晩、うちに来る?」
(ウチ、ちょっと今、手ぇ痛いねんけど。瀬戸の頭をシバいたときに、手首を捻ってしもたんやわ)
「なんよそれ、情けない。手首も固めんと、硬い頭をグーでいくさかいやんか」
(そんなん言うたらキングかて、自分で勝手に躓いてひっくり返ってたやん。ゲーム機に背中打って、アホみたいにウーウー言うてたやん)
「あれは話の途中で、あのボケがいきなりキレて飛びかかってきよったせいやんか。――まぁ、そんなん、もうどうでもええんやって。そんで、アンタ今晩来れるんかいな? ちょっと変わった感じのお菓子も食わしたるけど」
(それやったら、行くわ)
夕飯を一緒に作ると約束をして、電話を切った。
キングは長く息を吐いて、ヨシっと膝を打った。立ち上がるときに、イテテ……と背中を押さえる。
一分ほど前まで彼女の胸の内にあった、瀬戸隼人にひと言謝ろう、という気は、すでに消失している。




