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 ㉖

「学校から直接やと、どのバスに乗ったらここに着くんか、ちょっと迷ぅてしまいましたわ。大家さん、だいぶ待たせてしまいました?」

 そう言いながら、リュックと革ジャンを先に置いて、滑るように体を潜り込ませて座った。すぐに腕を伸ばして障子を顔の幅だけ開いる。路地を見下ろすようにして、外気を吸った。

 壁にもたれて路地を見下ろしていた安堂は、ゆっくりとキングに向き直った。キングが店に入ってくる様子も、ずっと見えていたのだろう。突然声をかけられても、とくに反応はなかった。

「私も、お花の先生とかとお喋りしてたんで、さっき着いたとこやったんよ。お菓子も、まだこれが一つ目」

 安堂はお茶をクッと飲んだ。


 亜美の家へは、中学の頃からよく遊びに行っていた。安堂と顔見知りになるのは必然だが、この路地から一本外れた場所で、安堂と出くわしたのは偶然だった。そのときに安堂から「あんこを使ったお菓子は、お好きなほう?」と、誘われたのが始まりで、今も月に一度はこの店で会っている。とても亜美には言えない行為だ、とキングは思う。アベベにも内緒にしているのは、場を弁えないで騒がしくしそうだったから。それ以上の理由はとくにない。


「背中、どないかしはったん?」

「ちょっとした角で打ってしもて……。腫れはすぐにひいたんですけど、これくらいの青痣になってますねん」

 片手で輪っかを作って、苦い顔をみせる。「ほんま恰好悪い。外から見えへんとこで良かったわ。今も湿布を貼ってるんですよ。匂いが気にならへんやつ」

「フフ、気ぃつけんとあかんよ。江利ちゃんは、手足が長いんやさかい」

「そういう問題やないんですけどね……」


 もし実家を出る予定があるんやったら、亜美ちゃんと一緒に暮らしたらどう?

 以前から、キングにそう勧めていたのは、この安堂だ。

 今日は、その淡い期待が崩れ去ったことについて、愚痴っぽい報告をするために来ていた。

 キングはすぐにでも聞いてほしくて、早速、低いトーンで心情を表そうとした。ところが、そこへ間の悪い店員がやって来て、何とも可愛らしい調子外れな声を発する。出鼻を挫かれたキングは鼻息を荒げて、置かれたばかりの和菓子に竹楊枝を刺した。

 飲茶料理の和菓子版とでも表現すればいいのか。一つ和菓子をつまむと、それに合うとされるお茶が一杯振る舞われる。どっちが主役なのだか……只々、面倒なシステムだ、とキングは思っている。

 ふと、アベベならこれをどう表現するだろうかと想像してみると、彼女の顔から、周囲に誤解されそうな笑みが零れた。誤魔化すように彼女は茶菓子をひと口に放り込んだ。想像の中のアベベの暴れっぷりが面白かったのだ。

 キングが、和菓子とお茶のセットパターンその壱を終えた。

 安堂は、黙ってキングの様子を窺っていた。少し落ち着いたと見たのか、クスッと鼻を鳴らした。これぞ茶の和み効果、と思ったかどうか……。安堂が振り返って手を挙げた。その弐を持って来てくれ、の合図だ。


「江利ちゃんの髪は、お陽さんが当たると、ほんまに綺麗やねぇ」

 エヘヘと、はにかむキングを見て、安堂も微笑む。「早速、なんか話したそうやわね。学校のこと? 亜美ちゃんのこと?」

 キングは真面目な顔つきになって、大きく息を吸った。さっきの店員が、二人のその弐を持ってくるのが見えて、ちょっとタイミングを計った。店員の後ろ姿を見送ってから「亜美がね……」と始めた。

 近々亜美がグラッツェ安堂を出ていくこと、パン屋の住み込みになること、そこの店長と、もしかしたら結婚するかもしれないということを、キングは誰かに急かされているように話した。

 安堂は時折相槌を打ちながら聞いている。その口元は手で覆われていたが、目尻が、肩が、喜んでいるように見えた。キングの描く形ではないにしろ、結果的に悠二と亜美は離れることになるのだから、安堂から受けた印象は正しい、と思う。

 そして「そんなん、聞いてへんわ」と彼女は呟いた。本当に驚いているようだ。

 そりゃそうだろう、とキングは細かくうなずいた。大家さんのほうが先に知っていたら、親友としての立場が霞む。



――安堂とキングが、二人で会うようになったのは三年前。

 キングが亜美たちと同じ高校へ進学した年の、初夏だ。亜美がアルバイトを始めて、一緒に遊ぶ時間が激減した頃と重なる。


「両親の離婚。その母親もどっかに行ってしもぅて……。それがまだ小学生の頃でしょ。あの頃の亜美ちゃん、毎日一人、部屋で歌を歌ってはったわ。寂しかったやろうと思うわ。それで一緒に暮らすことになった人が、これまた、ギャンブル狂いの無職って。こんなことって、酷すぎると思わへん? あんな可愛らしい子がよ。私、ほんま亜美ちゃんには、幸せになってほしいと思ってんのよ」

 そう言ったときの安堂は、今と同じように口に手を当て、肩を震わせていた。


 亜美と仲良くなった中学時代。悠二のことは、しょっちゅう亜美から訊き出すようにしたし、また聞かされてもいた。しかし、家庭内暴力といった類のことなど一切ないというのが、亜美からの答え。彼女からは無理して隠している様子も見受けられなかった。それならば見たままだ、というか悠二は亜美に感心がないらしい。それはそれで問題だが……。

 それらを聞き、実際、神田家の団欒に加わる機会があって、キングは悠二を無害だと判断した。やがて、悠二への敵意は緩和され、それどころか、よくぞ亜美を天使のような娘に育てた、と崇敬の念を抱き始めていく。アベベが、悠二の奔放な魅力に取り込まれていったことにも、その頃になってようやく納得できるようになった。

 しかし、それでも安堂は、それは亜美がまだ幼いからだ、と言う。

 どんどん大人になっていく亜美は、成長しない神田さんにいずれ追いつく。二人が精神的に釣り合うようになってからが危ない、と。あの男が今後、亜美に手を出さないという保証はどこにもない。男とは、そういうものだ、と力説していた。

 それにはキングも思わず首肯した。自分が腹の底に抱いていた形のない不安を、安堂によって言葉にされ、顎を引いてグッとつんのめったときのことを、よく覚えている。

 安堂の言うように、これから二人の関係がどうなっていくかなんて、わからない。あり得る展開だと、人生経験豊富な安堂の言葉に、蓋然的な裏付けを感じた。


 そこでキングは両親に、亜美を引き取るよう頼んでみた。当時は必死すぎて、それが無茶なことだとわからなかった。悠二がいかに悪者か、多少アレンジして添えた。

 ところが、キンパパの意見にキングは仰天することになる。

 人権問題となるとキンパパは聡かった。警察なり児童相談所なりに連絡すると言い出し、まずは自らが悠二をぶっ飛ばしに行ってやる、と息巻いた。

 これは大事になる! それよりなにより、亜美に恨まれてしまう。

 キングは慌てて誤魔化し、話を白紙に戻した。部屋にこもってから、どうにも思い通りにはいかないものだと、枕に八つ当たりしていた――。


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