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昨夜に降り出した雨は止んでいた。街路樹の葉っぱの状態からすると、もう朝方には上がっていたのだろう。
自動ドアが悠二の背後で閉まった。
彼は駐輪場へ向かうスロープの途中で立ち止まり、預金通帳へ新たに印字された部分をざっと指でなぞっていく。最後の行を確認して、悠二は深くうなずいた。
預金残高は三百万以上もあった。ずっと放置していたので、一昨年以前の記載は省略されているようだ。記載内容で見る限り、カードで支出された様子はない。雪子もこれには手をつけていないようだ。
悠二は〈田代亜美様〉と表紙に印字された通帳を、専用のビニールケースにしまい、手のひらに打ちつけて鳴らした。それをジーパンの後ろポケットに差し込むと、空腹を確かめるように腹を擦った。
自転車に跨ると辺りをぐるりと見渡す。おもむろに漕ぎ出し向かったのは、いつもの食堂ではなくデパートのレストランフロア。
そこで悠二は久しぶりにフォークとナイフを使った。これからひと勝負しなければならないので、勧められたワインは歯を食いしばって断った。量としては少なかったか……満腹とはいかないが、満足に至ったといえる。現金にも早速力が漲ってきたような、今日も大勝できそうな予感がしてくるから不思議だ。
この気分が持続しているうちにパチンコ屋へ行こうと、悠二はレストランを出て、エスカレーターへ向かった。
かなり年輩の方々と、主婦らしき客層しかいないフロアで、悠二の体躯は目立っていた。皆が一度は悠二に目をやったが、彼はそんな眼差しをすべて無視する。彼の目には、遠くに掲げられたトイレの案内板以外の物質がただの線になっていた。一食に五千円もかけたので、胃腸がびっくりしたのかもしれない。
「あぶなかったぁ……」
手を洗いながら、しみじみと声にして安堵の息を吐いた。
そして、水滴を払いながら振り返ったときに、一人の青年とぶつかった。
「お、すんませ……」
「どこ見とんねん!」
青年は片手で顔を覆いながら、怒鳴った。
「邪魔なんじゃオッサン! さっさとどけや」悠二を肩でドンと押し退けた。
悠二は咄嗟に、すれ違おうとする青年の襟首に手を掛けて、後ろに引き倒してしまった。タイル張りの床に頭を打ち付けた青年は、後頭部に片手を回して呻いた。
その青年の胸板に片膝を立てて乗っかり、手で髪の毛を鷲掴みにして押さえ込む。もう片方は拳を握った。昨晩に続いての荒事。ここ数年、こんなことはなかった。
この場限りのことだと、大人の対応でやり過ごしてやる。それが一番無難なのかもしれないが、こんな形になってしまっては、どうにも引っ込みがつかなかった。当然、ここらで止めて逃げるが得か、とも考えた。最近のガキは妙に知恵が働くからだ。自分から突っかかっておいて、返り討ちあえば警察に通報する、といった理不尽なことを平気でする。
無職の中年男性が、平日の街中では悪とされる風潮を、悠二は身を持って知っていた。
結果、昨夜と同様の膠着状態に陥ってしまった。当然ここには大家さんも、美紀もいない。
ところが、悠二がなにもしなくても、青年のほうから凄まじい剣幕で命乞いがあった。両手の指を反り返るほどに広げ、顔の前で素早く振り出した。
悠二は呆れて鼻で息をついた。同時に自身も助かったとも思う。
「あれ? オニーチャン。顔、めっちゃ腫れてへん? それに、鼻の下も黒いな……。それどうしたんやそれ、鼻血の痕とちゃうか?」
改めて青年の顔を覗きこむと、片方の頬骨が腫れ上がり、そのせいで目袋が押し上がっている。もちろん悠二はまだ殴っていない。
すぐにその場を立ち去っても良かったが、後々のことを考えて、青年に手を差し伸べた。その隙を突かれることも念頭に置いて、青年を立ち上がらせてやった。
「あぁいえ、なんでもないです! ちょっと頭がおかしい奴らに絡まれただけで、大したことはないです。あの……すんませんでした」
「あ、そう。オニーチャンついてへんねぇ。先祖のお墓参りとか行ったほうがええんとちゃう?」
青年はぐしゃっと顔を顰めて「そうします」と、小さな声で言うと、顔を背けた。
悠二は口を結んで、それ以上は言わなかった。
そして、場を離れようとしたとき、青年が「あ、何か落ってますよ」と床を指差して教えてくれた。
「おぉ、ほんまや。おおきに」
悠二は落ちた通帳を拾って、尻のポケットに差し込んだ。
これくらいのことで落とすのか……。パチンコ屋で紛失しては一大事。やはり一旦置きに帰ろうと考えて、悠二は下りのエスカレーターに乗った。




