㉓
やっと、アベベが「なにそれ? 住み込みってやつ?」と訊いた。
亜美が照れくさそうにうなずく。
「え、え、それって、悠さんもОKなん?」
アベベは上体を起こして、亜美に詰め寄った。
「まだ言うてへん。店長が、悠さんに直接会って話をしたい~みたいな感じのこと言うてたんやけど……。なんか最近忙しそうやし、ようわからへん。やっぱり、私から言うとかんとあかんのやろなぁ」
亜美は視線を落として、アポロを構った。
「あのおっさん、そんなこと言うてんの?」
キングがソファから床へ滑り降りた。
「おっさんて……。公男さんって、まだ二十七歳やで」
フランスで修業していた息子が帰ってきてから、伊藤ベーカリーではスイーツも扱うようになっていた。それは二人も知っている。あの北極熊のような男を、店長と呼ぶようになっているとは知らなかった。キミオさん? そんな普通の名があったのか。とにかくそれが、悠二と会って話したいと言っているのなら、意味合いは全然違ってくる。
「え、アレと? それって付き合ぅてるん? っていうか、同棲するってことになるん?」
キングの眉は普段よりやや上方で固定されている。
亜美は唇を突き出した。う~ん、と唸ってから、
「店長らの家は店の裏手にあんねん。私はパン工房の三階。そやし、同棲って言わへんよ。――公男さんとは付き合ってるんかな。うん、はっきり返事してないけど、自然にそうなってる感じやし、そうやと思う」
亜美の指先を、アポロがハムハムと噛んでいる。
これは興味深い、とアベベはさらに問い詰めようとして、キングに目をやった。途端に、アベベから笑みが消える。一旦、落ち着こうとしたのか深呼吸を一度した。
「今、昼の休憩に使ってる部屋やねんけど、ちょっと掃除して一つ空けてくれはるねん」
亜美が身振り手振りを加えて説明するが、他の二人は上の空。
「えっと……。あっほな、亜美が出ていくって言うたら、悠さん、泣くんちゃう?」
アベベが冗談っぽく言った。
亜美がびっくりしたように顔を上げた。すぐに「ない、ない」と、顔の前で手をヒラヒラさせながら笑う。それに、と続けて「悠さんなぁ。最近、彼女ができたような気がすんねん」と、渋面を作って言った。
今度はアベベが、顎を外したように口を開けた。
亜美たちの間に、お互いを探り合うような不気味な笑みが伝播していった。
キングも笑っていたが、それは必死に口角を上げようと何度もチャレンジしているような笑顔だった――。
「で、今からどこへ行くんよ?」
アベベがドライヤーを使いながら声を張る。
「アベベって、瀬戸の住所か電話番号、知ってんの?」コーラの入ったグラスを片手に、ソファで脚を組んでいた。
「せとぉ? 瀬戸って、あの瀬戸かいな?」
二人の共通の知り合いの中で、瀬戸といえば中学一年生のときに亜美を虐めていた、瀬戸 隼人しかいない。その顔はすぐに頭に浮かんだが、なぜここで瀬戸の名前が出てくるのか? と、首を捻った。アベベはドライヤーを切って、洗面所から顔を覗かせた。
「あいつさぁ、中一んとき、亜美にちょっかいかけとったやん」
「ハハ、そうそう。それで、ウチら二人でぶっ飛ばしたったら、だいぶ大人しゅうなりよったんよなぁ」
アベベはスウェットのズボンを履きながら、思い出してヒヒッと笑った。
「ほら、昨日、亜美んとこの大家さんが言ぅてはったやん。あれ、瀬戸とちゃう?」
「えっ、なんで、いきなりそうなんのよ?」
「じつはなぁ。あいつ、なにをトチ狂ったんかしらんけど、卒業式の日に、亜美を音楽室に呼び出して告りよったんやわ」
「え~なんやそれ、マジかいな」
アベベは興味津々といったようにソファに腰を下ろして、前傾姿勢になった。
「そやけど、ウチら終わってからすぐに亜美の教室に迎えに行ったやん。そんな時間てあった?」背もたれにふんぞり返った。
「その前によ。式が終わって、体育館から教室に戻る途中で、犯行におよびよったねん」
「な~に~、あの糞ぼんち! フン、それで?」もう半笑いになっていた。
「当然(お前なんか嫌いじゃわ! ありえへんぞ、ボケ!)ってなるところやけど、そこはあの亜美やし……。パン屋の宣伝も絡めて、丁寧に断ったらしいわ」
キングは腕を組んで、何度もうなずいた。
「マジかいな……。そんなん全然知らんかったわ」
アベベは唸ってから視線を落とした。
「アタシ、亜美と同じクラスやった優子と、今、同じ大学やん。こないだ、帰りの電車で偶然一緒になってな。(亜美って就職したんやろ? 最近会う?)って話から、その話になってん。――それで、詳しく聞かせてって言うて、茶店に場所を移してから、じっくりやん。先週のことやで」
キングは足を組み替えて続けた。「優子なぁ、こっそり覗いとったんやけど、亜美が急に音楽室から出てきよったんで、逃げ遅れたんやてぇ。それで、亜美に盗み聞きしてたことがバレたらしいんやけど。そしたら、そのときに(このこと、キングとアベベには言わんとって)て、口止めされたんやてぇ」
「ふ~ん、亜美らしいっちゃぁらしいけど。……なんかなぁ」斜に構えて口を歪ませる。
「まぁまぁ、それはええやんか。アタシらが知ったら……とくにアンタは、瀬戸をわざわざ笑いに行くやろ?」
キングがニヤリとする。
「よぅそんなこと言うわ。あんたこそ瀬戸の頭を撫でながら(えらい恥かいてしもたのぉ。もう出家したらええねん。刈れよ、剃れよ、磨けよ)って、言いに行くに決まってるやん」キングをフンと顎で差す。
しばらくの間、絶対言うわ、言わへんわ、と二人は罵り合い、なすりつけ合った。
「まぁとにかくや。それで、ストーカーに成り下がりよったんとちゃうかって思うねん。どうよ?」
キングはしたり顔で、やや斜め上を向いた。
「う~ん……。八割五分くらいそれで正解やん」
アベベの性格とキングの推理が合わさって、話はどんどん進み――瀬戸の犯罪を今程度で抑えるべく、二人は、彼に直接会って問い詰めることにした。
話し合いの場所は、近所のデパートの最上階にあるゲームセンターに決めた。古いゲーム機ばかりで人気がないことと、監視員が常駐していないことから、二人の意見は一致する。
ただ、瀬戸をどうやって呼び出すか、で計画は難航した。
ネタ元の優子は含めず、瀬戸のクラスメイトだった誰かに呼び出してもらう、という案も出たが、それにはいろいろと状況説明が必要になってくるので、変な噂が広まる可能性がある。しかも、ストーカーに落ちた瀬戸からの報復をも念頭に置くと、なかなか協力を依頼しにくい。とにかく関係ない者まで捲き込んでしまうのはよろしくない、ということで却下された。
もちろん、亜美をエサにすることに抵抗がなかったわけではないが、二人にはその方法しか浮かばなかった。
キングが呼び出したのでは、瀬戸は絶対に来ないだろう。それはお互いに確信めいたものがあった。アベベも大して変わらないが、どちらかというと、少しだけマシ……という理由で、アベベが呼び出す役に決まった。




