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「ほんまに、喧嘩せんときや」
安堂が不安げな表情で釘を刺す。
「はいはい、大丈夫ですわ。大家さんもそんな恰好で風邪を引かはりますよ」微笑んで返した。
男は荷台から安堂にペコッと頭を下げてみせる。安堂は怪訝な表情のまま、自身を抱くようにして、肩を怒らせている。
悠二は安堂の背を回り込むように門をくぐって、自転車置き場へ向かった。
美紀はというと、少し離れた所で立ち止まり、安堂を訝しんでいた。目が合うと、首を擡げるように会釈した後、肩の髪をサッと払って背を向ける。踵の痛みなど、まるで最初からなかったかのように大股で駅へ歩き出した。
悠二は階段を上がる際、男の逃走を警戒して先に行かせた。男はチラチラと振り返っているようだが、無表情で後に続いた。
部屋に上がって電灯を点ける。「どうぞ」と招き入れて「ビールでええっすか?」と尋ねた。
「すんません。先に手を洗わせてもらえますか? あればで結構ですけど、梅昆布茶を」
男は申し訳なさそうに言った。
明るい電灯の下、男は明らかに悠二よりも年上だった。考えてみれば、この男は悪くない。雪子とは正式に離婚しているのだし、少なくとも、悠二に殴られるようなことは何もしていない。
(初めましてやのに、なんちゅう出会い方やろう……)
この空気を作ったのは悠二自身だが、なんともやりづらい。こうなった場合の、雪子バージョンのシミュレーションをしたことがあったが、元旦那と遭遇した場合のことは頭になかった。元旦那とはいっさいの連絡を絶っている、と雪子が言っていたからだ。
なぜ、雪子が悠二から急に離れていったのか。
亜美を置いていった理由。
最初からそのつもりで、悠二に近づいたのか。
悠二がこの男に尋ねたかったことは、すべてが雪子絡みだ。男が知っている様子はない。ついでに思うと、梅昆布茶なんて一般的だろうか? 亜美が好きなので、この部屋には粉末の梅昆布茶が常備されているが……。悠二はリビングから男の声が聞こえてくるまで長考していた。
湯呑に電気ポットの湯を注ぎ、箸で粉末を掻き混ぜながら、ため息をついた。雪子が出ていった話から始めないといけないのか? と、もう一度ため息をついた。悠二は湯呑の熱さに耐えながら、リビングへ持っていった。この部屋にお盆という板はない。
暖簾をくぐると、男が悠二愛用の座椅子にあぐらをかいて、どこかへ電話をかけていた。
(この人はほんまに営業マンか? 上座ってもんがあるやん。そこは誰が見ても、この家の主の席やん)
卓袱台に梅昆布茶を置くと、男は電話をしながらペコッと頭を下げた。
悠二は憮然とした表情で、亜美愛用の座椅子に座った。
「駅に着いたらまた電話するし、ママに遅くなるって言うといて。それと……」
電話の相手は、この男の子供? 男は謝っているように見える。いつもそんな態度なのか。家族に対し、後ろめたい気持ちがそうさせるのか。離婚しても子供にだけは会いたいと思うのが、俗な考え方らしい。少し混乱する。本当にそれだけなのか?
男は電話を切ると「すんません」と、また頭を下げた。「亜美には、ええお友達がおるんですね」と言って、卓袱台にあったメモを押して寄こした。
祝 一人暮らし 江利ちゃんの新居を偵察してくる
お泊まりだー で、戸締りヨロチクノー
まず〈一人暮らし〉という文字が目に飛び込んできて、内心ギクリとした。それは一瞬のことで、態度には表していない。一日に二度も、そのことに触れられた。しかし、悠二の感性では、それを予兆と捉えるまでに至らなかった。
書置きについては――パチンコ店にいる間、悠二は尽く電話に出ない。メールは使うが、着信があっても気づかないし、小まめにチェックもしない。そのへんを亜美は良くわかっている。それで、あえてのアナログ伝言紙だ。
悠二は(誰が蓄膿やねん)と、頭の中でツッコんでから「あぁ、そうみたいですね」と言って微笑んだ。〈江利ちゃん〉というのは助さんか、それとも格さんか? とにかく、この書置きには、場を和ませる効果があった。
「さっきは、すんませんでした」
悠二はうつむきながら後頭部を逆撫でして、まずは詫びた。
「いえいえ、私のほうこそ。勘違いされるようなことをしてしまいまして……」
男は顔の前で手を振って、頭も左右に振った。
詫びた理由が伝わってないと思ったが、悠二は説明するのも面倒だと思って「亜美に会いに来られたんっすよね?」と切り出した。




