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「おもろい奴を見つけてしもたわ。美紀、降りろ」
「もぉ、止めときぃさ」
察した美紀は忠告しながらも悠二に従った。
悠二は彼女を降ろした後、静かに漕ぎ出した。タダで借りている代車とはいえ、よく整備された自転車だ。規則に違反して、ライトを点灯させていなかったことも幸いしてる。
男は、悠二が門柱灯に照らされる位置に至るまで、まるで気づかない。それほど興味をそそられるものが、このアパートにあるということか。気づいたときには、自転車がすぐ傍まで来ていた。それで、ビクッと背筋を伸ばし、悠二に背を向けて歩き出した。
しかし、ペダルを止めても、悠二は慣性で追いついた。男の横でブレーキを握り、馴れ馴れしく男の肩を抱いた。
「よぉ。今夜は誰のパンツを盗みに来とんねん?」
結局あのときのパンツは、翌日の昼に大家さんが届けてくれた。二階から見えにくくなっている所に落ちていただけらしい。それで、その件は解決している。が、今の悠二にとって細かいことはこの際どうでもいい。
男は気丈にもグッと睨み返してきたが、悠二の体躯を見てたじろいだ。
「私は、そんなんやないです」声は上擦っている。
悠二は男を逃がすまいと、男の肩に体重をかけていく。そして威嚇するように斜め下から顔を近づけて、ハッとした。
「もしかして、亜美の……親父さん?」
口から勝手に飛び出た問いだった。言った本人が驚いている。
男も眉を上げて「えっと、その、いちおうそうです」と言う。
その返答で、悠二はまた驚かされた。
誕生日や卒業式など、亜美の節目となる日に、雪子がこっそりとでも亜美に会いにくるのではないか、と思っていた。そのときにどう対応すれば、すべてが丸く収まるかと悩んだ日々もある。その懊悩とした日々のことを思い起こさせるほど、男は目鼻立ちが亜美に似ていた。
悠二の臓腑の奥底で休眠していた塊に、突如火が灯ったように怒りが湧いた。今の境遇の原点が、この男にあるように思えてならなかった。
股の間の代車に構わず、両手で男の肩をつかんだ。自重にものをいわせて男をフェンスまで押し切ると、安穏とした路地にシャンッとフェンスの音と、自転車の倒れる音が響いた。
男は短く呻いて、頭を両腕で覆う。
悠二は男の腕をつかみ、さらに体重をかけた。ガードごと潰れてしまえと思った。怒鳴り散らしたかったが「お前なぁ」と繰り返すだけで、続いて罵るような言葉が出てこない。ここから組み伏すのか、殴るのか。考えなしに動いた結果の膠着状態だった。
悠二が攻めあぐねていたところに、美紀が追いついてきた。
「悠ちゃん、あかん! ストップや」悠二の二の腕にすがって、引く。
それとは別に、門柱の傍から音量よりも吐息を優先したような声で、制止が入った。
「悠二さん! どうしたんよ。こんなとこで止めてや。あかんよ」
美紀が驚いて、その声の主を振り返った。
安堂の声を聞いた途端、悠二の腕から力が抜けていった。荒ぶる姿を、身近なお年寄りに見られたことに急に気恥しさをおぼえた。
悠二は男のスーツの肩を払い、乱れを直した。悠二自身、なにをしているのかわかっていない。自分の後頭部をザラッと逆撫ですると、了解したという意味で、安堂へうなずいてみせた。
安堂は門柱に半身を隠して立っている。いつからそこにいたのか、と悠二は思ったが、訊かなかった。どのへんから見られていたとしても、誤魔化しようがない。
男は解放されたにもかかわらず、委縮したまま、頭を両腕でガードしている。
「あのぉ、大丈夫ですか?」
美紀は男に声をかけてから、悠二を睨み上げた。
悠二は美紀を押し退けて、男に顔を近づけて言う。
「俺の部屋に来、……上がっていきませんか?」言葉を選んだ。
「すんません。亜美になんて言うたらええか……。雪子には会いとうないし」悠二よりも小さな声だ。
それを聞いた美紀は、両手を口に当てて瞠目した。悠二は仰け反って顔をしかめる。
(この男も雪さんの行方を知らへん? それにしても、その縮こまり様はなんや)
悠二にイライラが募っていく。気の弱い男だと。と同時に、二人の名前が男から出たことで、本物の元旦那なのだと確信を持った。雪子を呼び捨てにしたことにもカチンときたが、少し冷静になって、それはまぁ普通か、と思った。
「神田さん、どうもないん? 110番しましょうか?」
状況を飲み込めない安堂が、祈るように指を組んで狼狽えている。
「あ、いや、大家さん。ちょっとした勘違いで、その、問題ないです」
安堂を一瞥してから、もう一度、男に顔を寄せて囁く。
「今やったら、雪子も亜美も部屋にいてませんわ。ここやと近所迷惑やし、大家さんの目もあるし。とにかく、ここで話はでけへんでしょ。場所を変えましょう。なんやったら、どこか人の多い店に行ってもええっすよ」
男は、やっと顔を上げて、悠二と美紀を交互に一瞥した。
「美紀、悪いな。今日は帰れ」
察して悠二が言った。
「ええ、なんで? 私がいたらあかんの?」
美紀は、男と悠二の顔を見る。
悠二は眉間に縦しわを寄せて、奥歯を噛みしめた。
「すんません」と、男が聞き取れないほどの声量で言うと、美紀は膨れて、渋々二人から距離を取った。
どうやら男は話し合いに応じるようだ。
「ほな、階段を上がってすぐの、二〇三ですわ」勝手に自宅を選択した。
悠二は自転車を起こして、美紀と安堂を一瞥した。それから、ひとつ思いついて咳払いをした。
「えっと折角やし、自転車置き場まで後ろに乗らはりますか?」
冷めきった場の空気を、少しでも温めようとして言った冗談だ。
ところが、男は首肯すると、鞄を拾って悠二の後ろに跨った。「すんません……」
悠二はどんよりとした夜空を仰いで、目を閉じた。笑おうとしたが、頬が引き攣れるだけだった。
(コイツ、振り落したろか!)
大きく息を吸った。勢いよくペダルを漕ぎ出すつもりだったが、悠二の太ももはそれを拒否した。




