⑯
二人が座椅子に着いてから三十分が経とうという頃。
悠二はてきとうにはぐらかされて納得させられていた。それどころか、気がつけば彼は自分の現在を語り、雪子の物語が終盤に差し掛かっていた。納得させる、問いただす、といった話術で彼が美紀に勝ったことはない。
「なにそれ、信じられへんわ! それって、めっちゃその女に騙されてるやん。子供が邪魔になって、押しつけられただけとちゃうの。雪子って人の捜索願は出すん? それで、その亜美ちゃんて子はどうしてんのよ。っていうか……どうすんのよ。悠ちゃんが面倒見ていかなあかんってことはないんやん。児童相談所へは? そんなん、普通に育てていけるとは思えへんやん。ちゃんと、学校とか行かさなあかんねんで。他所の子やで。……どう考えても無理やん。収入に余裕はあるん? 今の仕事で大丈夫なん?
――ええ! まだ無職ぅ? 悠ちゃん、くるくるパァやん。どうやって暮らしてんのよ!」
頭の上をザーッと流れていく美紀の音声。それを悠二は目を細めてやりすごした。雪子に押しつけられた、という言葉が妙に懐かしかった。
おそらく大方の人は、この状況から判断してそう確定づけることだろう。なんも知らんくせに、と弁解しようと思っても、そんな隙は与えてもらえない。悠二と雪子がどんな仕草で、どんな会話をして暮らしたか、そのすべてを説明できるはずがないので、仕方ないことだと諦めた。
それに、たぶんそうなのだろう、と彼自身もわかっている。ただ、他人から面と向かって言われると、だいたいいつも軽く落ち込む。その当時の気分が甦ってきて腹が立った。
(相変わらず、やんやん、とうるさい女だ)
「そやけど、もう育ってしもぅた後やし……」
悠二は口を尖らせて、プイッと視線を窓の外へ向けた。
「はあ? いつの話してたんよ。その子、今いくつよ」
亜美の年齢を聞いて、さらに呆れた美紀は「もぉ、疲れるわ」と呟いた。鼻息を漏らしながら背もたれに寄り掛かったが、すぐにニヤッと笑みを漏らして前屈みになった。
「悠ちゃんは、私がついてへんと、ほんまにあかんなぁ」
美紀はそう言った後、一瞬間を取って悠二の顔を上目遣いに盗み見た。
ところが、悠二は窓の外の洗濯物をボケーと見ながら、パンをモグモグと咀嚼している。
美紀は眉を互い違いに歪ませて、音なく舌打ちした。
「ほんまに、もぉ」と、吐き捨てるように言って、目の前のパンを鷲掴みにした。
そのことがあってから、四週間後――。
美紀は、背中の中ほどまである真っ直ぐな髪を左右に振りながら、地元の大通りを駅に向かって歩いている。
彼女は酔っていた。
今日からゴールデンウィークに突入していたが、それが世間のカレンダーとズレていたせいで、友人と都合がつかなかった。休みの間にやっておかなければならないこともなかったので、暇潰しに帰省している。
しかし当然のごとく、実家の父と兄は仕事で不在。母も習い事で、午前のうちに出掛けていった。からかい甲斐のある生意気な甥っ子は、学校へ行っている。……猛烈に暇だった。
お菓子を食べながら、漫画でも読み返したいところ。かつて美紀の部屋だった場所は、義姉の私室になっている。この家は、彼女がダラダラとできる場所ではなくなっていた。
今この家には義姉と二人。その義姉も、美紀に構わずあちこちの掃除を始めた。歓迎されているような雰囲気がしなかったので、美紀は、友達と会う約束をしている、と嘘をついて外へ出掛けた。
ところが、タイミングなのか、今日の運勢なのか、それとも、もっと他のなにかが悪かったのか……。
美紀は実家の門を出てすぐの所で、スマートフォンを操作しながら運転する自転車にぶつけられ、歩いているうちに靴擦れを起こし、噴水公園のわきにあるココフラという喫茶店の前で、会社の部長より嫌いな、安堂小津江に出会ってしまった。
安堂はずっと以前に住んでいたアパートの大家だ。
久々に会った婆さんは、幾分穏やかな目付きになっているようだったが。(老いたか?)それでも、一度嫌いになった奴を、普通の人レベルまで引き上げるには、それなりの出来事が必要だ。とくに美紀の中では、それが難しかった。
憂鬱な気をまとっていると、不運は重なるものだ。こういうときは奴に話を聞いてもらうと、気が晴れるような気がした。
美紀は安堂と別れると、この前仕入れたばかりの新しい電話番号にかけた。
しかし、三十秒もの間呼び続けても、悠二は応答しない。(あの野郎、無職のくせに!)
ウィンドウショッピングもしづらくなってしまった美紀は、薬局へ寄って踵の保護テープを買った。デパートのベンチに腰を下ろし、高校時代の友人何人かへメールを飛ばしていく。そして、なんとか都合のついた友人と夜に会う約束を取りつけて、やっと映画館に落ち着いた。
「そろそろ、旦那が迎えに来るわ」
誰々も離婚したらしい、という話で盛り上がってきたところなのに、その友人は切り上げようとする。まだ夜の九時前だというのに。
「友情より男を取るんか。おぅおぅ帰れ帰れ」
美紀は笑って悪態をついた。
一緒に店を出ると、すでに旦那さんは駐車場に来ていた。柔和な顔をしたいかにも優しそうな人だった。
「送りますよ。岡村さんも乗って」
旦那さんはわざわざ車から降りてきて、そう言ってくれたが、美紀はかぶりを振り「健康のために歩く」と遠慮した。
すると、友人夫婦を乗せた車は、さっさと行ってしまった。
「お~い、もっと強く誘ってよ」と、勝手なことを口にして、美紀は一人でフラフラと帰宅の途に就いた。
大通りを歩いていると、向こう側の歩道を騒がしく走る自転車がある。三人とも高校生ぐらいだろうか。じつに楽しそうだ。
(なんだかなぁ……。あの子らぐらいの歳から、もう一回やり直したいわ)
彼女は他所見歩きのせいで、大きくバランスを崩した。不恰好にも街灯にすがって転倒を免れる。周囲の視線を憚ることなく、頬に理由のわからない涙がつたう。こんな弱った精神状態で、年下の義姉に嫌味の一つでも言われたら、笑って切り返せないかもしれない、と心の中で弱音を吐いた。
一人でもどこか落ち着ける店に入ろうか。
このまま電車に乗って、自分のマンションに帰ろうか。
車で帰省しているので、後々の手間を想像すると、それも面倒だ。
結構冷静だ――。
悲劇のヒロインごっこもたまになら面白い、と思った。
彼女は水分を求めて自販機に立ち寄り、店のシャッターに背中をあずけ、アルコールを中和しにかかる。目を閉じると、すぐにでも眠ってしまいそうだった。
実際に眠ってしまっていたのかどうかもわからない、曖昧な狭間にいるときに、突然間近でチリチリンと自転車のベルを鳴らされた。
お節介なオジサンだ。下卑た薄笑いが鳥肌ものだった。
派手に顔を歪めて舌打ちしてやると、オジサンは首を竦めて去っていった。
彼女はホッと息をついた。怒って向かってこられたらちょっとマズかった。今度は強く息を吹き出した。このままここにいても、良いことは一つも起こらないだろう。
シャッターを背中で押すときに「よっこいしょーいち」と言ってしまった自分を笑いながら、ペットボトルを回収箱に放り込んだ。美紀はスマートフォンを操り、発信履歴から迷わず悠二を選択する。
腰に手を当てて目を瞑り、呼び出し音を聞いていた。どこか近くで誰かの携帯電話が鳴っていて、そちらにも、早く出てやれよ、と思いながら悠二の応答を待った。
「お、なんやお前。こんな所でなにしてんねん」
声でわかる。
美紀が振り向くと、自転車に跨った悠二がいた。
「電話鳴ってるで。出えへんの?」
「面倒くさい。どうせ、しょうもない奴からやろ」
チッ「しょうもない奴で悪かったな」
精神安定剤が向こうからやって来たと、美紀は小さくガッツポーズをとった。




