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 ⑫

 

 事情を知るからといって、今までにこのママが、手を差し伸べるようなことはなかった。それどころか、悠二たちの成り行きを楽しんでいる節さえ感じられる。とにかくここで飲んでいるときに、そういう話になったことがないのだ。とくにタブー視されているわけでもないのに不思議なものだ。所詮は他人。プライバシーに立ち入らないように心掛けているのか。お金持ちにしか興味がないのか……。ママは、今夜のようなことがない限り、ただ静かに飲んで金を落としていく客として、悠二を扱っていた。

 とりあえず悠二は、ママのそのスタンスを気に入っている。偽善を振りかざして、いざとなったら逃げていく人たちよりはいいと思っている。

 それなのに今夜はさらっと亜美の話題になった。今日の売り上げのせいで(たが)が外れているのかもしれない。


 悠二も訊かれれば、とくに構えることもなく答える。

「この春から社会人っすよ。毎朝、バタバタとうるさいんすよ、あいつ。このまえも、俺が声をかけるまで屁ぇこいて寝とるし」

 悠二は迷惑を顔で表現した。

 それを見て、ママは噴き出した。やめてよ、と手首をくねらて振り、少しむせた後、煙草を揉み消すと「まだまだ、一人では暮らしていけへんわね」と続けた。

 悠二はハッとして、苦く笑う。

 亜美に職が見つかったのだから……。いくら稼いでいるのかも聞いていないし、今すぐというわけではないだろう。しかし、その可能性は現実味を帯びてきている。

「ああ、厄介なことですわ。出ていってくれると、部屋も広ぉなるんすけどね」

「もぉまたまた、そんなこと言うて。寂しいなるで」

 悠二の脳裏に、堪りかねて「出ていけや!」と怒鳴ったときのことが、パッと浮かんだ。


――雪子が失踪した当時、清や金田は「厄介事を背負わされたもんやな」と、同情するように悠二の肩を叩いた。

 自身でもそう思ったし、亜美を邪魔だと感じる出来事が、その後、実際に幾度か起きている。亜美が中学の二年生だったか、三年生だったか、ちょうど今ぐらいの季節のことだ。

 あのときは、亜美が飛び出していった一時間ほど後に、嫌々ながら探しに出た。もし、彼女が補導されるようなことになれば、いろいろと面倒くさくなりそうな予感がしたからだ。心配する気持ちも少しはあったように思う。

 結局は友達の所へ泊めてもらったらしく、次の日には普段と変わらず、学校からアパートに帰ってきていたが……。

 こっちはというと、一晩中アパートの住人に借りたスクーターで探し回って、運悪くスピード違反の切符を切られたうえに、風邪までひく始末だった――。

 そもそも怒鳴った切掛けが何だったか、を覚えていない。養われている分際で、亜美が生意気なことを言ったような。そんな曖昧な記憶だけがある。


 悠二はリビングにある二つの座椅子を思い浮かべた。その周辺に四畳分くらいの空洞ができたような気がした。かつての恋人と同棲解消したときの経験が、想像を容易くしているのだろうか。なるほど……静かな時間と空間がリビングに鎮座して、少なくとも楽しくはない。


 悠二はグラスを空けた。

 同じ物をもう一杯頼んだそのときに、カウンターの端にある扉が開いた。先ほどまで悠二が忙しく行き来していた従業員専用の鉄の扉だ。

 そこから黒いエプロンを首からぶら下げた清が、首を捻りながらヌッと姿を現した。


 清はこの店のオーナーで、ママの旦那だ。そして、悠二のパチンコ仲間でもある。太い腕と濃い顔が印象的で、オセアニアの島国育ちを連想させる。照明を落とした店内でも派手だとわかる、ラメの入ったエンジ色のシャツに、黄色のネクタイを合わせていた。

 店内が落ちつく頃を、見計らったように帰ってくるこの男を、ママと悠二は同時に睨みつけた。


 そんな視線は清の心に刺さらない。神経が図太くて、皮膚も厚いのだ。

 エプロンの紐を後ろ手に結びながら「どうや?」と、ママに声をかける。

 客の入り具合についてなのか、ファッションセンスについてなのか、それが単に口癖なのか。何についての「どうや」か、悠二にはわからなかった。

「……お帰り。勝ったん?」

 ママは質問で返した。

「内容は良かった。明日に繋がる敗北や」

 清は水を出し放しにして、石鹸をこねていた。

 ママはまた煙草を一本抜いた。まだ数人いる客の手前、怒りを抑えているように見えた。二呼吸すると半身になって、悠二に向かって手を広げてみせる。


「おう、カンちゃん。来てたんかいな」

 清はパッと笑顔になって、濡れた片手を挙げた。

「俺が清さんの後ろで打ってたときは、調子ええって言ぅてはりましたやん」グラスを持った手で返答し、苦笑いを見せた。

「おう、それがやな……。カンちゃんが退いた後、ワシがハイエナしたろう思うて、あの台を引き継いだんや。そしたら元々打ってたワシの台に、若いカスみたいな奴が座りよって、エッて思ぅてたら、ガーして、バンして、ピンピロリーンや。ダメだコリャーってなってな。……わかりにくいか? まぁ今日の収支経過を、折れ線グラフに表すとしたらやな」

 清は手を拭いながら、捲くし立てた。

 要するに、遊技台の移動に失敗して、オカマを掘られたということだ。アイコンタクトがあって、清と悠二は同時に笑った。


「神田くん、おかわりは?」

 ママが唇だけの笑顔で言った。

「えっと、貰いますわ」

 まだ少し残っていた水割りを、一気に煽って差し出した。

 清の目が素早く泳ぎだす。

「あぁ社長。久しぶりですがな!」

 清はテーブル席に馴染み客を見つけて、逃げていった。


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