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 ②

 母の心中を察して悠二は少々気を揉んだ。

 それは一瞬のことで、再び歯ブラシは動き出す。就職活動もしていないのに、再就職の報告ができるようになれば問題はないかと安易な結論に至る。しかし、また動きは止まり、今度は顎に手をやった。

 母のことだから、こちらの現状を知ったうえでの電話だったかもしれない。どうにもわからない……と首を捻っているところへ、玄関ドアをノックする音がした。


「神田さ~ん、いてはんの? 大家ですぅ」

「ふぁい」と返事をして、歯ブラシをくわえながら、ズボンを履いた。

 玄関のドアを開くと、工事の騒音が一段と音量を増した。

「呼び鈴が鳴らへんわね。電池ぐらいは自分で替えてや。それと、今月分のお家賃がまだみたいなんやけど」

 六十歳代後半にしては、肌艶のいい大家の婆さんが家賃の催促にやってきた。

 悠二は、少々お待ちを、の代わりに手を挙げて洗面台に戻った。さっと口を濯いで寝室へ行く。貯金箱代わりに使っている外国産のクッキーが入っていた缶を開けた。


「わざわざすんません。今、ちょっと手持ちがありますんで、来月分も一緒に払ぅときます」

 先払いを鼻にかけて、胸を張った。

「あらま、パチンコの調子、よろしいの?」

 大家の安堂 小津江(あんどうこづえ)はチラリと悠二を見上げてから、入金帳に認印を二つ押した。

「ところで、あれは何の工事っすかね」

 大袈裟に顔を顰めて訊いた。

「水道管の交換よ。ちゃんと回覧板に書いたったでしょうに」ハァ、とうなだれてから「ウチの水道も関係あるんよ。今、貯水槽にある水が無くなったら、ウチのも止まるし、ちょっとは気にしといてね」と言った。


 隣からの回覧板に目を通すことはない。さっさと真下の階の住民へ回している。当然、地域の催し事には疎い。それを知ってか、安堂は悠二と顔を合わせるたびに、あれやこれやと世話を焼いた。


「あぁそれと、今日の夕方の六時以降には、普通に使えるようになるらしいけど、初めは少し水が濁るって。お米とか……」

「あぁ、そうですね。気ぃつけますわ」

 自分から振った話題だったが、長くなりそうなので切り上げた。

「それと、お母さんにお礼を言うといてね。昨日、ご挨拶に見えて、お中元までくれはったんよ。この歳になると、食用油とか買って帰るのも重たいし、ほんまに嬉しかったわ」

 安堂が悠二の上半身にチラチラと目をやる。

「え、オカンが来よったんですか?」

 驚きを隠せない。それでさっきの電話か……。個人情報はどの程度まで漏れているのかを、今探っといたほうが良いかと思案した。が、結局「今度、電話して言うときますわ」と、軽く会釈をしてドアを閉めた。

 すぐに階段を下りていく音が聞こえた。悠二はしばらくキッチンの一点を見つめていた。


 烏龍茶をもう一杯飲んで、長髪を束ねて後ろへクンッと引っ張った。悠二はいつもそうやって、気持ちを切り替えている。

 暖簾を分けてリビングへ行った。

 昔懐かしい木製の丸い卓袱台(ちゃぶだい)には、テレビのリモコンと一枚の名刺が載っている。昨夜、久々に利用したデリヘルの娘が置いていったものだ。

〈楽しい時間をありがとう。またよろしくネ。ご指名まってマス〉

 と、蛍光ペンで書いてあった。


 それを片手で握り潰すと「失敗やったな」とつぶやく。昨夜ここに訪れていた娘は、宣材パネルとも、好みのタイプとも、かけ離れていた。

 悠二は、それを屑籠へ捨てにいって、帰りに本棚から一冊のノートを取ってきた。それは彼が毎日書き溜めているパチンコデータノート。それの最後のページを難しい顔で見ながら、今日の勝負台の確認作業を始めた。

 この時間を一日のうちで一番に大切にしている。シンと静まり返る空間が必要だったが、今日に限っては、けたたましい音と無視できないレベルの振動が邪魔をする。彼はまだ、集中することで騒音を消せる域に達していない。


(暑い……。ちょっと早いか)

 Tシャツを着て、髪を整えにかかった。


 悠二がパチンコにのめり込んだのは、社会人になってからだ。それが現在では本職のようになっているのだから、多少なりとも才能があったといってもいい……のか? 今のところ良好と言える健康状態で物欲も薄いものだから、それだけで何とか暮らせている。いや、満足だと思っている。よほどの天候不良でもない限り、毎日欠かさず行くので、ひと月の出勤日数は約三十日だ。


 日々の勝負台は、独自の確率データを基に選んでいた。

 その予想が外れた場合でも、ウロチョロと浮気せずに、本日のデータだけを拾って帰ることができる男だった。反対に、好調なときでも純利益が五千円以上なら深追いはしない、と決めていた。欲に目を眩ませて引き際を見失うことを、恰好悪いと思っていた。

 そのことを当時勤めていた会社の飲み会で話したときは、皆から大いに嘲笑をかった。それでどうなったということはないし、そのときは悠二も一緒になって笑っていた。しかし、心の中では本気で思っていた。勝ち負けに一喜一憂していた〈いいお客さん〉の時期は卒業したと……。



 悠二は財布の中身を確認して部屋を出た。その瞬間から夏の太陽は容赦なく照りつけてくる。階段を下りていくにしたがって、蒸したアスファルトと、掘り返した土の匂いが鼻を突いた。

 母親からの電話といい、工事のこといい、いつもと違うことが起こっている。

(何や、嫌な予感がすんねんなぁ)

 湿度と気温のせいか、昨夜のデリヘル嬢のせいか。バイオリズムの波が下降へ転じるポイントとなるような出来事を記憶の中から探していた。


 悠二は確率データがどうとかと口にするわりに、そういったジンクスを気にしている。勝負するときに必ず四万四千四百円を持っていくのも、ゾロ目に対する、ある種信仰心のようなものを持っているからだ。


 悠二はアパートの自転車置き場へ向かった。一八五センチの体が、右へ左へと揺れる。蒸し上がる駐車場で(おの)ずから歩行距離を伸ばしてしまっている。

 およそ整備されているとはいいがたい、自転車のサドルをパンッと叩いてスタンドを外すと、後輪が地面と接触する際にゴンと衝撃があった。

 嘆息して(しぼ)むようにしゃがんだ。一見してパンクだと理解できても、直接指で押して確かめた。――これはかなりのマイナス要因だ。

 そこへ、スーッと人影が被さった。


「あら、今日は早めのご出勤?」

 水色のスウェット上下に日本手拭いと麦わら帽子を重ねるといった出で立ちで、安堂が立っていた。手には大きな刈り込みバサミが握られている。

「まぁ、そうですねん」悠二は自転車を引っ張り出しながら、愛想笑いを返した。「大家さんも、この暑い中?」

 庭木の剪定なら、早朝か夕方にすればいいのに、と思って言った。

「ちゃんと熱中症対策はしてんのよ」

 安堂は得意げに微笑んで、ヨイショと刈り込みバサミを肩に担いでみせた。「ほな、頑張ってね」と言うと、あっさりと身をひるがえしてフェンス沿いに歩いていった。


 アパートの戸数六に対して、五台分しか確保されていない駐車枠に、住人の車は一台も停まっていなかった。しかし、みんなが働いている時間に、俺は……と、卑屈になった時期は遠に過ぎ去っている。悠二は自転車を押して、一直線に路地へと向かった。


 悠二がホームホールとしているパチンコ店は、自転車で十五分ほどの距離にある。今はそれと逆方向になる駅へと向かっていた。徒歩だと三十分以上か。彼は何度も恨めしそうに太陽を見上げた。

 駅近くにある自転車屋に向かってトボトボと狭い路地を歩いていると、後ろから来た自転車にベルを鳴らされた。四人の少年らが、それぞれ二回ずつ鳴らすものだから、なかなかにうっとうしい。悠二は次々と抜いていく子供たちを、舌打ちで見送った。この暑さの中で元気なものだ、と感心もしていた。


「今日から夏休みやったかいな」

 そうつぶやいた悠二の顔は綻んでいた。

 パチンコホールに暇を持て余す大学生が入り乱れると、朝から台の回転数が増える。投入金額を抑えることができれば純利益が増える、という考えからだ。足取りが少しだけ軽くなった。


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