⑩
田中サイクル店には出入り口が二つある。爺さんがやっている自転車屋と、孫がやっているバイク屋の出入り口だ。それぞれに違う字体の看板が掲げてあった。店の中では間仕切りもなく繋がっているので、分けて掲げる意味があるとは思えない。
「オイルは綺麗なままなんすけど、それを送り込むポンプが故障してるみたいで、ちゃんと潤滑できてないっすわ」
しばらくあれこれと点検していた田中孫が、残念そうな顔で言った。
その部品は店に置いてないので取り寄せになるという。しかも、それだけでは済まないと予感させる、異音まで聞こえていた。かなりの重症、という診断だ。
もちろん、それらの部品を交換して修理すれば、スクーターはまた元気になるらしい。しかし、時間と費用が嵩むうえに、修理しても新車に生まれ変わるわけではないので、悠二は修理依頼を渋っていた。
それならばいっそのこと、と田中孫から提案された中古の原チャリが好条件だった。排気量にこだわりはないし、今のところ二人乗りをする予定はない。三十キロなんて無茶な制限速度があることは厳しいが、としても五十CCの原チャリで充分だと思った。
悠二が興味を示すと、早速、田中孫がお勧め品を引っ張り出してきた。
その中古車は、バックミラーがハンドルのバーエンドから生えるように装着されていた。
(この変なミラーには見覚えがあるでぇ。――なるほど、それを勧めてくるんかいな)
個人商店にとって、長期在庫品は頭の痛い問題だろう。悠二は含み笑いを漏らした。値段交渉がしやすそうだ。
田中サイクル店のシャッターは、いつもなら夜の七時に降りるらしかった。
悠二は難しい顔で腕を組んだまま、店内を歩き回っている。時折、後頭部をトントンと叩く仕草を見せる。そして、時間を気にせず熟考の末、無表情で田中孫に向き直った。
「もう、勉強させて貰いますわ。自賠責一年込々の乗り出し、六万でどうや?」
意外にも口を挟んだのは、田中爺だった。隣の自転車ブースから顔を覗かせて、煙草を吸っていた。
田中孫が目を剥いて祖父を見る。
田中爺は、まだまだ決定権はワシにある、と言わんばかりに孫を見据える。
「ええっと、ほな、それで……」
悠二は拍子抜けして、足早にレジへ寄った。財布から四万円を抜き出すと「残りは納車のときに」と言った。
田中孫が苦い表情でうつむき、耳の裏を掻いていた。
書類上の手続きを終え自転車屋を出た後、悠二はアパートへ帰らずに、反対の駅のほうへ向かった。
三分ほどで駅前のパチンコ店シグマに到着して、財布の中身も確認せずに入店した。
本日の好調台の配置を見て回りながら、ホームに置いてない機種の前で足を止める。また移動して、空席の一つに腰を下ろすと、目の前の遊技台をジッと見つめた。
ここでさっき支払った四万円を即日回収しよう、なんて虫のいいことは考えていない。本来の目的に関係なく、なにかしら台の情報を得ようとするのは、悠二の習性だ。
貸し玉のお札投入口には目もくれず、カウンター表示と、釘の並びを眺めている。釘頭の傾きとハンマー傷を見て、ここの店長兼釘師の思惑を想像していた。
そうして十五分もの間、エアーパチンコを堪能した。
背後を通過する店員の訝しむ表情が、遊技台のガラスに映る。
悠二はおもむろに立ち上がると、地価の高い駅前店舗に有りがちな、狭い通路を隈なく歩いた。サービスのオシボリを一つ掴んで、トイレを借りると、洗面台の前に立つ。鏡に対して笑顔を作ってみるものの、向こうの悠二は、力なく笑い返してくるばかりだ。
亜美の母親が失踪してから、悠二は何度この一連の動作を繰り返しただろうか。そもそも、彼女が一人娘を悠二に押しつけて、こんな身近な所で、呑気にパチンコを打っているわけがない。少し考えれば、いや、そんなに頭を使わなくてもわかることだ。彼女がこの店の常連客だった、という情報だけで続けていた。じつに実りのない習慣だった。
心中の進展というか、諦めというか、その頻度は徐々に減っていき、今ではなにかのついでに寄るくらいになっている。もし、どこかで雪子と遭遇できたなら……。亜美が成長するにつれて、悠二の言いたかったことは変化していた。笑って迎えられるはずはなくても、皮肉たっぷりに、おかえり、ぐらいは言えるような気がしている。
そして毎度お馴染の結果……。
百回以上は繰り返しいるのだから、いい加減慣れてもよさそうなものだが、悠二はうなだれてシグマ店を後にした。これもいつも通り。駅の改札から出てくるサラリーマンの目には(有り金を、全部吸い上げられた愉快な人)と、映っていることだろう。
悠二は自転車の前輪をガッと持ち上げ、アパート方面に向けて跨った。長く息を吐いて見上げた夜空に、リビングを占領して、バカ騒ぎをする亜美たち三人の図が浮かぶ。
(時間、ちょっと潰して行こかいな)
財布の中身を覗いた。
悠二はスクーターをこかしたり蹴ったりと、今までずいぶん雑に扱っていた。鳥の糞くらいは拭ったが、まともに洗車したことはなかった。それでも、それなりに思い入れはあるものだ。今夜でアレともお別れだ……という理由を作って、飲んで帰ることにした。




