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 ⑦

 カンッと玄関の鍵が開く音がして、悠二は反応した。パチッと瞼を開けて上体を起こす。なにも変わっていない状況になぜかホッとして息をついた。


「悠さん帰ってんの? 自転車屋さん呼んだん? 今、下に来てはるんやけどぉ」

 亜美が玄関先で声を張り上げていた。

「おう、もう取りに来よったんか。早かったな。すぐに行くわ」

 自室の引き戸越しに声を張り返した。

 

 十五分ほど目を閉じていたつもりだった。目覚まし時計を見ると、もう六時になっている。けっこうな時間眠っていたことになる。それなら、自転車屋の爺さんは全然早くない。

 悠二は財布と携帯電話を取って、自室から出ていった。


 サンダルを引っ掛けながら玄関脇の鍵入れをあさった。スクーターのキーが指に触れない。ポンポンとポケットを叩いていくうちに、亜美が気を利かせたか、と思い当たる。外へ出て駐車場を見下ろすと、田中サイクルと名前の入った軽トラが、門柱から一番近い駐車スペースに停まっていた。

 三台の自転車の傍らでしゃがむツナギ姿の男を、三人の女性が囲んでいた。店主の田中爺さんではなく、バイク部門担当の孫が引き取りに来ているようだ。

 田中孫がリンチにあっているように見えて、悠二は苦笑した。


 田中孫は依頼主のスクーターを放って、三人の自転車を点検していた。「ついでにちょっと見てぇな」とでも言われたか? 言ったのはおそらく、あのキングと呼ばれているハーフの娘だろう。助け舟を出すような気持ちで、悠二は階段を急いだ。


「お前ら、プロにタダ働きをさせんなよ」

 自転車の潤滑スプレー代まで、こっちに請求しないでね、という意味を込めた。

 亜美たち四人が一斉に振り向く。

 予想に反して、田中孫はこの状況に満更でもないといった表情。悠二は、亜美の短いスカートに目を見張った。田中孫の緩んだ顔を合わせて見て(この野郎!)と、顔を歪ませた。


「亜美、バイクのキーは?」不機嫌そうに言う。

 田中孫が「あ、先にあずかってます」と言って、鼻の下を伸ばしながらペコペコと頭を下げた。

「あぁそう」(お前に訊いてへんわ!)

 横からアベベが真っ白な歯を見せて、手をあげた。

「悠さん、チース!」

「チース!」キングも手の平を見せて、ハイタッチを要求している。

 目上の者を敬う……。ふと野球部員だったころに、礼儀を欠いて先輩に殴られた記憶が甦った。

 悠二は自身の十代を顧みつつ、ため息混じりに応じた。亜美にも、その場のノリで応じた。田中孫まで調子に乗ってきたので、手を合わせると見せかけて、舌打ちで跳ね返した。女性陣にクスクスと笑いが起こった。


 さて本題とばかりに、悠二がスクーターの状態を説明し始めると、亜美が「次は私の番やったのに」と、むくれ顔になる。

 悠二は亜美の両肩を掴み、無理やり体の向きを変えた。それから、手首のスナップを利かせて、彼女たちを掃くように散らせた。

 田中孫は乗ってきた軽トラに、新しいバッテリーと、一通りの工具を用意して来ている。簡単に直るようなら、出先で済ましてしまおうと考えていたようだ。

 しかし、結局は入院ということになって、悠二はスクーターの積み込みを手伝った。亜美たちが用もないのに、その様子をずっと見守っていた。

 固定ベルトを掛け、荷台のゲートを閉めて、田中孫と悠二は同時に手を払った。

 

 そこへ、大家宅からカラカラと音がした。

 グラッツェ安堂の住人なら誰もが知っている、大家宅玄関の引き戸の音だ。登場するタイミングを計っていたかのようだと思った。悠二と亜美だけが、いち早く目を向ける。

 安堂は手に平たい箱を持って「こんにちは」と、寄ってきた。先ほどの派手な化粧は直されていて、いつもの安堂に戻っている。

 悠二はピョコッと会釈する。


「わざわざご苦労様。引き取りは、浩さんと違うんやね」

 ニコニコしながら、田中孫に会釈した。

「爺ちゃんは最近、あんまり車に乗らんようになったんすよ。とくに夕方は見えづらくなったとか」

 田中孫は意味もなく頭を掻いている。

「あぁ、そのほうがよろしいわ。歳を取ったらいろいろと危ないしね。帰ったらよろしゅう言うといてね」

 二人がペコペコと会釈し合っていた。

「浩さんも、店のええ跡取りができて、まぁ……」


 二人の会話が続く中、悠二の背後から「ウケるわ~。ジジィの心配よりも、自分やろ」と聞こえた。

 亜美は大家さんがらみの話となると、急に毒づく。

 悠二は静かに動いて亜美の前に壁を作り、キングは亜美を抱くように口を塞いだ。なぜかアベベが鼻をつまんだので、亜美は窒息しそうになってもがいていた。

「何してはんの?」

 安堂が不思議そうに、悠二の後方に気をやった。

 悠二は前に歩み出て安堂の視界を遮りながら、意識を逸らしにかかった。

「大家さん、その箱はなんすか?」

「あぁこれ? 好かったら食べてもらおうと思って。ほら、また町内会のときの貰い物なんやけど」

 悠二に差し出された菓子を、キングとアベベが大袈裟にバンザイしてから、横取りした。

 解放された亜美が、口に手を当てて咳込んでいた。


 亜美たちは自転車を片づけると、安堂へのお礼もそこそこに階段へ向かった。その場に残った三人は、何気に亜美たちを見送った。

「あんまり、あいつらにエサを与えんといてくださいよ」

 このことについては、とくにありがたいとも迷惑とも思っていない。悠二はチラッと安堂に目をやってから、騒がしく階段を上がっていく三人を目で追った。

「ま、ええやないの」

 安堂はホホホと笑いながら、悠二を見上げた。

 一つ息をついてから「亜美ちゃんも、大きゅうならはったね」

「そうっすか? めっちゃチビのままですやん」

「そういう意味やないでしょうに」呆れた表情で悠二を見上げた。

 安堂は他に何かを言いたげだったが、田中孫を一瞥すると、手の甲を擦りながら、二人に頭を下げて戻っていった。


 辺りが急に静かになったような……。

 その場に残された男二人は、今にも暮れそうな夕日を背負っていた。長い影を落とすスクーターを、二人して眺めた。そこで田中孫が咳払いを一つする。


「そしたら、これあずかっていきます」

 悠二は、あぁとうなずいてから「俺、これがないと歩きやねんなぁ」と言って、軽トラの荷台に手を掛け、慈しむように汚れたスクーターのボディを拭った。

 すると、自転車で良ければ代車を貸す、という話になったので、今度は悠二が自転車屋まで行くことになった。


 早速悠二は助手席側に回り「お邪魔ぁ」と言ってから、乗り込んだ。

 助手席は意外にも、整備作業車にしては綺麗にしてあった。煙草臭いのが少しだけ残念だ。それと、軽トラに求めてはいけないことかもしれないが、ほんの少ししかリクライニングできない座席に加えて、足元には工具箱が置いてあったので、狭かった。商売道具を足蹴にすることには抵抗がある。つらい姿勢を強いられた。

 それも十分程度の我慢だろう、と考えていた。が、甘かった。今が四輪で駅方面へ向かうには適さない時間帯だった。車列を縫うように走る原チャリ共が結構怖い。


(修理代が高くつくんやったら、買い替えも視野に入れとかんとあかんわなぁ。手頃な中古車がなかったら、以前みたいに自転車生活に戻ってもええか。そやけど、いっぺんエンジン付きの楽さと便利さを知ってしもたしなぁ。その選択肢は……ちょっと細いな)

 田中孫は駅へと連なる渋滞から逃れて、一方通行の路地を行った。今度は部活動終わりの自転車集団が、道路一杯に広がっていた。

(就職祝いや、とでも言うて、亜美の自転車を新調したろうか? いや、車の免許を取れる歳になったんやし、その予定があるか、尋ねてからのほうがええな)

 二人は軽トラに揺られながら、一言も喋らなかった。


 悠二は、少し前からサンダル履きだったことに気づいていたが、今さら戻ってくれ、とは言い出せなかった。


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