③
昼夜の寒暖差が大きいと、お出掛けの際の服装に悩む。
田代亜美は、すれ違う人のファッションを観察しながら、駅の西口にある噴水広場に到着した。横縞の入ったブルゾンのファスナーを、きっちりと上まで閉めている。乗ってきたピンク色の自転車から降りるときに、青色の短いスカートがふわりと捲れた。それをパッと押さえて、視線をすばやく左右に走らせた。
自転車のスタンドを立てて、噴水の縁に腰を下ろした。
彼女は座ってからも、他所からの声や車の音がする度、小動物のようにそちらへ目を向けていた。
平日の午後一時半――。
駅から出てきた人は、この小さな噴水の周りを足早に通り抜けていく。止まっているのは、噴水と亜美と、ベビーカーを前後に揺すりながら談笑するギャルママが二人。
両手で口を覆い、大きな欠伸をした。せっかくの休みなのに、いつも通りの時間に目覚めてしまったので、今になって眠気に襲われているのだ。それはうつむいて目を閉じると、自分を包む空気だけが止まっているようだった。音を発しない側にいる自分を、久しいと感じていた。
すると、急に車やら信号機、人の足音からなる雑踏が覆い被さってくるような気がして、慌てて目を開けた。辺りをきょろきょろと見渡して、また大きな欠伸をした。
亜美は高校の三年間、ずっと伊藤ベーカリーでアルバイトをしている。
高校一年の梅雨前、いつものように馴染みのパン屋へ寄ったところ、店側からスカウトされたのだ。そのとき両脇にいた親友は、大いに亜美を囃したてた。
亜美は照れながら「考えさせて」と言おうとしたのだが、親友たちは「そんなん、やるに決まってるやん」と、まるで自分がスカウトされたかのように返事をした。
その勢いに絆されて、亜美はその場で「週に三日程度なら」と了承していた。
「いちおう、ご両親の承諾を貰ってきてね」
「それは……まぁ、大丈夫やと思います」
こうして亜美のアルバイト生活は始まった。
学校が夏休みに入って、毎日出勤するようになると、体が働くリズムを覚えていった。その流れのまま、彼女は二学期が始まっても、週五で働くようになった。
授業が終わってから三時間ほどレジに立つ。閉店後の清掃まできっちり終えても、七時半には帰宅できるという短時間のアルバイトだ。誰かの役に立ちながら自由になる現金の稼ぎ方を、亜美はこのときに知った。
当初は販売のお手伝いプラス軽作業員として、高校を卒業するまでという契約だったのだが……。
「亜美ちゃん、進学せぇへんの? それやったら、卒業してもこのまま働いてくれたらええわ。どう?」
そう言われたのは、半年後に高校を卒業するという時期。この店の事務全般を取り仕切る奥さんの言葉だ。
自立したい。いや、しなければならない。そう思うようになっていた頃の申し出だったので、その場で亜美は「はい、よろこんで!」と、どこかの居酒屋のような返事をしていた。
ただ、高校を卒業してからは製造にも携わるようになり、出勤時間が朝の四時半になって、初めて辛いと思うようになった。一通りの作業を経験して、周りが見えるようになると不平不満も出始めてくる。この労働に対して、この報酬は安すぎる。――有りがちな不満だ。売り上げと人件費のバランス関係よりも、給料明細の数字だけに目がいく。
そして、それよりも辛かったのは、自然と夜の十時にはベッドにもぐるようになって、大学に進学した親友たちとの間に、ズレが生じたことだ。特別朝が早い仕事でなくても、仲間内で一人だけ就職すれば、そうなっていくのは仕方ない。社会人になる覚悟が足りない、という人はいるだろうが、このまま自分一人だけがスーッと離れていく予感がして、寂しかった。
今日はここで、その中学校時代からの親友二人と待ち合わせをしている。亜美にとって親友と呼べるのは、今から会う二人だけだ。
「久しぶりに三人で服でも見にいかへん?」という提案により、二日前の晩に決まった。
袖を捲って腕時計を見ると、約束の時間まで十五分以上ある。広場に設置してある時計と照らし合わせてみても、同じだ。
唸るように口を突き出して遠くの空を眺めた。家を出るときにはなかった灰色の厚い雲が発生している。
彼女は人生初のパーマ髪を人差し指で弄りながら、足を投げ出してブラブラとさせた。
亜美は、なにげに二人が来る方角にある交差点に目をやった。すると、信号待ちをしているうちの一人、和服姿の女性に目が留まった。
(私も一着くらい欲しいなぁ)そんなことを思いながら、目を細めて視力アップを図った。――途端に亜美の表情が変わる。あからさまに嫌悪のしわが眉間に浮かんでいる。
交差点の信号が変わる前に、亜美は動いていた。隠れる所なんていくらでもあったが、咄嗟に目の前の喫茶店〈ココフラ〉へ向かった。
店の横手に自転車を停めて、小走りに出入り口へ向かう。途中、こちらに向かってくる着物姿の女性を一瞥した。まだ注意深く見ていないとわからないほどの距離がある。亜美はフウッと安堵の息を漏らして、草のアーチをくぐった。




