悠二
京阪電鉄沿線の街。七月――
神田 悠二は、額に手をやって、うっとぉしい、と唸る。
足首に巻きつく布を蹴り離そうとして足掻いた。彼が何を言おうと、四畳の寝室に響き渡る騒音が、それ掻き消していく。どこか近くで道路工事をやっているようだ。
悠二はやっとタオルケットを足元に追いやって、畳に直置きしたマットレスの上を転がった。横着にも畳との段差を利用して起き上がり、目覚まし時計を鷲掴みにして、すぐに置く。いつもより二時間ほど睡眠が足りていない。だいたいいつも正午頃に目覚める彼にとって、十時は早朝だった。
肩まで届く髪を掻き上げながらトランクス一枚の姿で欠伸を一つ。乱暴にカーテンを開くと、雨上がりの生温い空気がすり寄ってきて、彼の裸体に絡んだ。窓は一晩中開いていた。
汗ばんだ腹をペチペチと叩きながら、寝室を出てすぐの小さなキッチンに寄りかかり、しばしその体勢で脳の覚醒を待つ。自分がどこにいるのかを確認するように視線を回した。よく整頓された部屋だ。床も綺麗なもので……というより、物が少なくて生活臭がしない。
悠二はおもむろに冷蔵庫へ手を伸ばした。それは同棲時代の名残で、一人暮らしの電化製品としては大きかった。その冷気に抱かれるように、ドアに挟まって目を瞬いた。中には烏龍茶とビールと醤油とマヨネーズ。およそ食材と呼べる物は入っていない。少し迷って、烏龍茶を取った。扉を開けっ放して喉を潤していると、冷蔵庫が警告音を発した。
ヒップアタックで扉を閉じてから、洗面所へ行ってタオルをてきとうに絞り、全身に纏わりつく汗を拭っていく。そのときにキッチンの壁に設置してある電話が鳴った。
「あ~い、誰ぇ?」
(もしもし、悠ちゃん。あんた、ちゃんと食べて元気にしてんの? 電車で四十分ぐらいの所やのに、ぜんぜん帰って来ぉへんし。たまには連絡くらいしぃや。心配するやんかいさ)
実家の母親からだ。
悠二がなにも言わないうちから、母は捲くし立てた。
(あんたも、もう三十やろ。お仕事のほうは上手いこといってんのかいな?)
まだ二十九歳だと訂正しなかった。息子を〈ちゃん〉付けで呼ぶのは、そろそろ止めてほしいと思う。
「あぁ、ちゃんとしてるし、こっちはとくに変わったこともないわ」
悠二は二年前から無職だったが、そう答えた。
(ふ~ん、ほうかぁ。――話は変わるんやけど、お母さんなぁ、こないだ、えらいもん見てしもてなぁ。買い物の帰りにな……。ちょっとあんた、聞いてんのんか?)
あぁ、と返事をしながら、電話のスピーカーボタンを押して、受話器をダラリと放った。
(美紀ちゃんがなぁ、他の男と腕組んで歩いてんの、見てしもたねん。仕事関係の人って感じとちゃうかったで。あんたら大丈夫なん? どないなってんの?)
受話器の小さな穴をじっと見て、美紀の顔を思い浮かべた。
「どうでもええがな。とっくの昔に別れとるんやわ」
濡れタオルで背中を拭いながら、電話機に顔を近づけて、ぶっきら棒に言った。
岡村 美紀がこの部屋を出ていったのは、一年も前のことだ。彼女の持ち物を郵送する際に、業務連絡のような会話があったきり。それっきり、偶然、街で出くわしたことすらない。
(えぇなんや、ほうかいな。お母さん、てっきりあんたらは将来一緒になるもんやぁと思ぅて……)
「そんなん知らんがな。用がないんやったら、もう切るで」
(あ、ちょっと、あんたが振ったんか? 振られたんか……)
ピッ、プ――
まったく大きなお世話だ。こちらが充実していない分、元カノの幸せ状況報告に苛立った。
悠二は甲子園を目指していたころを思い出して、丸めたタオルを振りかぶり洗濯機に投げ入れた。その流れで、相変わらずの地響きのリズムに乗って歯を磨く。細面の先端に生えた無精髭に手をやったところで、歯ブラシを止めた。洗面台の鏡に映る顔がスッと曇った。
美紀の実家は、ここからそう遠くない。母がいったいどこで美紀と会ったというのか? それと、平日のこの時間に実家からの電話を取ったのは、やはりマズかったか。かつての同僚に、携帯電話の煩わしさはどこにいても嫁と繋がってしまうことだ、とボヤいていた奴がいたが、固定電話だって、いや、ナンバーディスプレイとかいう機能を付ければ解決するのか?
実家へは三年ほど帰っていない。久しぶりに声を聞いて、母親の顔を浮かべてみたが、会いたい、という感情は湧いてこなかった。
「しょうもない大学へ行くぐらいやったら、就職したらええのに」
一人息子が受験に失敗したとき、母の言ったこの言葉が思い出される。今思えば、あのときに予備校に通わせてくれと両親に懇願したのは、母の言葉に反発したかっただけだったような気がする。
二回目の受験に失敗したときは「せっかくやから、もう一年、頑張ってみる?」と言われた。
そのときは三日ほど部屋に引きこもった末に、ハローワークへ行こうと決めた。
母は自分の性格を熟知したうえで、そう仕向けているのではないか。思い込みかもしれないが、あのときは、そう思った。
それで悠二は県外へ出て、プラスティック製品の工場に就職した。通勤可能範囲内だったが、一人暮らしを望んだ。人の目を覗き込んでは、フフッと微笑む癖のある母と離れたくなったからだ。
そして悠二は突然会社を辞めた。二年ほどの前のことだ。
仕事上のトラブルでクビになったわけではない。人間関係でも、とくには悩んでいなかった。毎日繰り返される単純作業に飽きただけだ。そんな時期は誰にでもあることだが、そのときの勢いだけで辞表を書いた。会社の規定に沿って、律儀に退職日は一ヶ月後と記した。
案の定、その日が近づくにつれ、働く気力は回復していった。しかし、恰好がつかないという理由で、撤回しますとは言えなかった。そして、出世することも転勤させられることもなく、七年間働いた工場を辞め、そのまま無職となった。