⑮
田代家の引っ越し作業は終わっている。
重量物のレイアウトは、昨日の引っ越し業者がしていってくれたし、後の整理整頓は夏休み中の亜美が、一人で黙々とこなした。
今朝、悠二は手伝う、と宣言して、早起きしてきていたが、女性二人の小物を掻き回すわけにもいかないので、何もすることがなかった。それで手持無沙汰になったので、仕方なく亜美の読書感想文の宿題をやった。
夕方になって仕事から帰った雪子は、部屋の様子を見るなり亜美を大いに褒めた。
亜美は「来年から中学生やもん。それぐらいできるわ」と、照れくさそうに横を向く。悠二も労ってもらおうとして、亜美に並んで立っていた。しかし、こちらは逆に怒られてしまった。
その日の晩、亜美が床に入ったのを確認してから、雪子は二〇三号室を訪ねていた。
フウッと熱い息と共に、雪子が風呂場から出てくる。冷蔵庫から缶ビールを取って、悠二の斜向かいに座った。先に飲んでいた悠二の頬に乾杯して、ひと口。ああっと漏らした。
「何か嫌な感じ……」
唐突に、そうポツリと言ったきり、雪子はテレビを観ていた。
悠二がおずおずと雪子に目をやった。
仕事の愚痴を聞かされるくらいは構わない。てきとうに相槌を打って同調すればいい。しかし、調子に乗ってアドバイスしようものなら、無職のくせに! と言われそうな気がする。出会ってまだ二週間も経っていない。考えすぎか……。
悠二はテレビを観ながら、受け流した。
普段なら、悠二はいちいちそんなことを気にしない。暗くなってから出掛けたパチンコの結果と、先ほどの情事で雪子を満足させられなかったという負い目が、彼を虚弱にしていた。卓袱台の細かな傷までもが〈ボウハツゴフッキママナラズ〉という文字に見えてくる。暴発した理由については、惚れた女が自分を慕って越してきたという事実が、征服欲を刺激して、それで敏感肌になっていた可能性がある、と自己分析していた。
雪子は座椅子を回転させて、悠二と向かい合った。
「ここの大家さんって、何か感じ悪ぅない?」
「あぁ、大家さんの話?」スンと洟をすすって、首を傾げた。
「うん。ご飯を食べに出掛ける前、亜美と一緒に挨拶しに行ったんやけど……」
「嫌味でも言われたんか?」そんな馬鹿な、と言いたげな顔で言った。
「そういうわけやないけど、う~ん。大家さんなぁ、ゴミカレンダーの注意とか、騒音問題の話とかを馬鹿丁寧に説明してくれはったわ。まぁ、顔はずっとニコニコしてはったんやけど……。何かなぁ。雰囲気かなぁ」
「何やの、それ?」
悠二は鼻で笑った。
「えらい世話焼きのお婆ちゃんで、いろいろ細かいとこもあるし、雪さんと気ぃ合わへんのかもなぁ。要は慣れの問題やと思うで」
雪子は考えこんで、小さく唸る。
「このアパートの横に、ちっこい畑があるやん。あれ、大家さんがやってはんねんけど。毎年今頃になったら、ナスと枝豆をくれはるわ。他にもいろいろと貰てるけど。あ、言うてへんかった? ここって出入りが激しいねん。で、俺が一番の古株になってんのよ。何でも聞いてぇな」
ふ~ん、と雪子は納得がいかない様子。
少し考えを巡らすようにしてから「ま、ええか」と、雪子は膝を叩いた。「しばらくは面倒くさい変更手続きも残ってるし、明日も仕事やし、そろそろ戻って寝るわ」笑顔になって立ち上がった。
玄関まで行くと振り返って「悠さん、二日連続の負けは許されへんのやで」と、悠二を指差した。
「ああ、おやすみ。今晩徹夜で対策を練るわ」
悠二は雪子を送り出して、ドアの施錠をした。




