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 亜美

 その日、悠二はパチンコ屋へは行かないつもりだった。

 今日は亜美と二人、まだ家具のない二〇一号室で引越し業者を待っていた。

 雪子は住所変更のことで、朝から亜美の小学校へ赴いている。近距離の転居だが、学区が変わるようなので、少々ややこしいらしい。

 ワンルームマンションで暮らしていた亜美は、初めて自分だけの部屋が貰えるとあって上機嫌ようだ。先に持ってきていたランドセルを傍らに置いて、目下のところボール紙で表札を自作中。腹這いになって変な歌を口ずさんでいる。

 このアパートにはたしかに呼び鈴の上辺りに、ネームプレートを差し込む箇所があるが、ここの住人は誰一人として表札を掲げていない。それを亜美に伝えたところでどうなるものでもないし、がっかりさせるのは悪い気がした。なので、そちらのことは放っておいて、悠二は自分の部屋から持ってきた雑巾で、黙々とあちこちを拭いていた。


 他とは違う鳴き方をする蝉が気になるほど、二人きりになってみると喋ることがない。

 学校のこと、友達のこと、どんな話題でも構わないのに、悠二はとくに知りたいと思わなかったので尋ねようとしなかった。話さないからわからない。わからないから嫌い……。いろんな子供と接して、その結論に至ったのではなく、もっと脳の浅いところで、彼は子供全般が不得手だ。

 この二〇一号室は、悠二の部屋と間取りが逆になっているというだけで、広さはなにも変わらない。やがてすることがなくなり、悠二は二〇三号室へ戻りたくなった。


「引越し屋さん、遅いなぁ。亜美ちゃん、喉渇いてへんか? うちに来るか? テレビでも観てたらええわ」

 そう言い残して、外に出ようとした。

「コレできたら行くぅ」

「おう、そうか……」

 いちおう、で言ってみただけなのに、行く、と返事されてしまっては仕方がない。

 冷蔵庫の中にビールと烏龍茶しかなかったのを思い出して、財布の在り処をポケットを叩いて確かめた。亜美の好みはよくわからない。水を飲んでいるところしか見たことがないからだ。それならば亜美に尋ねればいいだけなのだが……そこは、てきとうに何種類か買ってこようと思った。


 共用廊下に出ると、ちょうどトラックがバックで入ってくるところだった。

 悠二は二〇三号室を通りすぎて、階段を下った。その途中で、あれが引越し屋のトラックではないと気づいたが、そのまま自販機を目指した。トラックの脇を通る際に、カラカラという大家宅の音を聞いたが、そのまま路地へ出ていった。


 コーラとオレンジとグレープ。小学生だった頃の自分を思い出して、自販機で炭酸飲料ばかりを買って戻ってくると、亜美は二〇三号室の前で、欄干の格子の隙間から顔を覗かせていた。招待しておいて留守にしていた理由を、彼はジュースの缶を高く持ち上げて伝えた。

 二階から亜美が両手を振り返してくる。(伝わってんのか?)


 駐車場に来ていたトラックは、メジャーな家電量販店の配送だった。大家宅の引き戸を一旦二枚とも外して、冷蔵庫を搬入しようとしている最中だ。

 安堂が表に出ていたので、悠二は挨拶を交わした。


「こんちは。また、ごっつい冷蔵庫を買わはったもんすね」

「いろいろ迷ってこれに決めたんやけど、ちょっと大きすぎたかもしれへんわね。店の人が、大は小を兼ねるとかなんとか言うて、とにかく高いのを買わそうとしはるんよ」

 安堂は顎に手を当てて、首を傾げていた。

「それが商売やろうけど、こっちはそんなに入れるもんてないっすよね」

「ふふ、まぁそうやわね。――あ、アパートの住人さん宛てで、クール便が届いたときなんかに、預かってあげられますわ」

「あぁそれ、助かります。えっと、ほな」

 悠二はてきとうな返事をして、階段へ向かった。


 部屋に戻ると、二〇一号室に倣って、玄関ドアとリビングの窓を開け放した。外の気温は三十度を超えていたが、今日は風が良く通った。

 亜美は台座付きの座椅子が気に入ったようで、足で勢いをつけてはクルクルと回転して遊んでいる。調子に乗りすぎると、すぐに気分が悪くなるのに。

 しばらくすると、案の定、亜美が苦悶の表情で鼻梁を揉んでいる。そして目を瞑ったまま「おっちゃんも、私のお父さんになるん?」と、卒然として訊いた。

 おっちゃん……か。脈絡もなく質問したくなるのは、遺伝なのかもしれないなどと思いつつ逡巡した。


 雪子と一緒にいたいと願っていただけで、そこまでは考えていない。結婚という形を取らなければならないのか、と逃げ腰になる自分がいることに気づかされた。

 雪子はどうだろうか?

 いずれは就職して、毎月きちんと給料を運んでくる男に変身するはず、と思っているだろうか。悠二の下腹の辺りに、久しい圧迫感があった。


「もしそうなったら、亜美ちゃんは嬉しいか?」

 そう言って、悠二は烏龍茶の入ったコップを、グレープの缶に軽く当てた。

 悠二にとって亜美は、カレーライスの皿に乗っかっている辣韭(らっきょう)のようなものだ。あっても、なくてもいい。しかし、雪子は二人が仲良くしていてほしいだろう。雪子が喜ぶほうを選択することに理由はいらない。

 亜美は訳がわからない、といった表情で缶に口をつけると、ゲッと、はっきりとゲップをした。そして「う~ん、微妙」と返答して、悠二に挑戦的な目を向けた。

 なるほど……、あまり育ちは良くなさそうだ。親の前では猫を被るタイプか、と分析する。

 悠二は、なかなか小憎らしいと思いながら、

「なるようにしかならんけど、仲良くしといて、お互いに損はないで」

 と、亜美と同じ目線の高さまで下りた。

 亜美は不敵な笑みを浮かべている。そう、お互いにね、と言わんばかりだ。

 悠二はなにかしらの協定が締結されたような錯覚を起こして、亜美に片手を差し出した。が、彼女が急にバタバタと立ち上がったので、そっと引っ込めることになった。雪子が部屋の前を通ったらしい。悠二は玄関に向かう亜美に続いた。


 

 三人は二〇三号室のリビングで、カップアイスを食べている。

 引越しの件については、雪子の携帯電話に遅延の連絡があったそうだ。荷物が少ないので遅れたところで問題ない、と彼女は笑っていた。


「もう半年ぐらいのことやし、転校せんでもええように頼んできたで。教頭先生も、そのほうがええやろって言うてはったわ」

 亜美は顔を上げて目を瞬いた。学区が変わることを、よくわかっていなかったようだ。

「お母さんなぁ、銀行さんやら保険屋さんやら、まだいっぱい連絡せなあかん所があんねんよ」

「え~晩ご飯はどうすんのぉ?」

「まだ何にもないし、今日のところはどこかへ食べに行こうか」

 亜美が嬉しそうにうなずいてから、悠二にチラリと目をやった。

「俺は……引越し作業が一段落したら、行く所があるし」

「え、そうなん?」

 雪子のウチワが止まる。

 あーあー、と合点がいったようにうなずいて「今度、じっくりと例のノートを見せてや」と微笑んだ。またウチワが揺れ始める。

「いや、あれは企業秘密ですやん」

 悠二はおどけて言った。

 雪子が白い歯を見せて、悠二へ激しく風を送った。

 プクッと膨れた亜美が「なぁ、何食べに行くん?」と、二人の間に割って入る。

 もぉ、と雪子が亜美を扇ぐと、悠二は「まぁ、ゆっくり時間を掛けていくわ」と、苦笑を浮かべた。


 それから間もなく、駐車場からトラックのバック警報音が聞こえてきた。今度こそ、と亜美が飛び出していく。

「何時頃に帰ってくんの?」

 雪子は言いながら、そろそろと立ち上がった。

「電話してくれたら、すぐにでも帰って来れるけど。まぁ遅くても、九時半には帰ってきてると思う」

 わかった、とうなずいて、雪子は外へ出ていった。


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