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悪魔とおでんとクリスマス

作者: れんティ

 「りがとーざいしたー」

やる気の無い挨拶を背に、自動ドアをくぐる。途端、澄んだ冷気が肌に刺さり、思わず首を縮めた。手元から立ち昇る湯気を一瞥し、仄かな赤色の下を足早に抜ける。すぐに、クリスマスソングは聞こえなくなった。

 既に時計は頂上を過ぎている。もう、イブではなく当日だ。

 だというのに、俺は一人、寒空の下を三十分。ここから更にコンビニのおでんを抱えて十分ほど歩かなければならない。

 これが普段なら、今日のように残業で終電を逃したとしても、帰り着いた先の家では温かく明かりが灯り、美咲さんが夕飯を用意して待っていてくれている。申し訳ないと思う反面、それを支えに頑張れた。のだが。

 「……美咲さん……」

未練がましく呟いてみる。『人生楽しく』と言ってはばからない、目鼻立ちのはっきりした女性。大学の先輩であり、同棲二年目の彼女でもある。目を閉じずとも、その姿は鮮明に思い描ける。

 だが、その彼女は今、共通の友人たる村沢遥の下に転がり込み、不貞腐れながらケーキを食べているはずだ。まだ会社にいた午後九時頃、村沢からLINEで写真が来ていた。

 日本においては恋人たちの聖夜とされる今日この日、正真正銘恋人同士である俺と美咲さんが一緒にいないのは、偏に昨日の出来事故だ。

 言葉にしてみれば簡単な事。何の事は無い、喧嘩だ。原因は俺が今日、休日出勤だった事。それが元で口論となり、後は売り言葉に買い言葉。気づけば美咲さんが着の身着のまま飛び出した後だった。後悔したところでもう遅い、メールは届いているのかどうかすら不明、LINEは未読、電話もしてみたが、留守電だった。

 ちょっとした段差に蹴躓き、ずり落ちた眼鏡を押し上げる。おろそかになっていた足元に苛立ちながら、小石を蹴飛ばそうと足を振る。しかし見事に空を切った俺の脚は、その勢いで縁石をしこたま蹴り飛ばした。

 ジンジンと爪先が火照る。その痛みすら苛立たしくて、一つ大きな舌打ちをした。

 なんだってこんな。俺が何をしたというんだ。同棲二年目のクリスマスだというのに、当の恋人と喧嘩中なばかりか残業を押し付けられてこの時間だ。……ああ、思い出すだけで腹が立つ。

 こっちの気も知らず、家族でクリスマスパーティーだと朝から一人盛り上がっていた課長は、定時になった途端、光の速さで俺に残業を押し付けて帰った。だがまあ、それはまだいい。生来の性格が災いしたのか、断りきれなかった俺も俺だし、そもそもそんな事はいつもの事とも言える。

 だが、悪い事は重なるもの。それだけでは済まなかった。

 残業を何とか終わらせ、終電に間に合うギリギリの電車に滑り込んだところまではまだよかった。問題は、その後だ。

 誰かの荷物が挟まったからと、途中駅で電車が十分ほど止まった。そのまま巻き返す事無く電車は十分遅れで進み、間に合えと祈りながら乗換駅で飛び出したものの、エスカレーターで転んだ酔っ払いにぶつかったところでジ・エンド。無情にも終電はその銀色を残す事無く次の駅へ。

 仕方なく、予想外の出費に家計簿をめくりながらタクシー乗り場へ向かった俺を出迎えたのは、先程ぶつかった酔っ払いを乗せて走り去る最後のタクシーのテールライトだった。ロータリーに残された俺の前には、赤と緑の看板群。新たなタクシーがやってくる気配も無い。

 そんなわけで、俺は寒空の下を三十分、歩き続けていたわけだ。レジ袋を持つ指の感覚はとうに薄れている。

 コンビニのある大通りから、住宅街へ入る。街灯の少ない通りは真っ暗で、足元も覚束ない。普段馬鹿みたいに電飾で彩られている家も、この時間ではもう眠ったのだろう。

 「……ただいま」

当然のように返事は無い。自ら否定しながらも、一欠片抱いていた淡い期待は無造作に打ち砕かれ、絶望的な気分で居間の電気を点けた。

 せめても、と買ってきたコンビニのおでんを食卓テーブルに置き、とりあえず着替える。ただ、風呂を沸かす気にはなれず、そのままパジャマを着た。

 鞄を放り、お茶を淹れる。曇った眼鏡に苛立ちながら、冷凍してあったご飯を電子レンジに投げ込む。使い慣れた緑色の茶碗に移し、おでんの隣に置く。

 あまりにも質素。いくら好物とはいえ、コンビニのおでんとご飯のみでは、彩りもへったくれもあったものではない。茶色と白のコントラストは嫌いではないが、美咲さんのいない食卓では、寂しすぎる。

 「……『人生楽しく』」

今、この人生は楽しいだろうか。

 二日前の俺は、迷う事無く即答しただろう。『楽しい』と。今の俺もまた即答する。『楽しくない』、と。

 半ば無意識で、おでんとご飯を交互に口に詰め込む。

 ……なんで生きてるんだろう、俺。

 美咲さんがいない今、生きる理由はなんだろうか。このまま本当に別れるなんて事になったら、俺はどうするのだろうか。

 はっと我に返る。

「……やばいな」

これは、とてつもなくやばい。それを認識すべく呟いた。

「何がやばいのですか?」

「何って、この考えがだよ。『生きる理由』とか考え出したら、もうこの先待ってるのは自殺か廃人だろ」

それはまずい。流石に死ぬのは怖い。確かに美咲さんのためなら死ぬのもやぶさかではないが、今この状況はまずい。何がまずいって、このまま本当に自殺してしまいそうな俺自身の心理状態がまずい。

 ……ん?

 全身の毛穴が開く。体温が急激に下がり、全ての血液が心臓へと集まっていくかのような感覚に包まれる。指先が冷え、箸を取り落としそうになった。

 今の、誰だ?

 その問いが俺の中で形になった途端、冷や汗が吹き出す。顔を上げるな。生存本能がそう叫ぶ。だが、怖いもの見たさと言うやつか、別の本能は真逆を叫んだ。

 ゆっくりと、視線だけを上に上げていく。おでんの皿から、食卓の反対側へ、美咲さんの席へと。

 そこで、俺は本当に箸を落とした。

「おや、落としましたよ。……これは、一度洗った方が賢明かもしれませんね」

俺の正面には、スーツ姿の男が一人座っていた。

 ……現状を確認しよう。俺は誰だ? ……佐伯正仁、西暦一九九〇年七月十九日生まれ、二〇一六年十二月二十五日現在で二十六歳。小中高大を順当に卒業後システムエンジニアとして現在の会社に就職した。大学時代に付き合い始めた美咲さんと同棲中。要領はいい方だが生来の断りきれない性格のせいで面倒を被る事が多い。中学校の頃患った中二病の後遺症で各地の神話や伝承なんかに詳しいのが実は自慢。よし、大丈夫だ。俺の意識はしっかりしている。

 なら、目の前の男は何なのだ。

 年齢は、俺より少し若い。二十代前半ほどだろうか。雪のように白い肌と赤みがかった金髪の色彩が目に鮮やかだ。身につけているのは埃一つない黒のスーツ。

 硬直した俺を、琥珀色の瞳が優しく射抜く。

「どうかしましたか?」

明らかに日本人ではない顔立ちだが、流暢に話しかけてくる。他人の家に不法侵入している事への躊躇いや罪悪は微塵も感じさせない。ただ、硬直への疑問だけを浮かべて、俺を見ている。

 その、おそらく同性であろう俺ですら見とれるほどの美貌と、見ず知らずの他人が家にいる事への恐怖、混乱からようやっと立ち直った俺は、その美青年に固定した視線に警戒を乗せ、口を開く。

「……な、何者だよ、あんた」

その問いに、美青年は全ての黄金比を使ったような絶世の美貌に柔らかな微笑みを浮かべ、答えた。

「私は悪魔です。あなたへ不幸を届けに参りました」


 何を言っているんだこいつは。素知らぬ顔で微笑みながら突拍子もない事を言い出した辺り、まともな神経はしていないだろう。

「……今すぐ出て行くなら、悪魔だろうが不審者だろうが通報はしない」

情けないほど震えた声での勧告に、悪魔を名乗る美青年は微笑を深めた。

「構いませんよ。警察が到着する前に私は消えますし、私がここにいた事を証明するものは髪の毛一本残せません。悪魔ですから」

ぐっと睨みつける。相手の口車に乗るのは避けたいが、琥珀色の瞳には絶対的な自信が浮かんでいる。通報して恥を晒すのは俺の方だと、否応なく悟った。

 それ以上に、獰猛に輝くその瞳が、俺に反抗を許さない。

「……お分かり頂けたようで何よりです」

ふと輝きが緩み、先程と同じような柔らかな微笑みに戻る。

 このまま言いなりになるのは避けるべく、合わない歯の根に鞭打って口を開く。

「あんたが悪魔だって証拠は」

「そうですね、現れ方では納得して頂けませんか?」

「そんなものどうとでもなるからな」

嘘だ。意気消沈していたとは言え、窓やドアが開くのに気づかないはずがない。ドアには美咲さんの趣味で音の鳴る飾りがぶら下がっている。ましてや窓はすぐ傍。音を上手く消したところで侵入する冷気は防げまい。

 故に、あの状況で俺に気づかれずに侵入し、あまつさえ食卓の正面に腰掛けるなど出来ようはずも無いのだ。人間には、だが。

 俺のはったりを素直に飲み込んだらしい美青年は黒いスーツの内ポケットをまさぐり、掌サイズの何かを掴み出した。

「これで信じて頂けるでしょうか?」

掌に乗せたそれを、俺の方へ差し出してくる。

 思わず受け取ろうとして、反射で腕を引っ込めた。

 美青年が掌に乗せていたのは、燃え盛る戦車だった。戦車と言えど現代のものではない。古代ローマなんかで使われる、馬が引く二輪のものだ。確か、クワドリガとかいう名前だったはず。

 それが、燃えている。幻覚やマジックの類かとも思うが、俺の体は現に反射を行った。この熱は、幻覚なんかじゃない。

 そして戦車を引く馬もまた、生きているようにうごめいている。

 メラメラと、熱気が肌を焼く。耐え切れず、叫んだ。

「わかった、わかった! あんたが悪魔だって信じよう。だからそれをしまってくれ」

「ありがとうございます」

そんな言葉と共に、戦車を握った悪魔は内ポケットにそれをしまい、再び俺を見据えた。

「それでは、改めて。私は悪魔リベラ。R、I、B、E、L、Aでリベラと申します」

うろ覚えの知識をめくる。だが、それらしい名前は出てこなかった。

「リベラなんて悪魔、聞いた事もないが」

「悪魔は大勢いますから」

そんなものか。

 とりあえず会話が終了した事を確認し、よいしょと席を立つ。台所から来客用とは名ばかりの村沢専用食器と箸を二つ取り出す。

 軽く濯いだそれの水を切り、リベラの前に置く。

「嫌いなものはあるか?」

「いえいえ、お構いなく」

そう開いた手を振るリベラを見やり、言い聞かせるよう口を開く。

「悪魔だろうが何だろうが、自分だけ物を食べながら話を聞くのはきまりが悪いだろ。黙って受け取ってくれ」

そういいながら、適当な具を皿に移していく。幸い、少し多めに買ってある。

「そういう事でしたら、ありがたく頂戴します」

そう言って手を合わせたリベラの皿に具を移し終え、差し出した。


 「……それで、悪魔が俺に何の用だ」

皿のおでんをつつきながら、用件を伺う。これで俺の死が確定したとか災害が起こるとかだと笑えないが。

 けれど、俺の心配はどこ吹く風、リベラと名乗った悪魔はその作り物めいた絶世の美貌でふわりと笑った。

「先程も申しましたように、あなたへ不幸を持って参りました」

不幸を持ってきた。それがどういう事なのか、俺にはよくわからない。

 大根を半分にして口に放り込む。

「こんな日にか? クリスマスってのはキリスト教のイベントだろ。悪魔の出る幕はないんじゃないのか」

「ところが、そうもいかないのですよ」

俺の問いに、リベラは溜め息でもつきそうな顔でそうぼやいた。視線は、牛すじに固定されている。

「禍福は糾える縄の如し、もう少し一般的に言うのならば正負の法則、というやつです」

何となく、察する。

 大根のもう半分を口に入れる。

「聖ニコラスの奴が幸福を配って歩くものだから、こちらも不幸を配らない事にはバランスが取れないんですよ」

クリスマスに奇跡が溢れているかと聞かれても首を捻るしかないが、確かに幸せの象徴のような日ではある。そしてそればかりでは成り立たないのがこの世界なのだろう。

 それは、理解した。

 咀嚼した大根を飲み込む。

「だからと言ってなんで俺なんだよ」

「無作為に抽出した結果ですよ。そこには何の因果もありません。再抽出の確率はコンマ五桁以下ですのでご安心を」

「それはわかった。で、俺にそんな事を言って終わりじゃないだろ」

行儀が悪いとわかっていながら、箸を突きつける。丁度ちくわを口に含んだところだったリベラは、慌てて飲み込んでいるのか数秒もごもごとした後、咳払いをした。

「ええまあ。とりあえずの目的は不幸の訪れを告げる事でしたが」

その言葉を、鼻で笑う。

「今以上に不幸な事なんてあるのか」

「いえ、現在が既に私の持ってきた不幸なのですよ」

今日までの不幸を思い返す。確かに、ここ数日、具体的には美咲さんと喧嘩する日、休日出勤が告げられた時から不幸が続いている。続き過ぎていると言うべきか。

 自然、眉間に皺が寄る。

「あんたのせいかよ」

剣呑な色を帯びた詰問にも、リベラは顔色一つ変えず、

「ええ。急遽今日が出勤日になったのも、そのせいで川成美咲さんが激怒したのも、以降連絡がままならないほど決別しているのも、今日残業をさせられたのも、終電に間に合わなかったのも、タクシーに乗れなかったのも、コンビニのレジで四十円ばら撒いたのも、道端の小石を蹴るのに失敗して縁石を蹴り飛ばしたのも、全て私が持ってきた不幸なのですよ」

のたまった。

 全て、ここ数日俺を襲った不幸だ。改めて、リベラが悪魔だと痛感する。

 どれも、知るはずの無い事だから。

 それにしても、改めて今までの不幸が明確な誰かのせいだと言われると、収まりかけていた怒りが再燃してくる。リベラの言葉を信じるならば、俺の運が最悪だっただけという事になるが、それでも。

「彼女と喧嘩させたり、残業させたり、嫌味な事するよな」

そんな皮肉にも、リベラは笑う。

「悪魔というのは狡猾さが性分ですから。確実に人の痛い部分を突いていくものなのですよ」

俺を見据える琥珀の瞳が、獰猛に輝く。気を抜けば骨まで食い千切られてしまいそうなその迫力に、背筋が寒くなった。

「でも、ご安心を」

今しがたの迫力が嘘のように柔らかい微笑みで、リベラが告げる。

「クリスマスに悪魔が配る不幸は、『短期間で修復可能な範囲内』と定められています。そして、今日あなたが眠りについた時点で不幸は終了、次に訪れるのは幸福でしょう」

面食らって黙り込む。悪魔に幸福の訪れを告げられるというのはどんなものかと思うが、今目の前に悪魔がいる時点で十分おかしい。今更何が増えようと大事には思えないな。

「精々、期待しないで待っているさ」

くすりと笑ったリベラの顔で話は終わりと判断し、食器を重ねる。

「おでん、ご馳走様でした。申し訳ありませんが明日までこの部屋に留まらせて頂きますね」

「勝手にしろ」

短く返し、食器を流し台に突っ込む。洗い物は明日に回して、今日はもう寝てしまおう。

 よろよろと歯を磨き、布団に倒れ伏したところで俺の意識は暗転した。


 霞がかったような意識で寝返りをうち、枕元の時計に手を伸ばす。冷たい床に呻きながらペタペタと時計を探していると、不意に枕元で声がした。

「こちらですか?」

差し出された白い手から、慣れ親しんだ時計を受け取る。

「……ん……まん……」

自分では『すまん』と言ったつもりでも、口から出て行くのはよくわからない言葉だけ。昨日の残業が想像以上に堪えているようだ。

 とりあえず、差し出された時計を確認する。時刻は午前九時だ。休日としてはいつも通りとも言える時間。

 ……ん?

 がばりと布団を跳ね飛ばす。飛び起きた俺に小さく声を上げた手の主を、まじまじと見つめた。

「……どうかなさいましたか?」

黒のスーツに身を包む、雪のように白い肌、赤みがかった金髪。琥珀色の瞳を細めて笑いながら、優美な動作で首を傾げる青年。

 パニックで停止した頭を無理やりに動かし、昨夜の記憶を掘り起こす。

 混乱してしまった気恥ずかしさを押し殺すように、努めて迷惑そうな顔を作る。

「まだいたのか、リベラ」

そんな言葉を受けたリベラはと言えば、微笑みに苦々しさを乗せた。

「昨晩、明日まで留まらせていただくとお伝えしたはずですが」

「わかってる」

簡単な言葉を返事とし、眼鏡を引っ掴んでよろよろと寝室を出る。そのまま風呂場に直行し、冷気に身震いしながらシャワーを浴びる。

 熱湯と言って差し支えないような温度で体を温めながら、俺は改めて自分の無防備さに呆れ返った。

 悪魔を名乗る何者かが家にいる事を容認したばかりか、おでんを与え、あまつさえ眠るとは。これで泥棒だったり殺人鬼だったりしたら笑えない結末になるところだった。

「……はぁー」

大きく溜め息を一つ。

 もう一度美咲さんに電話をしてみよう。

 そう決意し、シャワーを止めた。

 

 朝食の用意は気が乗らず、後に回す。美咲さんの席で手持ち無沙汰に掌の戦車を眺め回していたリベラに、一言告げる。

「電話かけるから、一応頼む」

「ええ、ご心配なく」

不法侵入してきた悪魔に気を使うというのもどうかと思うが、一応居間から廊下へ出る。寒さに身震いしながら、携帯のスリープを解除する。

 だがロック画面に表示されたのは時刻ではなく、村沢からのLINEメッセージだ。

『起きてるー? 昨日の夜から美咲先輩も落ち着いてきたから、電話するなら今だよ! 頑張れヘタレ!』

一言多いメッセージに苦笑しながら、心遣いに頭を下げる。

 無事に仲直りができたら、今度お菓子でも買っていってやろう。それも、とびきりおいしいやつを。

 寒さ以外の要因で震える指を必死に制御しながら、連絡先リストから美咲さんの名前を呼び出す。ここ二日で慣れてしまった動きで、電話のマークに触れた。

 発信が開始され、画面が切り替わる。祈るような気持ちで目を閉じ、携帯を耳に当てた。

 一回目のコール。続けて二回目。三回目。四回目。

 絶望的な気分で携帯を下ろしかけた瞬間。

『……もしもし?』

まるで何年も前に聞いたような、慣れ親しんだアルトが響いた。

「……もしもし、美咲さん?」

『おはよう、正仁君』

「おはようございます、それとメリークリスマス」

正直に言って、どんな会話をすればいいのかわからない。出勤日の件を謝ればいいのか、それとも機嫌を伺い、代替案を提案すればいいのか。

 わからないし、仲直りの目処は立たないが、それでも繋がった。美咲さんの声が聞けた。それだけで、今は十分な気がした。

「……美咲さん、あの、ですね」

それでも、更に上を望んでしまうのが人間の性。

「出勤日の件、なんですけど」

二年で慣れたはずのため口が、利けない。それほどまでの緊張感。

「すいませ」『ごめんね』

「……いえ、俺の方こそすいませんでした」

出鼻を挫かれ、返答に間が空く。それが、誤解を生んでいなければいいが。

『ううん、悪いのはあたしだよね。休日出勤は正仁君のせいじゃないのに、頭に血が上ったんだ。なんであんなに酷い事言ったのか、今でもよくわからないけど……って、これは言い訳だね。本当に、ごめんなさい』

ちらりと居間を見やる。こちらを向いてニコニコしていた作り物めいた美貌と、目が合った。

 だがまあ、流石に俺に取り憑いた悪魔が原因だなどと口が裂けても言えるはずがなく、とりあえず頭を下げる。

「いえ、俺も随分言い返しましたから」

『じゃあ、おあいこだね』

「そうですね」

口元が、緩む。それは向こうも同じなのか、スピーカーから弾んだ声が流れ出す。

『あー、なんか一回謝ったらすっきりした! じゃあ、これから帰るね。せめて今日くらい二人で過ごそうか』

「ええ。楽しみに待ってますから」

「うん! それじゃあね」

通話が切れる。美咲さんの声から不通音に変わったそれを下ろし、廊下の冷たい壁に背を預けた。大きく息を吐く。

 まだ心臓が踊り狂っている。情けないほど膝が笑って、とてもではないが自分の力で立っていられなかった。

 ふらふらと覚束ない足取りで居間に戻り、自分の席に倒れこむように座る。そこでようやく理解が追いついた。

 大きな溜め息が漏れる。理由の違う震えが支配する腕を押さえて携帯を放り出し、背もたれに全身でもたれかかる。

「上手く行ったようで何よりです」

「ああ。あんたの言う通り幸福が来た」

変わらず微笑むリベラを見やり、口角を上げる。

「感謝するよ。あんたが何の悪魔か……知らない……が……?」

自分の言葉に対して疑問が膨れ上がり、尻すぼみになる。

 何の悪魔か知らない。そうだ、俺は、目の前の美青年が何の悪魔か知らない。そして、そんな事はありえない。

 ずり下がった眼鏡を押し上げ、脳みその回転数を上げる。

 一般に、『悪魔』と言えば悪いやつで、少し知識があれば宗教における神の敵対者だという事を知っているだろう。そう、悪魔は別に無尽蔵にわらわらと存在しているわけではない。全てにきちんと名前があり、個別の容姿があり、役目や特徴がある。

 中でもクリスマスという行事が関連するのは、基本的にキリスト教だ。そして、キリスト教における悪魔の中に、リベラなんて名前はない。

 なら、こいつは何なのだ。悪魔であるという前提が正しいとするならば、こいつは、何かを偽っている。

 急速に頭を回しているが故に黙り込んだ俺を、リベラが心配そうに覗き込んでいる。だが、それへの反応は二の次だ。

 ……いや、待て。昨日、こいつはなんと言った? 最初に自己紹介をしたとき、こいつは聞いてもいないスペルまで言っていた。そうだ、確か、R、I、B、E、L、A。RIBELA(リベラ)。……B、E、R、I、A、L。

 はっと顔を上げる。その大仰な身振りに驚いたのか顔を仰け反らせたリベラを、眼鏡のレンズ越しに睨みつけた。

「……ベリアル(・・・・)

微笑みを強張らせたリベラ、もといベリアルに、俺は二時間ドラマの探偵よろしく真実を突きつける。

「あんたの名前は、リベラじゃない。ベリアルだ」


 その指摘を、ベリアルは笑った。先程までの柔らかい笑みではない。酷薄な、まさしく悪魔というべき笑いで。

「くくっ……ははっ! ええ、正解です。しかし、よくわかりましたね」

「子供の頃、中二病にかかった事があったんだよ。その頃に神話やら悪魔やら調べまくったからな、それについては詳しいつもりだ」

「なるほど、これはぬかりました」

 ベリアル。その名は『無価値なもの』や『悪』を意味し、ソロモン王が使役したとされる七十二の悪魔の中でも序列六十八番の強大な王。キリスト教においては神が最初に作った天使であり、その後地獄に落とされたとされる。そして、燃え上がる(・・・・・)戦車に乗り(・・・・・)美しい天使の(・・・・・・)姿で現れる(・・・・・)

 最初から、ヒントは出されていたのだ。名前しかり、戦車しかり、容姿しかり。ただ、俺がわかっていなかっただけ。

「……ルシファーに次ぐ高名な堕天使様が、俺に何の用だったんだ」

「私が何者であろうと、その目的は変わりませんよ。私はあなたに不幸を渡し、幸福の訪れを告げるためにここを訪れたのです」

 違和感が、俺のうなじの辺りをつつく。何か、大事な事を忘れているような。

 ……ベリアルの書? 違う。イエスとの裁判? 違う。そんな出来事ではない。もっと別の、そう、ベリアルという悪魔の本質に関する何か――――あ。

「……あ……ああ……あああ……!」

そうだよ。そうだ。なんで忘れていたんだ。あの中二心をくすぐったあの一文を。どうして俺は忘れていたんだ。

 ――――ベリアルは、生け贄を(・・・・)捧げなければ(・・・・・・)要求に対して(・・・・・・)真実を答えない(・・・・・・・)

 背筋が冷たくなっていく。昨晩初めてベリアルが現れたときのように、指先が冷えていく。全身の毛穴が収縮し、血液が心臓に戻っていくかのような感覚が襲う。ぐらりと、目の前が揺らいだ。

「……全部、嘘……」

今までの言葉は、全て偽り。

 いや、違う。現にこいつは正真正銘悪魔だ。それは間違いない。不幸がこいつのせいなのも間違いない。全てがまるまる嘘ではない。

 なら、何が嘘なのか。

(それでは、改めて。私は悪魔リベラ。R、I、B、E、L、Aでリベラと申します)

(無作為に抽出した結果ですよ。そこには何の因果もありません。再抽出の確率はコンマ五桁以下ですのでご安心を)

(ええまあ。とりあえずの目的は不幸の訪れを告げる事でしたが)

(クリスマスに悪魔が配る不幸は、『短期間で修復可能な範囲内』と定められています)

(今日あなたが眠りについた時点で不幸は終了、次に訪れるのは幸福でしょう)

昨夜聞いたベリアルの言葉が、次々に耳の奥で蘇る。それが、全て嘘だとしたら。

 再び、背筋が寒くなった。

 それらの言葉が嘘ならば――――これから、更なる不幸が訪れる。

「……全部、これから起こる不幸のための、ぬか喜びだったって事か」

ベリアルは、何も答えない。ただ、獰猛に輝く琥珀色の瞳で、俺の呟きを見ている。

 何が起こる。何が起こるんだ。悪魔に選ばれたのは俺一人。直接関係のない周囲を大勢巻き込むような大災厄は考えにくい。なら、俺一人か、多くても他数名がどん底に落ちるような、『短期間では修復不可能な』不幸。

(悪魔というのは狡猾さが性分ですから。確実に人の痛い部分を突いていくものなのですよ)

不意に、昨晩の言葉が蘇る。それが、もしも真実なのだとしたら。

 俺の、痛い部分。どこだ。俺は今、何を大切にしている? 俺は、なんで生きている?

 決まっている。美咲さんだ。彼女が、危ない。

「クソッ!」

悪態一つ叫び残して、携帯を引っ掴む。目を丸くしたベリアルには目もくれず、靴を突っかけて寒空の下へ飛び出した。

 頭には、唯一つ。

 一刻も早く、美咲さんの下へ。


 けたたましい音を立てて、鍵を掛けるどころか防寒具すらまともに身につけないまま矢のように飛び出していった正仁の後ろ姿を見送る。正確には、驚きのあまり見送ってしまったというのが正しいが。

 足音が遠ざかり、静かになった家の中で、ベリアルは一人困ったように溜め息をついた。

「……今時、生け贄なんてコンビニの牛すじで十分なのですけどね」

それを言う機会は永遠に来ないだろう。正仁は疑問を抱えたまま今後生きていく事になってしまった。

 最初から、今回の仕事は計算違いばかりだ。偽名を見破られる事も、話を聞かずに飛び出して行ってしまう事も。なにより、彼にとって川成美咲の存在があれほどまでに大きかった事も。

「まあ、自殺は食い止めましたし、不幸もあれで十分でしょう」

自らに言い聞かせるように呟いたベリアルは、すいと指を一振りして自らがおでんを食べた器と箸を綺麗に片付ける。

「それでは、後は聖ニコラス様に任せるとしますか」

もう一度室内を振り返り、自らがいた形跡が綺麗さっぱりなくなっている事を確認する。

 瞬間、そこに絶世の美貌を持った青年の姿はなかった。

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