愛購い
国語の授業をもっと真面目に受けていれば良かったと思う。そうすれば、こうやって陳列されている本の前で、何を買えばいいのか、迷わなくていい。
コナン・ドイル。聞いたことがあるが、あれはミステリーだ、確か。ミステリーは苦手。
ならばその隣にある、ドストエフスキーはどうだろうか……うん。これはミステリーではなさそうだ。
ぼくは、その中でも一番薄くて、すぐに読めそうなものを選んだ。「地下室の手記」という題名だった。
それを手に取り、タイミングを見計らってレジに行く。文学の「ぶ」の字も知らないぼくが何故、こんなスーパーの4階にあるような本屋にいるのか。それについて、説明するには、ちょっと時間を戻す必要がある。
ぼくは、休日になると、とある遊びをしている。
浦安駅前のマックに行き、そこでポテトとコーヒーを買う。それを3階の窓際の席でつまむ。その時、駅から出入りする人を見ながら、この人はどういう仕事をしていて、どういう暮らしをしていて、これからどこへ行くのか、自分なりに考える。
そして、ポテトとコーヒーが無くなるタイミングで、ある人に目をつけ、その人がこれからどこへ向かうか予想する。例えば、金髪で奇抜な化粧をした女性だと、きっとバーか何かの店員で、これから仕事に向かうんだろうなといった具合に。
それから実際に、その人にばれないように付いていく。本当に自分の予想が合っているかどうかを確認するためだ。まるで、ストーカーみたいで、気持ち悪がられる遊びかもしれないが、ぼくはこの遊びに「刑事ごっこ」と名付けた。
ある日の夕方。確かあの日は今にも雨が降りそうなくらいの曇天だった気がする。いつものようにマックの3階でターゲットを探していると、浦安駅へ向かって歩く、茶髪で、ポニーテールの女性を見つけた。
清楚な雰囲気で、腕時計をチラッと見て、小走りで駅に向かっている。きっとこれから出勤で、遅れそうなのだろう。しかし、この女性が何の仕事をしているのかまではわからない。
ターゲットを決めた。付いていくことにした。
電車に乗っても、女性は時計をチラチラと見ていて、よっぽど急いでいるんだろうけど、結局、電車の到着時間は大体決まっている。自分がどんなに急いでも、電車と並走して走って、追い抜くくらいの足の速さがなければ、意味がない。
女性は2駅先で降りて、人混みをかき分け、改札を出ると、駆け足で北口の階段を下りて行ってしまった。ぼくの尾行に気付いたのか、雨が降りそうだからなのか、よっぽど急いでいるのかわからなかったが、見失ってしまっては、もう探しようがない。
結局、諦めて電車に乗り、2駅戻って、その日は家に帰った。その夜雨が降った。
しかし、あれからずっとあの女性のことが気になって仕方がなかった。しっかりと顔を見たわけではないし、風呂に浸かっている時も、どんな女性だったか忘れかかっていた。ただ、どういうわけか、あの女性ともう一度会いたいという気持ちだけは、消えなかった。
次の日から、あの女性にだけターゲットを絞った。本格的な張り込みのようでもあるし、本格的なストーカーのようでもあるが、要は、その女性がどう捉えるかであって、ぼくがもし警察に連行されたの時は、すべて女性に委ねることにした。
ポテトが減ってきたころ、昨日とは打って変わって、20代女性の平均的な歩くスピードで、ターゲットがやってきた。ぼくは食べ終わってもいないポテトと、飲み終わってもいないコーヒーを店のごみ箱に捨て、女性の後を追った。
ホームの4両目の前で待っている女性の後ろに立ち、その時、初めてまじまじと女性の顔を拝んだ。顔立ちは綺麗で、特段美人というわけではないが、ぼくの中ではアリな、好みのタイプのそういう顔立ちだった。
まあ、はっきり言ってもかまわないだろう。ぼくはその女性に恋をした。
女性は、昨日と同じ2駅先で降りた。その時点で確信した。彼女は、この街に仕事で来ている、と。
それから20分ほど彼女の尾行をし、スーパーの中に入っていった。どうやらここで働いているらしかった。
そして、女性は、エスカレーターで4階まで上がり、それからバックヤードへと入っていった。さすがにそこまでは付いていけないので、エスカレーターの横にあった椅子に座って、彼女が出てくるのを待つことにした。
10分ほどで、エプロンをつけた彼女がバックヤードから出てきて、本屋のレジの前に立った。彼女は、このスーパーのテナントの本屋で「ナカヤマ」というネームプレートを付けて働いていた。
それからというもの、ぼくは、毎日この本屋に通って、ナカヤマさんとどう仲良くなるか、タイミングを伺っていた。声は小さいものの、笑顔で真面目に接客をしている彼女を邪魔するのもどうかと思い、本を買うために、それをレジに持っていくことしかナカヤマさんと話す機会は作れないと考えた。
そんな経緯があり今に至る。かれこれ1週間は経つ。
そして、今日も読みもしない文庫本を持って、タイミングを見計らい、レジに「地下室の手記」を持って行った。
「こちら、ブックカバーはお付けいたしますか?」
今では、意味が分かるものの、当初は、ブックカバーをスマホのカバーのようなものかと思っていて、「お金かかりますか?」と聞いて、恥をかいたものだが、そのおかげでナカヤマさんの笑顔を見ることができた。
「お願いします」
500円を置いたのだが、レジスターの表記は、『¥529』とあった。
「お会計529円になります」
確か、裏表紙には490円と書いていたから、てっきり、ワンコインかと思ったが、税抜きの定価の表示だったらしい。
慌てて500円を引っ込め、1000円を出すと、またナカヤマさんに笑われてしまったが、1000円を受け取りながら、
「このところ、毎日来られますね。本、お好きなんですか?」
と聞かれた。
「え? ええ……匂いがいいですよね」
とよくわからないことを返してしまい、「匂い?」と驚いた顔をされ、さっきよりも大きな声で笑われてしまった。
「確かに、買ったばかりのインクの染みた紙の匂いって、なんかいいですよねー。でも、それだけのために毎日本を買う人なんて、あなたが初めてです」
「まあ、確かに……」
彼女からおつりを受け取って、ぼくは思い切って聞いてみた。
「あの……実は、本に詳しくないんですよ、ぼく」
すると、ナカヤマさんは、「はあ……」と何を今更というような顔をした。
これ以上いても、レジに列ができるだけだし、「すみません、こんなこと……」と言い、軽く会釈をして、帰ることにした。
また読みもしないのに本を買ってしまい、無駄なことのように思えてならないが、今日はこれだけ収穫があったのだから、まあ、529円くらい安いもんだろう。
そう思いながら夕飯を外食で済ませるか、コンビニで済ませるか考えていると、「お客さんー!」と呼ぶ声がした。
振り返るとそこに、ナカヤマさんが立っていて、手にレシートを持っていた。
「お忘れ物です」
レシートはいらなかったのだが、せっかく持ってきてくれたのに、断るのも悪いと思い、受け取った。
「またのご来店、心よりお待ちしております!」
ぼくよりも深く会釈をしてそう言ったナカヤマさんと少し、仲良くなれた気がした。
家に帰って、彼女から受け取ったレシートを見て、驚いた。裏には、小さい字でこう書かれてあったのだ。
「少女」湊かなえおすすめですよ。
ナカヤマ
次の日もぼくは、ナカヤマさんのいる本屋へ行った。
ナカヤマさんは接客中、ぼくに気付いたのか、会釈してきた。
今日のお目当ては、ナカヤマさんもそうだが、今日は「少女」だ。彼女がせっかく勧めてくれたのだから、読まないわけにはいかない。
しかし、どこをどう探しても「少女」は見つからなかった。湊かなえの欄を見ても、どこにもないのだ。
「何かお探しですか?」
パッと後ろを振り返ると、ナカヤマさんが立っていた。もちろん、腰を抜かすほど驚いた。
「あ、いや、昨日、勧めてくれた……」
「ああ、『少女』ですね?」
「そうそう、それ……ないんですよねー」
すると、「おかしいな、確かここに……」と言いながら、一緒に探してくれ、バックヤードに入って、見てくれたが、結局、「少女」は現れなかった。
「すみません……ちょっと切らしてるみたいでして……」
申し訳なさそうに謝るナカヤマさんに、ぼくは、「いやいや、大丈夫ですよ。あっても、ほとんど読まないし……」と安心させるために言ったのだが、どうやら、この言葉でナカヤマさんをむっとさせてしまったみたいで、「この後、お時間ありますか?」と聞いてきた。
「ま、まあ、終電までなら……」
「最寄り、どこですか?」
「浦安です」
「それなら、一緒に帰りませんか? 私も最寄り浦安で、それに仕事ももうそろそろ終わるので」
「いいんですか?」
「もちろん。「少女」、貸しますね?」
そう言って、会釈をし、去っていく彼女の背中に「そこのカフェで待ってます!」と自分でもびっくりするくらい大声で言ってしまい、それを聞いて振り返ったナカヤマさんは、笑いながら「はい」と言った。
カフェは、本屋のすぐ横にあって、席によっては、本屋のレジが良く見える。
ぼくは、そこでアメリカンコーヒーを注文し、あえて、本屋のレジが見えない席を選んで座った。目が合うと、何となく恥ずかしくて、コーヒーを味わえないと思ったからだ。
時間もあったし、ドストエフスキーの「地下室の手記」を開いてみた。読み口こそ難しいものの、決して読めない本ではなかった。
10分の1くらい読んだところで、ナカヤマさんがカフェに入店してきた。辺りをきょろきょろと見回す私服のナカヤマさん。はっきり言って可愛かった。
ぼくは、なんだかデートの待ち合わせをしているカップルのように思ってしまい、「こっち、こっち」と手を振った。ナカヤマさんもぼくに気付き、同じように笑顔で手を振って走ってくる。
「ごめんなさい、お待たせしちゃって……」
ナカヤマさんがぼくの目の前に座り、髪を手グシで整えるしぐさをした。目線は、ぼくを向いていたのか、どうかわからなかった。彼女と目を合わせられない。
「あの……注文いいですか?」
「あ、そ、そうですね……どうぞ」
ナカヤマさんは、店員を呼び、カフェミストという得体のしれない飲み物を注文した。
「ここよく来るんですか?」
そう聞かれて戸惑った。「きみを追いかけてきたんだ」なんて言うと、さすがに引かれてしまうだろう。
「ええ……まあ……」
アメリカンコーヒーを流し込み、濁した。
「珍しいですね。浦安からわざわざこんなスーパーに……」
アメリカンコーヒーが苦く感じる。罪悪感の味だ。
それから、カフェミストが運ばれてきて、ナカヤマさんは、それを一口飲んだ。いや、飲んだというより、神前式での新婦がお酒を飲むような、口をつけて含んだというような感じだった。
それからふぅーと一息つき、やがて口を開いた。
「おいし……」
そんな他愛もない一言が、愛くるしい。
「見てくださったんですね?」
「え?」
「レシートですよ。気づかれないかと思ってました……」
ナカヤマさんは、カフェミストをじっと見つめたまま、ぼくの言葉を待っているようだった。
「まあ……」
「よかったです。気づいてくれなかったら今までのように声かけられなかったです。気まずいですし」
ぼくは本当にレシートに気付いてよかったと思った。
「それで、『少女』なんですけど、是非読んでみてください」
コーヒーカップを置きながら頷いたが、肝心の物がなければそれもできない。彼女はそれを気付いていないのか、指摘した方がいいのか、貸してくれるとは言ったのだから、貸してくださいと言ったほうがいいのか、返事に困った。
「あの……それで、『少女』なんですけど、今、家にあるんですよ」
はあ。
「それで、よろしければこれからうちに来ませんか? よろしければでいいんですけど……」
ナカヤマさんは、見ず知らずの男を自分の家に上げることに抵抗がないのだろうか。いや、もしかすると、実家暮らしでそういう心配がないのかもしれない。一応聞いてみた。
「あの、一人暮らしですよね?」
「はい。実家は鳥取です。砂丘はないですけど」
前者だとわかったところで、納得するはずがない。
「あの、ぼくのこと知らないですよね?」
「はあ……お客さんということしか……」
「それなのに、一人暮らしの、それも女性の家に見ず知らずの男を上げるって大丈夫なんですか?」
ナカヤマさんは、一瞬眉をひそめたが次には、営業スマイルで、
「お名前お伺いしてもよろしいですか?」
「神山です」
「ナカヤマです。これで、お友達ですよね?」
多分だが、営業スマイルのままそう言った。
ナカヤマさんの家は、浦安駅を降りてから、まっすぐ。ぼくがいつも行くマックでたまたま彼女を見かけたあの道をまっすぐ行き、それからすぐ近くのオートロック付きのマンションにあった。駐車場も完備されていて、ぼくの住んでいる家賃6万円のボロアパートとはわけが違う。当たり前のようにエレベーターに乗り、6階のボタンを押して、スマホをいじることもせず、「最近不審者の目撃情報がありました」と書かれている張り紙を見ながらぼくを見て、「都会って物騒ですよね」と言った。
6階で降り、その階の角部屋の表札に「中山」とあった。
「ここです。散らかってますけど……」
一言前置きをして、中山さんに続いて、玄関で靴を脱ぎ、左側に小さい冷蔵庫が置かれたキッチン、右側にお風呂やトイレを備えた廊下の先の扉を開けると、本当に散らかっていた。
「ね? 言ったでしょ?」
確かに、彼女の言葉に嘘偽りはなかったが、大体こういう前置きをする人の家は綺麗に掃除されていて、髪の毛一つ落ちていない。それだけに、こうも本棚から溢れんばかりの本が目黒で見た超高層ビル群のように連なっている光景は、逆に想像と遥かに違う、虚偽報告された気分になった。
「本当に本が好きなんですねー」
そう言って愛想笑いを浮かべるしかなかった。彼女は、正方形の炬燵机に座布団を敷いてくれて、ポンポンと叩きながら座るように促してきた。言われた通り座ると、右も左も本で、小さな書店が開けるほどの量がある。その他には、安いソファーベッドと化粧道具、下着が透けて見えるカラーボックスがあるくらいで、テレビも置いていなかった。女性の部屋というより、30代の男の一人暮らしのような部屋だ。
「なんのおかまいもできませんけど……」
と言って、彼女はテーブルに冷たい紅茶の入ったマグカップを置いた。この部屋からして十分なおもてなしだと思った。
「引いてますよね、やっぱり……」
「いや、驚いています」
物は言いようで、彼女もそれならばと納得してくれたようで、紅茶を飲んでいる。
「私、実は冷めた紅茶が好きなんですよ」
「ぼくもです」
嘘をついた。そうするしかなかったのだ。もし、ここで「ぼくは温かいほうが好きです」なんて言うと、それこそ気を遣わせてしまう。彼女の心優しい性格が垣間見えるだけにとてもそんなわがままは言えない。
「神山さん……でしたよね?」
「はい」
「おいくつなんですか?」
「今年の6月に22歳になったばかりです」
「あら、お若いですね」
22歳で若いというくらいなのだから、この人はきっと25歳より上だと思ったが、どうやら今年23歳らしく、しかも誕生日はまだ先で今はぼくと同い年なのだと言う。20代になると、1歳違うだけで若いと言われるのは、鳥取でも、ぼくの地元、山口でも一緒で、全国共通らしい。
「出身はどこですか?」
「山口です」
「あら、じゃあ、田中慎弥さんはご存知ですか?」
彼女の知り合いなのだろうか。ぼくは首を横に振った。
「じゃあ、是非読んでみてください。3年前に芥川賞を受賞された作品なんですけど、結構おすすめですよ!」
彼女は、目黒の超高層ビル群をゴジラの如く壊しながらあれでもない、これでもないと探している。「田中慎弥」という人は、どうやら作家のようだ。
「有名なんですか?」
「そうですねー。芥川賞受賞会見で一躍時の人になりましたから」
ぼくにお尻を向けたまま彼女は、まだ探している。
「あ、ありました! これです、これ!」
手に取って見せてくれた文庫本には、「太陽は動かない 吉田修一」と書いてある。「田中慎弥」でもなければ、「湊かなえ」でもない。
「これ、ずっと探してたんですよ。読みたくて読みたくて、どこに行ったんだろうなって。今日、やっと見つけることができました。感激です」
「太陽は動かない」を抱きしめたまま、彼女は動かなくなった。
「太陽は動かない」になりたいと思った。
中山さんは、「太陽は動かない」を目黒から練馬辺りに移し、東横線をかき乱すように「田中慎弥」という人の本を探し始めた。恵比寿、祐天寺、三軒茶屋……ああ、こうして見ていると親しみ深い駅が壊され、他の区へ移動させられ、見るに堪えない。
「私、吉田修一さんの小説が好きなんです」
お尻を向けたままの彼女が言った。「太陽は動かない」の作者だ。
「じゃあ、なんでその吉田修一さんの小説をぼくに紹介しないんですか?」
「それは……多分、冒されたくないからだと思います」
お尻がそう言ったのを聞いて、ぼくは変に納得してしまった。例えば、自分の贔屓しているバンドをユーチューブかなんかでたまたま偶然聴いただけの人に、「このバンド、めちゃくちゃいい。声がいいよね!」と言われると、腹を立てる人がいる。「あんまり知りもしないくせに」と。その人たちの中には、ある種、宗教に近い聖域のようなものがあって、励まされたりしながら生きているんだと思う。多分、彼女もそういう輩の一人だろう。
「あったあった! これです、これ!」
そう言って彼女は「太陽は動かない」の2分の1ほど薄い文庫本を掲げた。「共喰い」とあった。
ページをペラペラとめくってみたが、なるほど、「地下室の手記」よりは読みやすそうではある。ただ、字が多い。本を読むことが苦手なぼくに芥川賞の良さがわかるのか、不安になってきた。
「どんな話ですか?」
「それは自分で読んでから考えてみてください」
読書家のプライドなのか、思ったよりも語気を強めて言われ、それからまた目黒破壊に戻った。積み上げてきたものを壊しながらある一人の「少女」を見つけるためだと思う。言葉だけ並べてみると、ロマンチックに聞こえる不思議だ。
その間、お尻と睨めっこしているわけにもいかず、かと言って、温かいアメリカンコーヒーで満たされた胃に冷めた紅茶を流し込むのも耐え難い。せっかく探してくれたのだから、「共喰い」を読みながら待つことにした。
文章自体はさほど難解とは思わなかった。描写が頭の中で映像化されていき、もしかしたらそういう才が自分には生まれつき備わっているのかもしれないとさえ思った。ただ、読書家の彼女にそんなことを言うと、また「はあ……」と何を今更という顔をされても困る。読書というのはこういうものなんだろうと自分の中で結論付け、ぼくは黙って読み進めた。
「共喰い」の意味がやっと理解できたところで、スマホを開いた。時刻は、22時を回ったところで、さすがにお腹が空いてきた。
ふと中山さんの方を見ると、あれ? 何をやっているんだろうか。ぼくに背中を向けたまま動かない。しかし、その答えがすぐにわかった。
____本を読んでいる。
自分が部屋に招き入れ、自分が本を貸してくれると言ったにもかかわらず、だ。
「中山さん?」
驚いて振り返った中山さんの手元には「円卓」という題名の本があった。
「何読んでるんですか?」
「あ、えっと、西加奈子さんの『円卓』っていう小説」
「いやいや、何を読んでいるのか聞いてるんじゃなくて……」
そこまで言っても彼女は首を傾げたままで、本のことになると周りが見えなくなっているようで、よく本屋で働けるものだと思わず感心してしまう。それと同時に、羨ましくもなった。ぼくにはそれだけ熱中できるものがない。
「お腹空きませんか?」
「そうですねー。それじゃあ、お好きなものを食べますか!」
そう言って、彼女はおかしな行動をとった。また目黒を破壊し始めたのだ。その瓦礫の中から一冊を手に取り、
「『スプートニクの恋人』。これなんてどうですか? 甘い恋の味しますよ?」
「……食べるんですか?」
「あら、本を千切って食べると美味しいって言いません?」
「言いません」
「あら……でも、昔読んだラノベにはそういう主人公がいたんですけど……」
じゃあ、その主人公はきっとヤギに違いない。それ以上言及するのもあれなので、「共喰い」を炬燵机に置き、この辺で御暇することにした。
「あれ、もう帰るんですか?」
「ええ」
「明日早いんですか?」
「いや、休みですけど」
「本当ですかー? 私もなんですよ!」
彼女はなぜはにかんでいるのだろうか。
「じゃあ、また今日はありがとうございました……」
「あの、お腹空きませんか?」
彼女のはにかみは、ここの本を食べさせることを意味するのだろうか。いや、ここでは御馳走するが正しい表現だろう。少なくとも彼女にとっては。
「ぼく、人間なんで本は食べないです」
「そうじゃなくて、よかったら夕飯ご一緒しませんか? 私、こう見えて料理には自信あるんですよ?」
「いえ、悪いですし……」
「そうですか……じゃあ、外食して、それから銭湯でも行きます? 西葛西に雰囲気のいい銭湯あるんですよー。あ、でもこの時間からだと電車なくなっちゃいますねー。ごめんなさい。今日はうちのお風呂で我慢してください」
話がだんだん読めなくなってきた。これってつまり、
「泊まれって言ってます?」
「私は初めからそのつもりでしたけど……ダメですか?」
ダメですか? も何も……。
「常識的に考えて、それは無理じゃないですか? ぼくたちは、会っても日も浅い。お茶したのだってつい、数時間前ですよ? それで急に泊まるなんて……」
「でも、私たちもうお友達ですよね? お友達はお泊り会したり、布団の中で好きな人の話とかを眠くなるまで話すもんじゃないんですか?」
それは、女子同士、男子同士の話だ。どうやら彼女のいう「お友達」とは、同性、異性関係ないもの何だろうと思う。
「同じもの付いているわけじゃないんですよ? 男と女。夜一緒に眠るなんて……」
「確かにそうですけど、そんなのホクロだってそうじゃないですか? 右目の下についている人もいれば、神山さんみたいに鎖骨に付いている人もいますし。人それぞれ違うものですから、関係ないですよ。まして、サルと犬じゃあるまいし」
そう言って笑っていられる彼女が信じられない。
「じゃあ、もしですよ? もし、ぼくがこの場で人間という名のオオカミに豹変して、あなたに襲いかかったらどうしますか?」
「オオカミは好きですねー。幼稚園の頃、飼いたいなって思ってました。ニホンオオカミは絶滅しちゃったみたいですけど……でも、神山さんはそういうことをしない人だって信じてますから」
「どうしてそう言い切れるんですか?」
「わかるんです。目を見れば」
「目?」
「目です」
そこまで言うなら本当に襲ってやろうかとも思った。文学に、ファンタジーの世界にのめり込んでいて、彼女は本当の世界を、今自分が住んでいる世界がどうなっているか知らない。正直者が馬鹿を見る現実世界を彼女は知らない。ただ、そこまで信用してくれている彼女を裏切ることはぼくにはできない。そのことはきっと彼女も知っている。というか、見透かされている。ぼくという人間がどういう人間かを短期間で熟知している。まるで、昔、毎日のように公園で、ブランコや滑り台や砂場で泥んこになって遊んだ幼馴染だったかのように。ぼくは、もう彼女には何もできない。
「どんな目ですか、それは」
「それは、この本にも書いてありますよ?」
炬燵机の上にある「共喰い」に軽く触れた。
「……とりあえず、夕飯の後、その目黒の超高層ビル群。これを片付けましょう。これじゃ布団を敷くスペースもない」
「目黒の? あはっ、上手いこと言いますね。でも、私はどちらかというと丸ノ内のビル群に似てるような気がします」
「どっちでもいいですよ」
「まあ、最悪、ベッドを一緒に使ってもいいですし、そうすれば近くでいっぱいお話しできます。あ、そうしましょう!」
それだけは嫌なので、ぼくは、心の中でヘルメットを装着し、工具を積んだ重機に乗った。「じゃあ、片付けている間に夕飯の準備しちゃいますね!」とエプロンをつける中山さんは、もうぼくの知っている「ナカヤマさん」ではなかった。
とんだ文学少女だ。
中山さんは、カレーを作った。
本場インドのカレーなんて自慢しているが、ぼくは知っている。市販のカレー粉を使って、玉ねぎ、にんじん、豚肉(小間切れ)、じゃがいもだけを使ったシンプルなカレーであることを。まあ、パッと見瞭然なのだが、彼女があまりにも自分は料理が得意だと言い張るもんだから、心配になってビルの解体作業中に様子を伺っていた。手際よく、普通のカレーを作る工程と何ら変わりはなかったし、隠し味を入れた形跡もなかった。
「隠し味、何かわかりますか?」
付け合わせのワカメスープを噴き出しそうになった。
「入ってるんですか? 何か」
「そりゃあインドのカレーですからね。インドに関係あるものです」
インドに関係あるものと言われてもカレー以外思い浮かばない。まさか、この豚肉がインド象の肉なんてことはないだろうし、まさか、ガンジス川やインド洋の水か?
「実はお経を唱えてみたんです。般若心経。なんかご利益ありそうですよね!」
仏教ということか。それなら日本にも関係あるし、これはただの国民的な日本のカレーということになる。変な心配をして損した。
「お口に合いますか?」
「本当においしいです」と答えた。
彼女は、「それはよかった!」とスプーンを両手で持って喜んだ。なんと愛くるしいことか。文学にのめり込んでなどいなければ、完璧なのだが……天は二物を与えず、といったところだろう。よくできた世界だと思った。
「そういえば、神山さん、もうすぐクリスマスですね!」
仏教の話をさっきまでしていたのに、話題はキリスト教に変わっている。
「サンタさんの存在って信じてますか?」
逆に聞いてみた。「信じてるんですか?」と。
「居たら素敵ですよね。子供たちのところへプレゼントを届けるなんて、よっぽどの億万長者なんでしょうねー!」
その点は現実的だなと思った。彼女にしては珍しい。
「でも、見ず知らずのおじいさんからプレゼントをもらうって、ちょっと気持ち悪くないですか?」
ぼくは、彼女以上に現実的だった。
「どうしてそう思うんですか? 素敵じゃないですかー!」
「だって親は言うでしょう? 『知らない人から物をもらっちゃいけない』って。それなのに、クリスマスになったら、ニコニコ顔で『サンタさんに何をお願いするの?』って聞いてくる。おかしいと思いません? まあ、それに気づかなかった幼い頃のぼくも馬鹿なんですけど。結局、親の言うことって子供は覚えてないんですよ。言った親にも責任があると思いますけど。大体、煙突から入るって言っても、日本に煙突があるのは、銭湯くらいなもんでしょう? そもそも枕元にプレゼントなんて、不法侵入ですよ」
彼女は、カレーを食べることもせずぼくの言うことを頷いて聞いていた。目は輝いているようにも、哀れんでいるようにも見える。
「神山さんってご両親と上手くいってなかったんですか?」
どこまで見透かされているのだろうか。急に目の前の女が怖くなった。
ぼくの家庭環境は劣悪だった。母は、ぼくが小学4年生の頃、家を出た。理由はわからない。安月給だった父に愛想を尽かしたのか、他に男ができたのか、その両方なのか、そのどちらでもないのか。わからない。今となってはそれを知る術もない。
父は、酔うと毎晩のようにぼくに暴力を振るった。一升瓶が壁を凹ませたかと思うとその衝撃に耐えきれずに割れる。割れた破片の上を素足で走って逃げようとするが、髪の毛を掴まれ、引きずり戻され平手打ち一つ。足に割れたガラスの破片が刺さって、血がにじみ出ている痛みより、平手打ちの方が痛かった。それから、酒を買ってくるように強要され、夜のコンビニで小学生が一升瓶を買おうとしているもんだから、店員から年齢確認をされる。買ってこれなかったことを知ると、また平手打ちを一つ。それから所々裂けた畳の上に押し倒され、「お仕置き」という地獄のような拷問をされる。靴ベラ、竹ものさし、アイロン、剣山といろいろあったが、その時の父の気分によって毎回変わる。中でもアイロンはつらかった。
こんな劣悪な家庭環境下で育ったぼくがまともな人間になるわけがない。学校でも孤立した。誰とも口を利こうともせずに、不愛想。自分の席について何をするわけでもなく、ただ、ぼーっとしていた。クラスメイトは、いじめる気にもならなかったんじゃないかと思う。
ぼくがこんな目に遭っていることを周りは絶対に知っていた。毎晩のように酒を買わされに行くコンビニの店員も、クラスメイトも、学校の先生も、きっとぼくを見捨てた母親も。チャームポイントとも言える青痣を身に纏っているんだから、気づかないわけがない。気づかなければ、ぼくが見えていないように過ごしているのか、本当に自分のことしか考えていないのか、そのどちらかか或いはその両方だと思う。
ここでぼくがこれを苦に自殺を試みれば、全国的に問題になって、今度は責任転換をするのだろう。クラスメイトはPTAを武装し、管理を怠った学校を責める。学校側は、校長が目薬でも挿して、いじめはなかったと言った後で、家庭に問題がある。だから私たちには責任はないと主張する。父は、警察車両に乗せられた後、出るのか出ないのか、かつ丼を前にした取調室で、家庭を捨てた母のせいにするだろう。考えただけで虫唾が走り、自殺をしようとしたことは一度もなかった。
結局、高校を卒業と同時に家を出た。なるべく遠くへ遠くへと電車を乗り継いで、辿りついたのがここ、浦安だった。それから高校のバイトで貯めていた貯金で家を借り、喫茶店でアルバイトを始めた。新天地で一人、変わろうと努力した。すると、認めてくれる人たちが現れた。ぼくは変われたのだ。
そのせいで、当然、クリスマスやら正月やら、誕生日は楽しみなんて何もなかった。幸せな家庭があって、親に頼って生きる人間が大嫌いだった。自分は頼る人がいないのに、劣悪な環境下にあったせいで、夢を叶えることどころか、持つことさえできなかった。だから、夢に向かって頑張っている人間に腹が立つ。大事に大事に育てられた人間に腹が立つ。そんな幸せの中に居ながらそれに気づいていない人間に腹が立つ。
そうか、忘れてた。
この女もその一人だということを。
「中山さんは、ご両親と上手くいってましたか?」
「ええ、まあ比較的に。大学まで行かせてもらえましたし、結婚でもして、孫の顔を見せてあげられたらいいかなーって。恩返しに入ると思いますかね……あ、でも、私モテないから……」
その言葉だけで十分だった。
「中山さん、恵まれない子供の定義って何だと思います?」
この女はぼくを見透かしているはずだ。きっと、これからぼくがどうなるか、知っている。
目を見れば、わかる。
女が手をついて後退りした。
その隙にぼくは高層ビル群の瓦礫を女に投げつけた。
頭にゴツッと鈍い音が響く。女は悲鳴一つ上げない。
かまわず投げつけた。ぶつけた。
倒れて、ピクリとも動かなくなっても。ぶつけた。
なぜぼくだけがこんなに不幸なんだ!
なぜぼくがこんなに苦労しているのにこの女は笑っているんだ!
なぜ! なぜ! なぜぼくだけがっ…………!
警察車両に乗り込む姿がまるで、昔、頭の中で思い描いた父のようだった。
いや、もしかしたらあの時思い描いていた人物こそがぼくだったのかもしれない。
予言……だろうか? お告げ……だろうか?
わからない。それでいい。
取調室の椅子は思ったよりもゆったりとしていて軟らかかった。まるで、初めて人から親切を受けた気分になった。
目の前に高そうなスーツを着ている男が座っていて、丁寧な日本語でぼくに何か話しかけている。この男にもきっと家庭があって、その家庭はぼくが理想としていた家庭だと思うと、この男もいっそ殺してしまいたかったが、もうできない。
やっぱり物語の世界とは違って、想像しただけでそれが必ずしも実現するとは限らないのだろう。
ぼくは、本を買った。あの女に出会うために。今アパートにある本は、あの女との愛を購ったんじゃなくて、ぼくの求めていた温かい家庭、家族愛というものを購ったのだと思うことにした。あの女のおかげで気づけたのだ。ぼくの本当の夢を。そのための出費にしては安すぎる。
あと、かつ丼は出なかった。
完