鼓動
二車線に広がる国道に面しているマンションの4階を、歩道橋から眺めた。
405号室の灯りはまだ灯されてはいなかった。
篤紀は、仕事場から自宅まで駆け足できたその足を、休める間もなく今度は健人のバーラウンジまで走らせた。
店内を見渡してみると、ついさきほどまで詩衣がかけていたイスにその姿はなかった。
「お疲れさん。仕事大丈夫だったか?」
篤紀の姿に気づいた健人が、洗い終えたばか
りのグラスを拭きながら、駆け寄りそう問いかけた。
「詩衣は?」
「ん?ああ…つい10分くらい前に出ていった
よ」
━しまった。行き違いか。
健人の言葉に、全速力で駆けてきたせいか、今まで蓄積してきた疲労が篤紀の身体を一気に襲いかかった。
「わかった。サンキュ」
健人に告げ、引き換えそうとしたとき「ちょっとまった。」と、健人が呼び止めるので、早く帰りたい衝動を抑え、振り返った。
「…そのさ、華のこと話したけど、問題ないよな?」
「あほか!…言いわけないだろ!」
思わず自分の耳を疑いたくなる様な言葉に、なんとも間抜けな返答をしてしまった、…と頭の中はやけに冷静に分析している。
やっぱりそうだよな、と罰が悪そうにしている健人を尻目に篤紀は問いただした。
「…話したって何を?」
その篤紀の若干尖った口調に、開き直ったであろう健人はおちゃらけた表情で喋りはじめた。
その様子が篤紀の苛立ちを一段と加速させた。
「だからさ、俺が華と付き合ってたんだけど、しばらくしてお前が付き合いはじめて、その後、華は浮気してしまい、二人はジ•エンド…って感じでかな。」
それを聞き、篤紀は思わず怒鳴り散らしたい衝動にかられたが、幾分か篤紀の中に残っていた理性の方がそれを上回ったのだろう。
出来るだけ穏やかな口調で話すように心がけたが、実際のところできていたかどうかはわからない。
「…何でそんなこと話したんだよ?」
一転して、今度は真面目な表情でその問いに答えた。
「まぁ、華のことうっかり口滑らせたのは俺だし、そこは謝るけどさ…。その後、お前と華の関係を根掘りは掘り聞いてきたのはむしろむこうだぜ?」
その勢いを落とすこともなく健人は続けて話した。
「実際、もう過去のことだし時効だろ?今、華と付き合ってるって言うんなら問題だろうけど、昔の話だしさ。それに華はもう…」
そのときの篤紀にはもう冷静さや、理性なんて物は微塵も残っていなかった。握りしめた拳の間に冷や汗が湧き出ているのを感じた。
「…黙れ。」
恐らく、その時に篤紀が発した一言は健人が今まで聞いてきたどんな篤紀の言葉より迫力があったのだろう。思わずたじろみ、後ろかがみになっている健人の姿がそこにあった。
華はもう…その後に健人が何を続けて言おうとしたのかは分かっている。
ただそれを聞きたくなかった。
聞くのが怖かった。
何故なら、未だに認められないのだから。
詩衣のことはもう、頭の片隅にもなかった。華のことで頭の中は渋滞をおこしていた。
━━━華はもう、結婚して子供がいるんだから。