バイオレンス・オア・デッド!?不運公爵令嬢と暴君陛下の奇妙な結婚生活
上質なソファにテーブル。美しいティーカップに注がれた紅茶。
女は白絹の夜着に身を包み、その上から薄いガウンを羽織った姿で、柔らかなクッションに身を委ね、目の前の紅茶が静かに冷めてゆくのを眺めていた。
女の名前はエレノア・フォン・アルヴィス。
悪名高いアルヴィス家の長女で、フェルディア王国の王太子の婚約者であった————5日前までは。
※
「エレノア、君との婚約を破棄する!」
愛しの婚約者サマから告げられたそれは、華やかな夜会の場でよく響いた。
突然のスキャンダルにざわめく貴族たち。婚約者サマの腕に抱かれ、こちらを気遣わしげに見る「完全に初対面の令嬢」が視界に入ったエレノアは、思わず天を仰ぎたくなった。
「エレノアの行った数々の悪行」をつらつらと並びたてる王太子の言葉を背景に、エレノアは己の不運を嘆きながら、心の中で神を恨まずにはいられなかった。
「(これは『呪い』が発動したわね……)」
エレノアは呪われている。正確には、「アルヴィス家が呪われている」というのが正しいけれど。
——遥か昔、この国の大地を守護する大精霊の怒りに触れた祖先は、恐ろしい呪いを受けたらしい。
その呪いは命を奪うものではなく、また富を奪うものでも、力を奪うものでもなかった。
それは誰からも愛されぬよう、運命を歪める呪い。
我が一族が口にする言葉は、たとえ善意から発せられたものであろうとも、相手には悪意あるものとして届く。
慈しみの行動は傲慢に。忠告は侮辱に。心配は支配欲に変わってしまう……らしい。
エレノアは目の前の令嬢とは完璧に初対面であるはずなのだが、どうやらいじめにいじめ抜いて殺人1歩手前位までいったらしい。ついでに国家転覆未遂もやったらしい。ついでにってなんだ。本気で心当たりが無い。
エレノアは至って普通に過ごしていた筈なのだが、どんなエキセントリックな思考回路をしていれば殺人未遂からの国家転覆未遂をキメたように見えるのだろうか。
……まぁ、確かに?お世辞にも「穏やかそう」とは言えない容姿をしている事はエレノアだって自覚している。
父親譲りのキツイ目元は睨んでいると誤解され易いだろうし、高めの身長と合わさって冷たい印象を持たれがちだ。「アルヴィス家の呪い」もあって、口から出る言葉は全てキツめに変換される。
一時期は人間をペットにするのが趣味だとか、生娘の生き血で美しさを得ているだとか噂が出回ったが、もちろん全てデマだ。あたりまえだろう。
そもそもエレノアの趣味は編み物だし、美しさを得るのなら生き血よりも健康的な食事だ。アルヴィス家の優秀なコックの作る素晴らしい料理とたっぷりの睡眠、それと適度な運動がエレノアの美を支えている。
「——君は公爵家という後ろ盾を利用し、私の判断に介入し続けた!」
目の前の王太子サマが更に自分をボロカスにこき下ろすフェーズに入ったのを「よく息が持つなぁ」とぼんやりした感想を抱きながら、エレノアは婚約者の言葉を黙って聞いていた。呪いのせいで発する言葉全てがキツめに変換されてしまうエレノアだが、本来の気質はボケーッとした、少々ズレた娘だった。
……アルヴィス家には、先祖の呪いだけでなく、代々受け継がれる言葉がある。
「大いなる流れには逆らうな。災いの時こそ口を閉ざし、微笑みを絶やすな。されば人は意味を見出し、事は己の知らぬところで収まる」
要するに、「長い物には巻かれとけ。トラブルがあっても黙って笑っとけばどうにかなるから」という意味だ。
先祖の受けた呪いのせいで多方面から嫌われまくっているアルヴィス家だが、大精霊の慈悲かなんだか知らないが直接的な害が及んだ事は一度も無い。
エレノアの父も出先でしょっちゅう襲われたり暗殺されかけるが、毎度奇跡的なタイミングで回避しては怪我ひとつ無く帰ってくる。あまりにもピンピンしているものだから、小さな頃は帰宅する度に父の冒険譚のような危機一髪話をよくせがんだものだ。
今は亡き祖父も、乗る馬車が尽く事故にあったり、政敵である貴族に陥れられたりしたが、アルヴィス家は一度も傾く事なく、高齢の祖父は病気ひとつせずに自宅のベッドの上で眠るように亡くなった。
どんなに周囲から悪意を向けられたとしても、アルヴィス家の者は必ず老衰で死ぬらしい。変な呪いである。
そんなこんなでエレノアは家訓の通りに、黙って長い物に巻かれているのだ。
「……エレノア!聞いているのか!?」
どうやら断罪パートは終わったらしい。
ぜぇはぁと肩で息をしながら呼びかける婚約者——フェルディア王国の王太子であるフェリクス様へ微笑みかければキッと睨まれた。まあ、こわい顔。
「承知いたしました」
「……何?」
フェリクスがわずかに眉を動かす。
親同士が決めた(と言っても、国王からの一方的なものだ)婚約だったが、愛はなくとも情はそれなりにあった。婚約が決まってから今の今まで、共に国を支えようと、良きビジネスパートナーであろうと努力はしてきたつもりだ。
その努力が実らないのは残念に思うが、エレノアは目の前の婚約者をちっとも恨んではいなかった。
こんな事になってしまったのは、主にアルヴィス家のクソッタレな呪いのせいなので。
「婚約破棄を受け入れます」
エレノアは深く礼をした。
フェリクスとは10年ほどの付き合いだったので言いたい事は沢山あったが、全部のみこんでとびきり丁寧に礼をした。周囲の貴族のざわめきが聞こえる。
エレノアはこの先の自分の行く末を案じながらも、「呪いがある限りそう悪いことにはならないだろう」と、どこか他人事のように考えていた。
※
美しく装飾されたティーカップのふちを指でなぞり、中身を1口飲む。完璧に冷めきっていたが、味は恐ろしく美味であった。
エレノアはほう、と息をつく。婚約破棄をされてから今の今まで、色々な事がありすぎてろくに休めていなかったのだ。
「——エレノア・フォン・アルヴィス」
静かな部屋に、突然男の声が響く。ビク、とエレノアの肩が跳ねて、カップから零れた紅茶が指先をわずかに濡らした。
声のした方を見やれば、威圧感のある巨躯の男が扉の前に立っていた。いつ入ってきたのだろう、全く気が付かなかった。
カツカツと靴音を鳴らしながらこちらへ近づいてくる男の深紅の髪が。燭台の灯を受けて鈍く輝いている。
エレノアは、ドクドクと脈打つ心臓を抑えながら、何とか平静を装って口を開いた。
「レオンハルト、様」
つまらなさそうな顔でエレノアを見下ろす男の名は、レオンハルト・フォン・ヴァルディア。他国から魔界、蛮族の国と揶揄される、ヴァルガディア帝国の王であり——今はエレノアの、夫である。
そう、夫。旦那様だ。5日前に婚約破棄されたエレノアは、1週間も経たないうちに激ヤバと噂される国の王様の元へ嫁ぐ事になったのだ。とんでもないスピード感である。
「実はレオンハルト様は私の事が好きで、婚約破棄直後にプロポーズされて……♡」なんてベッタベタなロマンス小説のような展開では断じてない。政治的理由100パーセントの面白みの欠片もない結婚だ。
ここまでの経緯について簡単に説明しよう。
エレノアの祖国であるフェルディア王国の3つほど隣に、ヴァルガディア帝国という時限爆弾みたいな激ヤバのデカイ国があった。
この国、世襲制ではなく、王冠争奪戦という名の王座を賭けたバトルロワイヤルで王を決めており、さらに国力がずば抜けて高いものだから、周辺国は血の気の多い王のご機嫌をとるために胃を痛めながら外交を行っていた。
そんな激ヤバ国の、比較的胃に優しかった王が2年前に敗れた。敗れてしまった。次代の王は戦好きらしく、隣国に次々と戦争をふっかけ、どんどん支配下に置いていった。ヴァルガディアは3つほどお隣の国だったのが、気づけばフェルディア王国の真隣にいた。怖すぎ。
フェルディア王国は懇願した。「どうか戦争だけは止めてくれないか。望むものはなるべく渡すから、このまま静かに暮らさせてくれ」と。
ヴァルガディアの王は言った。「ならば金と、技術と、女を1人、妻として迎えたい。女はとびきりの悪女が良い。罪人だとしても構わない」と。
フェルディア王国はたっぷりの金と、各分野のとびきりの技術者を用意した。後は女だけだ、というところで、ちょうど婚約破棄されたエレノアに白羽の矢がたったのだ。
なんてったってエレノアは殺人未遂()に国家転覆未遂()をキメた大罪人である。しかも悪名高いアルヴィス家の娘なのだから、ヴァルガディアの王のへんてこな条件を十分に満たしていると言える。
そんなわけでエレノアは婚約破棄から数日後に結婚相手が決まり、今朝ヴァルガディア帝国に着いたと思ったらウェディングドレスを着せられ、何が何だか分からないうちに結婚式が終わり、そして今は……いわゆる初夜である。
「稀代の悪女だと聞いて楽しみにしていたが……蓋を開けてみればどうだ、か弱い野うさぎのようだ」
レオンハルトはエレノアの隣に腰掛け、彼女の持っていたティーカップを奪い、中身を飲み干す。
そして口の端からツ、とたれた分を乱暴に拭き取り、男の威圧感で動けないでいるエレノアの顎を掴んで無理矢理目を合わせた。
「っ……!」
「フェルディア王国はお前を俺に売って、お前は俺の所有物になった。だから俺はお前に何したって良いし、殺したって良い。俺のものだからな。わかるか?」
「……えぇ、」
目の前の緋色の瞳がじろりと動き、エレノアの顔を無感動に観察する。顎から首へと手のひらが移動し、獅子がいたずらに獲物を弄ぶように、ぎゅ、きゅう、と気道が圧迫される。
エレノアは恐怖で泣きたくなってきた。話が違う。アルヴィス家の呪いは命は奪わないんじゃなかったのか。幼い頃ねだった父の刺激的な日常話では、こんな直接的に害されることは無かったのに。
じわりと視界が歪む。エレノアは産まれてから今まで真面目に生きてきたというのに、どうしてこんな目に合わないといけないのか。
「お前は身一つでここに来た。この部屋から出て誰かに助けを求めようとも、この国にはお前の味方なんざいない。俺が王で、俺がルールだ。お前は俺の言うことを聞く義務がある。生きていたいならな」
「ぅ……」
「返事は?」
「は、ぃ」
「よし」
エレノアの首を絞めていた手がパッと離れ、新鮮な空気が気道を通る。「かふ、こほ」と小さく咳をしながら、少しでもレオンハルトから距離をとろうと後ずさるエレノアの膝に、ポンと何かが置かれた。
鞭である。
黒々とした革で編まれた、重みのある一本鞭がエレノアの膝の上に鎮座していた。
「……は、?」
エレノアは頭が真っ白になった。これは……なんだ?上質な革で編まれたそれは、照明をうけてぬらりと光っている。しなやかな革製のそれの先は平べったくなっている。……これは鞭、なのか?エレノアは乗馬用のものしか知らないが、これは随分と形が異なっているような気がする。しかし何故今、こんなものが?
さらに不思議なのは、レオンハルトが鞭?の持ち手?らしき所をエレノアに持たせようとしている事だ。
突然の事に動けないでいるエレノアの手に鞭?をぎゅっと握らせたレオンハルトは、相変わらずの感情の読めない顔のまま、エレノアの目を見て言った。
「よし、この鞭で俺をぶってみろ。できないなら殺す」
エレノアは手元の鞭を見て、レオンハルトの顔を見る。能面のような顔が、心做しかワクワクしてるようにもみえた。エレノアは言われた事をなんとか理解しようと、必死に脳をフル回転させる。
「い、」
「い?」
「イカれてますわーーーーーーーッッ!!!!」
エレノアの渾身の叫びが室内に響き渡る。淑女教育によって培われた見事な腹式呼吸。鍛え抜かれた肺活量から放たれたその声は、空気そのものをビリビリと震わせるかのように感じられるほどの迫力だった。
「『この鞭で俺をぶってみろ。できないなら殺す』!?バイオレンス・オア・デッドですわ!!『俺をぶってみろ』と『殺す』の単語が共存することってありますの!!??」
「なんだ、嫌か?なら殺そうか」
「『なら殺そうか』!!??わたくしどの立場で鞭を振るえばよろしいんですの!!??殺さないでと怯え泣きながら『できないなら殺す』と脅す加害者に鞭をふるえと!!??」
「その場合の加害者はお前だな」
「わたくしが加害者ですわーーーーーッッ!!!」
「はは、」
エレノアは恐怖が頂点に達してどうにかなってしまい、もう自分が何を喋っているのかも自覚できずにいた。
普段ならば呪いのせいで、「自動的に変換されるはずの言葉」が垂れ流しになっているのに気づかない。
口元を緩めて笑うレオンハルトを見て、「イカれ野郎ですわ……」と呟くエレノア。さらに笑みを深めるレオンハルト。室内は混沌を極めていた。
「鞭はまだ難しいか?ならその手で俺の頬を張れ。殴ってもいいぞ」
「い、嫌ですわ!」
「ならお前が死ぬか?」
「会話が蛮族すぎますわ!!この国は王族にどんな教育をしているんですの!!??」
「俺は平民出身だが」
「そうでしたわ……」
そうだった。ヴァルガディア帝国は王冠争奪戦という名のバトルロワイヤル形式で王が決まるのだ。つまり目の前の男は王族でもなんでもなく、ただの『チキチキ!勝ち抜き王様バトル』の優勝者なのだ。貴族の常識なんぞ通用しないのである。
いっぱい叫んで少し落ち着いたエレノアは、己が嫁いだヴァルガディア帝国について思考を巡らす。
「ヴァルガディアは不思議な国ですわね。王族の教育も無しに、どうやって運営しているのかしら」
「それは……この魔道具があるからだ」
レオンハルトは右手に嵌った指輪を見せる。黒い金属で出来た太めのリングは繊細な彫刻がなされており、トップには深緑色の石が埋め込まれていた。
「この指輪は意志を持っている。ヴァルガディアの王以外は身につけることができない。この指輪に『知識』があるから、俺みたいな平民でも王冠争奪戦で勝ち抜けさえすれば王としての振る舞いができる。ヴァルガディアにとって、王は強さのシンボルだ。細かいところの運営は、他のキチンと教育されたやつがやる」
「なるほど。それなら貴方みたいな人でも務まりそうですわね」
「王冠争奪戦で頂点に立つやつなんざ、全員似たようなもんだ」
「……全員が貴方のように、ぶたれるのを好む、と……??」
「そうだな」
「そうだな!!!??」
エレノアは再び混乱した。あれ程周辺国から恐れられている激ヤバ帝国の王達が、まさかの全員被虐趣味持ちである。
力で王座を勝ち取った者たちが、最終的に求めるものがソレなのか。それでいいのかヴァルガディア帝国。
「あ、えっと……ぶたれるのを好むから、みな嬉々として王座を狙う、ということ?」
エレノアはいっぱいいっぱいになりながら、なんとかレオンハルトの爆弾発言を理解しようとした。
しかしそんなエレノアの努力も虚しく、レオンハルトは首を横に振った。
「違う。王になった者がそうなる」
「どういうことですの……」
「俺の場合は、そうだな……俺は戦いが好きだ。王冠争奪戦に参加する奴らもそうだ。手練の相手に挑戦して、負けて……次こそは勝つと意気込んでいる間は楽しかった。だが、実際に勝ち抜いてしまえばどうだ。王座なんて空虚なものだ。周りは全員俺以下で、俺の目指すべき目標なんてない。……張り合いが無い」
「……」
「そんな灰色の日々の中、俺は1つの部屋を見つけた。王の指輪を持つ者しか入れない、いわば歴代の王達の私室だ。そこには王達が愛した武器や絵画、宝飾品に書物……そして先代達の残した記録があった」
レオンハルトはエレノアの顔から視線を落とし、ぎゅうと鞭を握りこんでいた彼女の手にふれ、その輪郭をいたずらになぞる。その手つきに、先ほど首を絞められたことを思い出し、ゾワリとした不快感がエレノアの背筋を走った。
「俺はその記録を見た。先代の王は俺が打ち負かしたが、それより前はもっとずっと強かったかもしれない。未知の戦術や武器だとかが書かれていると期待して中身を見たんだ」
「ま、まさか」
「内容は、被虐趣味についてだった。俺は心底ガッカリした。俺が憧れた、国の頂点に君臨した者達はみな痛めつけられるのがお好きと来たもんだ。失望すらした。そして何故自分の性生活の記録を、わざわざ劣化防止の術を施してまで後世に残すのかと。……腹立たしいことに、その記録は初代の王からあった。俺はムキになって全部目を通したさ。『何か有益な情報は無いのか』とな」
「無いに決まってましてよ……」
「だが、俺は気付いたんだ」
「嫌な予感がしますわ」
「自分よりもはるかに弱いものからの痛みを甘んじて受け入れるのは、最も強者らしい行為ではないか?と」
「わぁ……」
「きっと先代の王達もこの心理に気づき、実践しては、次代の王が頂点に立ったことで腑抜けてしまわぬように記録を続けたのだろう……俺が強者であり続けるための方法が、そこにはあったんだ……!」
レオンハルトはパッと視線を上げ、エレノアの青い瞳を見つめる。緋色の双眸はきゅうと愉しげに細められていた。部屋は適温に保たれているはずなのに、エレノアはさっきから鳥肌がたちっぱなしである。こめかみ付近を汗が垂れていく感覚もあった。『体温調節機能が壊れてしまったのかもしれないな……』と、エレノアはそんな馬鹿げたことを考えて現実から目を逸らした。
だがレオンハルトは止まらない。
「考えてみろ。少し力加減を間違えれば壊れてしまうような、お前みたいなか弱い人間から殴られるとする。普通だったら頭にきて、殴り返すだろう?だが、あえて俺はその痛みを受け入れる。俺のような強者が、抵抗することもなく、だ。弱者が与える痛みすら許容し、受け入れる……これは強者にしかできないことだろう?」
「そう……ですわね……?」
「だがここで1つ問題がある」
「なんですの」
「俺はヴァルガディア帝国の王だ」
「そうですわね。国のトップですわ」
「ヴァルガディアの王は、強さそのものを体現する存在だ。そんな王が弱者から痛めつけられている、という構図は……いささか問題がある」
「あぁ……」
「そこでいつでも口封じができる、お前のような存在が必要になる。歴代の王達はそのような者達を妻として迎えていた。だから俺はお前を娶った。理解できたか?」
「え、えぇ……」
「よし」
そうやってひとつ頷いたかと思うと、レオンハルトはエレノアの手首を掴み、自分の顔の前へと持ち上げた。
「じゃあ俺をぶってみろ。できないなら殺す」
「イカれてますわ……」
エレノアは泣きたくなった。結局のところ、状況は何ひとつ改善していない。エレノアの生殺与奪の権利は相変わらずレオンハルトが握っているし、エレノアはそれを盾に、目の前の男に暴力をふるうよう迫られている。なんだこれ、悪夢か?
エレノアは涙を滲ませながらウンウン考えた。
フェルディア王国にいた頃は呪いのせいで周囲から冷徹な悪女として名を馳せていたが、本来の気質はぼんやりとした穏やかな娘である。将来的にレオンハルトに言いくるめられて鞭をふるう事になるだろうが、今はできる限り抵抗したかった。
「ぼ、暴力以外で何かないんですの?」
「暴力が嫌なら、精神的に痛めつける方になるな」
「精神的に、とは」
「そうだな……首輪をつけて犬のように扱ったり、四つん這いにさせた上に座って椅子として使ったり、あとは……」
「何故そんなことを……!」
「なんだ?もう一度説明が必要か?」
「い、いいえ……結構ですわ……」
エレノアは手元の鞭と、掴まれた手首を見てから、きゅっと口を引き結ぶ。肉体と比べて、精神を痛めつける方がややハードルが低そうに思えた。
エレノアは覚悟を決めてレオンハルトに命令する。
「ゆ、床に座っていただけますかしら」
「……あぁ」
レオンハルトは愉しげに口を歪ませながら、ソファから降り、両足を畳むようにしてエレノアの足元に座り込んだ。エレノアは自らの足を持ち上げて、少し迷ってから靴を脱いだ。夜着に合わせた絹の室内履きだ。
そして素足をレオンハルトの太ももの上にそっとのせてから、目の前の男の様子を見て……エレノアは恐怖で背筋が凍りついた。レオンハルトが瞳孔ガン開きでエレノアの足を見つめていたからだ。
「……これは?」
「あ、足置きにしてますわ」
レオンハルトの声が硬い。エレノアの頭で出力できる精一杯の屈辱的な行為だったが、目の前の男にとってはヌルすぎて気に入らなかったのかもしれない。
『ここからどうしよう』と冷や汗をかき続けるエレノア。暫く動けないでいると、目の前の男が足首を掴んで、その形を検分するかのように触れ始めた。エレノアは慌てて止めようとして、ちょっと考えてからレオンハルトの頭を引き寄せて、その頬をぺち、と叩いた。
「あ、足置きが勝手に触らないでくださいませ」
「……」
沈黙が部屋を支配する。
あ、殺されるかも。エレノアは直感的にそう思った。頑張って精神的に痛めつけようと捻り出した言葉だったが、悪手だったかもしれない。
男の頭を引き寄せた手がじんわり汗をかいてきた。殺されるなら痛くない方法がいいな、とエレノアは男の眉間あたりを見つめながら考える。
「ふは、は……そうか。そうか、なるほど……」
レオンハルトは何かを噛み締めるように呟いた後、頬を叩いたエレノアの手首をガッッチリ掴んだ。「ひぃ、」とかぼそい悲鳴が喉奥から零れる。
「及第点とまではいかないが、中々筋は良かった。知識を入れればさらに良くなるだろうな……」
「た、たすかりましたわ……!」
「それにしても、あの力の無さはどうにかならないか?羽虫が止まったのかと思ったぞ。1回全力でやってみろ。ほら」
「あれが精一杯ですわ!!」
「チッ、そんな訳無いだろう……まず、お前は叩き方がなってない。もっと振りかぶれ。勢いをつけろ」
「う、うぅ……!」
ペチッ、と先程よりやや強めに鳴った音に、男は不満たっぷりに息を吐いた。
「ハァー……いいか?俺は忙しいんだ。この後執務室に戻って書類を片付けなくちゃいけない。ほぼ確定された書類にハンコを押すだけの退屈な事務作業だ。考えるだけでも憂鬱になるな……そんな旦那様が気持ちよくオシゴトをする為に、お前がすることはなんだ?」
「こ、紅茶をいれたり……」
「違う。俺を鞭でぶつことだ」
「話が違いましてよ!!平手打ちで良いって言いましたわ!」
「あんなものが平手打ちに入るわけないだろう」
「ぅぐ……そもそも、仕事の息抜きに鞭でぶたれにくるだなんて非常識でしてよ!皮膚は腫れますし、最悪血だってでます……王がわざと暴力を受けたと一目で分かってしまいますわ!」
「ここは蛮族の国ヴァルガディアだぞ。その場で治癒すれば解決だろう」
「その名前は自称するようなものでは無くてよ……!」
レオンハルトが鞭の持ち手を握らせようとするのを、必死に拒否するエレノア。
魔界、蛮族の国と呼ばれ恐れられているヴァルガディア帝国の城の中の、夫婦の寝室で起こった小競り合いは数十分にも及んだ。
どちらの要求が通ったかは本人達のみぞ知るが——側近曰く、「王はたいそう上機嫌で仕事をされていた」そうだ。




