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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第四章 東京湾牝馬賞

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第26話 牝馬重賞の壁

 東京湾牝馬賞に登録した。


 たったそれだけなのに、翌日から周りの声が少し変わった。


「ハルサメノツキ、重賞登録したらしいぞ」


「ロードに半馬身の馬だろ?」


「牝馬限定なら面白いんじゃないか」


「いや、さすがに重賞は早いだろ」


 厩舎の外でも、競馬場の馬券売り場でも、ハルサメノツキの名前が聞こえるようになった。


 少し前まで、誰も見向きもしなかった馬だ。


 二十万円で買われた安馬。

 一二〇〇メートルで八着に負けた牝馬。

 砂を被ると嫌がり、短い距離では追走で脚をなくす馬。


 そのハルサメノツキが、今は重賞登録馬として話題にされている。


 嬉しくないと言えば嘘になる。


 でも、その嬉しさはすぐに重さへ変わった。


「三上さん」


 黒川先生が事務所の机に資料を並べた。


「浮かれる前に、相手を見ましょう」


「浮かれてるように見えますか?」


「かなり」


「……気をつけます」


 机の上には、東京湾牝馬賞の登録馬一覧があった。


 東京湾牝馬賞。

 大井ダート一八〇〇メートル。

 三歳牝馬限定重賞。


 ハルサメノツキに合いそうな条件。


 だが、条件が合うのはハルだけではない。


 黒川先生が、一頭目の資料を指で押さえた。


「ミヤコノルミナス」


 名前だけは知っていた。


 前走、牡馬混合の一組戦で三着。

 先行して粘れるタイプ。

 馬体の完成度が高く、崩れにくい。


 映像を流すと、すぐに分かった。


 ゲートを普通に出る。

 好位を取る。

 砂を被っても嫌がらない。

 四コーナーで早めに動いて、最後まで大きく崩れない。


「……強いですね」


「ええ」


「派手じゃないけど、欠点が少ない」


「重賞で一番厄介なタイプです」


 黒川先生は淡々と言った。


「ハルサメノツキのように条件を選ぶ馬は、ハマれば強い。ただし、ミヤコノルミナスのような馬は、多少条件がズレても走ります」


「ロードグランシャリオに近いですか」


「タイプは違いますが、考え方としては近いです。地力で安定して走れる」


 俺は資料を見つめた。


 ハルサメノツキが一番走れる条件に近い舞台。

 そこに、条件を選ばない完成度の高い牝馬がいる。


 楽な相手ではない。


 黒川先生は、次の資料を出した。


「フロストリボン」


 白っぽい芦毛の牝馬だった。


 前走は大井一六〇〇メートルで二着。

 後方から直線だけで一気に伸びてきている。


 映像の中で、フロストリボンは最後の二百メートルから鋭く伸びた。


 ハルサメノツキとは違う。


 長く脚を使うというより、一瞬で前との差を詰める馬。


「切れますね」


「ええ。ハルサメノツキより瞬発力は上かもしれません」


「一八〇〇は?」


「持つかどうかは分かりません。ただ、前が速くなって、直線勝負になれば怖いです」


 俺は黙って頷いた。


 ハルサメノツキは、じわじわ伸びる馬だ。

 一瞬で置き去りにする馬ではない。


 フロストリボンに直線だけの切れ味勝負をされると、厳しいかもしれない。


 そして三頭目。


「カナリアステップ」


 黒川先生が映像を再生する。


 黄色いメンコをつけた栗毛の牝馬が、ゲートからすっと前へ出た。


 速い。


 無理に飛ばしているわけではない。

 自然に前へ行ける。


 そのまま先頭に立ち、淡々とラップを刻む。

 直線で一度迫られたが、そこからしぶとく粘って二着。


「逃げ馬ですか」


「逃げてもいいし、二番手でも競馬できます。前に行って簡単には止まらない」


「前が止まらない展開を作られると、ハルには厳しいですね」


「その通りです」


 黒川先生は資料を閉じた。


「牝馬限定だから楽、ではありません」


「はい」


「ハルサメノツキに合う条件だから勝てる、でもありません」


「はい」


「重賞に出てくる馬には、それぞれ理由があります」


 その言葉が重かった。


 重賞。


 響きだけで胸が高鳴る。

 でも、そこは夢を見る場所ではない。


 勝ちに来る馬が集まる場所だ。


「想定人気は?」


 俺が聞くと、黒川先生は別の紙を見た。


「現時点では、ミヤコノルミナスが一番人気。単勝三倍前後。フロストリボンが二番人気。カナリアステップが三番人気。ハルサメノツキは四番人気か五番人気でしょう」


「思ったより人気しますね」


「ロードグランシャリオに半馬身差でしたから」


「勝ってないんですけどね」


「競馬では、負けた内容で人気することもあります」


 前走で負けたのに、評価は上がった。


 嬉しい。


 でも、それはもうハルサメノツキが伏兵ではないということでもある。


 ハルが動けば、他の騎手も見る。

 外から来れば、警戒される。

 前の馬も、後ろの馬も、ハルサメノツキをただの穴馬とは思わない。


「マークされますか」


「少なくとも、完全に無視はされません」


「ですよね」


「それが重賞です」


 黒川先生はそう言って、窓の外を見た。


 馬場では、ハルサメノツキが引き運動をしている。


 昨日よりは、少し元気が戻ったように見えた。

 それでも、まだ本来の歩きではない。


 小柄な馬体。

 まだ薄い背中。

 前走の疲れが完全に抜けたとは言えない。


 重賞の相手を見れば見るほど、胸が熱くなる。


 同時に、怖くなる。


 この馬を、そこへ連れていっていいのか。


「先生」


「はい」


「ハルは、あの中で勝てると思いますか?」


 黒川先生はすぐには答えなかった。


 代わりに、俺を見た。


「三上さんはどう思いますか?」


 俺は資料に目を落とした。


 ミヤコノルミナス。

 フロストリボン。

 カナリアステップ。


 それぞれ強い。

 それぞれ武器がある。


 その中で、ハルサメノツキが勝つには何が必要か。


「前は流れてほしいです」


「ええ」


「カナリアステップが楽に逃げると厳しい。でも、他にも前へ行く馬がいて、ミヤコノルミナスが早めに動けば、前は苦しくなるかもしれない」


「続けてください」


「フロストリボンの切れ味は怖いです。でも直線だけの勝負にならなければ、ハルの長く脚を使う形に持ち込める」


「馬場は?」


「稍重以上。できれば少し時計のかかる湿った馬場。良馬場で前が止まらないと、カナリアステップやミヤコノルミナスを捕まえきれない」


「枠は?」


「外。少なくとも内で包まれたくないです」


 言えば言うほど、注文が多い。


 でも、それがハルサメノツキだ。


「条件が揃えば、勝負にはなります」


 俺は言った。


「ただ、勝てると言い切れるほど甘くないです」


 黒川先生は小さく頷いた。


「正しい見方です」


 少しだけ、肩の力が抜けた。


「ただし、もう一つあります」


「もう一つ?」


「相手ではなく、ハルサメノツキ自身です」


 黒川先生は、馬場を歩くハルを見た。


「前走でかなり走りました。次の追い切りで動けたとしても、レース本番までに馬体が戻りきるかは分かりません」


「はい」


「重賞の空気に、馬が飲まれる可能性もあります」


「ハルが?」


「馬は雰囲気を感じます。周囲の馬の気合い、観客、返し馬、ゲート裏。条件戦とは違う空気になる」


 ハルサメノツキは、気の強い馬ではある。

 でも、万能ではない。


 初戦では砂を被って嫌がった。

 内に包まれて負けたこともある。

 競馬を覚えてきたとはいえ、まだ三歳牝馬だ。


 重賞の空気。


 考えていなかったわけではない。

 でも、相手ばかり見ていて、そこへの意識が薄かった。


「重賞に出るって、相手が強いだけじゃないんですね」


「ええ」


「馬自身が、その場所に耐えられるか」


「それもあります」


 その時、厩舎の外から浅倉騎手が入ってきた。


「先生、ハルの次の追い切り、予定通りですか?」


「ええ。ただし、動きを見て途中で緩める可能性はあります」


「分かりました」


 浅倉騎手は俺に気づき、軽く頭を下げた。


「三上さん」


「浅倉騎手、東京湾牝馬賞の相手、見ました?」


「見ました」


「どう思います?」


 浅倉騎手は少し考えた。


「強いです」


 やっぱり、その答えだった。


「でも、ハルで勝負できないとは思いません」


 俺は顔を上げた。


「本当ですか?」


「はい。ただ、いつもの勝ち方では足りないかもしれません」


「いつもの勝ち方?」


「外でリズムを作って、三コーナーからじわっと動く。それは必要です。でも重賞だと、みんな早めに動きます。ハルだけが気分よく外を回して勝てるほど甘くない」


 浅倉騎手の声は真剣だった。


「どこかで、一つ勝負しないといけないと思います」


「勝負」


「早めに動くのか、直線まで我慢するのか。フロストリボンより先に動くのか、ミヤコノルミナスを目標にするのか。カナリアステップをどこで捕まえに行くのか」


 浅倉騎手は、馬場のハルを見た。


「ただ外を回せばいい、では勝てないと思います」


 その言葉は厳しかった。


 でも、同時に嬉しかった。


 浅倉騎手も、本気で勝つことを考えている。


 参加できればいい。

 重賞に名前を載せられればいい。


 そういう話ではない。


 出るなら、勝つために考えている。


「浅倉騎手」


「はい」


「乗ってくれますか?」


 俺が聞くと、浅倉騎手は一瞬だけ驚いた顔をした。


 そして、すぐに頷いた。


「乗りたいです」


 短い言葉だった。


 でも、十分だった。


「ハルで、重賞を走ってみたいです」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。


 ハルサメノツキを、ただの依頼馬としてではなく、自分が乗りたい馬として見てくれている。


 それが嬉しかった。


 黒川先生が釘を刺す。


「まだ出走決定ではありません」


「分かっています」


「追い切り、馬体、脚元。全部見てからです」


「はい」


 浅倉騎手は真剣に頷いた。


「それでも、出られるなら、乗りたいです」


 ハルサメノツキが馬場の向こうで鼻を鳴らした。


 まるで、自分を置いて勝手に盛り上がるなと言っているみたいだった。


 俺は思わず笑った。


「怒ってますかね」


「いつものことです」


 黒川先生が言う。


「むしろ、いつも通りで安心します」


 夕方。


 俺は一人で、東京湾牝馬賞の登録馬一覧をもう一度見ていた。


 ミヤコノルミナス。

 フロストリボン。

 カナリアステップ。

 ユメミノアカリ。

 ハルサメノツキ。


 名前が並んでいる。


 その中に、ハルサメノツキがいる。


 ただ、それだけで胸が震える。


 でも、もう浮かれるだけではいられない。


 ここは重賞だ。


 勝ちたい馬たちが来る。

 武器を持った馬たちが来る。

 それぞれの陣営が、本気でこの舞台を狙っている。


 その中で、ハルサメノツキが勝つためには、条件だけでは足りない。


 状態。

 枠。

 馬場。

 展開。

 騎手の判断。

 そして、ハル自身の成長。


 全部が必要になる。


 俺は資料を閉じた。


 重賞は、夢の場所じゃない。


 勝負の場所だ。


 出るなら、ただの挑戦ではなく、勝負として出る。


 その覚悟を持てるかどうか。


 まず問われているのは、ハルサメノツキではなく、俺の方なのかもしれなかった。

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