第八話
「お嬢様を抱き上げる事について、ですか?」
突然の質問に、マリアの侍女であり家庭教師であるローザは戸惑った表情を隠せもせず、ただただ目の前のベルンハルトとヴォルフを見上げていた。
「婚前であのように密着するのは、やはり外聞が悪いだろうか? 俺は誰に何を言われても構わんが、俺のせいでマリアの評判が落ちるような事は何としてでも避けねばならん」
「はぁ……」
え、距離感無視してあれだけ親密にしておいて今更?
ローザは目を瞬かせてベルンハルトを見たが、彼の表情は真剣そのものである。
そしてローザは侍女兼家庭教師の立場から、よくわかりましたと頷いて答えた。
「結論から申し上げれば、問題はございません。結婚式ももうすぐですし、お嬢様も喜んでおられるご様子ですから」
「そうか……!」
パァッとわかりやすく表情を明るくしたベルンハルトに、ただし、とローザは続けた。
「恙無く結婚式が執り行われるまで、婚前交渉は禁止致します。よろしいですね?」
「そっ、それは、ととと当然だろう! 承知した!」
抱き上げるのはまだセーフだが、手を出されては困ると釘を刺したローザに、この手の話にあまり免疫のないベルンハルトは顔を赤くしてブンブンと大きくかつ力強く頷いた。
その横でヴォルフはこいつ童貞だっけ?と乳兄弟の性経験についての記憶を辿っていた。
下世話な事だと思うなかれ、初夜で妻に恥をかかせないようにと、独身の貴族男性が娼館などで『手解き』を受けることはこの国では決して珍しくはないのだ。
ヴォルフ自身はそんなものを受けるまでもなく、仕事の遠征ついでに現地の子とそれなりに仲良くして帰ってくるタイプだったのだが、ベルンハルトはそういうことが一切なかったように思う。
領主であったので金は持っているベルンハルトだが、いかんせん女性に怖がられるのだ。これで事に及んだら事案待ったなしである。
(……まずいな……)
ヴォルフは真剣に考えた。
ただでさえ体格差があるのに、知識も経験もないのは危険過ぎる。
体力馬鹿の童貞ほど危険なものはないとヴォルフは常々思っており、残念ながらベルンハルトは今のところその全てに当てはまっていた。
(こりゃ仕事してる場合じゃねぇわ。でも今からプロのおねーさん呼ぶのはあまりにもタイミングが悪いよなぁ。だからって俺が説明するのもなんだかなぁ)
どうしよう、と困り顔のヴォルフがベルンハルトにこそりと耳打ちする。
「お前、まだ経験ないよな。やり方わかるか?」
ベルンハルトはそれを聞いて容赦なくヴォルフの横っ腹に拳を叩き込み、廊下に蹲る乳兄弟を見下ろして冷たい声で言った。
「余計な世話だ」
全くもってその通りである。
だが、ベルンハルトもヴォルフが自分を心配してくれたのは理解しているらしく、ヴォルフの傍らにしゃがみ込むとローザの耳に入らない程度に声を抑えてこそりと言った。
「婚約が決まってすぐに城のメイドに拉致されて強制的に座学を受けさせられたからおおよそは理解している」
これだからベルガー領民は。
ヴォルフはこの子爵の屋敷に仕える女性達のアグレッシブさに頭を抱えた。良い仕事をしたと思うが本来使用人の仕事ではない。断じて違う。でもありがとう。
ベルガー領民・強くて怖いお姉さん達による女性への接し方の授業は普通の令嬢や貴族子息が聞いたら卒倒するほど罵詈雑言が飛び交うものであったらしいが、ベルンハルトは幸い普通の貴族子息ではなかったので、そういうものかと大人しく座学を受けたという。
「座学? 実技は」
「座学だけで充分だと言われた」
「そっかぁ」
じゃあやっぱりまだ童貞なのか。
そうヴォルフは思ったが、ベルガー領のお姉さん達の座学を受けたのなら最悪なことにはなるまい。
そう信じて痛む腹を片手で押さえながら立ち上がる。
大丈夫かとローザが視線で問いかけてくるのに苦笑を返し、ヴォルフはわざとらしくばしりとベルンハルトの肩を叩いた。
「まあ、とりあえずラカン令嬢を抱き上げるのは大丈夫みたいでよかったな!」
「あぁ。安心した」
そんな微笑ましいといえなくもない二人の様子を見守るローザの背後で、可愛らしい声がした。
その声にいち早くベルンハルトが反応する。戦場で見せる反応速度と同等かそれ以上だった。
「マリア……?」
「ベルンハルト様ぁ〜!」
野原を駆ける仔兎のような軽やかな足取りでマリアが廊下を小走りにやってくるのが見え、ローザは「お嬢様、走ってはなりません!」と侍女らしく主人を嗜めたが、マリアは気にした様子もなく三人のところまで来るとえへへと可愛らしく肩を竦めた。
「ベルンハルト様のお姿が見えたのでつい」
「マリア。気持ちは嬉しいが、転んではいけないから走るのは……」
「ごめんなさぁい」
ヴォルフとローザは主人達の邪魔にならないように一歩下がったが、いつから名前で呼び合うようになったっけ?と二人とも困惑しつつも、最終的には仲が良いのは良いことだと受け流すことにした。
「ベルンハルト様」
ん、とマリアがベルンハルトに向かって両腕を伸ばす。
それを見てベルンハルトは一瞬硬直した。
これは何を求められているのか。
困ったようにヴォルフとローザへ視線を向けたベルンハルトを見て、マリアはカァッと頬を赤くして慌てて伸ばした腕を引っ込める。
「ご、ごめんなさい。ここに来てからずっと子爵様が抱き上げてくださるから、私ったら……」
つまり、先程の仕草は「抱っこして」というやつだったのか。
婚約者のあまりの可愛さに衝撃を受けたベルンハルトはよろりとよろめいて呟いた。
「……まさか王都でもそのように愛らしさを振り撒いていたのでは……?」
そんなことをすれば世界がマリアの可愛さに気付いてしまうではないか。
気付いた者は、特に男は一人残さず滅ぼさねば。
そんなことを考えたベルンハルトに、マリアはますます照れたように顔を赤くした。
「子爵様にしか致しませんっ!」
その瞬間、ベルンハルトは空に厚く垂れ込めた黒雲が割れ天使の梯子のように陽光が差し込む幻影を見た。
勝利を確信し、ぐっと拳を握ったベルンハルトが控えていたローザに伺いを立てる。
「侍女殿、あの、よろしいだろうか」
「お嬢様のお望みのままに」
ローザはベルンハルトがマリアの可愛らしさの直撃を受けて瀕死になりかけているのを見て、うちのお嬢様は呼吸をしているだけでも可愛いのだから当然だろうと真顔で思っていたが、それでも彼女はとても優秀な侍女であったので、表情を崩す事なくベルンハルトの意図を瞬時に理解してどうぞと頷いた。
ローザの返答にベルンハルトはようやく安心してマリアに向かって腕を伸ばした。
「マリア、おいで」
「はい、ベルンハルト様っ」
そしてベルンハルトはマリアを抱き上げると、実に満足そうに笑みを浮かべた。マリアも安心した様子で身を任せている。
「ベルンハルト様、これからどちらに?」
「あぁ、少し仕事を片付けようと思ってな。執務室に向かうところだ」
「まあ。見学していてもよろしいですか? 領主としてお仕事なさるところを見てみたいの。お邪魔にならないように気をつけますから」
「構わないとも」
歩き出すベルンハルトの背中を見て、ヴォルフはハッと我に返った。
その横で同じく控えていたローザはお嬢様を頼みますとヴォルフに小さく頭を下げて言った。
「私はお茶の支度をしてからまいります」
「よろしくお願いします!」
背中にローザの声を受け、ヴォルフは主人の背を追って自分もまた歩き出す。
なおこの後、マリアが見ているという理由だけでベルンハルトがいつも以上どころか尋常でないスピードで執務をこなしたので、ヴォルフは予想以上に自由時間を得てご機嫌な休憩時間を過ごしたのだった。




