第二十二話
マリアは呆然とした表情で床にへたり込んでいた。
両の瞳から涙がボロボロと溢れ、頬を伝っては静かに床に落ちていく。
それを拭うこともせずに、マリアはただただベルンハルトを見つめていた。
まさかトビアスが自分の着ていたドレスの陰に銃を隠していたなんて気が付かなかった。
涙で歪んだマリアの視界の中、ベルンハルトはぐったりと冷たい石床にうつ伏せに倒れていた。
(どうしてこんなことに……。私がここに来たから? 私が無理に婚約を取り付けたりしたから、ベルンハルト様は……!)
誰も助けてくれなかった夜会で、唯一差し伸べられたあの大きくて頼もしい手。
その手に縋ってしまったのが間違いだったのだろうか。
あの夜会でベルンハルトに助けられた時、マリアは生まれて初めて一目惚れというものを体験した。
ベルンハルトがマリアに脱げた靴を履かせてくれる間に感じた膝の温もりも、頬の熱さも、胸の高鳴りも、今だって鮮明に思い出せる。
彼に嫁ぐことを両親に承諾してもらい、王都から遠路はるばるやって来たベルガー領で改めて対面してからも、ベルンハルトはいつだってマリアに優しくて、少し不器用なところも可愛くて、マリアはますます彼に惹かれていった。
こんなに可愛い人が周りの令嬢から恐れられていただなんて到底信じられないほどだった。
一緒にいるだけなのに一秒毎に好きな気持ちが更新されて溢れてしまうような、そんな恋だった。
ベルンハルトの優しさに報いたい。この人と共に生きていきたい。
そんな風に抱いた気持ちは全て間違いだったのだろうか。
「ベルンハルト様……。ごめんなさい、私が嫁いで来たりしなければ……。ごめんなさい、ごめんなさい! 私のせいで、こんな……っ!」
うつ伏せたベルンハルトの背に取り縋り、彼の背に感じる温もりにまたじわりと涙が滲む。
この温かさもすぐに失われてしまうというのか。
マリアは温もりを逃すまいとベルンハルトの広い背に強く頬を押し付けた。
「いやよ、ベルンハルト様。お願い。私を置いていかな、い……で?」
……いや、なんだかすごく温かいな。
想像以上の体温に、マリアはベルンハルトの背に頬をくっつけたまま目を瞬かせた。
え、冷たい床の上に倒れているのに、まだこんなに温かいものなの? あれ? ベルンハルト様ったら代謝がよろしいからむしろ熱いくらいだわ。……でも、どうして?
パチパチと目を瞬かせるマリアの背にはまだトビアスの笑い声が聞こえている。
ベルンハルトを倒し、壊れたおもちゃのように笑っているトビアスからはマリアの背中しか見えないので、当然キョトンとしたマリアの顔も見えてはいない。
マリアは気付かれないようにそうっと頭の位置をずらし、ベルンハルトの左胸に背中側から耳を当てた。
──どくん、どくん、どくん。
動いている。割としっかりとした音と力強さで動いている。これは絶対に死にゆく人間の鼓動などではない。
ちっとも弱々しくなっていない心音を聞いたマリアは弾かれるようにパッと顔を上げた。
そういえば出血している様子がまるでない。
(あの距離で胸を撃たれたのよ。それなのに、そんな、まさか……!)
お願い。目を開けて。
祈るような気持ちでマリアは唇を震わせた。
「ベルンハルト様、起きて……っ」
同じ頃、ヴォルフは静かな声でぽつりと呟いた。
呟きは静かで、平坦で、そしてその声音にはこれっぽっちの温度もなかった。
「姐さん、どうするよコレ」
その声に反応してミアは小さく息を吐く。
「さて、どうするかな」
こちらも静かで、不気味すぎる程に静かでゆっくりとした声だった。
ずっと見守っていた使用人たちも一様にゆらりと亡霊のようにその場に佇んでいる。
ただ、彼らのその目だけが唯一ギラギラと鈍く光り、トビアスへと注がれていた。
「ははは! この子爵領の特権許可証を破棄してやるつもりだったが、こちらの方が余程手っ取り早かったな! これでこの領も終わりだ! 何せ特権を与えられていた領主が死んだのだからな!」
それぞれの手に短剣と銃を持ったトビアスは、吐き捨てるようにそう言ってマリアへと視線を向けた。
ベルンハルトの背に縋り肩を震わせる、哀れで愛しく愚かな女。
こちらの言うことを聞いて大人しく従っていればまた別の道もあっただろうに。
込み上げてくる嘲笑を堪えきれず、青年は整った顔を喜色に歪め愉快そうに喉を鳴らした。
目の前で婚約者を撃ち殺してやったのだ。これで心は十分に折れたことだろう。
心の折れた女など、従わせるのは容易いことだ。
滲み出る支配欲と嗜虐心は酩酊感にも似た感覚をトビアスに抱かせる。
「……さぁ、マリア。観念して僕と一緒に来るんだ。もうこの場所に用はないだろう? 死体と結婚する訳にもいかないのだし」
未だベルンハルトの傍らにいるマリアに向けたその言葉に最初に反応したのは、マリア当人ではなくヴォルフの方だった。
彼は怒り、憎しみ、憤りその他諸々の感情をごちゃ混ぜにした複雑な表情を浮かべて唸るように言った。
「テメェ、人の兄貴殺っといて言うに事欠いてそれか? どうやら王都のお貴族サマには人の心ってもんが無いらしいな」
「馬鹿を言うなよ。貴様ら蛮族もどきは人などではなく獣だろう。畜生の生き死になど僕に何の関係があるというんだ」
「ハッ、そうかよ」
言葉の応酬の間にトビアスの指先は引き金にかかり、ヴォルフの手は腰の短剣に移動していた。
トビアスの持つ銃は最新式の連射式短銃で、面倒な装填作業なしに次弾を撃てるというものだ。
威力と飛距離、また命中精度の低さという問題でまだ実戦投入はされておらず、そもそも連射数も少ないため、専ら貴族の決闘か護身用に使用されている。
近距離から撃つことで精度の低さを補ったのだろうが、その手が使えるのは初手のみである。
銃の存在が明らかになった以上、素人の弾道を読むのは戦慣れしたヴォルフたちにとっては容易いことだった。
無言ではあったが、撃つ前にその手を毟り取ってやろうと飛び出すタイミングを窺う使用人も複数いた。
「すり潰して豚の餌にしてやんよ」
死に方を選べると思うなよ。
エントランスホール内にぶわりと色濃く殺気が漂う。
マリアがトビアスの手から離れた今、ヴォルフもミアも使用人たちも、攻撃を躊躇する理由はない。
ここにいるのは侵入者であり主人の仇だ。
短剣の柄を握ったヴォルフが鞘を払おうとした、その時。
「ベルンハルト様!」
「……マリ、ア……?」
ごほ、と苦しそうな咳と共に囁かれた声。
その場の全員の意識と視線が一気にその発生源へと集中した。
「馬鹿な……。貴様、どうしてまだ生きている……!」
この至近距離で胸を撃ったのだから即死してもおかしくないはずだ。むしろそれが普通だ。なのに何故。
青褪めるトビアスの悲鳴じみた叫びを直に浴びて、実に鬱陶しそうな顔をしながらベルンハルトはうつ伏せの状態からモゾモゾと上体を起こした。
ちなみにこれは寝起きの良くない日の『ヴォルフに叩き起こされるベルンハルト』の動きそのものである。
すると、その拍子に何かがコロンと床に落ちて転がった。
すぐ近くにいたマリアが反射的に目で追えば、それは小さなウサギの彫刻だった。
ベルンハルトがマリアに領内を案内した際に職人通りの工房で手に入れた、ベルガー領名産『トテモカタイキ』で作られたあのウサギである。
床に転がったウサギの彫刻には弾丸がめり込んでおり、このウサギが弾丸を食い止めたのは明白だったが、少々変形してしまっているのが痛々しく見える。
「ウサギさんが……!」
無惨な姿になってしまったウサギの彫刻を見てハッとしたベルンハルトは、周りの視線になど目もくれず、慌てて己の懐に手を突っ込んだ。
そこから取り出したのは出立前にマリアからお守りにと渡されたクマちゃんの刺繍入りハンカチである。
そのハンカチにも銃弾による焦げた痕があるのを見つけたベルンハルトは、ウサギの彫刻とハンカチを手にブルブルと震え出したかと思うと、トビアスに向かってぐわりと吠えた。
「貴様、俺の大切なお守りをよくも傷付けてくれたな!!!!」
脊髄反射でヴォルフと使用人一同も叫んだ。
ミアも一緒に叫んでいた。
「そうじゃねぇだろ!!!!」
ベルガー領民を代表する面々の気持ちが一つになった叫びがぐわんぐわんとエントランスホールに反響する。
あまりの音量に眩暈を起こしたのか、トビアスの足元が僅かにふらついた。
その隙を見逃さず、ベルンハルトの傍らでふんすと鼻を鳴らしたマリアも、これまでの全ての鬱憤を晴らすかのようにペチンとベルンハルトの背中を叩いて思い切り叫んだ。
「──やっちゃえ、ベルンハルト様!!!」




