生存を知る
ガエルとジョゼットは平民街にある一軒家に荷物とともに送り届けられた。
平民の家としてはしっかりとした家を用意してくれていたが、メイドも使用人も護衛もいないことに呆然とした。
しかしそこまでされてもガエルはまだ楽観的に考えていた。
あまりにも体たらくな自分の目を覚まさせるためにわざと突き放してみせたのだろう。自分しか子供はいないのだから、反省したころに迎えに来てくれるに違いない。
後妻を迎えたとか言っていたがあれもどこまで本当かわからない。ガエルに発破をかけるための嘘かもしれないと軽く考えていた。
使用人がおらずつつましい生活にジョゼットは毎日文句を言ったが、すぐに迎えに来てくれるからとなだめすかして家事をさせた。ジョゼットが金目的だと分かり愛想は尽きていたが、家事をさせるためには必要だった。
父から迎えがくればこんな女は放り出して今度は父の言う通り貴族の娘と結婚しようとガエルは密かに決意していた。
だがそれから一年たっても、父からの迎えが来ない。
屋敷にいっても門前払い。手紙を出しても返事はない。
流石に生活資金が乏しくなり、焦って友人たちにお金を借りてしのいでいた。
そんなある日、いつものように酒場で憂さ晴らしをしていたガエルの耳に他の客の声が聞くともなしに入ってくる。
「おい聞いたか? クローズ侯爵が後継者をお披露目したらしいな?」
「お披露目? あそこの嫡男はもう成人して妻もいるだろう?」
「いや。その息子は廃嫡されたようだ。なんでも前妻を冷遇して亡き者にしようとしたという噂だぜ」
それを聞いて思わずガエルは立ち上がりそうになった。
殺そうとした覚えなどない。
「うわあ、最低だな」
「それでその奥方を哀れに思い、親身になって介抱して、大切にしたのがクローズ侯爵ってわけだ」
「でもさ、息子の嫁だろう?」
「いや、その息子というのが結婚前からの愛人にぞっこんで、妻には見向きもしなかったらしいぜ。解放してやればいいのに、貴族って言うのは恐ろしいなあ」
そこまで聞いてガエルから冷や汗が止まらない。
ちょっと待て……それでは父上の妻って……セラフィーヌ? あの時の顔を隠した女はセラフィーヌだった⁈ あいつは死んでいなかったのか!
「お前、詳しいなあ。それで?」
「嫁さんの方もクズの旦那には欠片も好意はなかったらしいな。実家のために我慢していただけで、侯爵の献身に心が動いたって話だ」
「それで跡継ぎのお披露目とは?」
「ああ、それで結婚した二人の間に息子が生まれたんだって。もうそろそろ大丈夫だろうってお披露目パーティしたらしいぜ。うちの兄貴が侯爵家に酒を納めているんだが、いいワインを用意したって喜んでいたからな」
「そうか」
「こわもて堅物の侯爵様がめちゃくちゃ喜んで顔が緩みっぱなしだったって話だぜ」
そう言って笑う男たちの声を聞きながら、ガエルはふらりと立ち上がった。
足取り重く家に帰ると、ジョゼットがぎゃんぎゃんとわめきたてた。
「お金がないのになに酒場に行ってるのよ! 早く迎えに来るように侯爵に手紙を書いて! こんな暮らしもう嫌だわ」
「……」
「もうしっかりしてよ! このまま迎えが来ないなんてことないでしょうね!」
「……来ない。来ないよ」
「はあ? 冗談でしょ?」
「……」
「何とか言ってよ! 戻れないなんて嘘でしょ? 」
「うるさい……うるさい! 少しは黙れ」
「黙ってほしければお金を持ってきてよ!」
お金への執着心を見せる醜いジョゼットの姿にガエルは後悔しかなかった。
貴族令嬢で、声を荒げることもなかった妻。そんな妻を捨ててまで選んだ女は財産目当ての醜い女だった。
こんな女のせいで自分は華々しい生活を奪われたというのに、こいつは謝罪の気持ちもなかった。
「どの口が言ってるんだ。おまえの……お前のせいだろうがっ。お前がセラフィーヌを池で溺れさせたのが原因だろうが。この人殺しが!」
ガエルはジョゼットの金切り声に苛立ち、そう怒鳴った。
先日けんかをした時、ジョゼットが苛立つままにセラフィーヌが溺れた時の事を初めて話した。
「ちょっと冗談で胸飾りを池に放り込んだだけなのに、勝手に池に入って溺れたのよ。私がこんな目に遭うなんて納得がいかないわ!」とジョゼットは言い放った。
それを聞いたとき、恐ろしくて足が震えた。
この女は人を傷つけることを何とも思っていないのだ。犯罪者同然だから父は自分たちを決して認めることはないのだど悟った。
もっと早くジョゼットが白状してくれていれば、父がそのことを教えてくれていれば……さっさと手を切ったというのに。
ガエルは湧き上がってきた怒りに任せて手を振り上げた。
「きゃあ」
頬をぶたれたジョゼットは頬を押さえ、おびえたようにガエルを見た。
「結婚してもマナーも常識も学ぼうとせず、馬鹿な事ばかりしやがって! 金が要るならお前が働いて来い!」
「お、落ち着いて。跡継ぎはあなたしかいないのだから必ず迎えに来てくれるはずよ」
殴られた恐ろしさに、作り笑いを浮かべたジョゼットはそう言った。
そんなジョゼットに余計に怒りが治まらずもう一度手を挙げてしまった。女性に手を上げる自分が怖かった。それでも止まらなかった。
ついにジョゼットは床に崩れ落ちる。
「もう他に後継ぎがいるんだよ! お前のような馬鹿な平民と結婚した私はもう捨てられたんだ!」
怒りに任せて怒鳴りながら、ジョゼットを叩いて震える自分の手をもう片方の手で押さえつけた。
「嘘……」
「セラフィーヌが跡継ぎを生んだんだよ!」
「どういうことなの? あの女は死んだんでしょ?」
「生きてた! 父上と結婚して今じゃ侯爵夫人だ」
「そんな……許せない! なんであの女が侯爵夫人に……」
「お前のせいだと言ってるだろう! お前があんなことさえしなければ今でも私はあの女を妻にして後継者のままだった! 貴様のようなただすぐにやれるだけのあばずれと結婚することもなかった」
ガエルはジョゼットの人懐こさと親しみに好意を持ったことを心の底から後悔をしていた。言い換えればそれは、常識が全くないゆえの無作法にすぎなかったのだから。
二人は責任を擦り付け合い、罵り合うようになった。
ガエルはそれ以来、気に入らないことがあるとジョゼットに手を上げるようになった。
そして気が付けばジョゼットは家を出て姿を消していた。