三者の目\Triangle
僕は哲学のために休憩時間六〇分のうちの十五分程度を無駄に消費した後、執務室を兼ねたこの艦橋に戻って来て、仕事を再開しようと思ったらブリプシーに水を差されて、今はミロウに甘えている。彼女の温もりを感じて、彼女の心臓の音に溺れて、彼女に爛れきった欲望を押し付けるように身を預ける子供として、全身を使って彼女に抱き締められている。女性らしい円みを帯びた柔らかい身体は、魅力と神秘に溢れていると、つくづく思う。
銀色の髪の毛も、整った顔形も、細身の体格も、全てが美麗で完璧なんだ。彼女の美貌が慰みものとしての機能だけを考えて与えられたものとは思えなくて、本当は人間がどこまで美しさを極められるかという好奇心の産物ではないか、と思える程に。彼女はあくまで作られた命であることは疑いの余地もない。けれど、僕も両親あってこその命。作り方が違うだけで作られた命であることに何の変わりもない。
そんな生きる事にも死ぬ事にも命の有り方にさえも無頓着で、傲慢で臆病で愚かな僕だからこそ、彼女を人間個人として尊敬し、対等に話し合えるのかも知れない。彼女は、ミロウ・エンヒルは、どこまでも生きた人間で、どこまでも本物の女性で、どこまでも女の人なんだと、僕は確信していた。
『艦長、偽の映像と音声で誤魔化せるとは申しましても……』
笑顔に見惚れて、目を閉じた貌に惚けて、唇を重ねて、行為を始めそうになったところでブリプシーに止められた。確かに、如何に思春期とされる年齢とは言っても、軍兵と呼ばれる人間に異性不純交遊なんて似合わないし、とは言いつつも連合にあって娯楽は禁止されているから、本当にこのぐらいしか楽しめる事がない。でも、間違っている事ではあるけど悪い事じゃない。悪い事ではないと信じたい。
「うん……分かってる」
今はこんな事ができる時間じゃない。髪に指を絡めるのを止め、胸から顔を|離《はな》して、ゆっくり後退りして机へと戻ろうと、彼女に背中を向ける。温もりはまだ身体に残っていて、心臓も昂ったままだけど、心は冷静だ。振り返らなくても名残惜しげな視線を向けられていることは分かるし、今どんな気持ちでどんな事を考えて、どんな事を思ってどんな事をしたいのかまで、後ろから浴びる目線一つで全部理解できる。だけど、こういう時にどんな言葉を掛ければいいのか…………
ついさっきまで甘えていた相手なのに、自分の全てを預けていた女性なのに、誰よりも信頼している人なのに、全く分からない。不甲斐ないとか、甲斐性無しとか、きっとこの事を言うのだろう。臆病な僕の本性そのものじゃないか、今に始まった事じゃない真実なのに、本当に情けない。何度も抱き締めてくれたのに。
「閣下……」
ああ…………そんな悲しそうな、か細くてか弱い声で呼び掛けないでくれないか。君の方が僕よりずっと歳上なのに、まるで僕より脆そうに見えるじゃないか。ブリプシーも黙りで何も言葉をかけてくれないし、君以外のCAPEDはみんな眠っているのに、こんなに|如何がわしい事をしているのに、誰も止めてはくれないのに、どうしてそんな顔をするのだろう。僕から始めた事ではあるけれど、彼女は止めさせなきゃいけない立場。
どうして求めてくれるのか、これ程までに僕を求めるのかが理解できない。彼女の体は温かくて、触れているだけで幸福感に満たされて、引きずり込まれそうな感覚に包まれる。その感覚を思い出してしまって、もう一度ミロウに近付き背中に手を回して抱き着く。彼女も嫌がる素振りを見せず、僕に抱擁を返してくれる。本当に温かい。どこかの星のどこかの草原で浴びた、日溜まりのような仄かな温もりが全身を包み、どこかの星のどこかの家で感じた清らかな薫りが鼻を擽る。
だけど僕が求めているのは母親から与えられる優しさではなくて、純粋に異性から求められる思慕恋慕の感情であって、独善的かも知れないけれど自分を慕ってくれている目前の女性、ミロウがそれをくれるんじゃないかって、根拠なく信じている。
「……また……ですか?」
もちろん、艦内の全てを管理する権限を持つブリプシーとは対等な関係にある以上、さっき|僕が暗殺されそうになった事は教えられている。というか、知らないはずがないよね。どうせいつもの事なんだし、多分|僕も気付いていなかっただけで、さっきミロウに抱きついた時にも表情に出して、心情をはっきり見せていたんだと思う…………僕は、さっきからつくづく子供だ。軍兵にふさわしくもない臆病な態度と甘えた言動は、僕が如何に幼くてつまらない人間なのかを力ずくで理解させてくる。
大言を吐く割には弱虫で、偉そうな肩書きに反して臆病で、一軍を任されているにも関わらず無能で、何人にも傲慢な態度を取る上に無知で、その癖甘えたがりな子供と来たら、階級とか役職なんて関係なく、必然的に多くの人間に憎まれる。こんな周知の事実を常識として知っていながら、いや、常識すらも理解できないのに知ったかぶるような子供だから、自分で何とかするという事はとてもできないのに。
僕にできる事と言えば、戦う事と考える事、そして今こうして下らない遊びに興じて時間を浪費する事ぐらいのもので、こうしてキャペドたちと戯れている間が一番冷静になれて、そして一番自己嫌悪の感情が強くなる。そして彼女たちの温もりに癒されていると、一層自分が途方もない愚かさを抱える無能という真実が自覚できて、心身全てが強く自認を拒む。こんなどうしようもなく馬鹿な僕を、何の見返りも求めず慰めてくれる彼女たちに申し訳なくて、本当に敵わない。
事実僕は彼女たちを、キャペドを心の拠り所にしている。彼女たちも僕を慕ってくれているのは確かだけど、僕自身の事で凄く不安なんだ。ふとした拍子に苦痛を遠ざけるための逃げ場として、どこかの外道連中と同じように慰みものとして、キャペドのみんなを道具として使ってしまう時が来るんじゃないかって。考えるだけで心が壊れてしまいそうで……正直に言って、彼女たちを失うのも、自分で壊してしまうのも、僕自身が死ぬより遥かに怖い。
僕のもとを去る可能性を考えるだけでも、心が恐怖で満ちて身体が凍える。意識も揺らいで全身が震える。
「今は……こうさせて」
離したくない……離れたくない。甘えるだけのつもりで抱きついたはずなのに、ちょっとした出来心で身を寄せただけのはずだと言うのに、今更になって怖い。この温もりが失われるかも知れない。どこか遠いところに引き離されるかも知れない。何もかもが壊れて、戻って来られなくなるかも知れない。ただ拒まれるよりも遥かに、どうしようもなく恐い。身体が震えて、心臓も破裂しそうな程に鼓動を早めて、喉が詰まりそうなくらい息が荒くなって、抱き締める力も自然に強くなっている。
不安はないはずだったのに、さっきまで何の揺らぎもなく甘えていられたのに、今は……今は逃れようのない恐怖で心が満たされて、全身が震えている。ひたすら、恐くて……僕はもう一度ミロウに身体を預けて、目蓋を閉じて真っ暗な世界に逃げた。
『…………休憩時間の延長を提案します』
ブリプシーが何かを言っているけれど、彼女の声も耳に入らない。無機質な音すらも聞こえない。今感じているのは、ミロウの柔らかな身体とその温もりだけ。幸福感はないけど、逃げ場がないよりましだ。
『繰り返します。休憩時間の延長を申請するべきです』
またブリプシーの声がする。だけど、今はどうでもいい。こういうのって馬の耳に念仏って言うんだっけ?本当に微塵の興味も湧かないし、何の意味もないように思えて、無視していられる。だんだん頭がぼんやり霞んできて、うつらうつらと眠気も催して……
『閣下、休憩時間の延長を強く推奨します』
眠気と一緒にどっと疲れが出て、もうブリプシーの声は聞こえない。今は何も考えていたくない。何も、考えていられない……ああ……意識が暗い方へ……もう…………眠ってしまう…………
腕の中で寝落ちしてしまったのを確かめて、閣下の執務席を拝借した私は、しっかりと抱き付いて幼気な寝顔を浮かべ、すやすやと穏やかに寝息を立てる閣下を抱きしめたまま、過ぎ去る時間に身を委ねています。現在は私がこの人の代わりにブリプシー……いえ、ブリプシーお姉様と話を続けているのですが、どの話題の内容も単調なものばかりで、いまいち盛り上がりに欠けていて……気づけば休憩時間は残り一一〇九秒になったのですが、執務再開時刻までまだ余裕はある様子です。
『…………如何しますか?』
このお姉様の問いの内容は、閣下の休憩時間を延長するべきか、それとも規定時刻までに起こして執務に戻って頂くべきか、という至極単純なもの。一週間の起床時間と勤務時間が一六五時間を越える事さえ常識中と常識とされる程に、とにかく休息に使える時間が短い正規軍の高級将官である以上、このような事態は当然ではございます。当然だけれどもまだ成人手前の閣下にとっては酷な事に代わりはないし、体を壊してしまっては元も子もないので……
疲労困憊とまではいかなくても、心理的には限界以上に深く追い詰められておられるはず。ただでさえ心労の多いこの人のことを思えば、余りご負担をかけられてはかないませんから。
「そうですね……休息のお時間を少し延ばしましょう」
ひとまずは休憩時間を加算して貰って、今はゆっくり眠って頂くことにしました。何しろ前回の休息はもう三〇〇時間も前、それも一五〇秒という短か過ぎるという言葉ですら表現できない散々なもので、閣下はおよそ十二日と半日もの間、今現在に至るまで、文字通り一睡もしておられませんでした。ですから休憩を延ばすとは言っても、どの程度延長できるか、休憩時間が終わるまでにお目覚めになられるのか、いろいろと気になるところではありますが……
ともかく今はお身体を休ませて頂く事が先決なので、詳しい部分はお姉様に任せて、私は閣下を仮眠室へ運びましょう。
『了承しました。未消化分の休憩延長を申請します』
…………無機質な声で、冷たく返答するお姉様。けれど本当に気が利く女性です。艦内全ての装置を制御するためとは言え、ほんの一分一秒たりともあの場所から離れる事もできず、そもそも眠る時間さえも全く確保できないというのに。なのにお姉様は、あたかもすぐ近くで閣下の様子を見ているかのように心身の状態を慮った行動を取ることができるなんて……本当に健康観察装置からの情報だけでこのような判断をする事が可能なのでしょうか?
それとも、実はこっそりあの場所から抜け出して閣下の下に参られているのではないでしょうか?もしあの場所から離れてここに参られているのなら、誰がこの艦の操舵と制御を代行しているのでしょう……大規模量子コンピュータ八台とベーシック・オペレーションシステムだけでは、あまりにも大きすぎて制御が難しい艦であるはずなのに…………本当に、気になって仕方がありません。
『…………いい加減詮索は止して下さい』
と、いつものように私が思案、考察しているところを遮るように声をかけて来ました。こうして見ると、お姉様はやはり、何かしら重大な秘密を抱えていらっしゃるようで、例え心中で考えている些細な事であってもご自分の事を理解して欲しくないご様子です。が、しかし、お姉様もまた我々の同胞である以上、秘密や隠し事は抱えていたくないというのが私の本心。でも、当然だけど、お姉様の心中は私とは違うのです。
何しろお姉様は「隠すべき事は隠しておかなければならない」と言う頑固な考えをお持ちで、事実として数多くの重要機密をその心の中に抱えたまま、閣下には明かさないでいるのですから…………例え命に代えても守らなければならない大切な宝物を、傷つけてしまうような選択であると理解していても、些細な秘密さえ隠し通すような人。そんな優しいお姉様のことだから、どうしても…………
「では、仮眠室に運びますので」
……もう、これ以上お姉様の事を考えるのは、やめた方がよさそうですね。閣下を抱き抱えたまま、立ち上がって……ドア一つを隔てて更に内側に設えられた別室へ、運んで行く。単純な作業であるはずなのに、私は……私の足は、酷く重くて、歩きにくくて……この時、人一人を抱えているだけなのに、向ける場所のない不安からなのかも知れませんが……躊躇が足に纏わりついていたような気がしました。
──────ミロウが提督閣下を抱えて隣部屋へと向かった事で、また誰もいない静かな空間となった執務室を、部屋の内側にあるいくつかのカメラで確認しつつ、わたしを閉じ込めているカプセル状の装置の背もたれに背中を預ける。
「ふう……」
わたしの名前はブリプシー。この艦、グールーンの制御とグールーン乗員の監視を担う生体機械。今わたしの頭の中、つまり脳内には、細い線で様々な多角形に区切られて、動かない景色と動くものが映された窓が浮かんでいる。これらはいわゆるモニターで、頭の中のこれらに映っているのは全て、グールーン艦内の至るところに設置されている監視カメラから絶えず送られる映像である。
あの憎い独裁者どもからグールーンの制御を任されている以上、グールーン内の自動装備や自律システムの権限は全てわたしの掌の上。即ち、大規模量子コンピュータさえも指先で思いの侭に操る事ができるから、誇張でも何でもなく、たくさんの事が何の支障もなく実行できる。それは時に大切な大切なわたしの妹たち、つまりキャペドたちと提督閣下の情愛を邪魔しようとする上の輩の、節穴よりも視野の狭い目を誤魔化し、欺くために用いる事もできると言うこと。
既に仮眠室に移動していて、一人用のベッドに並んで横たわっている二人の姿が、脳内のモニターのいくつかにはっきりと映っている。提督閣下の寝顔には、邪な感情や厭らしい下心なんて微塵もない。年齢不相応な凛々しさを忘れているかのように、年齢相応に無垢で純粋で、そして無防備で綺麗なその寝顔は、カメラ越しで見ていても本当に愛おしくて、今すぐにでもここを飛び出して唇を奪ってしまいたい衝動に駈られて……
けれど妹たちは、閣下がミロウに想いを寄せている事を知っているのだろうか。もしたった一人の異性に好意を向けている事を、姉妹の誰も知らないと言うのなら。知らない故にミロウに嫉妬心を向けて、閣下を悲しませるような事になれば、それは……わたしも、とても悲しい……でも、今は将来に悲観している場合じゃない。
『……BAOS、応答願います』
基礎指示管制システム、わたしたちは勝手にバオスと呼んでいるそれに呼び掛けて、わたしは装置のキャノピーを開いて立ち上がり、網膜に表示された文章を確かめる。内容は『先ほど依頼された艦長の休憩時間延長申請であるが、現在のところ返答はない。用件を述べられたし』という質問文。うん、今のところは何も問題はない。
『少し、席を外してもよろしいでしょうか?』
網膜には『この度の離席に際し、明確かつ具体的な理由を求める』、と言う質問文が表示されている。自我も自己も人格も限りなく希薄で、本当に頭の固いとてもAIらしいAI。それがバオスという存在。頑固で融通が効かないけれど、その無愛想で無機質な対応こそ信頼・信用するに値する相手だから、問われたことにわざわざ嘘を吐く理由も、誤魔化す必要もない。
『提督閣下の健康状態の精査のため、直接検診に向かいます』
嘘は言ってない。もののついでではあるけれど、もちろん下心があっての閣下の下に向かおうとしている事も、ちゃんと自覚してる。だけど、決して理由に正統性がない訳じゃない。定期検診はいつも休憩時間中にしてるんだから……これは、関係ないのかな?
『よって、乗組員及び搭載兵器の安全維持のため、操艦の代行を任せます』
ともかく、今は早く閣下の下へ行きたい。質問文に対して理由を簡潔に述べて、後はバオスからの返答を待つだけ。待つだけだけど…………どうしてこんなに遅いの?休憩時間の延長申請はちゃんと受理して貰えてるの?もしかして映像の偽装がバレて監視されてる?それともバオスが密告してるの?どうなの?どうしよう……わたし、こんな時どうすればいいの?早く……早くして!お願い早く!
『…………返答の遅延を謝罪する』
やっと返答が来た!何やってたの!?
『遅いです!』
本当に遅すぎ!密告されてたらどうしようなんて思っちゃったじゃん!ああもう、冷静にならなきゃ……
『艦長の休憩時間延長の申請は受理された』
全くもう……たかが八時間休息を延ばすだけなのに、何でこんなに時間をかけなきゃいけないの?本当に訳が分からないし、閣下もあんな奴らの下で働かなきゃいけない理由なんてないのに……でも、あんなクズが居なきゃわたしも生まれて来なかったのかもって思うと、少し寂しい気持ちになる。
『これより当艦の権限は、一時的にこちらの制御・管制下に移る』
網膜には感情の変化の欠片もない、無機質な文章が現れる。バオスの堅物なところはいい加減直して欲しいんだけど、その部分が一番信頼できるのも事実で……もう、本当に、わたしって曖昧なんだなって思う。
『誤作動防止のため、ブリプシーは速やかに制御装置より離席されたし』
カプセルの内側のホログラムとモニターが消え、同時に真っ暗になったカプセルを覆うキャノピーが開いて、中枢制御室を満たす冷却用の冷気が静かに流れ込んで来る。この冷気は冷却用の液体が機械や装置の熱で蒸発したもので、その癖結露しやすいから床も壁も天井も水滴だらけ。ただでさえ寒いのに、もっと冷たいものが肌に触るから本当に嫌い。しかも人間じゃないわたしには、衣服なんて渡されない。
上のゲロどもが言うには“限りある資源の節約も兼ねている”らしいけど、後先考えずに戦争を繰り返しておいて言える口じゃないのに、本当に嫌い。でも、今は悠長に考え事をしてる場合じゃない。
「……急がなきゃ」
わたしは身体が凍りつく前に、早足で制御室を後にする。