稚児的人・下\CHILDREN Part.2
暫く、というか体感では一〇分も経ってないくらいの時間が過ぎた。どこもかしこも真っ白で、時々窓から宇宙空間の景色を隠すように造られた、艦橋を上下左右四方八方から囲む内壁が見える程度には、とても地味な殺風景が続くチューブ状の渡り廊下を歩き続けると、ライン状の青い照明が焚かれている八角形の扉が見えて来る。
この戦艦の艦長である僕の自室、つまり艦長執務室と艦全体の指揮を担う艦橋を兼ねる部屋と廊下を隔てる薄皮一枚の境界線。高級士官である以上事務作業が中心となる僕にとって、この艦にあって数少ない居場所の一つであり、何処よりも心を安らげて、寛ぐことができる家でもある。
執務に必要なものは全て揃っていることは当然として、心の底から信頼できる下司たちも常駐していることもあって、艦内のどこよりも強い安心感が得られる場所。
『人感探知機に人影を確認しました。氏名、所属、職種、階級の詳細を提示してください』
扉の前に立てば、艦橋の安全保護と艦内の乗組員の監視を同時に担う艦橋内部防護システム、略してBRIPSYの音声が、監視カメラに据え付けられたスピーカーを通じて僕の耳に響く。ちなみにブリプシーの声は年若い少女のもので、プログラムの上では性別も性自認も女の子だ。
……たまに考えるけど、ブリプシーは自分の名前の読み方を恥ずかしいと思ったことはないのだろうか。百歩譲ってブリの音はかつて地球に実在したブリテンの略称とも解釈できるし、プシーは読み方を変えれば同じく地球に実在していたエッラーダ国の文字であるΨでも充分通じるけれど。
僕にはどうも品性の欠片もない下劣で最低な二つの語彙の羅列にしか聞こえないし、人工知能とは言え不完全ながら自我も感情もある以上、羞恥心もあるはずだから文句の一つや二つは開発者に言っていても良いんじゃないだろうか。
と、今は考えている場合じゃない。早いところ艦橋に戻って残りの仕事を片付けなくちゃ。
「汎地球人類連合正規軍《トゥキアス宙域》統合艦隊梯下、第二艦隊提督【シェイアン・エイラムクスギア・アウストマ】上級大将」
この面倒な生体照合作業のように、挨拶の代わりに合言葉のような言葉遣いで答えるのは正規軍では日常的なことだ。物心ついた頃、まだどこかの星のどこかの村に居た頃は時間帯に合わせた挨拶、例えば「こんにちは」とか「おはよう」とか、「良いお天気ですね」とか、家族や同じ正規市民権保有者たちと自然な挨拶を交わしていたけど、軍兵になってからは「お疲れ様です」とか「お時間よろしいですか」とか、今みたいに名前と役職でとか、機械的で事務的な会釈が増えた。
配属されたばかりの頃からずっと、寂しさと孤独感が拭えない。幼い故に何も知らなかったとは言っても、あの頃が本当に懐かしい。
『所属、汎地球人類連合正規軍。職種、トゥキアス宙域統合艦隊第二艦隊提督』
一通り答えた後、またブリプシーの音声が聞こえてくる。生体照合は声紋・指紋・掌紋・舌紋・歯型・骨格・筋肉・皮膚・遺伝子配列・脳波・虹彩・毛髪など、過剰な程に多岐に渡って確認事項が設定されている。これらの生体情報は制服や戦闘服に内蔵されている専用の装置によって三分毎に最新の情報に更新されており、確認事項と本人の生体情報に著しい解離が認められれば、完全に別人物として扱われ拘束されるというわけだ。
謂わば管理社会の最たる部分であり、これに引っ掛かるようなことがあれば即座に処分対象となってしまうため、最早いちいち確認することそのものが無意味であると思えるほどに、自ら定めた基準に厳格過ぎると言える。
『階級、汎地球人類連合正規軍上級大将。姓名、シェイアン・エイラムクスギア・アウストマ』
権力に溺れて暴走した権力者は、例え血縁者であろうとも自分の思いのままにしたいと考えるのが自然。僕は被支配層の無駄な犠牲の上で生活基盤を成していた加害者であり、不幸にも最高の権力と権威を同時に有している人物の息子であるが故に嫌悪され、一軍兵として死ぬことを強要されている被害者。
危険と隣合わせの戦場に留まり続けることで、いつか来る死の処罰を受けなければならない独り身の捨て子。それこそ心を許せる場所なんて……本当に片手で数えられるくらいのもの。そしてその中で一番身近にあるのが、目の前の扉の奥にある部屋。ひいてはこの部屋にいる人たちの存在だから。
『照合完了。シェイアン・エイラムクスギア・アウストマ上級大将閣下であることを確認。入室を許可します』
さて、仕事の時間だ。もう一度、意味もなく「よしっ」と気合いを入れて、開いた自動扉の奥へと入った。出入口を抜けると開いた扉が静かに閉じて、部屋は文字通りの密室となる。
決して広く作られてはいない執務室には、中央に艦の管制と操舵を司る操艦席があり、その周囲には球の形になるように舵や火器管制をするためのデバイスがたくさん設置されていて、部屋全体も円筒のような形をしている。
そして、これから僕が向かうのは出入口から向かって右側に見える、今となっては地球文明時代の遺産としてしか知られていない紙製の書類に万年筆とインク壷、そしてノートパソコンと陶製の置物がある木製の椅子と机。
まだ人類が地球の住人であった頃には、それこそ当たり前のように用いられていた代物で、どこかの星に居た頃に使った記憶があり、兵役に就いてからずっと憧れていたものだ。何から何までが石油由来の合成加工素材かガラス、あるいは金属のいずれかで作られた機械文明ここに極まれりと言いたくなる程に無機質で窮屈な環境にあって、木製の机が持つ木目の温もりはある種の安らぎを与えてくれる。
少なくとも僕にとって、執務をするのに最適な精神状態になれる場所。
「お帰りなさいませ」
椅子に座ると同時に、部屋の奥にある扉から一人の女性が姿を現した。女性とは言っても、彼女は人間のクローンを基に身体の大部分が機械とコンピュータで構築されたガイノイドで、かろうじて残っている部分と言えば脳髄と心臓、口腔と鼻腔に生殖器や排泄器と言った粘膜部分、神経に眼球、鼓膜、心臓、血管、皮膚、そして毛髪ぐらいのもの。
クローン元の人間とは全くの別人であることもあって多少なりのゲノム編集も施されていて、彼女の場合は短時間の睡眠でも疲労の完全回復ができるように改造されている。原則として人権の認められない人造人間、特に女性型生体機械の名称であるガイノイドは慰みものとしての価値を付与するために容姿も美しく整ったものに改造されていることが多く、彼女もその例に漏れず男の好みそうな体格と体型、そして何度顔を合わせようと瞠目してしまう程の美貌を持たされている。
「ただいま、ミロウ」
そして、僕が彼女に与えた名は【ミロウ・エンヒル】。正式名称を艦長身辺警護人形、略してCAPEDと呼ばれ、僕のような艦全体の指揮を任される将校の護衛を担う消耗品。本来は型番と識別番号だけで呼称され、文字通り使い捨ての駒として使い潰される市民権保有資格非適用者、つまり非連合市民以下の存在。
当然ながら施設の清掃作業や給仕と言った下っ端仕事が主な業務と任務であり、先述したように各々に名前など与えられたりはしない。だけど僕は、彼ら彼女らは僕と同じ一人の人間だと確信している。
この確信に理由も根拠もないけど、形だけかも知れないけど、確かに人間なんだ。ミロウの最も魅力的な部分は、儚さと悲哀に満ちた垂れ下がり気味の眦。雪のように真っ白な肌と透き通ってすら見える銀髪、固く結んだ薄桃色の唇も相まって、僕のようなちんちくりんの護衛であることが悔やまれる程の美しさを、彼女は開発者から与えられている。
美しい。彼女に対する感想は、ただ美しいという単純な賛辞だけ。椅子に腰かけてミロウを見つめていると、すたすたと近くの棚に歩み寄ったかと思うと、手に板状の物を持ってまたこちらへと戻って来る。
「どうぞ」
唇を短く動かして、短めに切り揃えられた髪を揺らしながら、彼女は机に近付いて電子端末を手渡してくれた。表情を変えることなんてないと理解しつつ一声感謝を伝えた後、休憩は終わりとばかりに電子端末の電源に指をかけた瞬間、ブリプシーがない口を開いて僕に告げる。
『現在の休憩時間は一〇〇五秒、規定時刻まで二五九五秒です』
あれ、往復に一五分もかかってなかったんだ。意外と時間を使っていなくて拍子抜けしちゃった。でも仕事は早く終わらせてに越したことはないし、自由に使える時間は長く取っておきたいんだけど。あれ?今考えてることと今からしようとしていることが矛盾してる。
僕は何てことを考えていたんだ……溜め息を吐いてがっくりと肩を落とすと、僕の様子を見たミロウが鼻で笑う声が聞こえた。僕自身がバカなのは事実だけど、本当に馬鹿にされているのは少し悔しい。
だからまず、手に持っている端末を机に置いて立ち上がり、彼女の目の前に僕の顔が来るように背伸びをする。恥ずかしいから目を閉じているけれど、互いの額と額を、鼻先と鼻先を擦り合わせるように顔を近付ける。
この行為をしている僕は顔が熱い。されている彼女の方は、多分幼い子供を見つめるような笑みを崩してはない。そう……だから悔しい。自分が大人に成りきれていないことも、少しでも彼女たちに近付きたくて大人ごっこをする子供であることも、全部自覚している。
死と隣り合わせの軍兵であり何度も暗殺未遂を経験している身でありながら、悪運の強さだけで生き残ってきたただの未熟な子供だからこそ、彼女たちに子供扱いをされているのが、堪らなく悔しくて、悲しい。
自覚はできても認められない。つま先立ちをやめて顔の位置を下げ、甘えるように彼女の胸元に顔を埋めながら髪を触る。滑らかな毛並みが指先を滑って、摩擦で微かに温かみを感じる。
「そんなに髪がお好きですか?」
ミロウの髪の一番気に入ってる部分は、絹にも劣らない滑らかな触り心地。そして麗しさ極まる真珠のような輝き。本物を知って、実物を見て、確かに触っているからこその例えができる。
彼女は芸術品のように美麗な人物だけど、芸術品なんてものじゃない。歴とした人間なんだと、一人の女性なんだと、その身体の温もりが教えてくれる。
「…………うん」
もちろん嘘は吐かない。吐くだけ無駄だから。もう少しだけ、もう暫くだけ、彼女に甘えていたい。全てを忘れて、心が満たされるまで、ずっと。
この幸せな時間は決して短くはない長い人生の中の、ほんの瞬き一つにも満たない取るに足らない出来事である事は、これまでの彼女たちとのやり取りの中で、そして今の軍兵としての時間の中で、いやと言うほど自覚させられている。
だからこそ今は、ミロウを離したくない。ミロウから離れたくない。この温かい抱擁から、この柔らかい人肌から、この優しい女性から……引き離されたくない。沈黙が怖い。静寂が怖い。
抱き締めているのに、抱き締めてられているのに、体が震えている。本当に、恐い……だけど、彼女はこの心境を悟ってくれたようで。
「それでは……」
と、頭の上から小さく声をかけてくれて、続く言葉にも心配りを込めてくれた。
「閣下のお気の済みますまで、お伴致します」
このたった一言で、不安は掻き消えた。ああ……僕はなんて単純なんだろう。どうしてこんなに、コドモなんだろう……