ビリとビリ
星屑による星屑のような童話。
お読みいただけるとうれしいです。
少しだけ夏に足を踏み入れた5月の、学校帰りの道すがら。
小学三年の男子、渉くんは、ずっとため息交じりでした。
「あーあ、またビリだった……。運動会なんて、なくなればいいのに」
そうなのです。
今日は今度の週末に行われる学校の運動会の練習日だったのです。渉くんは50メートル走の練習で、4人中4位、つまりはビリだったのでした。どちらかと言えば運動の苦手な渉くんは、一年生の頃からずっと、徒競走ではだれにも勝ったことがありません。
今のままでは、一緒に走る誰かが足を絡ませて転んでしまうとか、そういうことがない限り、今年の競争でもビリになることが間違いなさそうです。
「はあぁ……」
口から出てきたのは、今日一番の、大きなため息。
そんな渉くんが、家まであともう少し――というころでした。
通学路を、足取り重く、とぼとぼ歩いていた渉くんの口から、さっきのよりも更に大きなため息がもれたのです。
「まったく……。なんだよ、もう」
そのため息は――家の玄関の鍵を持たずに家を出てしまったことに気付いて出てきたものでした。渉くんは兄と姉がひとりづつ、兄弟がいますが、両親は共働きなので、いつも鍵をもって学校に行くのです。
そんなときでした。
渉くんは、自分の名前を呼ぶ人が後ろにいることに気付きました。
「渉くん! どうしたの、浮かない顔して」
「なんだ、健兄ちゃんか。実はさあ……」
少し前、近くの公園で知り合った健さんに、渉くんは家の鍵を忘れてしまったことを話しました。大学のバスケ部でがんばる健さんが公園で練習しているときに、近くでぽつんと佇む渉くんに声をかけたのが、二人が仲良くなるきっかけでした。
「お兄ちゃんかお姉ちゃん、もう家に帰ってきてない?」
「いつも一番最初に帰ってくるのはボクだから、まだいないと思う」
健さんと一緒に家の前まで行って、インターホンを鳴らしてみましたが、返事はありませんでした。渉くんが言うように、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、家には帰ってきていないようです。
「よし、わかった。だれか帰ってくるまで、僕の部屋にいればいいよ」
「うん……ありがとう」
「渉くんが僕の部屋にいることを手紙に書いて郵便受けに入れておこうね……。それにしても、さっきから元気ないな。何か心配ごとでもあるの?」
そう健さんに聞かれ、うつむいてしまった渉くん。
下を向いたまま、渉くんがぼそぼそ声で言いました。
「今日、運動会の徒競走の練習があってね……。ボク、ビリだったんだよ」
「そうか……。でも、競争すれば必ず一番がいて、最後の人も必ずいる。落ち込むことなんかないさ。自分の『がんばり』が今までで一番なら、問題ないと思うけどな」
「そんなの……ごまかしだね。絶対、一番がいい。ビリだったことなんか、なかったことになればいいのに!」
そう言ってますます肩を落とす渉くんを、健さんは背中を押すようにして、自分の暮らすアパートの部屋まで連れてきました。
☆
「まあ、入りなよ。お菓子も、オレンジジュースもあるからさ」
「うん……ありがとう、健兄ちゃん」
健さんの部屋の扉を開け、中へ入った二人でしたが、靴を脱いであがった途端――。
二人の動きが止まりました。
なぜって、それは――ピンクの紅白パンダが一頭、部屋に入り込んでいたからでした。まるで、何年も前からそこに居たかのようにリビングのソファーでくつろぐ、パンダ。健さんは、以前にも、この部屋に同じような紅白パンダが来たことを思い出しました。
「えーっと、確かきみは……ンダパだったっけ? また、来たの?」
「ちがうちがう、それはオイラのお姉ちゃんだよ! オイラがここに来るのは初めてさ」
「そ、そうなのか、ごめん。……っていうかさ、なんで僕の部屋にばかりピンクのパンダが……」
そのとき、興味津々な目をした渉くんが、健さんとパンダの会話に割り込むようにして言いました。
「じゃあ、きみの名前はなに?」
「オイラは紅白パンダの『ンパダ』だよ。6頭兄弟姉妹の三男で――まあ、それはいいや。とにかくオイラ、“きみ”に呼ばれてやってきたんだ」
「“きみ”って、ボクのこと? ボクが呼んだの?」
パンダを呼んだ覚えのない渉くんが、不思議がります。
そんなことにはお構いなしのパンダは、不満げに少し口をとがらせて言いました。
「ああ、そうさ。だから、オイラはここに来たんだってば」
「?」
「だってきみ、『ビリ』を消してしまいたい、って言わなかった?」
「??」
「ビリってさ、ほんと嫌な言葉だよね。でも安心して。オイラたち兄弟姉妹は、心の洗濯専門店のチェーンをやってるんだ。オイラもその一頭さ。その嫌な言葉にまつわる思い出を、きみの頭の中から消してあげられるよ」
渉くんも健さんも、パンダの言っている意味がよくわかりませんでしたが、まずは部屋の中へと進むことにしました。
健さんの狭い部屋の中に置かれた二人掛けのローソファー。
そこを占領して、ごろごろと寝転がり続けるピンクのパンダ。
ソファーの前にあるローテーブルの上に、冷蔵庫から取り出した三人分――いや、二人と一頭分――のオレンジジュースを健さんが用意すると、パンダとはテーブルを挟んで反対側の床の上に、健さんと渉くんが腰を下ろしました。
「つまり……ンパダさんは、今日ボクが徒競走の練習でビリになったことをなしにしてくれるってこと?」
「ああ、そうさ」
「じゃあ、そうしてよ」
渉くんの言葉を聞いた『ンパダ』の目が、キラリと光りました。
「よし、わかった! じゃあ、お代としてきみの一番大事な記憶――思い出をもらうからね。オイラの商売は、『良い思い出』を、それが欲しい人にそれなりのお値段で売るっていうものなんだ」
「へえ……そうなんだ」
「じゃあ、調べてみるね」
と、今までゴロゴロし放題だった紅白パンダが急にスイッチが入ったかのようにスッと立ち上がって、その右前足を渉くんの額にかざしたのです。
「うーん……君の思い出で一番売れそうなのは、お母さんと初めて公園に行って遊んだときのものだね……。うん、これでいいよ。『お母さんとの思い出』はね、ほんと、欲しがってる人がたくさんいて、高く売れるんだ」
「お母さんとの思い出……」
渉くんは、思い出しました。
小さなころの記憶はほとんどありませんが、そのときのことは、なぜかよく憶えているのです。真夏の陽射しのもと、噴水の遊び場ではしゃぐ、三歳ごろの渉くん。真っ白い日除け帽を被るお母さんの、陽射しにも負けないほどのまぶしい笑顔がはじけていました。
「それって、頭の中から全部消えちゃうの?」
とまどう渉くんの代わりに、健さんがンパダにたずねました。
ンパダは、にこやかに笑いながら大きくうなずくと、
「うん、もちろんさ! 嫌な思い出とともに、きれいさっぱり、とね」
と言いました。
そのとき、でした。健さんの部屋のインターフォンの呼び鈴が鳴って、渉くんの聞き慣れた声がしたのです。
☆☆
「どうも、渉の母です。渉を預かってくれて、ありがとうございました」
健さんが玄関の扉を開けると、置手紙を見たらしい渉くんのお母さんが、買い物した品物が入ったエコバックをぶら下げて立っていました。その姿を見た途端、渉くんがリビングから走ってきて、お母さんに抱きつきました。
「お母さん!」
「なに、どうしたの? 突然、甘えっ子になって……」
「お母さんの思い出がなくなるなんて、嫌だ! それなら、全然ビリの方がいい!」
「……どういうこと??」
その様子を見ていた紅白パンダのンパダが、指をくわえながらぽそりと言いました。
「いいなあ、人間の末っ子は……」
ンパダの目じりにたまった涙。
それを見た健さんが、言いました。
「すみません、お母さん。あの子もこちらに来させてあげていいですか?」
「えっ、あのパンダさんも!? ええ……いいですけど」
その言葉が終るか、終わらないかでした。
さっきまでのごろごろした姿が嘘のように、勢いよく駆け出したンパダが、渉くんと並ぶようにして、渉くんのお母さんにぎゅっと抱きついたのです。
「わーい、実はオイラも6頭兄弟姉妹のビリ、末っ子なんだ。でも、お母さんとは小さいころに別れちゃったんで、甘えさせてもらった記憶がなくてさ……。お母さんに甘えられるなんて、夢のようだよ」
「そうなの? じゃあ、ビリとビリがくっついてるから、ボクたち『ビリビリ』だね!」
「うん。オイラたち、『ビリビリ』だ! ビリも、案外いいもんだね」
何が起こったかわからない、お母さん。
でも、くっついてくる一頭と一人を、ぎゅっとその腕で抱きしめました。
そんな二人と一頭がひとつの塊になった様子を見た健さんは、ただただ、幸せそうに笑っていました。
おしまい
お読みいただき、ありがとうございました。
参加者の皆さんの作品は、下記のバナーからどうぞ!
また、兄弟姉妹の紅白パンダが活躍するお話にご興味ある方は、下記にリンクを張りましたのでそちらからどうぞ!