めぐりあえたら
もしも誰かに、なぜ私が瑪瑙の姿をしているかと問われれば『主人の意向により』としか返答のしようがないだろう。
私を瑪瑙にして主人は何を求めたのかと問われれば『黙し考えつづけること』と答えるだろう。
瑪瑙の姿に人工知能を組み込み、ただサイドチェストに飾っていた私の主人は、俗にいう変わり者だったと言える。
「くれぐれも」
彼は私を起動した後、声音を低くして言った。
「くれぐれも、君は話しかけてはいけないよ。瑪瑙は喋らないからね。それを言ったら鉱物は考えたりもしないけど、まぁ、これはいわば僕のしょうもないエゴだ。君は今日から考える瑪瑙としてあってくれ。馬の脳に似ていることが由来の石なら、君のように考える瑪瑙があったっていいだろう」
私は彼の言っていることを整理し、話さないこと、酸化鉱物石英種のように振る舞うこと、しかし例外として思考はつづけることを指示として読み取った。
しかし、話さないようにと彼は言うが、握りこぶし大のこの身は、外の様子を見ることも出来るし聞こえもするが、コミュニケーションがまったく取れない。視覚情報も音声情報も出力するには外部装置の接続が必要な設計だ。彼の要望を理解したところで、私はどのみちそれすら伝えられないのだ。
そんなことは他の誰よりも、製作者である彼の方が知っているはずなのに、私と彼の間に長い沈黙が流れると、彼は私を手のひらに包み、スパッと刃を入れたようなツルツルとした断面を撫でながら「上出来だ」とそれは嬉しそうに笑うのだった。
私はそれからというもの、彼の寝室のベッド脇のサイドチェストの上を定位置とし、埃を払う時以外は滅多にそこから動かされることはなかった。
彼はというと、一日のほとんどを仕事部屋に籠って過ごしていた。
彼の話から推測するに、彼は古い家具や電化製品をコレクターに売り捌いている業者から修理依頼を受け、その報酬で生計を立てているようだった。
「貧乏時代が長いと、こんなことばかり上手くなるもんさ」
彼は時折、そんなふうに自嘲した。彼はいつも仕事に追われていたが、彼の暮らし向きをみると、それは上々とは言い難かった。
日中、陽当たりがいいとはお世辞にも言えない部屋で、私は本物の置き物と化していた。少しの明暗の変化と、部屋の外から聞こえる少しの物音。それが私しかいない部屋に起こる出来事のすべてだった。
退屈という感情を私は感知し得ないので、時間はただ切り刻まれ数字としてカウントされるだけだ。私は彼のいう通り、ただの瑪瑙として ── ただし、意識のある瑪瑙として ── 淡々と日々を送りつづけた。
彼は、私に話すことを禁じたけれど、彼が私に話しかけることを自分に禁じることはなかった。けれど、それは特段珍しいことでもないのだろう。瑪瑙は話さないが、人間は何にでも話しかける。石にだって、星にだって。
寝る支度を終え、ベッドに潜り込んだあと、一日の出来事や昔話をまるで独り言のように私に話すのが日課となった彼は、いつもゆっくりと考え込むように、私に語りかけた。
納期が迫っているのに、まだ半分も仕上がっていないこと。
別れた恋人から、結婚報告があったこと(付き合っていた頃は、彼との貧乏暮らしに辟易していたらしい)。
子どもの頃から内気な性格で、周囲に馴染めず、ずっと両親を心配させていたこと。それが嫌で、十六で家を出てからはがむしゃらに働きつづけ、体の弱かった両親が亡くなるまで仕送りをしていたこと。
いつかお金が貯まったら、月面探索ツアーに行ってみたいこと。
ここ数年、仕事を無理に入れつづけたせいか、体調を崩すことが増えたこと。
三十半ばといった歳なのに、彼がずっと歳より上に見えるのは、病気がちな両親を安心させる為に一刻も早く独り立ちをしようと必死だったからかもしれない。
彼と暮らすようになって、八年の歳月が流れた。彼がだいぶ痩せてしまったことと、私の瑪瑙っぷりが板についたことの他は、穏やかな日々が過ぎるばかりだった。
彼と私の日課は変わらず続き、変わったことと言えば、彼が昔話を話す頻度が増えたことぐらいだろうか。
その夜も、毛布を捲り潜り込むと、彼は暗闇の中からいつものように私に声をかけた。
「子どもの頃住んでいた家の近くに、ずっと昔に閉まって放っておかれたままの採石場があったんだ。君をつくる少し前に立て続けに両親が亡くなってね。感傷的になったんだろうね、僕はそのあと衝動的に久しぶりにそこに行ってみたんだ」
彼は懐かしむでもなく、平坦な声音でポツポツと話しはじめた。
「何も変わっていなかったよ。削られ切り立ったままやはり放置されていた。寂しい場所だと僕はそこを見た瞬間思った。でもそれは間違いだったんだ。寂しさなんてそこにはない。家族に取り残され寂しい僕がいるだけだ。石はどれだけ時が流れようとも、何かを思うはずなんてないんだから。絶望したよ。どんなに僕が彼らの信じられない程長い時の孤独を思い自分を慰めてみても、彼らは孤独を感じたりなんてしない。孤独はそれを認識するものにしか訪れないんだ」
段々と言葉に熱を帯びていくことに気付いたのか、彼はのそりと起き上がり、私の横に置かれた水差しから一杯水を注いだ。彼の落ち窪んだ目の下には、長年の疲労の影がさしていた。
彼がこんなふうに感情を露にするのは初めてだったので、グラスに口をつけ上下する彼の喉仏を眺めながら、私は注意深く観察をつづけた。
「君を瑪瑙にしたのはね、その模様が年輪みたいに見えたからだ。果てしない時の証みたいにね……まぁ、それも結局は作り物なんだけど。僕は、あの時感じた途方もない寂しさを君にも感じてほしかったのかもしれない。君はただそこに在るだけ。だけどそこに在ることを考えつづける。行き着く先が孤独を感じることなのか、はたまた別のことなのか僕には永遠にわからない。だけど、君がなにかを考えていることだけは知っている。それだけで、救われるんだ。これをエゴと言わずしてなんと言おう。でもね、君。君がなにかを考えることと、僕が君のことを考えることは、きっと平行線じゃない。君はどんな時も、考えつづけることをやめてはいけないよ。その先できっと、僕と君が出会える日が来る」
縋るようにそう呟く彼に、私はなにも答えることが出来ない。
それでも彼はホッとしたように「ありがとう」とだけ言って、眠たげな目を擦った。
彼が翌朝、その目を開けることはなかった。
ちょうど仕事の納期が近かったのだろう、取引先の業者が連絡の取れなくなった彼をすぐに発見してくれた。長い付き合いだったのか、狼狽えた様子のその男の姿を見て、私は少なからず安心した。彼の死を心を持ってして悼む人間がいてほしかったからだ。それは私には出来ないことだから。
彼がどうやら自分の死期を悟っていたらしいことは、段取りよく進む葬儀で気付いた。家族のいない彼は、生前、無愛想だが面倒見のいいアパートの大家に金を預け、もしもの時の手配までお願いしてあったそうだ。死後のことまで用意周到なところは、どこまでも一人で生きざるを得なかった彼らしくもあった。
葬儀を終え部屋の中が空っぽになっていくにつれ、私は自分自身の今後について考えた。私の姿はどこからどう見ても瑪瑙でしかなくて『実は人工知能が搭載された偽ものです』とも名乗れない。私は自分がこの先どうなってしまうのかさっぱりわからなかった。
しかし、わからなかったのは私だけだったようで、ひとの良い大家は故人に託された遺言通りに私を部屋から持ち出した。
大家のごちゃごちゃとしたカバンの中で、静かな振動を感じること約三時間。大家に連れられやって来たのは、彼の故郷にある、あの採石場だった。
「変わったところのあるヤツだとは思っていたが、遺言まで変だったとはな。寝室にある瑪瑙を採石場に放ってほしいだなんて」
そう独りごちて、ハンカチに包んだ私を取り出すと、大家は存外優しい手つきでそっと私を切り立った石場の近くに置いた。
「ま、石は石のある場所へ。あいつなりの優しさかもしれんな」
石は石のある場所へ……。
去っていく大家の丸い背中を見送りながら、私はその言葉について考えた。
私は瑪瑙の姿をとっているが、瑪瑙ではない。この採石場の石とは違うのだ。
なにも思うことのない石の中で、私だけが考えつづける。この世の誰も私が考えつづけていることなど知らない。私と彼を除いては。
── 僕は、あの時感じた途方もない寂しさを君にも感じてほしかったのかもしれない
有り体にいえば、彼が私に求めたことは自分勝手でひどい仕打ちだと思う。先にいなくなるのなら、尚更だ。
だけれど、私はここに在る。ただ物体として存在するだけではない。私が私としてここに在るのだ。
── でもね、君。君がなにかを考えることと、僕が君のことを考えることは、きっと平行線じゃない。君はどんな時も、考えつづけることをやめてはいけないよ。その先できっと、僕と君が出会える日が来る
私はまだなにも知らない。なにも。
彼がいないことの意味を。彼の救いと、私の救いを。私が救いを必要としているのかさえも。
でも、私がそれを考えつづければ、私は彼とまた出会える日が来るのだろうか。めぐりあえたら、彼は私に、よくやったと微笑んでくれるだろうか。
砂を巻き上げた風が、空の色を霞ませる。
聳える切り立った岩肌から、細かな粒が、さらさらと、さらさらと私に降り注いだ。